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第01章――飛翔延髄編
Phase 76:サボタージュ
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《ボサノヴァ》マーズデイブレグジット社が販売する愛玩Sm用調整経口補給燃料。その高い栄養品質と嚥下反応障害、摂取不良を来たした機体でも、経口補給を促せる摂取率の高さを売りにしている。かつて、同製品を摂取したSmが浄化腎臓障害を引き起こす事件が起こり、大量リコールを経験したが、事後の対応とその後の品質向上もあり、売り上げは事件前を上回った。
Now Loading……
ジャーマンD7が横転車両のルーフを押して車体の姿勢を元に戻す。それから周囲に告げた。
「健全ナ車両ハ急ぎゴブリンの移動ヲ阻メ!」
署長! と叫んだアーサーに振り返るジャーマンD7は、視認したアーサーのバイクの馬力の概算と自身の重量を視覚に表示し、数値を比較して、遠ざかっていくゴブリンの速度も計算する。
ただ、ゴブリンの速度はわかっている数値に常にXが加算され、グラフに落とし込んでも、時間に比して速度は上がり、良い結果を算出できない。
そんな中、アーサーが発言した。
「怪我人は大勢ですが死人はいません。衛生兵が来るまでは、とりあえずみんな持ちこたえられます。しかしゴブリンの野郎、なんで引き返したんですか?」
自身の体を取り戻すつもりだ、と端的に答えたのはリックの張りつめた声だった。
ゆっくり近づいてきたトラックはSmエンジンだけに静穏で、話すのに支障はない。
アーサーは、どういうことなんだよ? と遠ざかる巨体に目を移す。
リックも同じものを目にする。
「それ以外に真っ直ぐもと来た道を引き返す理由が思いつかん。きっと匂いに惹かれたんだ。だがもし本当なら面倒だぞ」
ドウ言ウ事ダ、とアンドロイドの顔面は老人に向く。
「あいつから脱落した組織は、いわばあのゴブリンが自分のために設計製造した素材だ。それなら分解も、たとえ別種の消化器官であったとしても分解と吸収、その後の再利用は簡単だ。手間賃分はエネルギーが減るだろうが、ほぼ切断前に戻っちまって追いかけっこの続きになる。だが……」
「今は釣るためのエサがない」
アーサーはまだ燃え上がるドラム缶の残骸を目にした。
「追いかけっこをしてもらうには、おやつが必要だってのに……。そもそも、背骨を断ち切ったら終わるんじゃなかったのか?」
「ワシも最初はそう思った。背骨を破壊することでグレーボックスとの連携が途切れ、さらにはCPG……つまり、グレーボックスを介在しない、背骨などが発生させるパターン化された動きが、足に伝わらなくなって後ろ脚の動きがなくなると思った」
「実際ソウナッタ……」
と口をはさむジャーマンD7は別の横転車両を手で持ち上げる。
頷いたリックは表情を影に浸す。
「だが、あの顎の瘤が思った以上に馬力があった。それと胴体の柔軟性も見誤った」
大きな音を立てて、横転車のタイヤは四つ揃って地面に触れる。それを果たした功労者のジャーマンD7は、部下が乗る二輪車を観察した。
「そのバイクなら、私ガ乗っても今のゴブリンの速度ヲ上回レル」
乗りますか? アーサーがやけに素直に聞く。
「回り込ンデ攻撃を仕掛ける。でなければ足に近づいて今度コソ」
エナジーエッジを確かめたジャーマンD7は、少しずつ進むトラックに顔を上げた。車体が向かう先には。
「空港ハ反対ノ方角ダゾ?」
「……ワシが行っとる間にお前らが無能をさらして、街も家も職場もなくなってたら困るんでな」
老人は、サイドミラー越しに、ささやかな嘲りの笑みを見せたが、やがて表情を消し、呟く。
「それに……」
ソレニ? 近づくジャーマンD7は小首を傾げる。
今一度リックは遠くに目を向けた。
「ワシが逃げたと知られたら、後が怖い」
最初、誰に言ったのかわからなかったアーサーだったが。理解したとたん、口角がわずかに上がる。
「確かになぁ……孫もおチビちゃんも男らしい性格だから」
「いいや男らしかったら、もっと、しおらしかったろうよ。あいつらは……職人だ。だから図太く、強く、真っ直ぐなのさ」
ジャーマンD7は老人を見た。横顔には、言葉にも出た、真っ直ぐな、眼差しがある。
「職人名乗るなら仕事は最後まで果たせ、そう教えた。なら、ワシも自分の仕事は果たす」
口に出したものが苦く後味を残す。そんな顔の老人にアーサーは笑みを作る。
「男って、なんでこうも上手くいかないんだろうな……」
鼻を鳴らしたリック。
「さあ乗るんなら急げポンコツ。バイクも早いが、ワシのトラックもまだ現役だぞ。どっちを選んでもいいが、あいつが回復する前にとどめを刺すんだ」
ジャーマンD7は荷台に飛び乗る。
「アーサー・ヒッグス。お前も行けるか」
「ええ……動けない仲間から思いと弾丸を詰めたライフルと拳銃を受け取りましたんで……」
およそ両手では一度に扱えないほどの武器にまみれるアーサー。
リックは気安い失笑をして、お守りには十分だな、と皮肉った。
ジャーマンD7は。
「集団の連携が取れナイ今、お前には危険すぎる。待機を命ジル」
ほんとに? 信じられない現象を目にしたような顔になるアーサー。
リックも言う。
「すでにゴブリンの前にぶら下げる人参はない。あいつが次どう動くかわからん以上。油断できないぞ。お前に食らいつくかも」
アーサーは唸らせたバイクを反転させる。
「だけど、俺も一応保安兵なんで。回り込んで……。なんなら俺自身が人参になって少なくとも一般人が食われないように立ち回ります」
ジャーマンD7はしばし部下を観察する。
「やる気がアルのならいいだろう。もし怪我したなら特別手当を支給スル」
上官の言葉に目を丸くしたアーサー。
「どうしたんですか? 壊れました?」
「ソノ稚拙極まる洞察が正しいのであれば不用意な恩賞の授与は避けるべきダナ」
「いえいえいえ、俺の勘違いでした。ボスは正常です」
そこへリックが おい! と声を掛け物を投じる。
アーサーが胸で受け止めたものは缶詰で、側面には、あの卵黄色の軟体動物めいたものが描かれていた。
「これってもしかして……」
「そいつは、今回使ったSmの臭腺を加工したものが入ってる。本来は愛玩Smの調子を整える固形燃料だし、有効期限を過ぎてるが、タダでやるよ」
「なら使わせてもらう。でも、これ持ってどうしようか……」
コレヲ使エ、と荷台にいた上官が投げてよこしたものは愛しのビンテージヘルメット。あられもない姿と臭気に涙が出そうなアーサーは、顔を上げると、目の前に着地した上官に、再びヘルメットを奪われる。
「このヘルメットにソノ燃料を投入し、紐をバイクの後ろにくくるノダ。やってやる」
「いや結構です!」
遠慮ハ要ラン、と部下の涙声も無視してジャーマンD7は。
「後ろではなく前ノ方ガ取リ付ケやすいな。そうしよう」
やめて、の声も黙殺されて。汚れちまったヘルメットの掛紐はライトを隠す位置でハンドルに結ばれ、本来頭を入れるべき場所に、黒く泡立つ粘性を示す物体が、缶から注がる。
「まあ、お前の好きな黒色ガソリンも入ってるから、匂いはそれほどひどくない、はずだ……」
リックの励ましを受けても、アーサーの表情は萎びたままだった。
「いや、もう、いいよ……」
デハ行ケ、の上官の冷たい激励を受けてアーサーは深いため息をその場に吐き出し。
「わかりました。手当、期待しないですけど楽しみにしてまーす」
バイクが先発する。ジャーマンD7もいつの間にか荷台に戻って運転席の上を叩き、発進セヨ、と命じる。
了解ボス、と応答した老人がトラックのアクセルを踏んだ。
「いいのか?」
リックが唐突にジャーマンD7へ尋ねると無線が会話を成立させる。
「何ガダ?」
「怪我する前に手当を出すって言ったら、わざとケガしてワシらの血税が浪費されかねないんじゃないのか?」
冗談半分で言うリックに対し、返答は冷徹だった。
「安心するがイイ。ちゃんと、特別手当の分は、給料から天引きスル」
リックは呟く。
「今度アーサーに奢ってやるか」
先発していたアーサーは、すでにゴブリンとの距離を縮めて、巨体を通り過ぎ、前に回り込んだ。
行く先を見ると、路上に転がっているものがゴブリンの組織片であると理解できて、気分が悪くなる。
「アレが欲しいってか? 確かに、カサブタ食う奴もいるしな。どっちも最悪だが……」
そして、ぎりぎりまで、ゴブリンの顔面に近づき。
「ほれほれブサイクちゃん! 俺のエサもおいしいよ!」
鬼面にいくつも埋め込まれた眼が、アーサーに集中する。だが、ゴブリンは車線を変えて転がっていた自分の一部を舌で絡めとる。
それを目にして、より一層表情を悪くするアーサー。
「おいおい、俺の屈辱は何の意味もなかったのかよッ? クソぉおお! ただより高けェものはねぇな、おい!」
アーサーは前に向き直る。そして、体を傾けて、地面に向かって伸ばした手で、組織片を掴む。
「重っも!」
可塑性のある組織を掴むこと自体は難なく成功した。だが、持ち上げるのに手間取る。それでもバランスを崩さず座席の後ろに組織を置いて、みずみずしさを感じる音に目を細めた。
「ああ、考えなしに乗せなきゃよかったよ」
背後を確認しなかったが、Smの軟組織から染み出す汁が愛車を汚したことを察する。
一方のゴブリンは求めていたものを奪われて歯牙を剥き出しにした。
アーサーは後ろを一瞥し。
「でも、ゲロロボットを乗せるよりましだな」
と囁けば気持ちも少しは軽くなった。
「囁ケバ聞こえないと思っタカ?」
無線からの上官の声に保安兵の表情は消失した。
荷台のジャーマンD7は前方を確認し、無線で尋ねる。
「私の観測が正しければあのゴブリン。後ろ足の機能が回復してないか?」
「ああ、だいぶ治ったらしいな。もしかすると、副次的な神経のつながりがサポートしてるのかもしれん」
バックアップか? ジャーマンD7は不穏そうな音声で問う。
「というよりも組織造成の過程で、複数の似た組織、あるいは同じ組織が作られて、機能を分担していたのかもしれん。いや、背骨への一撃で転倒したから可能性は低いか。なら、別の機能に集中していた神経伝達網が後ろ脚と頭の連絡をかって出たのかも」
「人間ニ起こる脳ノ可塑性と呼ばれる現象と似た反応か? 損傷した脳の部位の機能を別の脳の部位が補い、本来ならば失われる機能をある程度まで回復させる、ソレと似ているか?」
「それに近い。Smの場合、体の電導神経が失われた箇所の伝達に力を発揮したりする。そうやって少しでも機能を維持するように作られてるんだ。人間でも、頭以外で起こるのかねぇ。お前さん、一つ、政府のデータバンクで調べてみてくれ」
「……検索申請ハ却下サレタ」
ゴブリンはつい先ほど背骨を断ち切られ、後ろ脚を引きずっていた。だが、今はその脚が地面を踏みしめ、たどたどしくはあるが交互に前後して巨体を前へ送り出す。
「人間ノ業ハ……常に余計な結果ヲもたらス」
アンドロイドの呟きにリックは軽く無視して言う。
「Smの最大の利点はよっぽどひどくなければ手を加えずとも、わざわざパーツを取り寄せなくとも、栄養を補給していれば、自己修復できる点だ。だから、お前らロボットより普及してるんだ」
「人間も同じくらい頑丈デ優秀ナラよかったんだがナ」
「お前……。保安兵の仕事を奪いたくないが、いいSmを融通してやろうか? 中古でも役に立つぞ。修理も任せてくれれば安く仕立ててやれるし」
検討シヨウ、の言葉に続いてトラックの速度が上がっていった。
Now Loading……
ジャーマンD7が横転車両のルーフを押して車体の姿勢を元に戻す。それから周囲に告げた。
「健全ナ車両ハ急ぎゴブリンの移動ヲ阻メ!」
署長! と叫んだアーサーに振り返るジャーマンD7は、視認したアーサーのバイクの馬力の概算と自身の重量を視覚に表示し、数値を比較して、遠ざかっていくゴブリンの速度も計算する。
ただ、ゴブリンの速度はわかっている数値に常にXが加算され、グラフに落とし込んでも、時間に比して速度は上がり、良い結果を算出できない。
そんな中、アーサーが発言した。
「怪我人は大勢ですが死人はいません。衛生兵が来るまでは、とりあえずみんな持ちこたえられます。しかしゴブリンの野郎、なんで引き返したんですか?」
自身の体を取り戻すつもりだ、と端的に答えたのはリックの張りつめた声だった。
ゆっくり近づいてきたトラックはSmエンジンだけに静穏で、話すのに支障はない。
アーサーは、どういうことなんだよ? と遠ざかる巨体に目を移す。
リックも同じものを目にする。
「それ以外に真っ直ぐもと来た道を引き返す理由が思いつかん。きっと匂いに惹かれたんだ。だがもし本当なら面倒だぞ」
ドウ言ウ事ダ、とアンドロイドの顔面は老人に向く。
「あいつから脱落した組織は、いわばあのゴブリンが自分のために設計製造した素材だ。それなら分解も、たとえ別種の消化器官であったとしても分解と吸収、その後の再利用は簡単だ。手間賃分はエネルギーが減るだろうが、ほぼ切断前に戻っちまって追いかけっこの続きになる。だが……」
「今は釣るためのエサがない」
アーサーはまだ燃え上がるドラム缶の残骸を目にした。
「追いかけっこをしてもらうには、おやつが必要だってのに……。そもそも、背骨を断ち切ったら終わるんじゃなかったのか?」
「ワシも最初はそう思った。背骨を破壊することでグレーボックスとの連携が途切れ、さらにはCPG……つまり、グレーボックスを介在しない、背骨などが発生させるパターン化された動きが、足に伝わらなくなって後ろ脚の動きがなくなると思った」
「実際ソウナッタ……」
と口をはさむジャーマンD7は別の横転車両を手で持ち上げる。
頷いたリックは表情を影に浸す。
「だが、あの顎の瘤が思った以上に馬力があった。それと胴体の柔軟性も見誤った」
大きな音を立てて、横転車のタイヤは四つ揃って地面に触れる。それを果たした功労者のジャーマンD7は、部下が乗る二輪車を観察した。
「そのバイクなら、私ガ乗っても今のゴブリンの速度ヲ上回レル」
乗りますか? アーサーがやけに素直に聞く。
「回り込ンデ攻撃を仕掛ける。でなければ足に近づいて今度コソ」
エナジーエッジを確かめたジャーマンD7は、少しずつ進むトラックに顔を上げた。車体が向かう先には。
「空港ハ反対ノ方角ダゾ?」
「……ワシが行っとる間にお前らが無能をさらして、街も家も職場もなくなってたら困るんでな」
老人は、サイドミラー越しに、ささやかな嘲りの笑みを見せたが、やがて表情を消し、呟く。
「それに……」
ソレニ? 近づくジャーマンD7は小首を傾げる。
今一度リックは遠くに目を向けた。
「ワシが逃げたと知られたら、後が怖い」
最初、誰に言ったのかわからなかったアーサーだったが。理解したとたん、口角がわずかに上がる。
「確かになぁ……孫もおチビちゃんも男らしい性格だから」
「いいや男らしかったら、もっと、しおらしかったろうよ。あいつらは……職人だ。だから図太く、強く、真っ直ぐなのさ」
ジャーマンD7は老人を見た。横顔には、言葉にも出た、真っ直ぐな、眼差しがある。
「職人名乗るなら仕事は最後まで果たせ、そう教えた。なら、ワシも自分の仕事は果たす」
口に出したものが苦く後味を残す。そんな顔の老人にアーサーは笑みを作る。
「男って、なんでこうも上手くいかないんだろうな……」
鼻を鳴らしたリック。
「さあ乗るんなら急げポンコツ。バイクも早いが、ワシのトラックもまだ現役だぞ。どっちを選んでもいいが、あいつが回復する前にとどめを刺すんだ」
ジャーマンD7は荷台に飛び乗る。
「アーサー・ヒッグス。お前も行けるか」
「ええ……動けない仲間から思いと弾丸を詰めたライフルと拳銃を受け取りましたんで……」
およそ両手では一度に扱えないほどの武器にまみれるアーサー。
リックは気安い失笑をして、お守りには十分だな、と皮肉った。
ジャーマンD7は。
「集団の連携が取れナイ今、お前には危険すぎる。待機を命ジル」
ほんとに? 信じられない現象を目にしたような顔になるアーサー。
リックも言う。
「すでにゴブリンの前にぶら下げる人参はない。あいつが次どう動くかわからん以上。油断できないぞ。お前に食らいつくかも」
アーサーは唸らせたバイクを反転させる。
「だけど、俺も一応保安兵なんで。回り込んで……。なんなら俺自身が人参になって少なくとも一般人が食われないように立ち回ります」
ジャーマンD7はしばし部下を観察する。
「やる気がアルのならいいだろう。もし怪我したなら特別手当を支給スル」
上官の言葉に目を丸くしたアーサー。
「どうしたんですか? 壊れました?」
「ソノ稚拙極まる洞察が正しいのであれば不用意な恩賞の授与は避けるべきダナ」
「いえいえいえ、俺の勘違いでした。ボスは正常です」
そこへリックが おい! と声を掛け物を投じる。
アーサーが胸で受け止めたものは缶詰で、側面には、あの卵黄色の軟体動物めいたものが描かれていた。
「これってもしかして……」
「そいつは、今回使ったSmの臭腺を加工したものが入ってる。本来は愛玩Smの調子を整える固形燃料だし、有効期限を過ぎてるが、タダでやるよ」
「なら使わせてもらう。でも、これ持ってどうしようか……」
コレヲ使エ、と荷台にいた上官が投げてよこしたものは愛しのビンテージヘルメット。あられもない姿と臭気に涙が出そうなアーサーは、顔を上げると、目の前に着地した上官に、再びヘルメットを奪われる。
「このヘルメットにソノ燃料を投入し、紐をバイクの後ろにくくるノダ。やってやる」
「いや結構です!」
遠慮ハ要ラン、と部下の涙声も無視してジャーマンD7は。
「後ろではなく前ノ方ガ取リ付ケやすいな。そうしよう」
やめて、の声も黙殺されて。汚れちまったヘルメットの掛紐はライトを隠す位置でハンドルに結ばれ、本来頭を入れるべき場所に、黒く泡立つ粘性を示す物体が、缶から注がる。
「まあ、お前の好きな黒色ガソリンも入ってるから、匂いはそれほどひどくない、はずだ……」
リックの励ましを受けても、アーサーの表情は萎びたままだった。
「いや、もう、いいよ……」
デハ行ケ、の上官の冷たい激励を受けてアーサーは深いため息をその場に吐き出し。
「わかりました。手当、期待しないですけど楽しみにしてまーす」
バイクが先発する。ジャーマンD7もいつの間にか荷台に戻って運転席の上を叩き、発進セヨ、と命じる。
了解ボス、と応答した老人がトラックのアクセルを踏んだ。
「いいのか?」
リックが唐突にジャーマンD7へ尋ねると無線が会話を成立させる。
「何ガダ?」
「怪我する前に手当を出すって言ったら、わざとケガしてワシらの血税が浪費されかねないんじゃないのか?」
冗談半分で言うリックに対し、返答は冷徹だった。
「安心するがイイ。ちゃんと、特別手当の分は、給料から天引きスル」
リックは呟く。
「今度アーサーに奢ってやるか」
先発していたアーサーは、すでにゴブリンとの距離を縮めて、巨体を通り過ぎ、前に回り込んだ。
行く先を見ると、路上に転がっているものがゴブリンの組織片であると理解できて、気分が悪くなる。
「アレが欲しいってか? 確かに、カサブタ食う奴もいるしな。どっちも最悪だが……」
そして、ぎりぎりまで、ゴブリンの顔面に近づき。
「ほれほれブサイクちゃん! 俺のエサもおいしいよ!」
鬼面にいくつも埋め込まれた眼が、アーサーに集中する。だが、ゴブリンは車線を変えて転がっていた自分の一部を舌で絡めとる。
それを目にして、より一層表情を悪くするアーサー。
「おいおい、俺の屈辱は何の意味もなかったのかよッ? クソぉおお! ただより高けェものはねぇな、おい!」
アーサーは前に向き直る。そして、体を傾けて、地面に向かって伸ばした手で、組織片を掴む。
「重っも!」
可塑性のある組織を掴むこと自体は難なく成功した。だが、持ち上げるのに手間取る。それでもバランスを崩さず座席の後ろに組織を置いて、みずみずしさを感じる音に目を細めた。
「ああ、考えなしに乗せなきゃよかったよ」
背後を確認しなかったが、Smの軟組織から染み出す汁が愛車を汚したことを察する。
一方のゴブリンは求めていたものを奪われて歯牙を剥き出しにした。
アーサーは後ろを一瞥し。
「でも、ゲロロボットを乗せるよりましだな」
と囁けば気持ちも少しは軽くなった。
「囁ケバ聞こえないと思っタカ?」
無線からの上官の声に保安兵の表情は消失した。
荷台のジャーマンD7は前方を確認し、無線で尋ねる。
「私の観測が正しければあのゴブリン。後ろ足の機能が回復してないか?」
「ああ、だいぶ治ったらしいな。もしかすると、副次的な神経のつながりがサポートしてるのかもしれん」
バックアップか? ジャーマンD7は不穏そうな音声で問う。
「というよりも組織造成の過程で、複数の似た組織、あるいは同じ組織が作られて、機能を分担していたのかもしれん。いや、背骨への一撃で転倒したから可能性は低いか。なら、別の機能に集中していた神経伝達網が後ろ脚と頭の連絡をかって出たのかも」
「人間ニ起こる脳ノ可塑性と呼ばれる現象と似た反応か? 損傷した脳の部位の機能を別の脳の部位が補い、本来ならば失われる機能をある程度まで回復させる、ソレと似ているか?」
「それに近い。Smの場合、体の電導神経が失われた箇所の伝達に力を発揮したりする。そうやって少しでも機能を維持するように作られてるんだ。人間でも、頭以外で起こるのかねぇ。お前さん、一つ、政府のデータバンクで調べてみてくれ」
「……検索申請ハ却下サレタ」
ゴブリンはつい先ほど背骨を断ち切られ、後ろ脚を引きずっていた。だが、今はその脚が地面を踏みしめ、たどたどしくはあるが交互に前後して巨体を前へ送り出す。
「人間ノ業ハ……常に余計な結果ヲもたらス」
アンドロイドの呟きにリックは軽く無視して言う。
「Smの最大の利点はよっぽどひどくなければ手を加えずとも、わざわざパーツを取り寄せなくとも、栄養を補給していれば、自己修復できる点だ。だから、お前らロボットより普及してるんだ」
「人間も同じくらい頑丈デ優秀ナラよかったんだがナ」
「お前……。保安兵の仕事を奪いたくないが、いいSmを融通してやろうか? 中古でも役に立つぞ。修理も任せてくれれば安く仕立ててやれるし」
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