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Ⅴ
弟・了介③
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「ホントに春かよ。今日は兄貴の誕生日だってのに」
業務用自転車のペダルをこぎながら、了介は独り言ちていた。今日も冷たい空っ風が身に沁みている。
「だいたいよ、埼玉にも東京にも春はこねえからな。冬が終わると、いきなり初夏がきやがる」
故郷に帰りたくなるのは、決まって春、それも十二ヶ月の中で最も気候への対応が難しい、この三月だ。とくに十日と三十日に、了介は穏やかで暖かい熊本の春が恋しくなる。
「昼寝してえなあ。熊本城の二の丸公園の芝生の上で。半ドンの日や、部活サボった帰りによくしてたっけ」
十八になるまで当たり前に味わっていた熊本の春の日差しの温かさは、東京や埼玉でどれだけ女を口説き落として肌を合わせても、決して味わえるものではなかった。了介は、苺という源氏名の本ヘル嬢を相手に、先週味わったことを思い出す。肌は白いが肌理の細かさや透明感はなかった。女も羨む滑々した肌の持ち主である了介には、二十三歳未満が相手の場合はそのほうが良い。抱き合ったときに滑り合うと、なんだが白けてしまう。それに、体温の交換も上手くいかない。
干し葡萄のような乳頭と干し柿のような元Bカップの乳房が、哀愁を誘っていた。苺は顔や雰囲気だけならキャバクラや高級ソープでも十分稼げそうだ。そういう訳有りかと、了介は頷いた。私服やバッグが生活臭いことにも納得がいく。下腹に妊娠線がないのは幸いだった。目にすれば萎えそうになり、一苦労する。早季子をはじめとした素人のなら平気なのだが、風俗嬢の妊娠線には心になにかを刻まれる。
手際良くあらわれたことも思い出す。慣れた手つきに加え、若々しい指や掌の感触が味わいを深めた。風俗嬢にとっては病気持ちか否かを見極める重要な作業でもあるが、念が入るほど客の快楽も増す。了介は息を吐かされ、思わず目を瞑った。キャバクラ嬢を口説いてホテルに連れ込んだとしても、決して味わえるものではなかった。
「今日いくか……苺ちゃんとは肌の相性も良いし。それに、ちょうどカードを三本あげたところだしな」
空っ風と傾きはじめた日差しを背中に受けながら、了介は業務用自転車のハンドルを越谷駅の方角へ切った。
「むなしいねえ」
了介は、越谷駅に程近い一方通行路を歩きながら呟いていた。高校の先輩にあたる現役の農林水産大臣が参議院予算委員会において、政治資金収支報告書の光熱水費の記載で叩かれているからではない。父の了三郎と誕生日が同じであるインドネシアで、地震と飛行機事故が続け様に起き、多数の死者が出たからでもない。空っ風が、また通せん坊をする。
疑問符の電飾看板は健在だったが、その手の看板は一つ、また一つと、空っ風に吹き飛ばされているかのように、この冬から春にかけて仲間を減らしている。埼玉県内で買った駅売りの朝刊の地域欄で、了介は何度か違法風俗店摘発の記事を見掛けた。埼玉県警が本気になれば、違法風俗店などあっという間に全滅だ。この世に男がいる限り必要とされていて、それなりに地域に金を落とさせているものの、再開発事業が計画されている越谷駅前では、もはや裏風俗嬢は必要悪とも見做されていないらしい。
若い嬢は東武線を上って乗り継いで、「合法地帯」に落ち着けばいいが、若くない嬢や子持ちの嬢はそう簡単にはいかない。東武線を下って乗り継いで、いきつく所までいく覚悟が必要だろう。新聞販売業界の必要悪にとっても他人事ではない話だ。各新聞社の販売局が申し合わせさえすれば、拡張団ごと拡張員を全滅させることは難しくなかった。拡張団がなくなれば、裏新聞屋の男たちの多くは押し売りを復活させるか、空き缶拾いをするしか生きる術はないかもしれない。振り込め詐欺団の末席に座るには、とうが立っている。
一方通行路を逆走して真正面から吹きつけてくる空っ風に、了介は身を竦めた。
(俺たち拡張員も客に汚いことをやってるけど、新聞社の販売局の連中も販売店にえげつないことをやってるよな。配達し切れない新聞紙を梱包で押しつけやがってさ。販売店が公称配達部数を水増しして、その分の折込み代金を詐取し続けても賄い切れねえって。新聞がスポーツ欄だけじゃなくて社会欄でも叩いた、西武ライオンズのアマチュア選手への利益供与なんて可愛いもんだ)
電信柱の向こうで佇む地味な疑問符の電飾看板が、再び了介の目に映った。冷たく乾いた風が吹き荒び、トレーニングスーツがはためく。
(……この駅前も、本ヘルがなくなるのは時間の問題だな。苺ちゃんは良いタイミングであがるってわけだ)
声を嗄らしつつある空っ風に全身を叩かれながら、了介は「違法地帯」を一周していた。
了介は、白地に黒い疑問符のシートで目隠しされたガラスドアの取っ手を押した。ジョギングシューズを脱いでスリッパに履き替えながら左手にある壁に目をやると、半身写真が今日も三十枚程掛けられている。苺らしき嬢は見当たらない。受付に向かうと、カウンターに並べられた写真の真ん中で、写りの悪い苺が硬い笑顔を作っていた。
「いらっしゃいませ。本日はこちらの五人の女の子からのご案内になります。ご指名はございますか?」
今日も五十男の店員が、カウンターの向こう側で人の良さそうな平たい笑顔を見せている。了介は、人差し指で真ん中の写真を軽く叩いた。
「苺ちゃん、四十分で」
五十男は、了介の昼間の稼ぎ全額と引き換えに十番の番号札を手渡し、本日はすぐにご案内できますので、と柔らかく言った。前回は長い時間お待たせいたしまして申し訳ございませんでした、とは言わないが、五十男が了介を覚えていたのは明らかだった。美女顔負けの綺麗な顔立ちで、長身も手伝い、白のトレーニングスーツが折込み広告のモデル以上に似合っている。この手の店の客としては珍しいタイプだった。おまけに、今日もトレードマークの集金バッグを左肩に掛けている。
本当にすぐに、待合室のドアを控えめにノックする音が聞こえてきた。
「番号札十番のお客様、お待たせいたしました」
と五十男は言いながらドアを開いた。了介は、集金バッグを左肩に掛けたまま自動販売機の取り出し口に手を入れ、熱々のジョージアのロング缶二本を上着の左右のポケットに納めた。番号札を五十男に手渡し、白髪交じりの薄い旋毛を追いながら、再び無人となる待合室をあとにした。
真っ赤な絨毯の上にやはり斜め四十五度の角度で立っていた苺は、指名客が了介であることに気づくと同時にクールな微笑みを崩した。五十男は、ごゆっくりどうぞ、と柔らかく言って一礼し、足早に去っていった。了介は、ゆっくりと前へ進む。今日も真っ白なキャミソールドレス姿の苺が、ヒールの高いサンダルを履いた足で駆け寄ってきて、両腕を了介の右腕に絡めながら口を開いた。
「また営業のお仕事の休憩中にきてくれたの?」
ホストとその指名客のように、二人は歩を進める。
「うん、苺ちゃんに会いにくるために、頑張って昼間のノルマを達成したきたよ」
「嬉しい、本当に嬉しい」
苺の破顔した様をあえて目にしないが、了介は容易に想像できる。その気になれば落とすのは簡単だが、風俗嬢は亜由美を最後に、シングルマザーは幸子を最後にしようと心に決めている。一時的にたらすとはいえ、重たいものを抱えた女を受け止めるには相当なエネルギーがいる。少なくとも今は、それだけのエネルギーを持ち合わせていない。
「約束したからね。またくるって」
「約束……」
「空約束する客って多いよね。営業関係はなんでもそうだろうけど、新聞屋もさ、信用第一だから」
と了介は新聞屋だったころを思い出しながら言った。裏新聞屋となった今も、その気持ちだけは忘れてはいない。俄かに苺の両腕から力が抜けたのを右腕で感じたが、気にも留めなかった。
了介は、戸惑った。個室に入ったときにはすでに、苺の表情はどんよりと曇っていた。二人してベッドに腰を下ろしたあとに、上着のポケットからジョージアを取り出して手渡しても、一瞬の晴れ間も覗かなかった。熱々の缶は、無造作な音を立ててガラス製のサイドテーブルに置かれた。話し掛けても、苺の口は雨雲のように重たく、まばらに粒の小さな雨を降らすように短い生返事しか返えさない。了介は、サイドテーブルの上の黒いガラス製の小さな灰皿を手に取り、一本、二本とタバコに火を点けざるをえなかった。
サービスも前回とは大違いで、通り一遍の挨拶のようだった。了介が動きはじめても、仰向けになっている苺は上の空で、顔を横に向けてベッドを囲んだ安物の白いレースのカーテンに目を向けているだけだ。じきにあがる裏風俗嬢の無表情は、ピストン運動を終了させてしまった。了介は、いよいよ戸惑う。中折れなど、はじめての体験だ。
苺から離れて、了介は胡坐をかいた。
「ゴメン」
「いいえ」
とだけ苺は起きあがりながら応えた。
(なにをしくじったんだか、まるで見当がつかねえや。あえて探すなら、個室に入る前に、約束したからね、って言ったことか。そこから豹変しちまったからな……。普通は喜ぶもんなのに。いずれにしても、この女の視界から去るしかねえな)
沈黙に耐え切れなくなり、
「どうやら嫌われちゃったみたいだね。どのみち今月いっぱいであがっちゃうんだろうけど、もうこないから」
と了介は後始末をしている苺に言った。
「……違うんです。嫌いになったとか、そういうわけじゃないんです。私、お父さんがいなくて、お母さんは小学一年生のときに死んじゃって、そのあとに施設に入ってて、中学を卒業したあとにそこを出て……」
俯き加減で声を搾り出しながら、苺は指先を目尻に当てた。泣き顔を隠すようにベッドから下り、コンドームを入れて丸めたティッシュをゴミ箱に捨て、クローゼットを開いた。茶色い布地のショルダーバッグに、ジョージアのロング缶をしまって鼻を啜る。ベージュ色のコート、白いブラウスにグレーのカーディガン、黒いスカートと、前回とまったく同じ私服がハンガーに掛かっていた。
「ゴメンなさい。本当にゴメンなさい。せっかく本指名してくれたお客さんに、こんな態度を取っといて、またきて、なんて言えないですよね」
苺は、薄く泣き笑った。寒い季節の雨あがりの朝のように硬く。了介は、さらに戸惑った。同時に、これまで他の女相手にデータのない、特異と言えるこの女の一変の理由を知りたくなった。
「じゃあ、またきてみようかな」
了介は、苺とまた約束してしまった。
越谷とは抜群に相性が良かった。とにかく契約カードがよくあがる。一日で二桁いくことも珍しくない。店も台も適当に選んでいるのに、パチンコはなぜか勝ち越している。本番ヘルス店でもよく当たりを引き、地雷女を踏んだ覚えはない。ゆえに、了介は苺の豹変ぶりに驚かされ、精神的に堪えてしまった。じきにまた一つ年を取る証とも言える中折れもしかりだ。
(めでたい日なのに……いや、三十すぎたら、もうめでたくもねえか。とりあえずは販売店に戻らねえと)
駐輪場で料金の精算を終えると、了介は集金バッグを前籠に放り投げ、レールから前輪を降ろし、業務用自転車に跨った。
新聞販売店へ向かってハンドルを切るたびに、荷台の段ボール箱の中で二個に減った洗剤が右往左往している。今日世話になっている販売店主は、成績優秀な了介のために、わざわざ業務用自転車を系列店から取り寄せてくれるが、「拡材」という名の景品は他の拡張員と同様に契約三、四件分だけしか預けてくれない。いったん販売店に戻り、あげた三枚の契約カードを監査に回し、洗剤とビール券を補充しなければならない。
県道に出て、暗渠上の広い歩道で業務用自転車がスピードに乗りはじめたときに、集金バックの中から「威風堂々」のメロディーが流れた。反射的に急ブレーキを掛けると、洗剤が段ボール越しにサドルを叩いた。兄の了治は、月に二通のメールをよこす。よこす日は決まっている。兄が生まれた十日と、了介が生まれた三十日だ。
(今年も、二月のメールは一通だけだったな)
そんなところも生真面目で律儀な兄貴らしいと改めて思いながら、了介は口元だけで笑った。暗渠に蓋をしているコンクリートの板が、平たく笑い返してくれたような気がする。オレたちはたった二人っきりの兄弟だからな、というメッセージがいつも込められている文面は、少々鬱陶しくもあるが、両親と何年も連絡を取っていない弟にとってはやはり嬉しいものだ。
了介は兄に愛され、了治の背中を追いながら少年時代をすごした。しかし、母の文江に愛された記憶はない。兄は、自ら望んだわけではなかったが、母の愛情を独り占めにした。小さいころの了介は、了治のことが大好きだったが、同時に憎くもあった。あんな母親の愛情なんていらないと開き直れたのは、第二反抗期に入ったころだ。逆らおうにも、母はまともに相手にしてくれそうな気配すらなかった。反抗期がなかった兄に、よりいっそうの愛情を注いでいたからだ。
兄は今日で三十三になった。ちゃんと覚えてるか? お前もあと二十日で三十二だな。お互いに、もういい年だ。みっともないことは止めような。ちなみに、兄は最近みっともない以上のことをしでかしてしまった。すまない。
了介。元気でやってるんだろうな? 真面目に生きてるんだろうな? 今はどこに住んでるんだ? まだ東京にいるんだろう? 仕事はなにをしてるんだ? いいかげんにおしえろ。それが兄への誕生日のプレゼントだ。
それから伝えておく。四月に、兄は東京に戻ることになった。
(あのクソ真面目な兄貴が、いったいなにをしでかしたんだ? まあどうせ、普通の男が何気なくしてることだろうけど。ともかく、及川家との離縁の罪は許されたみたいだな)
二年前に了治の離婚と養子離縁と左遷を知らされたときに、まさかあの兄貴が、と了介は絶句した。在校生として出席し、小学校の卒業式で目の当たりにした兄の晴姿を、今でも鮮明に覚えている。了治は背筋をピンと伸ばして手ぶらで壇上へ登り、一字一句間違えることなくスラスラと、よく響き渡る声で答辞を諳んじた。まるで演説をしているかのようで、父兄からもどよめきが起こった。
その日以来、了介は兄のような男が政治家になるのだと思っていた。了治が九州大学大学院を修了したあとにキャリア官僚となり、そして代議士の家に婿入りして、いよいよ確信した。兄がかりに今もなお及川姓を名乗っているとすれば、イケメン代議士としてテレビや雑誌を賑わせていてもおかしくないと思う。同時に、実は繊細すぎる了治が向かない職業に就かなくてすんだことに安堵している。
(まあ、女は兄貴の専門外だからな。中途半端に腹が据わってて、怖いもの知らずの性格も持ち合わせてるから、離縁は仕方がなかったんだろう。それに、なんと言っても兄貴は女運が悪いし)
及川家の「皇女様」の顔が悪魔のように歪んで脳裏をかすめ、了介は一瞬ゾッとした。あの女に睨まれてはさすがの了治も蛙同然だったことが、容易に想像がつく。了介は、メールを保護し、ペダルに足を掛けた。
(小春さんも結婚式のときはすごく綺麗だったけど、今では母親さながらに面相が崩れてるに違いねえな。可哀相な兄貴に、今年も金をせびってやらねえと)
――年度が越せないから至急金を振り込んでくれ。了介は毎年自分の誕生日に、了治にそういった旨のメールを送る。必要のない金をせびることが、兄に対する唯一の愛情表現となって久しい。小金をせびっているつもりだが、振り込まれる額は桁が一つ大きく、しかも毎年少しずつ増えている。了治の冬のボーナスの額だった。資産家の代議士の娘婿だった二年間はともかく、兄は一介の国家公務員にすぎない。使う気にはなれず、振り込まれた金はその専用の銀行口座に眠ったままになっている。
業務用自転車のペダルをこぎながら、了介は独り言ちていた。今日も冷たい空っ風が身に沁みている。
「だいたいよ、埼玉にも東京にも春はこねえからな。冬が終わると、いきなり初夏がきやがる」
故郷に帰りたくなるのは、決まって春、それも十二ヶ月の中で最も気候への対応が難しい、この三月だ。とくに十日と三十日に、了介は穏やかで暖かい熊本の春が恋しくなる。
「昼寝してえなあ。熊本城の二の丸公園の芝生の上で。半ドンの日や、部活サボった帰りによくしてたっけ」
十八になるまで当たり前に味わっていた熊本の春の日差しの温かさは、東京や埼玉でどれだけ女を口説き落として肌を合わせても、決して味わえるものではなかった。了介は、苺という源氏名の本ヘル嬢を相手に、先週味わったことを思い出す。肌は白いが肌理の細かさや透明感はなかった。女も羨む滑々した肌の持ち主である了介には、二十三歳未満が相手の場合はそのほうが良い。抱き合ったときに滑り合うと、なんだが白けてしまう。それに、体温の交換も上手くいかない。
干し葡萄のような乳頭と干し柿のような元Bカップの乳房が、哀愁を誘っていた。苺は顔や雰囲気だけならキャバクラや高級ソープでも十分稼げそうだ。そういう訳有りかと、了介は頷いた。私服やバッグが生活臭いことにも納得がいく。下腹に妊娠線がないのは幸いだった。目にすれば萎えそうになり、一苦労する。早季子をはじめとした素人のなら平気なのだが、風俗嬢の妊娠線には心になにかを刻まれる。
手際良くあらわれたことも思い出す。慣れた手つきに加え、若々しい指や掌の感触が味わいを深めた。風俗嬢にとっては病気持ちか否かを見極める重要な作業でもあるが、念が入るほど客の快楽も増す。了介は息を吐かされ、思わず目を瞑った。キャバクラ嬢を口説いてホテルに連れ込んだとしても、決して味わえるものではなかった。
「今日いくか……苺ちゃんとは肌の相性も良いし。それに、ちょうどカードを三本あげたところだしな」
空っ風と傾きはじめた日差しを背中に受けながら、了介は業務用自転車のハンドルを越谷駅の方角へ切った。
「むなしいねえ」
了介は、越谷駅に程近い一方通行路を歩きながら呟いていた。高校の先輩にあたる現役の農林水産大臣が参議院予算委員会において、政治資金収支報告書の光熱水費の記載で叩かれているからではない。父の了三郎と誕生日が同じであるインドネシアで、地震と飛行機事故が続け様に起き、多数の死者が出たからでもない。空っ風が、また通せん坊をする。
疑問符の電飾看板は健在だったが、その手の看板は一つ、また一つと、空っ風に吹き飛ばされているかのように、この冬から春にかけて仲間を減らしている。埼玉県内で買った駅売りの朝刊の地域欄で、了介は何度か違法風俗店摘発の記事を見掛けた。埼玉県警が本気になれば、違法風俗店などあっという間に全滅だ。この世に男がいる限り必要とされていて、それなりに地域に金を落とさせているものの、再開発事業が計画されている越谷駅前では、もはや裏風俗嬢は必要悪とも見做されていないらしい。
若い嬢は東武線を上って乗り継いで、「合法地帯」に落ち着けばいいが、若くない嬢や子持ちの嬢はそう簡単にはいかない。東武線を下って乗り継いで、いきつく所までいく覚悟が必要だろう。新聞販売業界の必要悪にとっても他人事ではない話だ。各新聞社の販売局が申し合わせさえすれば、拡張団ごと拡張員を全滅させることは難しくなかった。拡張団がなくなれば、裏新聞屋の男たちの多くは押し売りを復活させるか、空き缶拾いをするしか生きる術はないかもしれない。振り込め詐欺団の末席に座るには、とうが立っている。
一方通行路を逆走して真正面から吹きつけてくる空っ風に、了介は身を竦めた。
(俺たち拡張員も客に汚いことをやってるけど、新聞社の販売局の連中も販売店にえげつないことをやってるよな。配達し切れない新聞紙を梱包で押しつけやがってさ。販売店が公称配達部数を水増しして、その分の折込み代金を詐取し続けても賄い切れねえって。新聞がスポーツ欄だけじゃなくて社会欄でも叩いた、西武ライオンズのアマチュア選手への利益供与なんて可愛いもんだ)
電信柱の向こうで佇む地味な疑問符の電飾看板が、再び了介の目に映った。冷たく乾いた風が吹き荒び、トレーニングスーツがはためく。
(……この駅前も、本ヘルがなくなるのは時間の問題だな。苺ちゃんは良いタイミングであがるってわけだ)
声を嗄らしつつある空っ風に全身を叩かれながら、了介は「違法地帯」を一周していた。
了介は、白地に黒い疑問符のシートで目隠しされたガラスドアの取っ手を押した。ジョギングシューズを脱いでスリッパに履き替えながら左手にある壁に目をやると、半身写真が今日も三十枚程掛けられている。苺らしき嬢は見当たらない。受付に向かうと、カウンターに並べられた写真の真ん中で、写りの悪い苺が硬い笑顔を作っていた。
「いらっしゃいませ。本日はこちらの五人の女の子からのご案内になります。ご指名はございますか?」
今日も五十男の店員が、カウンターの向こう側で人の良さそうな平たい笑顔を見せている。了介は、人差し指で真ん中の写真を軽く叩いた。
「苺ちゃん、四十分で」
五十男は、了介の昼間の稼ぎ全額と引き換えに十番の番号札を手渡し、本日はすぐにご案内できますので、と柔らかく言った。前回は長い時間お待たせいたしまして申し訳ございませんでした、とは言わないが、五十男が了介を覚えていたのは明らかだった。美女顔負けの綺麗な顔立ちで、長身も手伝い、白のトレーニングスーツが折込み広告のモデル以上に似合っている。この手の店の客としては珍しいタイプだった。おまけに、今日もトレードマークの集金バッグを左肩に掛けている。
本当にすぐに、待合室のドアを控えめにノックする音が聞こえてきた。
「番号札十番のお客様、お待たせいたしました」
と五十男は言いながらドアを開いた。了介は、集金バッグを左肩に掛けたまま自動販売機の取り出し口に手を入れ、熱々のジョージアのロング缶二本を上着の左右のポケットに納めた。番号札を五十男に手渡し、白髪交じりの薄い旋毛を追いながら、再び無人となる待合室をあとにした。
真っ赤な絨毯の上にやはり斜め四十五度の角度で立っていた苺は、指名客が了介であることに気づくと同時にクールな微笑みを崩した。五十男は、ごゆっくりどうぞ、と柔らかく言って一礼し、足早に去っていった。了介は、ゆっくりと前へ進む。今日も真っ白なキャミソールドレス姿の苺が、ヒールの高いサンダルを履いた足で駆け寄ってきて、両腕を了介の右腕に絡めながら口を開いた。
「また営業のお仕事の休憩中にきてくれたの?」
ホストとその指名客のように、二人は歩を進める。
「うん、苺ちゃんに会いにくるために、頑張って昼間のノルマを達成したきたよ」
「嬉しい、本当に嬉しい」
苺の破顔した様をあえて目にしないが、了介は容易に想像できる。その気になれば落とすのは簡単だが、風俗嬢は亜由美を最後に、シングルマザーは幸子を最後にしようと心に決めている。一時的にたらすとはいえ、重たいものを抱えた女を受け止めるには相当なエネルギーがいる。少なくとも今は、それだけのエネルギーを持ち合わせていない。
「約束したからね。またくるって」
「約束……」
「空約束する客って多いよね。営業関係はなんでもそうだろうけど、新聞屋もさ、信用第一だから」
と了介は新聞屋だったころを思い出しながら言った。裏新聞屋となった今も、その気持ちだけは忘れてはいない。俄かに苺の両腕から力が抜けたのを右腕で感じたが、気にも留めなかった。
了介は、戸惑った。個室に入ったときにはすでに、苺の表情はどんよりと曇っていた。二人してベッドに腰を下ろしたあとに、上着のポケットからジョージアを取り出して手渡しても、一瞬の晴れ間も覗かなかった。熱々の缶は、無造作な音を立ててガラス製のサイドテーブルに置かれた。話し掛けても、苺の口は雨雲のように重たく、まばらに粒の小さな雨を降らすように短い生返事しか返えさない。了介は、サイドテーブルの上の黒いガラス製の小さな灰皿を手に取り、一本、二本とタバコに火を点けざるをえなかった。
サービスも前回とは大違いで、通り一遍の挨拶のようだった。了介が動きはじめても、仰向けになっている苺は上の空で、顔を横に向けてベッドを囲んだ安物の白いレースのカーテンに目を向けているだけだ。じきにあがる裏風俗嬢の無表情は、ピストン運動を終了させてしまった。了介は、いよいよ戸惑う。中折れなど、はじめての体験だ。
苺から離れて、了介は胡坐をかいた。
「ゴメン」
「いいえ」
とだけ苺は起きあがりながら応えた。
(なにをしくじったんだか、まるで見当がつかねえや。あえて探すなら、個室に入る前に、約束したからね、って言ったことか。そこから豹変しちまったからな……。普通は喜ぶもんなのに。いずれにしても、この女の視界から去るしかねえな)
沈黙に耐え切れなくなり、
「どうやら嫌われちゃったみたいだね。どのみち今月いっぱいであがっちゃうんだろうけど、もうこないから」
と了介は後始末をしている苺に言った。
「……違うんです。嫌いになったとか、そういうわけじゃないんです。私、お父さんがいなくて、お母さんは小学一年生のときに死んじゃって、そのあとに施設に入ってて、中学を卒業したあとにそこを出て……」
俯き加減で声を搾り出しながら、苺は指先を目尻に当てた。泣き顔を隠すようにベッドから下り、コンドームを入れて丸めたティッシュをゴミ箱に捨て、クローゼットを開いた。茶色い布地のショルダーバッグに、ジョージアのロング缶をしまって鼻を啜る。ベージュ色のコート、白いブラウスにグレーのカーディガン、黒いスカートと、前回とまったく同じ私服がハンガーに掛かっていた。
「ゴメンなさい。本当にゴメンなさい。せっかく本指名してくれたお客さんに、こんな態度を取っといて、またきて、なんて言えないですよね」
苺は、薄く泣き笑った。寒い季節の雨あがりの朝のように硬く。了介は、さらに戸惑った。同時に、これまで他の女相手にデータのない、特異と言えるこの女の一変の理由を知りたくなった。
「じゃあ、またきてみようかな」
了介は、苺とまた約束してしまった。
越谷とは抜群に相性が良かった。とにかく契約カードがよくあがる。一日で二桁いくことも珍しくない。店も台も適当に選んでいるのに、パチンコはなぜか勝ち越している。本番ヘルス店でもよく当たりを引き、地雷女を踏んだ覚えはない。ゆえに、了介は苺の豹変ぶりに驚かされ、精神的に堪えてしまった。じきにまた一つ年を取る証とも言える中折れもしかりだ。
(めでたい日なのに……いや、三十すぎたら、もうめでたくもねえか。とりあえずは販売店に戻らねえと)
駐輪場で料金の精算を終えると、了介は集金バッグを前籠に放り投げ、レールから前輪を降ろし、業務用自転車に跨った。
新聞販売店へ向かってハンドルを切るたびに、荷台の段ボール箱の中で二個に減った洗剤が右往左往している。今日世話になっている販売店主は、成績優秀な了介のために、わざわざ業務用自転車を系列店から取り寄せてくれるが、「拡材」という名の景品は他の拡張員と同様に契約三、四件分だけしか預けてくれない。いったん販売店に戻り、あげた三枚の契約カードを監査に回し、洗剤とビール券を補充しなければならない。
県道に出て、暗渠上の広い歩道で業務用自転車がスピードに乗りはじめたときに、集金バックの中から「威風堂々」のメロディーが流れた。反射的に急ブレーキを掛けると、洗剤が段ボール越しにサドルを叩いた。兄の了治は、月に二通のメールをよこす。よこす日は決まっている。兄が生まれた十日と、了介が生まれた三十日だ。
(今年も、二月のメールは一通だけだったな)
そんなところも生真面目で律儀な兄貴らしいと改めて思いながら、了介は口元だけで笑った。暗渠に蓋をしているコンクリートの板が、平たく笑い返してくれたような気がする。オレたちはたった二人っきりの兄弟だからな、というメッセージがいつも込められている文面は、少々鬱陶しくもあるが、両親と何年も連絡を取っていない弟にとってはやはり嬉しいものだ。
了介は兄に愛され、了治の背中を追いながら少年時代をすごした。しかし、母の文江に愛された記憶はない。兄は、自ら望んだわけではなかったが、母の愛情を独り占めにした。小さいころの了介は、了治のことが大好きだったが、同時に憎くもあった。あんな母親の愛情なんていらないと開き直れたのは、第二反抗期に入ったころだ。逆らおうにも、母はまともに相手にしてくれそうな気配すらなかった。反抗期がなかった兄に、よりいっそうの愛情を注いでいたからだ。
兄は今日で三十三になった。ちゃんと覚えてるか? お前もあと二十日で三十二だな。お互いに、もういい年だ。みっともないことは止めような。ちなみに、兄は最近みっともない以上のことをしでかしてしまった。すまない。
了介。元気でやってるんだろうな? 真面目に生きてるんだろうな? 今はどこに住んでるんだ? まだ東京にいるんだろう? 仕事はなにをしてるんだ? いいかげんにおしえろ。それが兄への誕生日のプレゼントだ。
それから伝えておく。四月に、兄は東京に戻ることになった。
(あのクソ真面目な兄貴が、いったいなにをしでかしたんだ? まあどうせ、普通の男が何気なくしてることだろうけど。ともかく、及川家との離縁の罪は許されたみたいだな)
二年前に了治の離婚と養子離縁と左遷を知らされたときに、まさかあの兄貴が、と了介は絶句した。在校生として出席し、小学校の卒業式で目の当たりにした兄の晴姿を、今でも鮮明に覚えている。了治は背筋をピンと伸ばして手ぶらで壇上へ登り、一字一句間違えることなくスラスラと、よく響き渡る声で答辞を諳んじた。まるで演説をしているかのようで、父兄からもどよめきが起こった。
その日以来、了介は兄のような男が政治家になるのだと思っていた。了治が九州大学大学院を修了したあとにキャリア官僚となり、そして代議士の家に婿入りして、いよいよ確信した。兄がかりに今もなお及川姓を名乗っているとすれば、イケメン代議士としてテレビや雑誌を賑わせていてもおかしくないと思う。同時に、実は繊細すぎる了治が向かない職業に就かなくてすんだことに安堵している。
(まあ、女は兄貴の専門外だからな。中途半端に腹が据わってて、怖いもの知らずの性格も持ち合わせてるから、離縁は仕方がなかったんだろう。それに、なんと言っても兄貴は女運が悪いし)
及川家の「皇女様」の顔が悪魔のように歪んで脳裏をかすめ、了介は一瞬ゾッとした。あの女に睨まれてはさすがの了治も蛙同然だったことが、容易に想像がつく。了介は、メールを保護し、ペダルに足を掛けた。
(小春さんも結婚式のときはすごく綺麗だったけど、今では母親さながらに面相が崩れてるに違いねえな。可哀相な兄貴に、今年も金をせびってやらねえと)
――年度が越せないから至急金を振り込んでくれ。了介は毎年自分の誕生日に、了治にそういった旨のメールを送る。必要のない金をせびることが、兄に対する唯一の愛情表現となって久しい。小金をせびっているつもりだが、振り込まれる額は桁が一つ大きく、しかも毎年少しずつ増えている。了治の冬のボーナスの額だった。資産家の代議士の娘婿だった二年間はともかく、兄は一介の国家公務員にすぎない。使う気にはなれず、振り込まれた金はその専用の銀行口座に眠ったままになっている。
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※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
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