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Ⅱ
兄・了治①
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福田信吾の起案文書は良くできていた。公文書としての出来栄えもさることながら、文章の節々から仕事に対する熱意が伝わってくるのも好ましい。総務課長である日下部了治には、事務所内から無数の判で押したような起案文書が回ってくる。不愉快な思いをすることなく決裁印を押せることはまれだ。そういう出先機関なのだと、あるいはそういう土地柄なのだと、了治はとっくに諦めている。
「日下部課長、ちょっと聞いてもいいですか?」
と福田は瞳を輝かせながら了治に声を掛けた。
「うん、なんだろう」
と了治は愉快な思いで決裁印を押した。二十三歳の福田は、この長崎事務所内では珍しい存在だ。気鋭と言っていい。一昨年の国家Ⅱ種試験を上の上の成績でパスしたのはだてではなく、仕事に打ち込む姿には清々しさも感じられる。採用面接で目をつけ、新卒でいきなり総務課総務係へ配属したのは了治だったが、福田は期待以上の働きをしてくれている。
「日下部課長は、腰痛持ちでいらっしゃるんですか?」
「そんなふうに見えるかな?」
「ええ。実は僕も腰痛持ちで、しかも坐骨がずれているので、腰から上が全体的に少し右に曲がっているんです。だから腰から下を少し左斜めにずらして椅子に座るんですけど、日下部課長は席でいつもノートパソコンを左斜めにずらしていらっしゃいますよね。文書を読まれているときも、上半身を左斜めにずらしていらっしゃいます。ひょっとしたら、日下部課長は僕とは逆に腰から上が少し左に曲がっているのかな、と思いまして」
島原に良い整体治療院があるんです、と福田は付け加えて微笑んだ。そういった目配り気配りができる男でもあった。それに、この青年の目はいつも清んでいる。まだこのお役所内で悪い影響を受けていない証拠だ。本人にその気があれば本省に引きあげてやりたいと思うが、自分はキャリア事務官でこそあれ、今もこれからもそんな権限とは無縁だと自嘲しながら、了治は口を開いた。
「ありがとう。僕の腰は今のところなんともないよ。それより悪かったね。急ぎの仕事を頼んで。一日でよくこれだけの資料を集められたね。分析も良くできている」
「ありがとうございます。日下部課長にそう言っていただけると、本当に嬉しいです」
福田は、瞳を爛々と輝かせながら一礼し、颯爽と自分の席に戻った。了治は、昔の自分を見ているような気がした。入省一年目のころは、及川課長の褒め言葉がなによりも嬉しかった。福田は、年の離れた長兄のように了治を慕っている。福田が長崎人ながら熊本大学卒で、了治が熊本人であることも理由の一つだ。忘年会の席で、日下部課長は僕の憧れなんです、と福田に上気した真顔で言われたときに、了治は俯いて苦笑いをせざるをえなかった。数年前ならともかく、今の自分に憧れを抱かれてもむず痒い。それに、長崎事務所にいる間は課長だが、本省へ戻ればまだ係長だ。同期入省のキャリア組の多くは、すでに課長補佐に昇進している。
福田の指摘は正しかった。了治は、いつもノートパソコンを左斜めにずらしてキーボードを叩く。起案文書や書類を読むときも、上半身を左斜めにずらす。いずれも意識的にそうしている。坐骨がずれているわけでも、腰から上が左に曲がっているわけでもない。くせでもない。右斜め前方を視界に入れたくないのだ。
怒り肩の総務係長の太く短い腕と、撫で肩の総務係主任の細く長い腕が、忙しく動きはじめた。見なくても大きく立てられている音でわかった。児童会の校内放送のように時間に正確でもある。もうすぐ五時になります。みなさん、退庁の準備をはじめましょう。と腕の主たちは言いたいのだ。
了治はため息を吐き、右斜め前方に目を向けた。小太り女の浦係長と、痩せ女の原主任が、授業終了間際の小学生のように、机上の整理をしていた。二人は、この事務所内で「ウラハラコンビ」と呼ばれている。各課から数々のコンビへの苦情が寄せられるが、その処理は総務課長の重要な仕事の一つだ。
ノートパソコンに視線を移すと、ディスプレイの右下には今日も「16:50」と表示されていた。退庁時間まで、まだ十分もある。この出先機関では珍しいことではなかった。コンビが先陣を切るだけで、あとに続く職員も少なくない。お役所仕事の象徴たる五時退庁至上主義だ。本省勤務が長かった了治は、はじめてウラハラコンビのその行動を目にしたときには面食らったが、今ではすっかり慣れてしまった。
「日下部課長さん、ちょっとよろしいですか?」
外勤から帰ってきた浜田所長が、柔らかい声とおおらかな笑顔を投げ掛けてきた。薄緑色の作業服がよく似合う初老の男は、背を向ける。了治は、席から立ちあがった。
浜田は、総務係の奥にある所長室に入り、裂け目からはみ出たスポンジが目立つ合皮のソファーに深く腰を下ろした。日光浴でもしているかのようなだらしない格好を見せている。そんな土色の顔をした男に、まあ座ってください、と言われ、了治は眉を顰める。浜田所長は単に姿勢が悪いだけだ。見下しているわけではない。本省からやってきたキャリアであり、悪名高いウラハラコンビの直属の上司でもある了治に対して、逆に気を使っている。ゆえに、「日下部課長さん」などと呼ぶ。了治は、瞬きながら眉を戻し、茶の色の褪せたソファーに腰を下ろした。
「今日の朝、九時ごろでしたかね。内々示がありました。四月から本省課長補佐とのことです。昇進されるんですよね。おめでとうございます」
浜田はそう言って、目元を緩めた。
肩書きの上では、ようやく先をいく同期のキャリア組に追いついたことになる。しかし、浜田が棒読みした部局は何階にあったのかも、それ以前に本館と別館のどちらにあったのかも思い出せない。本省復帰と昇進の願いは叶ったが、この先も閑職巡りの役人人生を送らねばならないことを再度通告されたようなものだ。またいつ島流しの憂き目に会うかもわからない。後ろ盾を失っただけでなく、後ろから矛を振りあげられてしまったのだから、当然の報いとも言える。
「正式な内示は後日ありますんで。次の総務課長もよそからくるみたいなんですよ。事務の引継ぎは、浦係長や原主任と一緒に、ぼちぼち、お願いできますか」
(ぼちぼち、か)
了治は、心の中でそう呟いていた。この街の「ぼちぼち」は、まさに言葉通りだ。昼行灯の原主任は午後五時前になると急に元気になり、今日やれることは明日やればよかっさー、と隣の席の福田にお役人教育を施す。所長席の未決裁箱には起案文書の山があり、午前中の五割増しの高さになっている。
(浜田所長は、ぼちぼち仕事をするために、外勤で午後の就業時間を丸々潰してきたってわけか)
了治は俯き、口元だけで笑った。行き先と用件から推測すれば、二時間もあれば十分だったはずだ。内々示の件にしても、本省では午前中か、遅くとも午後一番に本人に伝えるものだ。
「着替えますんで」
と浜田は再び目元を緩めて立ちあがり、所長控室に向かった。同じ西九州人であるせいか、顔立ちは了治と縁の深かった及川正夫に似ているが、顔つきはまったく似ていない。
(及川さんから才気と精気を抜くと、たぶんあんな顔になるんだろうな)
了治は、柔らかすぎるソファーに背中を沈めた。有明海を挟んで隣県の産ではあるが、熊本人と長崎人とではまったく気質が異なる。了治に言わせれば、似ているところは女性の怖ろしさだけだ。長崎事務所に赴任して半年がすぎたころに、同じ九州人とはいえ、しょせん自分はよそ者なのだと観念した。女性との諍いも、もう御免だった。それ以来、無抵抗主義の精神でウラハラコンビとの危うい関係をなんとか保ってきた。
東向きのガラス窓越しに、間近に迫った金比羅山が見える。夕日を受けて黄色がかった常緑樹が今日も美しく目に映る。ため息がもれたのは、気が重いからだ。毎日仕事をくれるコンビに引継ぎの仕事をあげねばならない。二人はどんな顔をするだろうか。また仕返しがあるのだろうか。そう思うとますます気が滅入るが、じきにコンビから解放されると思うことで自分を慰めた。
了治は、整った顔立ちと涼しげな雰囲気のおかげで、初対面の女性に好感を持たれることが多い。しかし、融通のきかない性格が災いしてか、しだいに嫌われていくことが少なくなかった。いったん嫌われると、覚悟を決めねばならない。その女性たちは徹底して了治を嫌うようになり、攻撃を仕掛けてくる。ウラハラコンビはその典型というより、初対面のときから了治に対して不快感を抱くタイプだった。小学生のころから必ずクラスに一対はいた、了治の存在自体が気にくわない女とその子分に似ている。前者がウラで、後者がハラだ。
総務課のあるフロアの総人数はちょうど四十人なので、二人は了治にとって避けがたい存在と言える。総務課長と、総務係長と総務係のお局主任という、三人一組で課内や事務所内の事務を総括しなければならない関係になったのは、不幸中の不幸だった。ウラは了治の赴任と同時に課内で横滑りをして総務係にやってきた。ハラは十年近く総務係に居座り続けている。二人とも札つきで、上司や部下や同僚と諍いを起こすことは珍しくない。厄介者の二人をコンビにして、本省から左遷を食らった若いキャリアに押しつけたのだ。この出先機関では、というよりこの街では、見え見えの魂胆がまかり通る。
了治は、この街の歴史を書物で学び、史跡巡りをした。地理を地図で調べ、休日に私的な現地調査を行いもして、納得できた。青い海は深く山間に入り込み、真冬を除けば波風が立ちにくい。港街を囲む山々のなだらかな稜線や、日差しを穏やかに、時には鮮やかに反射する常緑樹は、人々の心を和ませすぎ、怠惰にする。夏は熊本ほど暑くなく、冬に氷点下を記録することはまれだ。この街には、天然の良港と温暖な気候が生み出す経済的恩恵を、開港以来享受し続けてきた町民の末裔が多い。狡猾な漁民の子孫も少なくない。
スーツ姿にコートを羽織って控室から出てきた浜田所長が、お先に失礼しますよ、と声を掛けると同時に終業チャイムが鳴りはじめた。了治は、浜田の後姿を眺めながらため息を吐いて両手で両膝を叩き、ソファーから立ちあがった。
総務係に浦係長と原主任の姿はなかった。席に残っているのは帰り支度をしている福田だけだった。
「お疲れさまです」
と言った好青年の爽やかな笑顔は、了治の目にも魅力的に、年上の女の目にはそのうえ可愛く映る。福田は、ウラハラコンビと即かず離れずうまくやっていて、総務係や総務課の潤滑油の役目を果たしてくれている。
了治は、席に着くと同時にまたため息を吐いた。さっきまで空だった未決裁箱に山ができている。毎度のことではあるが、起案文書を挟んだクリップボードが幾つあるのか数えたくもない。「浦」と「原」の印は押してあるものの、ほとんど手つかずのものが含まれているのは間違いなかった。コンビがくれた仕事を、これからさばかねばならない。この街で仕事をさばくことは、仕事を他人に押しつけることをも意味する。その事実に根がお人好しのキャリアが気づいたのは、この事務所に赴任して半年がすぎたころだった。
(来年の選挙で、おそらくアメリカ史上初の有色人種の大統領が誕生する。彼と民主党の最新の農業政策について 予習しておく必要があるな……って、なに言ってやがる。そんな必要は、もうない)
ここは首都東京ではなく、国策とは無縁の一地方都市にすぎない。それに、及川了治ならともかく、日下部了治は地方都市出身の一凡人にすぎない。
「お先に失礼します」
福田は鞄を片手に立ちあがり、また笑顔を見せて一礼した。
「お疲れさん」
了治は口元だけで笑い、起案文書の山に手を伸ばした。
枕元の目覚し時計の針は、ちょうど十時をさしていた。寝坊してしまった。完全に遅刻だ。いきつけのパチンコ店では、もう出る台はすべて常連客に占拠されている。これから出かけていって空いている台と真摯に向き合っても、無数の千円札を文字通り機械的に吸い込まれるだけだ。了治は、それならば久しぶりに別の店にいってみようかと考える。しかし、この街のパチンコ店は釘が渋すぎて、ろくに回りもしない。ロムの設定も低すぎる。利益をあげるための発想が、この街のパチンコ業界には乏しいと思う。
この約二年で地元のパチンコ店が幾つか潰れたが、いずれもまばらな客から有り金を搾り取る戦略をとっていた。繁盛しているのは他県から進出してきたパチンコ店で、毎週土曜日に了治が「出勤」している店もその一つだ。その店も長崎の街に馴染んできたのか、競争相手を閉店に追い込んで利益至上主義に走りはじめたのか、最近は釘が渋くなり、ロムの設定も低くなっている。東京へ戻ることが決まった今、長崎にあるすべてのパチンコ店が腹立たしく思える。了治は、別の憂さ晴らしを考えてみた。史跡巡りにはもう飽きている。いまさら現地調査をやっても意味がない。
上体を勢い良く起こすと、近所のリサイクルショップで買ったパイプベッドが軋んで鳴った。久しぶりの腹筋運動を終えて、苦く笑う。若かったころはなんでもなかった動作なのに、腹筋がベッド同様に声をあげて危うく攣りそうになった。ため息を吐くと、背中が丸まった。肉体の疲れはとれている。寝てもとれない精神の深い疲れへの対処法を、了治は一つしか思いつけない。人肌の温もり。忌み嫌ってこそいないが、敬遠したい女。その柔肌を、肉体が、性が、本能的に恋しさを抱く。ゲイではなく、しかもその嗜好に嫌悪感を覚えることが、かつ男として半枯れであることが恨めしい。
佐賀の温泉街へいっても、ソープ嬢にまた嫌な顔をされるのは目に見えている。四捨五入すればほとんどが三十のお姉さん方は、人生経験がありすぎる。免疫がある分だけ、ソープランドにわざわざ足を運ぶ不能者に対して寛容でない。やはり、デリバリーヘルスしかないだろう。デートコースなるものも存在しうる比較的新しいその営業形態は、従来の箱型の風俗と違い、勃起しなくても射精に至らなくても許容してくれる。そうと決まればスポーツ新聞を買いにいかねばならない。パイプベッドを再び鳴かせながら、了治は立ちあがった。
コン、コンコン。
玄関ドアを優しくノックする音を耳にして、了治は広げていたスポーツ新聞を急いで八つ折りにして脇に置き、ダブルベッドから腰をあげた。小汚くて狭いラブホテルの部屋は天井が低く、ベッドが床面積の半分を閉めていて、一人でいても息がつまりそうだった。了治は、部屋相応に狭苦しく、しかも照明がなくて暗い玄関に小走りで向かい、白いドアの取っ手を内側に引いた。ノックした女性に対して気恥ずしさがあり、顔は俯き加減になっている。
黒いストッキングを履いた膝下に、見覚えがあった。子持ちのししゃものようなふくらはぎと、引き締まった足首。好みだった。了治には、女性とは視線を合わせずにそこへ向ける癖がある。顔と名前と膝下の三つの情報を組み合わせて、一人の女性を記憶することが少なくない。
(志村さん?)
いきつけのパチンコ店では、店員は左胸に名札の着用を義務づけられていた。ゆっくりと視線をあげると、黒いスカートとピンク色のハーフコートの上に、予想通りの前髪で眉を隠した童顔が存在していた。年のころは二十前後。美形と言っていい瓜実顔が今日も薄化粧であるのは好ましいが、了治はドアの取っ手を握ったまま固まってしまった。志村さんは、気弱そうに顎を引き、緊張の色を浮かべた大きな目をこちらに向けている。やはり驚いたのだろう。茶色いハンドバッグを両手で持ち直し、市街を走る路面電車内で発車の際によろめいたように、片足を斜め後方へ半歩さげた。
了治は、このところ毎週土曜日に志村さんと会っていた。熊本城下の繁華街に買い物に出向けば、「上通り」と「下通り」の二つのアーケードで少なくとも一人は顔見知りを見掛けるものだ。こんな場所で相見えるのもありえる話だ。うろたえている自分にそう言い聞かせて、唾を飲み込んで言った。
「オイカワです。どうぞ」
「あっ、はい」
志村さんは、表情を強張らせながら狭苦しい玄関に入り、引き受けたドアを窮屈そうに閉めて鍵を掛けた。背中まで届いているストレートの後ろ髪が揺れる。茶色いパンプスを脱ぐ姿は、女子大生だったころの及川家の一人娘、元妻の小春を思い起こさせた。
了治と志村さんは、二人してぎこちない動きで狭い部屋の中へ入った。昔は白だったらしい壁紙に薄茶色の染みが目立っている。昼間は土日祝日でもノータイム三千円、さらには、割引券はそちらに預けています、と受付で言えば二千七百円になる部屋だ。備え付けの二脚のパイプ椅子は幼児用を背丈だけ高くしたような代物なので、二人はベッドに腰掛けざるをえない。
「あの……なんて呼んだらいいかな?」
了治は、必要以上に瞬かざるえない。「志村さん」と呼ぶわけにはいかないだろう。それに、今の志村さんには名字がない可能性が高い。
「あっ、ごめんなさい。セイカです」
おっとりした声が、明るく心地良く了治の鼓膜に染み込んできた。
「オイカワさんとは、はじめまして、じゃありませんね。今日は、勝ったんですか? じゃないかあ。まだ、お昼ですもんね。あっ、そうだ。その前に、私で良かったですか?」
「もちろん。よろしく」
強張る表情を解くようにまた瞬いて、了治は答えた。
「よかったあ。ありがとうございます」
了治は、いきつけのパチンコ店の常連客であると同時に、コーヒーレディーの志村さんの常連客でもあった。大の缶コーヒー党なのに、倍以上の金を払ってまでカップコーヒーを飲んでいた。「セイカ」は、電源の入っていない十四インチのブラウン管に目を向けている。少し背中を丸め、掌と股の付け根をベッドの端に載っけていた。鉄棒に腰掛けている少女のようなセイカの横顔は端正で、美しい。テレビCMや街角のポスターでよく見掛ける若手美人女優に似ていた。
「まさか、セイカちゃんに今日も会えるとはね」
異動の内々示など受けていなかったならば、今ごろ小汚くて狭いラブホテルの一室にはいない。いつも通り清潔感があって広々としたパチンコ店の一角で時間を潰しているはずだ。
「そうですね。セイカがあのパチンコ屋さんで、今日もコーヒーレディーの仕事をしてたら、きっとガッカリしてますよお。オイカワさんがいないから」
「売上げがさがっちゃうから?」
「たくさんお買いあげいただきまして、ありがとうございました。毎週土曜日に、三杯ずつ、買っていただきましたよね」
了治は、セイカと小さく笑い合いあった。礼を言いたいのはこっちのほうだと思った。志村さんは味気ない休日を淡く彩ってくれる唯一の存在だった。
「この前の日曜日で、コーヒーレディーの、派遣の仕事は辞めたんです。月曜日から、この仕事をはじめました」
「派遣」にもいろいろあるものだと、了治は真顔で思う。
「あっ、いけない。事務所に電話しなきゃ。時間はどうされますか?」
セイカは、こちらを向いて言った。少し慌てた様子だが、やはりおっとりした口調だった。了治は、せっかちなたちだが、長崎に多いおっとり系の女性が嫌いではない。これまで縁遠かった彼女たちを、むしろ好ましく思う。
「じゃあ、九十分で」
セイカは、くたびれたハンドバッグから小さなプラスチック製のカードケースを取り出した。A5判の料金表を確認するように人差し指でなぞる。
「ありがとうございます。前金で、二万二千円になります」
了治は、ブルージーンズの尻ポケットから財布を取り出し、四枚の紙幣を手渡した。セイカは立ちあがり、向こう側にあるパイプ椅子にハンドバッグを、その手前にあるLPレコード大の一脚テーブルの天板に紙幣を置いた。そして、紙幣の上に料金表を載せ、ピンク色の携帯電話を開いた。事務所とのやりとりを終えて携帯電話を折り畳むと、セイカはぎこちなく目元を緩めながら小さく舌を出し、再びベッドに腰を下ろした。栗色の長い髪が小さくなびく。
「遅いって、怒られちゃいました。店長は、女の人なんですけど、怖いんですよお」
腹の座った元風俗嬢らしき女の声が鼓膜で再生され、了治は話を合わせる。
「あの女の人が店長なんだ。事務所に電話を掛けたときに、たしかに怖かったな。怒られはしなかったけど」
セイカは、ほぼ上下対象の小ぶりな唇を開き、白い歯を覗かせながら小さく笑った。
「良かったあ。セイカはオイカワさんに、嫌われてたわけじゃなかったんですね」
「嫌いな子から、何杯もコーヒーを買ったりしないよ」
「だって、コーヒーはたくさん買ってくれたけど、ほとんどしゃべってくれなかったから。結構いるんですよお。言い寄ってくるオヤジって」
了治は、パチンコ台を前にすると、ほとんど口を開かずに黙々と球を打ち続ける。隣の客から話し掛けられても、ええ、そうですね、などと相槌を打つだけだ。
「仕事中は、必要最低限しか口を開かない主義なんだ」
セイカは、ふふっ、とまた小さく笑った。
「そう言えば、オイカワさんは、コーヒーを飲むときも、口はほんの少ししか開けてなかったですね」
「……そうだね」
たしかに啜るようにコーヒーを飲む。思わず自嘲したが、今も口はほんの少ししか開けていない。了治は、照れ隠しにいったん閉じた口をまた開いた。
「セイカちゃんってさ、十八? 十九? それとも二十歳かな?」
「二十歳です。本当は違うけど。いっけない。店長にまた怒られちゃいます。内緒ですよお」
僅かに揺れた栗色の前髪の隙間から形が自然な、やや薄い眉が覗く。くっきりした二重瞼は目頭の角度が高い。少々曲がっているものの鼻梁は高く、小鼻は引き締まっている。目鼻の配置が僅かばかりバランスを欠いているせいもあってか、硬かった表情を解いた顔には温かさが滲んでいた。了治は、セイカの目に視線を向けた。鈴を張ったような目が一瞬だけ見開き、そして微笑む。カラーコンタクトレンズをしているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。少し青緑がかった虹彩は清らかで、優しさが漂う。白目には濁りがない。あどけなさが残っている目元には小皺の線はなく、十代の少女のようだった。
先に風呂からあがり、了治はベッドの脇で佇んでいた。白いバスタオルを体に巻いたセイカが、これまた狭い脱衣場から出てきて、細い手で年季の入ったベージュ色のベッドカバーと分厚い布団を順に捲った。
「じゃあ、仰向けになってもらっていいですか」
「ああ、うん」
了治は、腰に巻いた安っぽいバスタオルを取り、手前にあるパイプ椅子の頼りない背もたれに掛け、ベッドに仰向けになった。それを見届けて、セイカはベッドに上って両膝を突き、背を向けてバスタオルを取り、畳んで脇に置くと、意外に大きな乳房を揺らしながら素早く了治に覆い被さった。緊張した硬い唇は、二度三度と了治の唇をふさぎ、首筋を這い、乳首を経由して徐々に下へと向かっていく。
ぎこちなさは否めなかった。研修で教わったらしい在り来りなサービスを一渡りこなし、セイカは最後の締め括りに取り掛かって久しい。その奉仕を、了治は感じとれない。束ねてアップにしていたセイカの長い後ろ髪はすっかり垂れて、了治の股の付け根を愛撫している。セイカの短い前髪は了治の下腹を程良く刺激していた。狭苦しい部屋の中の空気が緊迫し、セイカの懸命さがひしひしと伝わってくる。しかし、女の労作は男に形すらなしそうにない。了治は、仰向けのままで首だけを持ちあげた。
「ゴメン、無理みたいだ」
セイカは了治から離れ、口を横一文字に結んだ。そして、くすんだ天井を眺めている了治に布団を掛けながら添い寝した。こちらを向いた顔に翳りが浮かんでいる。
「ゴメンなさい。セイカのせいですよね。まだ慣れなくて下手くそだから……それに、」
「いや、そうじゃないよ。こっちこそゴメンね」
「仕事で疲れてるんですか? それとも、セイカと顔馴染みだったからですかね」
「両方かな」
両方とも嘘だった。元妻の初産に無理やり立ち会わされて以来、勃起不全は突発的に起こるようになった。離婚と同時に元養母に東京を追われて以来、裸の若い女を目の前にしても反応しなくなっている。奉仕してもらっても、むしろ逆に萎縮してしまう。セイカが浴室の中で見せまいと、手で、腕で、時には膝や股で隠していた下腹部の妊娠線と縦一文字の傷痕を目にしては、なおさらのことだった。セイカは、了治の肩に唇を当てた。緊張が解れたれたのか、柔らかい。了治は薄く微笑み、腕をセイカの枕元に回した。
「わーい。男の人に腕枕をしてもらうの、大好きなんです」
実はあんまりしてもらったことがないんですけどね、と続けて言って舌を出し、セイカはこめかみを了治の二の腕に乗せて上目遣いになった。
「良かったあ。オイカワさんがはじめての人で」
了治はドキッとした。
「勃たなかったのが?」
セイカは目を丸め、やがて小さく笑った。
「ゴメンなさい。そうじゃないんです。でも、結構いるみたいですよ。セイカも初日と一昨日、元気にならないお客さんにつきました。だから、本当に気にしないでください」
了治はホッとした。セイカは言葉を続ける。
「パチンコに勝って、デリヘルを呼ぶってお客さんが、多いみたいなんです。だから、セイカもいつかはパチンコ屋のお馴染みさんに、呼ばれるんだろうなって思ってました。呼ばれたくないお馴染みさんが、結構いたから」
セイカの無防備な笑顔を目にして、了治はまたドキッとした。
「あと、今日のはじめてのお客さんが、オイカワさんだったのもラッキーでした。最初のお客さんが嫌な人だと、その日はやる気がなくなっちゃうから。昨日と一昨日がそうだったんです。九十分コースのお客さんが多いんですけど、すっごく長く感じるんですよねえ」
(たしかに。客の立場からしても、嫌いなタイプの女と九十分も一緒にすごすのは辛い)
生理的に受けつけない男との九十分間は地獄。といった旨の話を以前に吉原で聞いたこともある。一方で、自分が中洲や新宿でその手の男になった事実を思い出し、了治は苦く笑う。
「僕は、セイカちゃんが長崎で最後の人で良かったよ」
セイカはまた目を丸めた。
「四月一日付けで、東京に転勤することが決まったんだ」
「そうなんなんですかあ。せっかくお近づきになれたのに、残念だなあ」
セイカは口を尖らせた。了治は突き出た唇に、そして顎先にキスをした。重たい布団の中で、了治の唇はセイカの上半身の白い肌をくまなく這った。下腹の上で重なったセイカの両手の隙間に潜り込み、縦一文字の傷痕を愛撫した。傷痕は、硬かった。
五時間を越える睡眠は、肉体ではなく精神が求めるらしい。このところ、寝坊する日が増えている。この街での生活に疲れている証拠だ。ちょうど良いタイミングで異動できる。了治は、そうこじつけながらパイプベッドの上でため息を吐いた。惰眠から目覚めさせた旋律は、まだ部屋の中に流れ込んでいる。短いようで結構長い。おまけに、結構な音量だ。その陰鬱な旋律を鳴り響かせる拡声器は、このワンルームマンションに程近い丘の上の平和公園にある。平和祈念像前広場で人込みに紛れて耳にするのならともかく、シンとした北西向きの部屋の中で一人きりで聞くと、不謹慎だと思いつつも、やはり不快感を覚えてしまう。
最悪の目覚めだった。電話のベルで薄目を開き、留守電に録音される母の声を夢現に認識しながら半分覚めた夢を見続け、程なく陰鬱な旋律で覚醒した。いつもの悪い夢だった。灰色を基調とした暗く薄気味悪いアニメーション映像の中で、全身を熱線で紫色に焼かれつつも、地を覆い燃え立つ炎の隙間を縫い、兄弟の元へ一目散に駆けてくる母の文江。顔だけが実写だ。隣に佇む年子の弟の了介はまったく眼中にないかのように、鋭い目は了治にだけ向けられている。赤ん坊のころの了治を抱いている写真に焼きついた、若かりしころの文江の目。
そのアニメーション映像は、小学校の修学旅行で当時の長崎国際文化会館の原爆資料室で目にしたものだった。母親が、二人の我が子の無事を間近で確認するまではと、焼かれた身をさらに焦がすような心持ちで、火傷で引き攣る筋肉を鞭打ちながら火の海の中を駆けてくる。その姿は母性を讃える美談としてではなく、母親の我が子に対する執着心の象徴として、思春期に入って間もない了治の脳裏に刷り込まれた。事実、夢の中で再生されるアニメーション映像に入り込むほど、文江の了治に対する執着は異常だった。子供のころはもちろん、今もなお母の存在は重荷どころか苦悩の種となっている。文江の葬儀で果たして泣けるのか。疑問であり不安だ。
唇を堅く結ぶと、意識の底に沈めておいた過去が浮かびあがってくる。大学進学を機に熊本を離れるまでの十八年の間、了治は母の支配下にあった。不純ではなくとも異性交遊に、文江はことさら神経を尖らせ、目つきを鋭くした。弟の不純異性交遊には、まったく無関心だったのに。
女子から掛かってきた電話は、連絡網の類であっても了治に取り次がれたことはなかった。受話器の向こうの声に恋愛感情の「れ」の字でも感じ取れようものなら、文江は長男が学生であることを口実に容赦なく拒絶し、もう二度とうちの了治に電話をしないでください、と捨て台詞を残して電話を切っていた。郵送された女子からの手紙は検閲にかかった。直接渡されて机の抽斗に隠しておいた手紙も同様の目に合った。四年前の婿入りに際して、母は三十前の長男の独占権をなおも主張して猛反対し、結婚式には渋々出席したものの、ついに認めようとはしなかった。そのせいか、了治は初夜に事を果たせなかった。
そんな文江に一人っ子のように育てられたがゆえに今の自分がある、とも一方で思う。母の了治に対する肯定が積み重ねられた結果、キャリア官僚にまで上りつめることができた。婿入りを機に母の了治に対する否定が積まれはじめるにつれ、順調だった人生に狂いが生じはじめた。女性から好まれる秀麗で涼やかな眉目と漂う清潔感、小柄な体を一回り大きく見せる凛々しさ、そして他人の言動に必要以上に善意を感じ取り、秘められた悪意にはずっとあとになってから気づくお人好しな性格。それらは文江に支配されながら育まれたらしい。
一仕事を終えた平和公園の拡声器が、耳障りな金切り声を立てていた。陰鬱な旋律が鼓膜でリピートされる。明け方に浦上天主堂から聞こえてくるアンジェラスの鐘で目覚めるのは悪くないが、十一時すぎまで惰眠を貪った挙句に「原爆許すまじ」で目覚めると、やはり気分が悪い。おまけに、耳慣れない打楽器の音が聞こえてきた。得体の知れない宗教団体が平和公園で儀式を執り行っているらしい。
(心のオナニーも楽じゃないね)
了治は鼻で笑った。窓の外は晴天のようだが、気分は晴れそうにない。拡声器や打楽器のせいではない。四月に東京の本省に戻ることができる。やっと昇進もできる。しかし、もう本省の中枢部局には戻れないことを、もうエリートキャリアには戻れないことを、昨日の内々示で改めて通告された。
文机の上の固定電話に目を向けると、やはり留守電ボタンが点滅していた。母親というものは、どうして毎回々々同じことを息子に尋ねるのか。留守電を再生して確認するまでもない。
――元気でおるね?
元気だが、あなたには言えない器官に問題がある。
――長崎には慣れたね?
二年も住めば嫌でも慣れる。
――友だちはできたね?
左遷先で友だちを作るつもりはない。
――お金はあるね?
週一でパチンコにいって散財しても全然痛くないくらいある。
――今度いつ帰るね?
あなたに会いたくないから、陸続きの長崎にいても熊本には帰らない。
――リョウちゃん、今日は日曜日やっとにまた仕事にいっとっとね。
いえ、これからいく予定です。
電話越しの文江の声は、なぜかいつも暗く沈んで鼓膜に染み込んでくる。
「今日も遅刻だ……」
了治は、ため息混じりにそう呟いてゆっくりと上体を起こし、パイプベッドをきしませながらフローリングの床に下りた。文江は、了治を「リョウちゃん」と呼ぶ。了治と了介。兄と弟はどちらも「リョウちゃん」なのに、兄を「リョウちゃん」と、弟を「リョウスケ」と呼ぶ。小学生のころの親友だった森田慎太郎の母親は、兄の慎太郎を「お兄ちゃん」と、二つ年下の弟を「慎次ちゃん」と呼んでいた。こちらが妥当な呼び方だと思う。文江の了治と了介に対する接し方は、周りの母親たちとは明らかに異なった。兄と弟に対する愛情の注ぎ方には、まるで実子と継子であるかのように差がありすぎた。それは今も続いている。文江は、高校卒業後に家出同然で上京した弟とは、今では連絡すら取っていない。
了治は、デスクに向かって椅子に腰を下ろし、ノートパソコンの電源を入れた。日曜日は事実上の出勤日だ。もちろん閉庁日だが、ほぼ毎週出勤して単純でつまらない仕事を一人でダラダラとさばいている。幸いなことに公務員の仕事は、探しさえすれば幾らでも見つかるものだったりする。趣味の少ないチョンガーには、休日など週に一日あれば十分だ。日曜日から金曜日まで職場でほぼ半日をすごし、土曜日はパチンコ店で同じ時間を潰す。腹が減れば近くの中華料理屋か定食屋に入る。飲みたくなったら馴染みの焼鳥屋の暖簾をくぐる。この二年近くの間、了治はそうやって毎週をすごしてきた。
「新着メールはありません」と、ディスプレイの左下に小さな文字列が申し訳なさそうに現れた。珍しいことではないが、了治はむなしさを覚え、今日は仕事にいきたくねえな、と独り言ちていた。大負け覚悟でパチンコにいくか、とまた独り言ちてみたが、志村さんがいないパチンコ店は空気が汚くてやかましいだけの空間にしか思えない。他に用事はない。用事がなければ、仕事にいかざるをえない。
ふと、昨日目にした傷痕がくっきりと脳裏に浮かんだ。女の下腹に刻まれた縦一文字の傷痕だった。服を着ているときとはまるで異なる、漠然とした悲哀を僅かな青緑の色素に凝縮した虹彩が一瞬間重なった。帝王切開の傷痕を目にしたのは生まれてはじめてだった。あんなに太く生々しく浮き上がるものとは。「切る」のは三回が限度であるのも頷ける。客の男に隠そうと、あれこれ手足の動作を工夫するわけだ。乳房は意外に大きかったものの張りがなく、Eカップのブラジャーにはやや質量不足の感があった。乳頭も目鼻立ちや白い肌とは不釣り合いな濃い色とくたびれた感で妊娠経験を物語っていた。
しかし、セイカは綺麗な体のラインを保っていた。引き締まった筋肉と必要最小限の脂肪が細くて美しい女体のカーブを描いていた。機能美と言ってもいいのかもしれない。高校二年生のときに走り幅跳びの長崎県記録を更新したというのも頷ける。栗色の髪と目鼻立ちが瓜二つだという父親が、イギリス人とのハーフであることも嘘ではないらしい。縦一文字の傷痕は四、五年の歳月を経ているようだった。二十歳と称していたが、実年齢が二十二、三歳であり、高校三年生で出産したとすれば計算が合う。
脳裏に再び浮かんだ傷痕は、やがて女の笑顔にすりかわった。もしよかったら、また呼んでくださいねえ、とセイカは別れ際に微笑みながらおっとりと言った。了治は、ノートパソコンの脇に置いた財布に手を伸ばし、グレー地に白のデザイン文字で「きらきら」と書かれた会員証を取り出して、キーボードにアドレスを打ち込んだ。昨日、セイカはラストまでいる予定だと言っていた。今日の未明まで仕事をしていたことになる。まだ家で寝ているだろうと思いつつ、画面に真っ先に現れた「出勤表」の文字をクリックすると、いきなり「新人セイカちゃん」という文字が目に飛び込んできた。出勤時間は「十二時~ラスト」となっている。
驚くと同時に迷う。今日またセイカを呼んでも、再び不能不発に終わるのはほぼ間違いない。不能も不発も持病のようなものだった。元に戻っただけと言っていい。はじめてヘルスにいったときも、やはり勃起しなかった。「やらずに二十歳」になっていた了治は、あせってしまった。通知表には四や三は少なかった。優等生として無難な道を歩み続け、失敗して恥をかいた経験などほとんどなかった。中洲のヘルスではじめて挫折感を味わったのかもしれない。粘り強くその店に通い、なんとか人並みに勃起し、やがて射精できるようなった。次のステップとして、中洲のソープランドにも同様に通った。
またやり直せばいい、と了治は思った。良い機会だと捉えよう。幸いなことに、今となってはあせる必要もない。一人の性格の良い女の子に絞って、その子に慣れるのが最善の策だ。セイカなら不能者に理解がある。
濃緑色の玄関ドアを開けると、ピンク色のハーフコート姿のセイカが息を飲み込み、茶色いハンドバッグを両手で握り直しながら虹彩を綺羅星のように輝かせた。
「良かったあ」
セイカは、白くて艶やかな大理石を敷いた広い玄関に入り、優しいほうのオイカワさんで、と続けて栗色の長い髪を小さくなびかせながら茶色いパンプスを脱いだ。昨日とまったく同じ身なりのセイカを目にして、自然と口元が緩む。了治は、衣装持ちや靴持ちの女を好まない。元妻の及川小春のような女を。セイカは物持ちが良いのか、どちらも少々色褪せているのに、ハーフコートも黒いスカートもよく似合っていた。
「本当に良かったあ。てっきり、怖いほうのオイカワさんだと思って、ビクビクしてましたあ。お客さんで、もう一人、オイカワさんがいるんです。一昨日、このホテルに呼ばれて、近いうちに絶対指名する、って言われてたから」
声は急ぎ足だったが、それでもおっとりしていて、やはり明るく心地好く了治の鼓膜に染み込んでくる。二人は、緑と白の縦縞模様の真新しいソファーに腰を下ろした。昼間はどの部屋も、土日祝日でもノータイム三千八百円。並のランクのラブホテルの一室だが、薄緑色の壁紙から新改築して間もない独特の匂いが漂い、色の濃いフローリングも艶めいている。先週に改装工事をしていたのを知っていたが、了治はそれを理由にこのホテルを選んだわけではない。十二時ちょうどにセイカの予約を入れたので、自宅のマンションから歩いて一分のホテルに入ってしまった。
「ご指名、ありがとうございます。本当に、本当に嬉しいです。はじめての本指名なんですよ」
「喜んでもらえると、僕も嬉しいよ。自分で言うのもなんだけどさ、厄介な客だから、女の子に申し訳なくて」
「オイカワさんは、全然厄介じゃありませんよ。昨日、っていうか日付は今日だけど、最後についたお客さん、すっごくしつこくて、時間がすぎても、なかなか帰してもらえなかったんです。事務所に戻って店長に怒られてたときに、天主堂の朝の鐘が鳴ってたなあ。だから、そのまま事務所に泊まっちゃいました。あっ、朝から泊まるって、変かな」
「そうなんだ。じゃあ、寝不足だよね。早い時間に呼んじゃってゴメン」
セイカは目を見開き、大袈裟に首を振って栗色の長い髪を揺らした。
「いいえ、全然。十時半には目が覚めちゃって、暇だったから、事務所を掃除してたんです。それに、今日も最初のお客さんが、オイカワさんなのも嬉しいです。あっ、いっけない。事務所に電話しなきゃ。また店長に怒られちゃいます。時間はどうされますか?」
「今日も九十分でお願い」
「ありがとうございます。会員証を、お預かりしていいですか」
グレー地の会員証を受け取ったセイカは、ピンク色の携帯電話を開いて横を向いた。了治はハッとさせられた。携帯電話の背面に貼られたプリクラにセイカと一緒に納まった男は、どことなく弟の了介に似ている。
「今日は、二万円になります」
指名したのに昨日より安い。会員割引二千円は同額の指名料金と相殺されるはずだ。理由を尋ねると、
「本指名のお客さんから、指名料はもらわないって決めたんです。基本料だけでも、たくさんお金を使ってもらってて、悪いから」
とセイカは口角をあげて微笑んだ。
本指名料金は基本料金と同様に、デリヘル嬢と事務所が折半する場合が多い。その旨をまた尋ねると、セイカは了治の紺と白のストライプのシャツに大きな目を向けて頷いた。事務所の取り分を被ることになる。了治は二万二千円渡そうかとも思ったが、好意に素直に甘えることにして、ブルージーンズの尻ポケットから財布を取り出した。また指名する機会があるだろう。そのときになんらかの形でお返しすればいい。
いつの間にか勃っていた。覚めかけた夢を見続けているような気分だ。写真や映像ではなく実物の裸の若い女を目の前にして、なおかつ奉仕してもらって、これだけ充血し硬直するのはいつ以来だろうか。言わばリハビリ中なのに、ここまで一気に回復するとは思いもしなかった。しかも、萎む気配はない。しかし、果たせそうな気配もない。今日のところは、ここまでいい。セイカは、すでに二十分近く、細くて長い髪を乱しながら小さな口で健気に頑張ってくれている。それが主たる仕事とはいえ、申し訳ない。初心者マークの取れていない嬢に、これ以上の骨折りは一種の苦行だ。ゆっくりと上体を起こすと、セイカは了治から離れて顔を曇らせた。
「どうもありがとう。こんなに元気になったのは、本当に久しぶりだ。立派な姿に戻してもらった。今日は、それだけで大満足だよ」
セイカは、無言で俯いている。勃起させただけでは、仕事は未完成だ。現役生活が長かったに違いない女店長は、風俗は客をいかせてなんぼだと、新人に言い含めているのかもしれない。そうでなくとも、根が真面目な嬢は客が射精に至らないと自分を責めがちだ。了治は、セイカをいったん抱き寄せ、そして仰向けにした。精液を口で受け止めさせる代わりに、受身になる仕事をさせねばならない。
上から下へ。了治の愛撫はワンパターンだ。しかし、途中でそのパターンを崩さざるをえなかった。長さ十センチ程の帝王切開の傷痕は、薄い繁みの上では一センチ程の幅があるが、臍に近づくにつれて徐々に細くなっていく。ほぼ半分になったところで、舌先は平坦な皮膚を這い、臍に沈んだ。了治は、幅の微妙な変化を確認するように、二度三度と下から上へと舌先を這わせた。陰部はあどけなさを残しつつも、か細い腰つきとは対照的に肉づきが良く、西欧人の血を引いていることを証明していた。
(死産だったのではないか)
ふと了治は思った。同時に天主堂の早鐘のように胸が鳴る。震えを堪えた両手で触れている乳房は、張りこそないが萎んでまではいない。乳頭の色の濃い、しかし子には吸われなかった乳房なのか。服装こそ地味だが、セイカは子育てをしている母親特有の生活臭を感じさせない。子持ちなのに朝方まで仕事をして、しかも事務所で睡眠を取って昼からまた出勤するなど考えにくい。了治は、市内で夜間に子供を預かる保育所を一つしか知らない。地方では遅番に入る子持ちのデリヘル嬢はまれだと思う。
脳の回線の一部がショートした。了治は、セイカから離れ、座り込んで俯いた。セイカが起きあがり、了治の股間に顔を近づける。再び元気を取り戻していく。しかし、やはり果たせそうにはない。セイカが上手いとか下手とかいう問題以前に、了治の感度が戻っていない。ため息を押し殺し、もういいよ、と言おうとしたときに、セイカが了治から離れ、仰向けになった。
「いいですよ、入れても」
了治は耳を疑った。唾を飲み込む音がその耳に響く。再び脳の回線の一部がショートし、今度はそれが連鎖する。瞬きすらできない。眼球が固まっている。長崎のデリヘルは真面目だ。「入れたい」と懇願する客は多いと聞く。なんとか願いを聞き入れてもらうためにあれこれ世辞を言い、その気にさせようとするのが常だろう。デリヘル嬢は無理強いされても仕方のない密室の中でやんわりと断るのが、この街のこの業界のルールだ。リハビリ中である了治は、「入れたい」などと大それたことを考えてはいなかった。それに、「入れたい」ときは、車を飛ばして佐賀の温泉街までいけばいい。あるいは度胸があれば、日が暮れるのを待って繁華街の電話ボックスに入り、貼られているチラシに記された番号をプッシュすればいい。この街では合法店と僅かに残った違法店の棲み分けがきちんとなされている。
据膳を食えないでいる男を訝しげにじっと見つめたあとに、セイカは小さな口を開いた。
「病気は持ってないから、心配しなくても大丈夫ですよ。お客さんとはしたことないし、それに、経験自体が少ないから」
性病のことなど考えていなかった。了治は先週「きらきら」の事務所に電話を掛けた時点で、もらっても仕方がないと腹を括っている。しかし、それは枕元に置いてあるコンドームを着けさえすれば、百パーセントとはいかなくとも回避できるのではないか? いや、着ければ、セイカを「病気持ち」とみなすことになるのか? いずれにしても、セイカに恥をかかせるわけにはいかない……。脳の回線のショートとその連鎖が続く。
了治は、しでかしてしまった。両手と両膝をベッドについたまま、今度は体全体が固まっている。脳の回線は、もはや半分も機能していない。頭の中が真っ白になっていく。セイカは、両手で枕の両端を握り締め、あどけなさを残した綺麗な横顔を見せながら目を瞑っている。なんと声を掛ければいいのかわからない。本来のサービスでも生身の挿入でも果たせず、挙句に中折れして抜けてしまった。昔はカトリックの街だったのに、こんなにたくさんのラブホテルがあっていいのか? この街で姦淫する汝らは大罪人だ。などと二年前に思っていたが、今や了治も完全に同罪だ。しかも、自身に課した戒律まで破ってしまった。
セイカが目を開き、カーテンと雨戸の閉まっている窓に視線を向けた。その窓から了治の住むマンションが見える。そんなことを口にする余裕などなかった。了治は四つん這いのままで動けない。哀れんで誘ってくれたセイカの立つ瀬もないだろうとは思う。おそらくカウパー氏腺液が分泌される間もなかった現実だけが、婚姻関係にない女とのコンドームを着けないセックスを自身に厳禁した男を、皮肉にも慰めてくれている。
ベッドの脇のガラステーブルの上で携帯電話が鳴り、了治はびくつくと同時に助かったと思った。事務所からの終了十分前の電話らしい。そう思うと、デリヘルの掟を破った男はまたびくつく。セイカは仰向けのままで携帯電話を手に取った。了治はプリクラの男と一瞬目が合った。弟に似た男の視線をさけるようにセイカから離れ、胡坐をかいて肩を落とした。事務所とのやりとりを終え、セイカは傷の目立つ携帯電話を折り畳むと、上体を起こして横座りをし、笑顔を作った。栗色の長い髪が微かに揺れている。
「じゃあ、お風呂にいきましょうか」
了治は、セイカとともに萌黄色の浴槽にゆっくりと腰を下ろした。ぬるくなった湯が、二人を気遣うように静かにこぼれる。ゴメンね、と呟くように言うと、セイカは大きな目を細め、小さく首を振った。
「嬉野のソープにも何回かいったけど、ろくに勃ちもしなかったんだ」
と了治は弁解がましく続けた。正確には、まったく勃たなかったのが二回、僅かに膨らんだ状態で苛立ったお姉さんに無理やり入れられてスルリと抜けたのが一回。セイカは帝王切開の傷痕を持ってこそいるが、容姿端麗で若く、性格も優しい。普通に挿入できたまでは良かったが、程なく中折れ。やはり自分は男性としての機能を失っているに等しいと、改めて痛感せざるをえない。
「いいんです。気にしないでください。体を流しましょうね」
セイカは、口角をあげて微笑みながら立ちあがった。
タオル越しにセイカの掌の温もりが伝わってくる。それに、了治は女性の感触を味わったのは久しぶりだった。射精にこそ至らなかったが、現状からして満ち足りている。全身をあらってもらっている満足感にも浸ってしまった。なおも半分も機能していない脳の片隅で、ヒヨコが鳴きはじめている。
「どうして、その、入れさせてくれたの?」
了治は疑問に思っていたことをつい口にしてしまった。セイカは迷ったように目をそらし、一呼吸おいて、
「内緒にしといてくださいね。クビになっちゃいますから」
と上下対称の唇を引き結んだ。疑問は深まった。噴門になにかが引っ掛かったような気分だ。それで指名を取ろうとするヘルス嬢の台詞だが、そういうタイプには思えない。それに、セイカの陰部は実年齢が二十歳だとしても綺麗な部類に入るのではないか。責任が生じはしないか。
「僕は何番目の男なの?」
しまった、と言い終わると同時に思ったが、もう遅い。踏み込みすぎたその最低の質問が、脳の回線の幾つかを復旧させた。セイカは手を止めて目を泳がせ、やがて俯いた。
「……一番目の人と、今の彼氏、オイカワさんで三人目です」
了治は一瞬間、平衡感覚を失ってしまった。一番目の男、はじめての男との関係で妊娠経験があるのだろうが、おそらく二十二、三歳で二人。セイカは可憐な雰囲気を残している。妥当な数字かもしれない。申し訳ない気持ちになると同時に、たった二人の男しか知らずにこの業界に入ったセイカが不憫に思えた。
事務所への最後の電話連絡を終えると、
「今日も楽しかったです。また呼んでくださいね」
とセイカはにっこりと微笑んだ。了治は笑顔を返せなかった。妻以外の女性と金銭を仲立ちにしないセックスをしたのははじめてだった。いや、金銭を仲立ちにしてはいるのだが、割り増し分が生じているはずだ。残り時間中ずっと考え続けたが、ついに結論は出ず、結局セイカに判断を仰ぐことにした。
「……お小遣い、あげたほうがいいよね」
「えっ、いりませんよ、そんなの」
「でも……」
「セイカがいいって言うんだから、いいんです」
それではこちらの気がすまなくもある。了治は思わず言ってしまった。
「じゃあさ、その代わりにって言ったらなんだけど、来週末にまた呼んでもいいかな」
追加料金なしでできる。完全なる不能者ではなくなった今、当然のようにそんな欲も張っている。
「本当ですか? 嬉しいです」
作りものではないセイカの笑顔に、胸が轟いた。その振動で噴門に引っ掛かっていたなにかが不意に胃袋にすとんと落ち、了治は己の欲を恥じた。脳の回線の復旧は急ピッチに進んでいった。
「日下部課長、ちょっと聞いてもいいですか?」
と福田は瞳を輝かせながら了治に声を掛けた。
「うん、なんだろう」
と了治は愉快な思いで決裁印を押した。二十三歳の福田は、この長崎事務所内では珍しい存在だ。気鋭と言っていい。一昨年の国家Ⅱ種試験を上の上の成績でパスしたのはだてではなく、仕事に打ち込む姿には清々しさも感じられる。採用面接で目をつけ、新卒でいきなり総務課総務係へ配属したのは了治だったが、福田は期待以上の働きをしてくれている。
「日下部課長は、腰痛持ちでいらっしゃるんですか?」
「そんなふうに見えるかな?」
「ええ。実は僕も腰痛持ちで、しかも坐骨がずれているので、腰から上が全体的に少し右に曲がっているんです。だから腰から下を少し左斜めにずらして椅子に座るんですけど、日下部課長は席でいつもノートパソコンを左斜めにずらしていらっしゃいますよね。文書を読まれているときも、上半身を左斜めにずらしていらっしゃいます。ひょっとしたら、日下部課長は僕とは逆に腰から上が少し左に曲がっているのかな、と思いまして」
島原に良い整体治療院があるんです、と福田は付け加えて微笑んだ。そういった目配り気配りができる男でもあった。それに、この青年の目はいつも清んでいる。まだこのお役所内で悪い影響を受けていない証拠だ。本人にその気があれば本省に引きあげてやりたいと思うが、自分はキャリア事務官でこそあれ、今もこれからもそんな権限とは無縁だと自嘲しながら、了治は口を開いた。
「ありがとう。僕の腰は今のところなんともないよ。それより悪かったね。急ぎの仕事を頼んで。一日でよくこれだけの資料を集められたね。分析も良くできている」
「ありがとうございます。日下部課長にそう言っていただけると、本当に嬉しいです」
福田は、瞳を爛々と輝かせながら一礼し、颯爽と自分の席に戻った。了治は、昔の自分を見ているような気がした。入省一年目のころは、及川課長の褒め言葉がなによりも嬉しかった。福田は、年の離れた長兄のように了治を慕っている。福田が長崎人ながら熊本大学卒で、了治が熊本人であることも理由の一つだ。忘年会の席で、日下部課長は僕の憧れなんです、と福田に上気した真顔で言われたときに、了治は俯いて苦笑いをせざるをえなかった。数年前ならともかく、今の自分に憧れを抱かれてもむず痒い。それに、長崎事務所にいる間は課長だが、本省へ戻ればまだ係長だ。同期入省のキャリア組の多くは、すでに課長補佐に昇進している。
福田の指摘は正しかった。了治は、いつもノートパソコンを左斜めにずらしてキーボードを叩く。起案文書や書類を読むときも、上半身を左斜めにずらす。いずれも意識的にそうしている。坐骨がずれているわけでも、腰から上が左に曲がっているわけでもない。くせでもない。右斜め前方を視界に入れたくないのだ。
怒り肩の総務係長の太く短い腕と、撫で肩の総務係主任の細く長い腕が、忙しく動きはじめた。見なくても大きく立てられている音でわかった。児童会の校内放送のように時間に正確でもある。もうすぐ五時になります。みなさん、退庁の準備をはじめましょう。と腕の主たちは言いたいのだ。
了治はため息を吐き、右斜め前方に目を向けた。小太り女の浦係長と、痩せ女の原主任が、授業終了間際の小学生のように、机上の整理をしていた。二人は、この事務所内で「ウラハラコンビ」と呼ばれている。各課から数々のコンビへの苦情が寄せられるが、その処理は総務課長の重要な仕事の一つだ。
ノートパソコンに視線を移すと、ディスプレイの右下には今日も「16:50」と表示されていた。退庁時間まで、まだ十分もある。この出先機関では珍しいことではなかった。コンビが先陣を切るだけで、あとに続く職員も少なくない。お役所仕事の象徴たる五時退庁至上主義だ。本省勤務が長かった了治は、はじめてウラハラコンビのその行動を目にしたときには面食らったが、今ではすっかり慣れてしまった。
「日下部課長さん、ちょっとよろしいですか?」
外勤から帰ってきた浜田所長が、柔らかい声とおおらかな笑顔を投げ掛けてきた。薄緑色の作業服がよく似合う初老の男は、背を向ける。了治は、席から立ちあがった。
浜田は、総務係の奥にある所長室に入り、裂け目からはみ出たスポンジが目立つ合皮のソファーに深く腰を下ろした。日光浴でもしているかのようなだらしない格好を見せている。そんな土色の顔をした男に、まあ座ってください、と言われ、了治は眉を顰める。浜田所長は単に姿勢が悪いだけだ。見下しているわけではない。本省からやってきたキャリアであり、悪名高いウラハラコンビの直属の上司でもある了治に対して、逆に気を使っている。ゆえに、「日下部課長さん」などと呼ぶ。了治は、瞬きながら眉を戻し、茶の色の褪せたソファーに腰を下ろした。
「今日の朝、九時ごろでしたかね。内々示がありました。四月から本省課長補佐とのことです。昇進されるんですよね。おめでとうございます」
浜田はそう言って、目元を緩めた。
肩書きの上では、ようやく先をいく同期のキャリア組に追いついたことになる。しかし、浜田が棒読みした部局は何階にあったのかも、それ以前に本館と別館のどちらにあったのかも思い出せない。本省復帰と昇進の願いは叶ったが、この先も閑職巡りの役人人生を送らねばならないことを再度通告されたようなものだ。またいつ島流しの憂き目に会うかもわからない。後ろ盾を失っただけでなく、後ろから矛を振りあげられてしまったのだから、当然の報いとも言える。
「正式な内示は後日ありますんで。次の総務課長もよそからくるみたいなんですよ。事務の引継ぎは、浦係長や原主任と一緒に、ぼちぼち、お願いできますか」
(ぼちぼち、か)
了治は、心の中でそう呟いていた。この街の「ぼちぼち」は、まさに言葉通りだ。昼行灯の原主任は午後五時前になると急に元気になり、今日やれることは明日やればよかっさー、と隣の席の福田にお役人教育を施す。所長席の未決裁箱には起案文書の山があり、午前中の五割増しの高さになっている。
(浜田所長は、ぼちぼち仕事をするために、外勤で午後の就業時間を丸々潰してきたってわけか)
了治は俯き、口元だけで笑った。行き先と用件から推測すれば、二時間もあれば十分だったはずだ。内々示の件にしても、本省では午前中か、遅くとも午後一番に本人に伝えるものだ。
「着替えますんで」
と浜田は再び目元を緩めて立ちあがり、所長控室に向かった。同じ西九州人であるせいか、顔立ちは了治と縁の深かった及川正夫に似ているが、顔つきはまったく似ていない。
(及川さんから才気と精気を抜くと、たぶんあんな顔になるんだろうな)
了治は、柔らかすぎるソファーに背中を沈めた。有明海を挟んで隣県の産ではあるが、熊本人と長崎人とではまったく気質が異なる。了治に言わせれば、似ているところは女性の怖ろしさだけだ。長崎事務所に赴任して半年がすぎたころに、同じ九州人とはいえ、しょせん自分はよそ者なのだと観念した。女性との諍いも、もう御免だった。それ以来、無抵抗主義の精神でウラハラコンビとの危うい関係をなんとか保ってきた。
東向きのガラス窓越しに、間近に迫った金比羅山が見える。夕日を受けて黄色がかった常緑樹が今日も美しく目に映る。ため息がもれたのは、気が重いからだ。毎日仕事をくれるコンビに引継ぎの仕事をあげねばならない。二人はどんな顔をするだろうか。また仕返しがあるのだろうか。そう思うとますます気が滅入るが、じきにコンビから解放されると思うことで自分を慰めた。
了治は、整った顔立ちと涼しげな雰囲気のおかげで、初対面の女性に好感を持たれることが多い。しかし、融通のきかない性格が災いしてか、しだいに嫌われていくことが少なくなかった。いったん嫌われると、覚悟を決めねばならない。その女性たちは徹底して了治を嫌うようになり、攻撃を仕掛けてくる。ウラハラコンビはその典型というより、初対面のときから了治に対して不快感を抱くタイプだった。小学生のころから必ずクラスに一対はいた、了治の存在自体が気にくわない女とその子分に似ている。前者がウラで、後者がハラだ。
総務課のあるフロアの総人数はちょうど四十人なので、二人は了治にとって避けがたい存在と言える。総務課長と、総務係長と総務係のお局主任という、三人一組で課内や事務所内の事務を総括しなければならない関係になったのは、不幸中の不幸だった。ウラは了治の赴任と同時に課内で横滑りをして総務係にやってきた。ハラは十年近く総務係に居座り続けている。二人とも札つきで、上司や部下や同僚と諍いを起こすことは珍しくない。厄介者の二人をコンビにして、本省から左遷を食らった若いキャリアに押しつけたのだ。この出先機関では、というよりこの街では、見え見えの魂胆がまかり通る。
了治は、この街の歴史を書物で学び、史跡巡りをした。地理を地図で調べ、休日に私的な現地調査を行いもして、納得できた。青い海は深く山間に入り込み、真冬を除けば波風が立ちにくい。港街を囲む山々のなだらかな稜線や、日差しを穏やかに、時には鮮やかに反射する常緑樹は、人々の心を和ませすぎ、怠惰にする。夏は熊本ほど暑くなく、冬に氷点下を記録することはまれだ。この街には、天然の良港と温暖な気候が生み出す経済的恩恵を、開港以来享受し続けてきた町民の末裔が多い。狡猾な漁民の子孫も少なくない。
スーツ姿にコートを羽織って控室から出てきた浜田所長が、お先に失礼しますよ、と声を掛けると同時に終業チャイムが鳴りはじめた。了治は、浜田の後姿を眺めながらため息を吐いて両手で両膝を叩き、ソファーから立ちあがった。
総務係に浦係長と原主任の姿はなかった。席に残っているのは帰り支度をしている福田だけだった。
「お疲れさまです」
と言った好青年の爽やかな笑顔は、了治の目にも魅力的に、年上の女の目にはそのうえ可愛く映る。福田は、ウラハラコンビと即かず離れずうまくやっていて、総務係や総務課の潤滑油の役目を果たしてくれている。
了治は、席に着くと同時にまたため息を吐いた。さっきまで空だった未決裁箱に山ができている。毎度のことではあるが、起案文書を挟んだクリップボードが幾つあるのか数えたくもない。「浦」と「原」の印は押してあるものの、ほとんど手つかずのものが含まれているのは間違いなかった。コンビがくれた仕事を、これからさばかねばならない。この街で仕事をさばくことは、仕事を他人に押しつけることをも意味する。その事実に根がお人好しのキャリアが気づいたのは、この事務所に赴任して半年がすぎたころだった。
(来年の選挙で、おそらくアメリカ史上初の有色人種の大統領が誕生する。彼と民主党の最新の農業政策について 予習しておく必要があるな……って、なに言ってやがる。そんな必要は、もうない)
ここは首都東京ではなく、国策とは無縁の一地方都市にすぎない。それに、及川了治ならともかく、日下部了治は地方都市出身の一凡人にすぎない。
「お先に失礼します」
福田は鞄を片手に立ちあがり、また笑顔を見せて一礼した。
「お疲れさん」
了治は口元だけで笑い、起案文書の山に手を伸ばした。
枕元の目覚し時計の針は、ちょうど十時をさしていた。寝坊してしまった。完全に遅刻だ。いきつけのパチンコ店では、もう出る台はすべて常連客に占拠されている。これから出かけていって空いている台と真摯に向き合っても、無数の千円札を文字通り機械的に吸い込まれるだけだ。了治は、それならば久しぶりに別の店にいってみようかと考える。しかし、この街のパチンコ店は釘が渋すぎて、ろくに回りもしない。ロムの設定も低すぎる。利益をあげるための発想が、この街のパチンコ業界には乏しいと思う。
この約二年で地元のパチンコ店が幾つか潰れたが、いずれもまばらな客から有り金を搾り取る戦略をとっていた。繁盛しているのは他県から進出してきたパチンコ店で、毎週土曜日に了治が「出勤」している店もその一つだ。その店も長崎の街に馴染んできたのか、競争相手を閉店に追い込んで利益至上主義に走りはじめたのか、最近は釘が渋くなり、ロムの設定も低くなっている。東京へ戻ることが決まった今、長崎にあるすべてのパチンコ店が腹立たしく思える。了治は、別の憂さ晴らしを考えてみた。史跡巡りにはもう飽きている。いまさら現地調査をやっても意味がない。
上体を勢い良く起こすと、近所のリサイクルショップで買ったパイプベッドが軋んで鳴った。久しぶりの腹筋運動を終えて、苦く笑う。若かったころはなんでもなかった動作なのに、腹筋がベッド同様に声をあげて危うく攣りそうになった。ため息を吐くと、背中が丸まった。肉体の疲れはとれている。寝てもとれない精神の深い疲れへの対処法を、了治は一つしか思いつけない。人肌の温もり。忌み嫌ってこそいないが、敬遠したい女。その柔肌を、肉体が、性が、本能的に恋しさを抱く。ゲイではなく、しかもその嗜好に嫌悪感を覚えることが、かつ男として半枯れであることが恨めしい。
佐賀の温泉街へいっても、ソープ嬢にまた嫌な顔をされるのは目に見えている。四捨五入すればほとんどが三十のお姉さん方は、人生経験がありすぎる。免疫がある分だけ、ソープランドにわざわざ足を運ぶ不能者に対して寛容でない。やはり、デリバリーヘルスしかないだろう。デートコースなるものも存在しうる比較的新しいその営業形態は、従来の箱型の風俗と違い、勃起しなくても射精に至らなくても許容してくれる。そうと決まればスポーツ新聞を買いにいかねばならない。パイプベッドを再び鳴かせながら、了治は立ちあがった。
コン、コンコン。
玄関ドアを優しくノックする音を耳にして、了治は広げていたスポーツ新聞を急いで八つ折りにして脇に置き、ダブルベッドから腰をあげた。小汚くて狭いラブホテルの部屋は天井が低く、ベッドが床面積の半分を閉めていて、一人でいても息がつまりそうだった。了治は、部屋相応に狭苦しく、しかも照明がなくて暗い玄関に小走りで向かい、白いドアの取っ手を内側に引いた。ノックした女性に対して気恥ずしさがあり、顔は俯き加減になっている。
黒いストッキングを履いた膝下に、見覚えがあった。子持ちのししゃものようなふくらはぎと、引き締まった足首。好みだった。了治には、女性とは視線を合わせずにそこへ向ける癖がある。顔と名前と膝下の三つの情報を組み合わせて、一人の女性を記憶することが少なくない。
(志村さん?)
いきつけのパチンコ店では、店員は左胸に名札の着用を義務づけられていた。ゆっくりと視線をあげると、黒いスカートとピンク色のハーフコートの上に、予想通りの前髪で眉を隠した童顔が存在していた。年のころは二十前後。美形と言っていい瓜実顔が今日も薄化粧であるのは好ましいが、了治はドアの取っ手を握ったまま固まってしまった。志村さんは、気弱そうに顎を引き、緊張の色を浮かべた大きな目をこちらに向けている。やはり驚いたのだろう。茶色いハンドバッグを両手で持ち直し、市街を走る路面電車内で発車の際によろめいたように、片足を斜め後方へ半歩さげた。
了治は、このところ毎週土曜日に志村さんと会っていた。熊本城下の繁華街に買い物に出向けば、「上通り」と「下通り」の二つのアーケードで少なくとも一人は顔見知りを見掛けるものだ。こんな場所で相見えるのもありえる話だ。うろたえている自分にそう言い聞かせて、唾を飲み込んで言った。
「オイカワです。どうぞ」
「あっ、はい」
志村さんは、表情を強張らせながら狭苦しい玄関に入り、引き受けたドアを窮屈そうに閉めて鍵を掛けた。背中まで届いているストレートの後ろ髪が揺れる。茶色いパンプスを脱ぐ姿は、女子大生だったころの及川家の一人娘、元妻の小春を思い起こさせた。
了治と志村さんは、二人してぎこちない動きで狭い部屋の中へ入った。昔は白だったらしい壁紙に薄茶色の染みが目立っている。昼間は土日祝日でもノータイム三千円、さらには、割引券はそちらに預けています、と受付で言えば二千七百円になる部屋だ。備え付けの二脚のパイプ椅子は幼児用を背丈だけ高くしたような代物なので、二人はベッドに腰掛けざるをえない。
「あの……なんて呼んだらいいかな?」
了治は、必要以上に瞬かざるえない。「志村さん」と呼ぶわけにはいかないだろう。それに、今の志村さんには名字がない可能性が高い。
「あっ、ごめんなさい。セイカです」
おっとりした声が、明るく心地良く了治の鼓膜に染み込んできた。
「オイカワさんとは、はじめまして、じゃありませんね。今日は、勝ったんですか? じゃないかあ。まだ、お昼ですもんね。あっ、そうだ。その前に、私で良かったですか?」
「もちろん。よろしく」
強張る表情を解くようにまた瞬いて、了治は答えた。
「よかったあ。ありがとうございます」
了治は、いきつけのパチンコ店の常連客であると同時に、コーヒーレディーの志村さんの常連客でもあった。大の缶コーヒー党なのに、倍以上の金を払ってまでカップコーヒーを飲んでいた。「セイカ」は、電源の入っていない十四インチのブラウン管に目を向けている。少し背中を丸め、掌と股の付け根をベッドの端に載っけていた。鉄棒に腰掛けている少女のようなセイカの横顔は端正で、美しい。テレビCMや街角のポスターでよく見掛ける若手美人女優に似ていた。
「まさか、セイカちゃんに今日も会えるとはね」
異動の内々示など受けていなかったならば、今ごろ小汚くて狭いラブホテルの一室にはいない。いつも通り清潔感があって広々としたパチンコ店の一角で時間を潰しているはずだ。
「そうですね。セイカがあのパチンコ屋さんで、今日もコーヒーレディーの仕事をしてたら、きっとガッカリしてますよお。オイカワさんがいないから」
「売上げがさがっちゃうから?」
「たくさんお買いあげいただきまして、ありがとうございました。毎週土曜日に、三杯ずつ、買っていただきましたよね」
了治は、セイカと小さく笑い合いあった。礼を言いたいのはこっちのほうだと思った。志村さんは味気ない休日を淡く彩ってくれる唯一の存在だった。
「この前の日曜日で、コーヒーレディーの、派遣の仕事は辞めたんです。月曜日から、この仕事をはじめました」
「派遣」にもいろいろあるものだと、了治は真顔で思う。
「あっ、いけない。事務所に電話しなきゃ。時間はどうされますか?」
セイカは、こちらを向いて言った。少し慌てた様子だが、やはりおっとりした口調だった。了治は、せっかちなたちだが、長崎に多いおっとり系の女性が嫌いではない。これまで縁遠かった彼女たちを、むしろ好ましく思う。
「じゃあ、九十分で」
セイカは、くたびれたハンドバッグから小さなプラスチック製のカードケースを取り出した。A5判の料金表を確認するように人差し指でなぞる。
「ありがとうございます。前金で、二万二千円になります」
了治は、ブルージーンズの尻ポケットから財布を取り出し、四枚の紙幣を手渡した。セイカは立ちあがり、向こう側にあるパイプ椅子にハンドバッグを、その手前にあるLPレコード大の一脚テーブルの天板に紙幣を置いた。そして、紙幣の上に料金表を載せ、ピンク色の携帯電話を開いた。事務所とのやりとりを終えて携帯電話を折り畳むと、セイカはぎこちなく目元を緩めながら小さく舌を出し、再びベッドに腰を下ろした。栗色の長い髪が小さくなびく。
「遅いって、怒られちゃいました。店長は、女の人なんですけど、怖いんですよお」
腹の座った元風俗嬢らしき女の声が鼓膜で再生され、了治は話を合わせる。
「あの女の人が店長なんだ。事務所に電話を掛けたときに、たしかに怖かったな。怒られはしなかったけど」
セイカは、ほぼ上下対象の小ぶりな唇を開き、白い歯を覗かせながら小さく笑った。
「良かったあ。セイカはオイカワさんに、嫌われてたわけじゃなかったんですね」
「嫌いな子から、何杯もコーヒーを買ったりしないよ」
「だって、コーヒーはたくさん買ってくれたけど、ほとんどしゃべってくれなかったから。結構いるんですよお。言い寄ってくるオヤジって」
了治は、パチンコ台を前にすると、ほとんど口を開かずに黙々と球を打ち続ける。隣の客から話し掛けられても、ええ、そうですね、などと相槌を打つだけだ。
「仕事中は、必要最低限しか口を開かない主義なんだ」
セイカは、ふふっ、とまた小さく笑った。
「そう言えば、オイカワさんは、コーヒーを飲むときも、口はほんの少ししか開けてなかったですね」
「……そうだね」
たしかに啜るようにコーヒーを飲む。思わず自嘲したが、今も口はほんの少ししか開けていない。了治は、照れ隠しにいったん閉じた口をまた開いた。
「セイカちゃんってさ、十八? 十九? それとも二十歳かな?」
「二十歳です。本当は違うけど。いっけない。店長にまた怒られちゃいます。内緒ですよお」
僅かに揺れた栗色の前髪の隙間から形が自然な、やや薄い眉が覗く。くっきりした二重瞼は目頭の角度が高い。少々曲がっているものの鼻梁は高く、小鼻は引き締まっている。目鼻の配置が僅かばかりバランスを欠いているせいもあってか、硬かった表情を解いた顔には温かさが滲んでいた。了治は、セイカの目に視線を向けた。鈴を張ったような目が一瞬だけ見開き、そして微笑む。カラーコンタクトレンズをしているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。少し青緑がかった虹彩は清らかで、優しさが漂う。白目には濁りがない。あどけなさが残っている目元には小皺の線はなく、十代の少女のようだった。
先に風呂からあがり、了治はベッドの脇で佇んでいた。白いバスタオルを体に巻いたセイカが、これまた狭い脱衣場から出てきて、細い手で年季の入ったベージュ色のベッドカバーと分厚い布団を順に捲った。
「じゃあ、仰向けになってもらっていいですか」
「ああ、うん」
了治は、腰に巻いた安っぽいバスタオルを取り、手前にあるパイプ椅子の頼りない背もたれに掛け、ベッドに仰向けになった。それを見届けて、セイカはベッドに上って両膝を突き、背を向けてバスタオルを取り、畳んで脇に置くと、意外に大きな乳房を揺らしながら素早く了治に覆い被さった。緊張した硬い唇は、二度三度と了治の唇をふさぎ、首筋を這い、乳首を経由して徐々に下へと向かっていく。
ぎこちなさは否めなかった。研修で教わったらしい在り来りなサービスを一渡りこなし、セイカは最後の締め括りに取り掛かって久しい。その奉仕を、了治は感じとれない。束ねてアップにしていたセイカの長い後ろ髪はすっかり垂れて、了治の股の付け根を愛撫している。セイカの短い前髪は了治の下腹を程良く刺激していた。狭苦しい部屋の中の空気が緊迫し、セイカの懸命さがひしひしと伝わってくる。しかし、女の労作は男に形すらなしそうにない。了治は、仰向けのままで首だけを持ちあげた。
「ゴメン、無理みたいだ」
セイカは了治から離れ、口を横一文字に結んだ。そして、くすんだ天井を眺めている了治に布団を掛けながら添い寝した。こちらを向いた顔に翳りが浮かんでいる。
「ゴメンなさい。セイカのせいですよね。まだ慣れなくて下手くそだから……それに、」
「いや、そうじゃないよ。こっちこそゴメンね」
「仕事で疲れてるんですか? それとも、セイカと顔馴染みだったからですかね」
「両方かな」
両方とも嘘だった。元妻の初産に無理やり立ち会わされて以来、勃起不全は突発的に起こるようになった。離婚と同時に元養母に東京を追われて以来、裸の若い女を目の前にしても反応しなくなっている。奉仕してもらっても、むしろ逆に萎縮してしまう。セイカが浴室の中で見せまいと、手で、腕で、時には膝や股で隠していた下腹部の妊娠線と縦一文字の傷痕を目にしては、なおさらのことだった。セイカは、了治の肩に唇を当てた。緊張が解れたれたのか、柔らかい。了治は薄く微笑み、腕をセイカの枕元に回した。
「わーい。男の人に腕枕をしてもらうの、大好きなんです」
実はあんまりしてもらったことがないんですけどね、と続けて言って舌を出し、セイカはこめかみを了治の二の腕に乗せて上目遣いになった。
「良かったあ。オイカワさんがはじめての人で」
了治はドキッとした。
「勃たなかったのが?」
セイカは目を丸め、やがて小さく笑った。
「ゴメンなさい。そうじゃないんです。でも、結構いるみたいですよ。セイカも初日と一昨日、元気にならないお客さんにつきました。だから、本当に気にしないでください」
了治はホッとした。セイカは言葉を続ける。
「パチンコに勝って、デリヘルを呼ぶってお客さんが、多いみたいなんです。だから、セイカもいつかはパチンコ屋のお馴染みさんに、呼ばれるんだろうなって思ってました。呼ばれたくないお馴染みさんが、結構いたから」
セイカの無防備な笑顔を目にして、了治はまたドキッとした。
「あと、今日のはじめてのお客さんが、オイカワさんだったのもラッキーでした。最初のお客さんが嫌な人だと、その日はやる気がなくなっちゃうから。昨日と一昨日がそうだったんです。九十分コースのお客さんが多いんですけど、すっごく長く感じるんですよねえ」
(たしかに。客の立場からしても、嫌いなタイプの女と九十分も一緒にすごすのは辛い)
生理的に受けつけない男との九十分間は地獄。といった旨の話を以前に吉原で聞いたこともある。一方で、自分が中洲や新宿でその手の男になった事実を思い出し、了治は苦く笑う。
「僕は、セイカちゃんが長崎で最後の人で良かったよ」
セイカはまた目を丸めた。
「四月一日付けで、東京に転勤することが決まったんだ」
「そうなんなんですかあ。せっかくお近づきになれたのに、残念だなあ」
セイカは口を尖らせた。了治は突き出た唇に、そして顎先にキスをした。重たい布団の中で、了治の唇はセイカの上半身の白い肌をくまなく這った。下腹の上で重なったセイカの両手の隙間に潜り込み、縦一文字の傷痕を愛撫した。傷痕は、硬かった。
五時間を越える睡眠は、肉体ではなく精神が求めるらしい。このところ、寝坊する日が増えている。この街での生活に疲れている証拠だ。ちょうど良いタイミングで異動できる。了治は、そうこじつけながらパイプベッドの上でため息を吐いた。惰眠から目覚めさせた旋律は、まだ部屋の中に流れ込んでいる。短いようで結構長い。おまけに、結構な音量だ。その陰鬱な旋律を鳴り響かせる拡声器は、このワンルームマンションに程近い丘の上の平和公園にある。平和祈念像前広場で人込みに紛れて耳にするのならともかく、シンとした北西向きの部屋の中で一人きりで聞くと、不謹慎だと思いつつも、やはり不快感を覚えてしまう。
最悪の目覚めだった。電話のベルで薄目を開き、留守電に録音される母の声を夢現に認識しながら半分覚めた夢を見続け、程なく陰鬱な旋律で覚醒した。いつもの悪い夢だった。灰色を基調とした暗く薄気味悪いアニメーション映像の中で、全身を熱線で紫色に焼かれつつも、地を覆い燃え立つ炎の隙間を縫い、兄弟の元へ一目散に駆けてくる母の文江。顔だけが実写だ。隣に佇む年子の弟の了介はまったく眼中にないかのように、鋭い目は了治にだけ向けられている。赤ん坊のころの了治を抱いている写真に焼きついた、若かりしころの文江の目。
そのアニメーション映像は、小学校の修学旅行で当時の長崎国際文化会館の原爆資料室で目にしたものだった。母親が、二人の我が子の無事を間近で確認するまではと、焼かれた身をさらに焦がすような心持ちで、火傷で引き攣る筋肉を鞭打ちながら火の海の中を駆けてくる。その姿は母性を讃える美談としてではなく、母親の我が子に対する執着心の象徴として、思春期に入って間もない了治の脳裏に刷り込まれた。事実、夢の中で再生されるアニメーション映像に入り込むほど、文江の了治に対する執着は異常だった。子供のころはもちろん、今もなお母の存在は重荷どころか苦悩の種となっている。文江の葬儀で果たして泣けるのか。疑問であり不安だ。
唇を堅く結ぶと、意識の底に沈めておいた過去が浮かびあがってくる。大学進学を機に熊本を離れるまでの十八年の間、了治は母の支配下にあった。不純ではなくとも異性交遊に、文江はことさら神経を尖らせ、目つきを鋭くした。弟の不純異性交遊には、まったく無関心だったのに。
女子から掛かってきた電話は、連絡網の類であっても了治に取り次がれたことはなかった。受話器の向こうの声に恋愛感情の「れ」の字でも感じ取れようものなら、文江は長男が学生であることを口実に容赦なく拒絶し、もう二度とうちの了治に電話をしないでください、と捨て台詞を残して電話を切っていた。郵送された女子からの手紙は検閲にかかった。直接渡されて机の抽斗に隠しておいた手紙も同様の目に合った。四年前の婿入りに際して、母は三十前の長男の独占権をなおも主張して猛反対し、結婚式には渋々出席したものの、ついに認めようとはしなかった。そのせいか、了治は初夜に事を果たせなかった。
そんな文江に一人っ子のように育てられたがゆえに今の自分がある、とも一方で思う。母の了治に対する肯定が積み重ねられた結果、キャリア官僚にまで上りつめることができた。婿入りを機に母の了治に対する否定が積まれはじめるにつれ、順調だった人生に狂いが生じはじめた。女性から好まれる秀麗で涼やかな眉目と漂う清潔感、小柄な体を一回り大きく見せる凛々しさ、そして他人の言動に必要以上に善意を感じ取り、秘められた悪意にはずっとあとになってから気づくお人好しな性格。それらは文江に支配されながら育まれたらしい。
一仕事を終えた平和公園の拡声器が、耳障りな金切り声を立てていた。陰鬱な旋律が鼓膜でリピートされる。明け方に浦上天主堂から聞こえてくるアンジェラスの鐘で目覚めるのは悪くないが、十一時すぎまで惰眠を貪った挙句に「原爆許すまじ」で目覚めると、やはり気分が悪い。おまけに、耳慣れない打楽器の音が聞こえてきた。得体の知れない宗教団体が平和公園で儀式を執り行っているらしい。
(心のオナニーも楽じゃないね)
了治は鼻で笑った。窓の外は晴天のようだが、気分は晴れそうにない。拡声器や打楽器のせいではない。四月に東京の本省に戻ることができる。やっと昇進もできる。しかし、もう本省の中枢部局には戻れないことを、もうエリートキャリアには戻れないことを、昨日の内々示で改めて通告された。
文机の上の固定電話に目を向けると、やはり留守電ボタンが点滅していた。母親というものは、どうして毎回々々同じことを息子に尋ねるのか。留守電を再生して確認するまでもない。
――元気でおるね?
元気だが、あなたには言えない器官に問題がある。
――長崎には慣れたね?
二年も住めば嫌でも慣れる。
――友だちはできたね?
左遷先で友だちを作るつもりはない。
――お金はあるね?
週一でパチンコにいって散財しても全然痛くないくらいある。
――今度いつ帰るね?
あなたに会いたくないから、陸続きの長崎にいても熊本には帰らない。
――リョウちゃん、今日は日曜日やっとにまた仕事にいっとっとね。
いえ、これからいく予定です。
電話越しの文江の声は、なぜかいつも暗く沈んで鼓膜に染み込んでくる。
「今日も遅刻だ……」
了治は、ため息混じりにそう呟いてゆっくりと上体を起こし、パイプベッドをきしませながらフローリングの床に下りた。文江は、了治を「リョウちゃん」と呼ぶ。了治と了介。兄と弟はどちらも「リョウちゃん」なのに、兄を「リョウちゃん」と、弟を「リョウスケ」と呼ぶ。小学生のころの親友だった森田慎太郎の母親は、兄の慎太郎を「お兄ちゃん」と、二つ年下の弟を「慎次ちゃん」と呼んでいた。こちらが妥当な呼び方だと思う。文江の了治と了介に対する接し方は、周りの母親たちとは明らかに異なった。兄と弟に対する愛情の注ぎ方には、まるで実子と継子であるかのように差がありすぎた。それは今も続いている。文江は、高校卒業後に家出同然で上京した弟とは、今では連絡すら取っていない。
了治は、デスクに向かって椅子に腰を下ろし、ノートパソコンの電源を入れた。日曜日は事実上の出勤日だ。もちろん閉庁日だが、ほぼ毎週出勤して単純でつまらない仕事を一人でダラダラとさばいている。幸いなことに公務員の仕事は、探しさえすれば幾らでも見つかるものだったりする。趣味の少ないチョンガーには、休日など週に一日あれば十分だ。日曜日から金曜日まで職場でほぼ半日をすごし、土曜日はパチンコ店で同じ時間を潰す。腹が減れば近くの中華料理屋か定食屋に入る。飲みたくなったら馴染みの焼鳥屋の暖簾をくぐる。この二年近くの間、了治はそうやって毎週をすごしてきた。
「新着メールはありません」と、ディスプレイの左下に小さな文字列が申し訳なさそうに現れた。珍しいことではないが、了治はむなしさを覚え、今日は仕事にいきたくねえな、と独り言ちていた。大負け覚悟でパチンコにいくか、とまた独り言ちてみたが、志村さんがいないパチンコ店は空気が汚くてやかましいだけの空間にしか思えない。他に用事はない。用事がなければ、仕事にいかざるをえない。
ふと、昨日目にした傷痕がくっきりと脳裏に浮かんだ。女の下腹に刻まれた縦一文字の傷痕だった。服を着ているときとはまるで異なる、漠然とした悲哀を僅かな青緑の色素に凝縮した虹彩が一瞬間重なった。帝王切開の傷痕を目にしたのは生まれてはじめてだった。あんなに太く生々しく浮き上がるものとは。「切る」のは三回が限度であるのも頷ける。客の男に隠そうと、あれこれ手足の動作を工夫するわけだ。乳房は意外に大きかったものの張りがなく、Eカップのブラジャーにはやや質量不足の感があった。乳頭も目鼻立ちや白い肌とは不釣り合いな濃い色とくたびれた感で妊娠経験を物語っていた。
しかし、セイカは綺麗な体のラインを保っていた。引き締まった筋肉と必要最小限の脂肪が細くて美しい女体のカーブを描いていた。機能美と言ってもいいのかもしれない。高校二年生のときに走り幅跳びの長崎県記録を更新したというのも頷ける。栗色の髪と目鼻立ちが瓜二つだという父親が、イギリス人とのハーフであることも嘘ではないらしい。縦一文字の傷痕は四、五年の歳月を経ているようだった。二十歳と称していたが、実年齢が二十二、三歳であり、高校三年生で出産したとすれば計算が合う。
脳裏に再び浮かんだ傷痕は、やがて女の笑顔にすりかわった。もしよかったら、また呼んでくださいねえ、とセイカは別れ際に微笑みながらおっとりと言った。了治は、ノートパソコンの脇に置いた財布に手を伸ばし、グレー地に白のデザイン文字で「きらきら」と書かれた会員証を取り出して、キーボードにアドレスを打ち込んだ。昨日、セイカはラストまでいる予定だと言っていた。今日の未明まで仕事をしていたことになる。まだ家で寝ているだろうと思いつつ、画面に真っ先に現れた「出勤表」の文字をクリックすると、いきなり「新人セイカちゃん」という文字が目に飛び込んできた。出勤時間は「十二時~ラスト」となっている。
驚くと同時に迷う。今日またセイカを呼んでも、再び不能不発に終わるのはほぼ間違いない。不能も不発も持病のようなものだった。元に戻っただけと言っていい。はじめてヘルスにいったときも、やはり勃起しなかった。「やらずに二十歳」になっていた了治は、あせってしまった。通知表には四や三は少なかった。優等生として無難な道を歩み続け、失敗して恥をかいた経験などほとんどなかった。中洲のヘルスではじめて挫折感を味わったのかもしれない。粘り強くその店に通い、なんとか人並みに勃起し、やがて射精できるようなった。次のステップとして、中洲のソープランドにも同様に通った。
またやり直せばいい、と了治は思った。良い機会だと捉えよう。幸いなことに、今となってはあせる必要もない。一人の性格の良い女の子に絞って、その子に慣れるのが最善の策だ。セイカなら不能者に理解がある。
濃緑色の玄関ドアを開けると、ピンク色のハーフコート姿のセイカが息を飲み込み、茶色いハンドバッグを両手で握り直しながら虹彩を綺羅星のように輝かせた。
「良かったあ」
セイカは、白くて艶やかな大理石を敷いた広い玄関に入り、優しいほうのオイカワさんで、と続けて栗色の長い髪を小さくなびかせながら茶色いパンプスを脱いだ。昨日とまったく同じ身なりのセイカを目にして、自然と口元が緩む。了治は、衣装持ちや靴持ちの女を好まない。元妻の及川小春のような女を。セイカは物持ちが良いのか、どちらも少々色褪せているのに、ハーフコートも黒いスカートもよく似合っていた。
「本当に良かったあ。てっきり、怖いほうのオイカワさんだと思って、ビクビクしてましたあ。お客さんで、もう一人、オイカワさんがいるんです。一昨日、このホテルに呼ばれて、近いうちに絶対指名する、って言われてたから」
声は急ぎ足だったが、それでもおっとりしていて、やはり明るく心地好く了治の鼓膜に染み込んでくる。二人は、緑と白の縦縞模様の真新しいソファーに腰を下ろした。昼間はどの部屋も、土日祝日でもノータイム三千八百円。並のランクのラブホテルの一室だが、薄緑色の壁紙から新改築して間もない独特の匂いが漂い、色の濃いフローリングも艶めいている。先週に改装工事をしていたのを知っていたが、了治はそれを理由にこのホテルを選んだわけではない。十二時ちょうどにセイカの予約を入れたので、自宅のマンションから歩いて一分のホテルに入ってしまった。
「ご指名、ありがとうございます。本当に、本当に嬉しいです。はじめての本指名なんですよ」
「喜んでもらえると、僕も嬉しいよ。自分で言うのもなんだけどさ、厄介な客だから、女の子に申し訳なくて」
「オイカワさんは、全然厄介じゃありませんよ。昨日、っていうか日付は今日だけど、最後についたお客さん、すっごくしつこくて、時間がすぎても、なかなか帰してもらえなかったんです。事務所に戻って店長に怒られてたときに、天主堂の朝の鐘が鳴ってたなあ。だから、そのまま事務所に泊まっちゃいました。あっ、朝から泊まるって、変かな」
「そうなんだ。じゃあ、寝不足だよね。早い時間に呼んじゃってゴメン」
セイカは目を見開き、大袈裟に首を振って栗色の長い髪を揺らした。
「いいえ、全然。十時半には目が覚めちゃって、暇だったから、事務所を掃除してたんです。それに、今日も最初のお客さんが、オイカワさんなのも嬉しいです。あっ、いっけない。事務所に電話しなきゃ。また店長に怒られちゃいます。時間はどうされますか?」
「今日も九十分でお願い」
「ありがとうございます。会員証を、お預かりしていいですか」
グレー地の会員証を受け取ったセイカは、ピンク色の携帯電話を開いて横を向いた。了治はハッとさせられた。携帯電話の背面に貼られたプリクラにセイカと一緒に納まった男は、どことなく弟の了介に似ている。
「今日は、二万円になります」
指名したのに昨日より安い。会員割引二千円は同額の指名料金と相殺されるはずだ。理由を尋ねると、
「本指名のお客さんから、指名料はもらわないって決めたんです。基本料だけでも、たくさんお金を使ってもらってて、悪いから」
とセイカは口角をあげて微笑んだ。
本指名料金は基本料金と同様に、デリヘル嬢と事務所が折半する場合が多い。その旨をまた尋ねると、セイカは了治の紺と白のストライプのシャツに大きな目を向けて頷いた。事務所の取り分を被ることになる。了治は二万二千円渡そうかとも思ったが、好意に素直に甘えることにして、ブルージーンズの尻ポケットから財布を取り出した。また指名する機会があるだろう。そのときになんらかの形でお返しすればいい。
いつの間にか勃っていた。覚めかけた夢を見続けているような気分だ。写真や映像ではなく実物の裸の若い女を目の前にして、なおかつ奉仕してもらって、これだけ充血し硬直するのはいつ以来だろうか。言わばリハビリ中なのに、ここまで一気に回復するとは思いもしなかった。しかも、萎む気配はない。しかし、果たせそうな気配もない。今日のところは、ここまでいい。セイカは、すでに二十分近く、細くて長い髪を乱しながら小さな口で健気に頑張ってくれている。それが主たる仕事とはいえ、申し訳ない。初心者マークの取れていない嬢に、これ以上の骨折りは一種の苦行だ。ゆっくりと上体を起こすと、セイカは了治から離れて顔を曇らせた。
「どうもありがとう。こんなに元気になったのは、本当に久しぶりだ。立派な姿に戻してもらった。今日は、それだけで大満足だよ」
セイカは、無言で俯いている。勃起させただけでは、仕事は未完成だ。現役生活が長かったに違いない女店長は、風俗は客をいかせてなんぼだと、新人に言い含めているのかもしれない。そうでなくとも、根が真面目な嬢は客が射精に至らないと自分を責めがちだ。了治は、セイカをいったん抱き寄せ、そして仰向けにした。精液を口で受け止めさせる代わりに、受身になる仕事をさせねばならない。
上から下へ。了治の愛撫はワンパターンだ。しかし、途中でそのパターンを崩さざるをえなかった。長さ十センチ程の帝王切開の傷痕は、薄い繁みの上では一センチ程の幅があるが、臍に近づくにつれて徐々に細くなっていく。ほぼ半分になったところで、舌先は平坦な皮膚を這い、臍に沈んだ。了治は、幅の微妙な変化を確認するように、二度三度と下から上へと舌先を這わせた。陰部はあどけなさを残しつつも、か細い腰つきとは対照的に肉づきが良く、西欧人の血を引いていることを証明していた。
(死産だったのではないか)
ふと了治は思った。同時に天主堂の早鐘のように胸が鳴る。震えを堪えた両手で触れている乳房は、張りこそないが萎んでまではいない。乳頭の色の濃い、しかし子には吸われなかった乳房なのか。服装こそ地味だが、セイカは子育てをしている母親特有の生活臭を感じさせない。子持ちなのに朝方まで仕事をして、しかも事務所で睡眠を取って昼からまた出勤するなど考えにくい。了治は、市内で夜間に子供を預かる保育所を一つしか知らない。地方では遅番に入る子持ちのデリヘル嬢はまれだと思う。
脳の回線の一部がショートした。了治は、セイカから離れ、座り込んで俯いた。セイカが起きあがり、了治の股間に顔を近づける。再び元気を取り戻していく。しかし、やはり果たせそうにはない。セイカが上手いとか下手とかいう問題以前に、了治の感度が戻っていない。ため息を押し殺し、もういいよ、と言おうとしたときに、セイカが了治から離れ、仰向けになった。
「いいですよ、入れても」
了治は耳を疑った。唾を飲み込む音がその耳に響く。再び脳の回線の一部がショートし、今度はそれが連鎖する。瞬きすらできない。眼球が固まっている。長崎のデリヘルは真面目だ。「入れたい」と懇願する客は多いと聞く。なんとか願いを聞き入れてもらうためにあれこれ世辞を言い、その気にさせようとするのが常だろう。デリヘル嬢は無理強いされても仕方のない密室の中でやんわりと断るのが、この街のこの業界のルールだ。リハビリ中である了治は、「入れたい」などと大それたことを考えてはいなかった。それに、「入れたい」ときは、車を飛ばして佐賀の温泉街までいけばいい。あるいは度胸があれば、日が暮れるのを待って繁華街の電話ボックスに入り、貼られているチラシに記された番号をプッシュすればいい。この街では合法店と僅かに残った違法店の棲み分けがきちんとなされている。
据膳を食えないでいる男を訝しげにじっと見つめたあとに、セイカは小さな口を開いた。
「病気は持ってないから、心配しなくても大丈夫ですよ。お客さんとはしたことないし、それに、経験自体が少ないから」
性病のことなど考えていなかった。了治は先週「きらきら」の事務所に電話を掛けた時点で、もらっても仕方がないと腹を括っている。しかし、それは枕元に置いてあるコンドームを着けさえすれば、百パーセントとはいかなくとも回避できるのではないか? いや、着ければ、セイカを「病気持ち」とみなすことになるのか? いずれにしても、セイカに恥をかかせるわけにはいかない……。脳の回線のショートとその連鎖が続く。
了治は、しでかしてしまった。両手と両膝をベッドについたまま、今度は体全体が固まっている。脳の回線は、もはや半分も機能していない。頭の中が真っ白になっていく。セイカは、両手で枕の両端を握り締め、あどけなさを残した綺麗な横顔を見せながら目を瞑っている。なんと声を掛ければいいのかわからない。本来のサービスでも生身の挿入でも果たせず、挙句に中折れして抜けてしまった。昔はカトリックの街だったのに、こんなにたくさんのラブホテルがあっていいのか? この街で姦淫する汝らは大罪人だ。などと二年前に思っていたが、今や了治も完全に同罪だ。しかも、自身に課した戒律まで破ってしまった。
セイカが目を開き、カーテンと雨戸の閉まっている窓に視線を向けた。その窓から了治の住むマンションが見える。そんなことを口にする余裕などなかった。了治は四つん這いのままで動けない。哀れんで誘ってくれたセイカの立つ瀬もないだろうとは思う。おそらくカウパー氏腺液が分泌される間もなかった現実だけが、婚姻関係にない女とのコンドームを着けないセックスを自身に厳禁した男を、皮肉にも慰めてくれている。
ベッドの脇のガラステーブルの上で携帯電話が鳴り、了治はびくつくと同時に助かったと思った。事務所からの終了十分前の電話らしい。そう思うと、デリヘルの掟を破った男はまたびくつく。セイカは仰向けのままで携帯電話を手に取った。了治はプリクラの男と一瞬目が合った。弟に似た男の視線をさけるようにセイカから離れ、胡坐をかいて肩を落とした。事務所とのやりとりを終え、セイカは傷の目立つ携帯電話を折り畳むと、上体を起こして横座りをし、笑顔を作った。栗色の長い髪が微かに揺れている。
「じゃあ、お風呂にいきましょうか」
了治は、セイカとともに萌黄色の浴槽にゆっくりと腰を下ろした。ぬるくなった湯が、二人を気遣うように静かにこぼれる。ゴメンね、と呟くように言うと、セイカは大きな目を細め、小さく首を振った。
「嬉野のソープにも何回かいったけど、ろくに勃ちもしなかったんだ」
と了治は弁解がましく続けた。正確には、まったく勃たなかったのが二回、僅かに膨らんだ状態で苛立ったお姉さんに無理やり入れられてスルリと抜けたのが一回。セイカは帝王切開の傷痕を持ってこそいるが、容姿端麗で若く、性格も優しい。普通に挿入できたまでは良かったが、程なく中折れ。やはり自分は男性としての機能を失っているに等しいと、改めて痛感せざるをえない。
「いいんです。気にしないでください。体を流しましょうね」
セイカは、口角をあげて微笑みながら立ちあがった。
タオル越しにセイカの掌の温もりが伝わってくる。それに、了治は女性の感触を味わったのは久しぶりだった。射精にこそ至らなかったが、現状からして満ち足りている。全身をあらってもらっている満足感にも浸ってしまった。なおも半分も機能していない脳の片隅で、ヒヨコが鳴きはじめている。
「どうして、その、入れさせてくれたの?」
了治は疑問に思っていたことをつい口にしてしまった。セイカは迷ったように目をそらし、一呼吸おいて、
「内緒にしといてくださいね。クビになっちゃいますから」
と上下対称の唇を引き結んだ。疑問は深まった。噴門になにかが引っ掛かったような気分だ。それで指名を取ろうとするヘルス嬢の台詞だが、そういうタイプには思えない。それに、セイカの陰部は実年齢が二十歳だとしても綺麗な部類に入るのではないか。責任が生じはしないか。
「僕は何番目の男なの?」
しまった、と言い終わると同時に思ったが、もう遅い。踏み込みすぎたその最低の質問が、脳の回線の幾つかを復旧させた。セイカは手を止めて目を泳がせ、やがて俯いた。
「……一番目の人と、今の彼氏、オイカワさんで三人目です」
了治は一瞬間、平衡感覚を失ってしまった。一番目の男、はじめての男との関係で妊娠経験があるのだろうが、おそらく二十二、三歳で二人。セイカは可憐な雰囲気を残している。妥当な数字かもしれない。申し訳ない気持ちになると同時に、たった二人の男しか知らずにこの業界に入ったセイカが不憫に思えた。
事務所への最後の電話連絡を終えると、
「今日も楽しかったです。また呼んでくださいね」
とセイカはにっこりと微笑んだ。了治は笑顔を返せなかった。妻以外の女性と金銭を仲立ちにしないセックスをしたのははじめてだった。いや、金銭を仲立ちにしてはいるのだが、割り増し分が生じているはずだ。残り時間中ずっと考え続けたが、ついに結論は出ず、結局セイカに判断を仰ぐことにした。
「……お小遣い、あげたほうがいいよね」
「えっ、いりませんよ、そんなの」
「でも……」
「セイカがいいって言うんだから、いいんです」
それではこちらの気がすまなくもある。了治は思わず言ってしまった。
「じゃあさ、その代わりにって言ったらなんだけど、来週末にまた呼んでもいいかな」
追加料金なしでできる。完全なる不能者ではなくなった今、当然のようにそんな欲も張っている。
「本当ですか? 嬉しいです」
作りものではないセイカの笑顔に、胸が轟いた。その振動で噴門に引っ掛かっていたなにかが不意に胃袋にすとんと落ち、了治は己の欲を恥じた。脳の回線の復旧は急ピッチに進んでいった。
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