香りの比翼 Ωの香水

鳩愛

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番外編 ブーゲンビリアの褥 2

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それはハレヘの街にラグがソフィアリと連れ立って訪れた、今からたっぷり20年以上前のこと。

一般にオメガが発情期を迎える直前、だらだらと微熱が続く時期に入ったソフィアリは自室として与えられている二階の部屋で、バルコニーからぼんやりと美しい海を眺めてはため息をついてだるそうにしていることが多くなった。

その日もラグは港にあるサト商会の事務所にソフィアリの実家から頼りが届くの確認に行く前にソフィアリの寝室に立ち寄った。ソフィアリは朝食に小鳥がついばむほどの僅かな果物を摘まんだのちに、また寝台で微睡んでいる様子だった。こうして無防備に眠っているさまも愛らしいが、いつもの輝くような笑顔を見たいとラグは思い、白い額に口づけると部屋を後にした。

明るく気丈なソフィアリは家族と遠く離れたこの地に来てからも、次期領主候補として街のことを学んだり、中央で通っていた学校とのやり取りで真面目に課題に取り組んだりと日々明るく前向きに暮らしてきた。

しかしついに未熟な成長期のオメガとして自分でも想像がつかないほどの身体の変調にソフィアリはすっかり気持ちを落ち込ませてしまっていたのだ。口には出さないが中央の家族や友人たち、賑やかな生活を懐かしんでいるのも見て取れたが、連れ帰ってやることもできぬもどかしさをラグも共に悩んでいた。

本当はいつでも傍にいてやりたかった。リリオンから頼まれた仕事などはまだ僅かなものだし、徐々に街のものたちから親し気に接してもらえるようになってきたラグだが、メルトやカレルと比べたら、未だたいした仕事をしているわけではない。しかし、だからと言って四六時中ソフィアリの傍にはいられない。

オメガとしての成熟が進むほどに、父親代わりのようなメルトですらソフィアリから一歩身を引くほどのフェロモンの芳香が立ち上り強くなった。アルファである若いラグはついにソフィアリと寝室を別れ、もともと自分に与えられた部屋からもさらに離れた他の階にあるゲストルームに眠る時だけ身をうつすことにしていたのだ。

フェル族の身体の構造からかソフィアリのオメガのフェロモンがそのまま理性を無くすほどに効くわけではないが、気を抜くと自分でも思っている以上に誘惑されそうになる瞬間がある。かつて番であった妻にすらこれほどの欲を感じたことはなかった。年端のいかぬオメガとして開花する手前のソフィアリにこれほど惹かれ懸想する自分が恐ろしくも感じた。妻子を無くして幾ばくも経っていないという重い事実もその気持ちに暗い影を落としていたのだ。

周囲のものたちの意見割れていた。メルトの妻のアスターや農園で働いているオメガたちからも、ソフィアリと距離を置けと強く勧められていた。

今すぐソフィアリを番にする気がないのならば、傍にいるべきではないと。

オメガにとっても強いアルファが傍にいるということは、無意識に相手を求めてしまうという辛い経験なのだそうだ。これは日頃朗らかなアスターすら、怖い顔をしてラグに忠告してきた。

メルトは呑気に「早く番にしてやれ」などと嘯くが、そんなに簡単に話ではないのだ。しかし激しい心の葛藤を嘲笑うように、寝ても覚めてもラグの脳裏にはソフィアリの姿ばかりが浮かんでしまう。傍にいたらいたで、いつでも目の届くところに置いておきたい。

出会ったばかりの頃の少年らしい無邪気であどけない笑顔。
少しずつ背が伸びてきているのを喜んで、ラグを抜かしてやるんだ!とぴょんぴょん周りを飛び回り、そのあとまるで動じないラグに飛びついてきた若木の様にしなやかな少年。それが今ではオメガ特有の色香漂う妖艶な笑みを浮かべながら、熱っぽい眼差しでいつでもラグだけを見つめて続けてくるのだ。

農園からアスターと共に様子を見に来てくれていたオメガとしてのソフィアリの教育係ともいうべき女性が、街での仕事を終えて戻ってきたラグに声をかけてきた。二人とも憂い顔で、ソフィアリがらみでまた何かあったのだなとラグは察する。

「ちょっと、ラグ。ソフィアリ様みなかった?」
「いや…… 漁港に寄ってから帰ってきたが、市場の方では見なかったが……またいなくなったのか?」

昼食後、てっきり寝室で眠っているとばかりに思っていたソフィアリの様子を農園に戻る前にアスターが部屋を覗いたところ、また姿を消していたのだそうだ。
ラグが寝室を共にしなくなってからというもの、ソフィアリの不安定さには拍車がかかっていた。いたはずの寝室からふらふらといなくなって、大抵は海や館の庭、空き部屋なんかでラグに探され、見つかっている。

昨日はかなり頑張って歩いたのか、市場に差し掛かる手前で様子のおかしさに心配をしたパン屋のおばさんに保護されていた。
ラグが人づてに話を聞いて迎えに行くと、少し熱で頬を紅潮させ、潤んだ眼差しが赤子の如く無垢な笑顔を見せて喜んでラグに抱き着いてきた。
漁港近くの市場には血気盛んな若い男も多く、ちらちらと美しいソフィアリを見物に来るものもいて、ラグは顔には出さぬが内心言いようのない苛立ちを覚えた。しかし自分にはそんな気持ちを抱く資格はないと努めて平静を装った。

しかし実際のところ、ソフィアリを誰の目にも晒したくないという熱い独占欲でこめかみがぴくぴくとしてしまったほどだ。

そんな嫉妬にすら似た、ままならぬ気持ちを抱え、ラグは彼を思う気持ちをこの先抑えられる自信がなくなった。いつでもタフな心と鉄の意志を持つと思っていた自分が、少年の笑顔一つで心を丸ごと全て攫われてしまうなどと、出会ったころには想像もつかなかった。

そんなこともあったので、今もすぐにでもソフィアリを探してみっともなくも走り回りたくなったが、努めて心を落ち着けるために大きく息をついた。

「ラグが上がってきた坂道から市場までは一本道だから…… 今から海の方を探しに行くけど、ラグはもう一度屋敷の中で声をかけてやってくれる? ラグの声を聴いたら出てくるんじゃないかと思うのよ」

「ごめんなさいね。私たちが四六時中一緒にいて上げられたらいいんだけど、農園の仕事もあるし、メテオの様子も見ないといけないから。私たちはこれから家に戻らないといけないけど」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。昨日言って聞かせたので、多分そう遠くに行くことはないと思います。今日はもうこの後どこにも出かけませんので、俺に任せてください」

「発情期はもうすぐそこまで来てると思うわ。気を引き締めていきましょう」

ラグは二人の女性に深々と頭を下げた。二人は戸惑いながらもラグの申し出を受け入れて農園へ戻っていった。屋敷の中から庭師やリリオンの侍女など、使用人たちと家令のカレルまでも、騒ぎを聞きつけて門まで集まってきたということもある。

そもそもはソフィアリを見守るのはソフィアリの父親から護衛を仰せつかってきたラグの役目だ。
勿論、ラグがソフィアリに同行することを決めたのは雇用関係でも何でもない。ただ、ソフィアリの一族に恩義を感じたのと、退役後何もやることがないわが身を心配したソフィアリの親族で元上司にラグ自身のこれからを心配されたからだ。
正直なところ、いつでもこの地を後にする自由がラグには約束されているし、本来ソフィアリの面倒を見るのは後見人であるリリオンの役目ともいえる。
リリオンの事実上のパートナーであるカレルもそれは重々承知している。

「屋敷の中を皆でまた見て回りましょう」

老年の紳士はいつも通り居住まいを正した素晴らしい姿勢でラグに会釈をすると、使用人たちに海の方も探すよう指示を出していった。
ソフィアリをすぐにでも探し出そうと屋敷に入ろうとした逞しいラグの身体を、ほっそりしたカレルがしかし身をもって止める。
いつでも礼儀正しく穏やかな紳士である彼にしては珍しい程強引な仕草に、ラグは僅かに目を見開いた。

「ラグ、貴方は少しの間、ソフィアリ様の発情期が落ち着くまで、メルトの農園の方に寝泊まりしてもよいのではないですか」

控えめで自分の分を弁えたカレルが面と向かってラグにこんなことを言ってきたのは初めてだった。

「こんなに老いぼれていても、私もアルファです。若い頃はオメガの発情にあてられてラットを起こしかけたこともあります。この地に手と手を取り合ってやってきた時から、私が愛を捧げた方は生涯、リリオン様ただ一人。そのことは貴方もよくよくご存じのことでしょう? そんな私ですら、ラットを起こしかけた。アルファの種を残そうとする本能というものは恐ろしい。オメガというだけで無意識に惹かれてしまう。
でも、貴方は本能というよりも、真心から出た絆によってソフィアリ様と惹かれあっていますね。だから貴方方にはお互いに思いやりを持って、心の底から納得してから番になって欲しい。屋敷の皆がそう望んでいます。けして事故にあうように番になって欲しくないのです」

「わかった……。わかっている。しかし、俺は……。ソフィアリと離れていたくない」

初めて吐露したラグの唸るように告げられた情熱的な本音に、カレルは厳しくも優しい目元をして大きく何度も頷き肯定した。

ソフィアリの傍を離れたくないのはラグの意志だ。息子のようにも思いこもうとしていた愛すべき少年。しかし今や海辺でラグに自ら口づけ、誘惑するまでに悩ましい急成長を遂げてラグの心臓を血がにじむほどに掴み上げてひと時も離さない。

自分たちはやはり親子のような。そんな穏やかな関係にはなれない。
アルファとオメガという絶対的な壁が立ちはだかっているのだ。
離れるべきかもしれない。そう日々葛藤しつも、それでもどうしても離れがたい。

「そうでしょうとも。自分が得たいと決めたオメガには跪いて愛を恋うか、もしくは奪いつくして我が物のするか。どちらにせよアルファは、その牙を項に食い込ませるまでは、もはやそのオメガの虜。他の雄に寄らせたくない、少しも離れていたくないのは本能のなせる業です。でも本能にあらがえるのが人間というものです。貴方は日頃、理性的な人だ。身の内に獣を隠し持っていても、それを飼いならせる。貴方は私が見込んだ英雄であり、ソフィアリ様を守り、そして街の人々みなの守護神となるべき人だ。だからこそ、この先後悔をして生きてほしくない」

ラグはカレルの言葉に胸をつかれた。まるで父が子を見守るような深い愛情で、これほどまでラグとソフィアリの二人を慈しんでいてくれたと恥ずかしながら今さら思い知ったからだ。故郷も家族も失い、みひとつで転がり込んだこの街で、血のつながりのない人たちの縁と情けを知らず知らずのうちに得ていた。

「ソフィアリ様を番にする決心はまだつかないでしょう。離れがたいことはもちろん認めます。そして貴方から離れることはきっとできないでしょう。ですから私が貴方たちを見守りましょう。もしも二人の意に染まぬような事態が起きた時は」

鋭く厳しい意志を眼鏡の奥の瞳にみなぎらせたカレルは、獣の恐れぬ狩人のような仕草で、ラグの首筋にナイフに見立てた手刀を食い込ませた。

ラグの虹彩に一瞬金色の環が広がるが、カレルは恐れない。
真正面から獣のように不敵に輝くこの目を見つめて、目をそらさない男はラグにとっても稀な相手。それは命を懸けた男の顔つきだった。

「私がこの命に代えても、お前の暴走を止めよう」

「肝に銘じる。絶対にソフィアリを無理やり奪うことはしない。約束する」

「もちろんね。お前さえ、ソフィアリ様を番にする決心をつければ私はそれで構わないと思っているよ。これは誰もがよくわかっていることですが。ソフィアリ様はここに来た時からずっと、貴方に首ったけだ」

茶目っ気を出して、カレルはウィンクをしてから、強めにラグの肩をぱしぱしと叩くと、先に屋敷に入っていった。













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