春の風にあらわれながら

斗有かずお

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 Ⅵ

 兄・了治③

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 セイカは、ピンク色の携帯電話を折り畳み、少し青緑がかった瞳を輝かせながら声を弾ませた。
「今日は、一万九千円です」
「二万円じゃないの?」と目を見開いた了治に、セイカは嬉しさを凝縮するように目を細めながら理由を伝えた。五回目の本指名には三千円の特別割引がつくという。二千円の会員割引と併せては使えないので、いつもより千円だけ安くなる。
「オイカワさんから電話をもらってすぐに、店長から褒められちゃいましたあ。セイカはエライって。入店一ヶ月で、お客さんに特別割引を使ってもらう女の子って、セイカがはじめてらしいんです」
 了治はこの三週間、土曜日曜はパチンコ店にも職場にも出勤せず、きっちりと休みを取り、必ずセイカを呼んでいる。
「ユイちゃんにも、早いね、すごいね、いいなあ、って羨ましがられちゃいましたあ。ユイちゃん、昨日から復帰したんですよ。休んでる最中に、彼氏にバレちゃって、怒られて、辞めるって嘘ついて、とにかく、大変だったみたいです。でも、怒ってくれる彼氏って……ちょっと羨ましいかも」
 光と艶を失った瞳は、その下にできている隈と色を合わせた。ラブホテルの北向きの部屋の中は、暖房を入れて時間が経っているのにヒンヤリとしていて、ステンドグラスの青や緑がやけに目立っている。
「そろそろ、彼氏とラブラブしようか。オイカワは、セイカちゃんを怒れないけど。怒ったら、もう会えなくなっちゃうからね」
 セイカは、笑顔を作って立ちあがり、ピンク色のハーフコートをポールハンガーに掛け、黒いスカートのファスナーに手をやった。二回目の本指名を受けた日から、服を脱ぐときに了治に背中を向けなくなっている。

 徐々に湯の嵩を増している浴槽の中で膝を突き合わせながら、
「痩せたよね?」
 と了治はセイカに尋ねた。幾分頬が削げている。玄関で出迎えたときから血色の悪さも気に掛かっていた。
「はい……ちょっと」
 細く小さく湯気とともに漂った声は、疲労の色を隠せなかった。痩せたことを喜んでいる気配もない。セイカの体は皮下脂肪に加えて、走り幅跳び競技で鍛えてつけた筋肉までもが落ちたような痩せ方をしている。無力感に蝕まれそうになり、了治は話題を変えた。
「そう言えば、ラブラブコースってあるんだよね」
「ありますよお。六時間コース。もう、最悪。三人ついたけど、みんな変態でしたあ。八万円も掛かるから、お金は持ってるんでしょうけどねえ。奴隷になれって言われて、メイド服に首輪って格好で、部屋のお掃除とか、六時間ずーっと、扱き使われちゃったのと、あと、六時間ずーっと、咥えさせられちゃったのと、それと、あとなんだっけ」
 手の中指を折り、セイカはまた笑顔を作った。
「デリのお客さんって、みんな変態ですけどねえ。まともな男の人は、オイカワさんくらい」
「怖いほうのオイカワ?」
 セイカは、珍しく嫌悪を隠さない表情を顔に浮かべ、唇を噛んだ。
「違いますう。怖いほうのオイカワさんは、すっごい変態。鳥肌が立っちゃうくらいの。だから、終わったあとのお風呂は、いつも先にあがってもらって、そのあとに、全身をゴシゴシ洗い直すんです。皮膚が真っ赤になって、痛くなっちゃうまで。店長が、今日、オイカワさんからの電話を切って、言ったんですよ。良かったね、本当に良かったね、優しいほうのオイカワさんから指名だよって」
 水色の浴槽の縁に乗った了治の手に、セイカの温かい手が重なる。
「でもさ、僕が一番酷い客じゃないかな。させてもらってるし。しかも、ただで。それに、」
「もう。それもこれも、言わないでください。セイカがいいって言うんだから、いいんです。それに、他にも、いかないお客さんはいます」
 顎を引いて口を尖らせ、セイカは大きな目で睨んで見せている。ひょっとこのように口を捻りはじめた。変顔も、可愛らしく了治の目に映る。やがて、セイカは口を真っ直ぐに結び、俯き加減になった。湯気が憂愁を帯びる。
「東京にいっちゃうんですよね。四月になったら」
「月給取りは、辞令には逆らえないからね」
「この仕事、辞めたくなっちゃいます。オイカワさんが、いなくなっちゃうと思うと……」
「あがろうか。逆上せそうだよ」
 了治は、振り返って赤青二つの水栓を閉めた。湯にではなく、セイカに逆上せそうだった。立ちあがって浴槽の縁を跨ぎ、引き戸に手を伸ばす。セイカも、無言で続いた。「彼氏」と「彼女」になった先週から、風呂場で了治の体も自分の体も洗おうとしない。それが二人の仲の証であるかのように。

 関係を持ったのは、指名と同じ回数になる。飽きがこないのは、一度も果たせていないからだろうか。相変わらず了治の感度は戻っていないが、そんなことはもうどうでもよく思える。両手で枕の両端を握り締めたセイカの横顔は、幾分頬を削がれていても、やはり美しかった。乳房の張りを失い下腹部に縦一文字の傷を負った、母親にはなれなかった体が、愛おしく思える。そんな感情とは裏腹に、了治はセイカの中で徐々に力を失っていった。
「ゴメン」
 と小さく言ってセイカの隣に身を横たえ、指を組み合わせた両手を腹に乗せて息を吐いた。了治は、水玉模様の天井を眺める。セイカは、淡々と語りはじめた。
「母方のお祖母ちゃんの、入院費用が必要になって、この仕事に転職したんです。お祖母ちゃんは、母親代わりになって、ずっとセイカの面倒を見てくれたから……。小学生のころ、ガイジン、ガイジンって、苛められて家に帰ってきたときに、いつも優しく抱き締めてくれたし。中退しちゃったけど、高校にもいかせてくれたし。認知症を併発しちゃったから、家に戻るのは、もう無理って言われてて、退院後に入る施設を探してたんです。セイカが、最後まで、面倒を見てあげたかった……」
 了治は、セイカの体が微かに震えているがわかり、うん、と相槌を打つことしかできなかった。
「……でも、お祖母ちゃん、死んじゃいました」
 セイカは先週、たった一人で密葬をすませたという。了治は目を瞑り、組み合わせた両手に力を込めた。
「お祖母ちゃんは、死んでくれたんだと思います。最後に会ったときに、今思えば、正気に戻ってたみたいなんです。セイカが誰だかわからないくらい、認知症が進んでたのに。ワンワン泣きながら、ゴメンね、ゴメンねって、何回も謝って……。なだめながら、そろそろ仕事いくね、って言ったら、お祖母ちゃんは、ベッドに正座して、三つ指ついて、さようなら、お世話になりました、って言ったんです。その日の夜中に、事務所で待機してたときに、病院から携帯に電話が掛かってきて……」
 手の甲で涙を拭い、セイカは鼻を啜って息を整えた。
「お祖母ちゃんは、夜勤の看護師さんが見回りにきたときには、冷たくなってたんです。ベッドから床に、頭から落ちて。病院の先生は、打ちどころが悪かった、って言ってたんですけど、きっと、わざと、弾みをつけて落ちたんだと思います。セイカに、お金の負担を掛けないために、死んでくれたんだと思います。病院側にもミスがあったらしくて、未払いの入院代は、チャラにしてもらえました。そのうえ、見舞金までもらえて……。お祖母ちゃんは、お母さんの借金まで減らしてくれたんです。でも、金融屋さんって、すごいですよね。どこから聞きつけたのか、お葬式の日に、見舞金を領収書と引き換えに、袋ごと持ってっちゃいました」
 セイカは、泣きながら笑顔を作った。了治は、大変だったね、としか言葉を掛けてあげられない。両親は十数年前に離婚していて、以来県外へ去った父親とは会っていないという。母親は実家で一緒に暮らしているが、パチンコと男に浸った毎日を送り続けているらしい。了治は、横臥の体勢になり、横たわる栗色の細くて長い髪を見つめながらため息を押し殺した。セイカは、涙がこぼれる目を細めながら口を開いた。
「お祖母ちゃん、私に何回謝ったかな。お母さんのことで。たしかに酷いお母さんなんです。暇なくせに、実の母親のお葬式にも顔を出さないくらいの」
 また手の甲で涙を拭い、セイカは口を閉じた。再び息を整えると、細い二の腕をあげ、五百円玉大のケロイド痕に遠くを見るような目を向けた。
「この傷痕は、小学三年生のときに、お母さんに、熱湯を掛けられてできたんです。酷いですよねえ……。男にフラれた腹いせに、八つ当たりされたんです。石油ストーブに載ってた薬缶を振り回されて。痛くて、熱くて、怖くて、しばらく身動きできませんでした」
 綺麗な横顔に寂しげな笑みを作り、セイカは遺恨と追懐を浮かべた目を天井に向けた。声帯は振動したがついに声にはならず、了治は黙する。
「あとね」
 セイカも横臥の体勢になって了治と面と向かい、無理に悪戯っぽい目をして人差し指で鼻梁をなぞった。やはり小学生のころに「ガイジン」とからかわれた了治のそれと同じくらい高いが、中程で少し曲がっている。
「お母さんに、殴られたんです。小学五年生のときに、グーで思いっ切り。そのときに、骨が折れちゃったのかな。鼻血が止まんなくて、すっごく怖かった……」
 ぎゅっと手握られるような感覚を胸の奥底にしまい込みながら、了治はため息混じりに言った。
「虐待……だよね」
「そうですね。小さいころ、お父さんが家を出ていったころから、お母さんにはよく殴られました。お父さんそっくりの顔が、気に入らないって。大きくなってから、テレビのニュースで、児童虐待の特集を見て、よその家でも似たようなことが、あるんだなあって思いました。セイカも、殺されそうになったことが、何回かあるんですよ。あんたなんか産まなきゃ良かった、って喚かれながら」
 目を薄く閉じ、セイカは口も閉じた。なにかがつまったように、小さく喉を鳴らす。
「……それに、殺されるより酷いことも、されたし」
 殺されるより酷いこと? 掛け布団に隠れている帝王切開の傷痕が、了治の脳裏をよぎった。セイカの胎児に対する虐待だろうか。そもそもセイカが強姦され、孕まされた相手は母親の男なのだろうか。母親が男を繋ぎ止めるために、娘を利用したのだろうか。

 了治は、自分が恥ずかしくなった。少年期に母親から精神的虐待を受け続けたなどと思い込み、悲壮感を漂わせてきた自分が。文江はいつも、なにがあっても了治の存在を肯定してくれた。了治は、小学校から大学院まで優秀な成績で卒業及び終了し、役所に入ってからも仕事に打ち込むことができた。そのエネルギーの源は、母親から注がれた過剰な愛情だった。弟の了介は、母親の愛情を兄に奪われ、半ば無視されながら育った。了治と弟は、そこが決定的に違う。
 細めた目で、セイカはまた微笑んでいる。人間は本当に悲しい思い出を語るときには笑顔を作るというが、了治にそんな経験はない。
「借金が、まだ三百万円以上あるから、返すの、普通の仕事をやってたら、とても無理ですよね。いつかは、こんな仕事を、やるんだろうなあって、前から覚悟はしてたんです。これ以上、借金を増やさないように、お母さんから保険証と携帯電話を、取りあげちゃいました」
 セイカは口角をあげて笑って見せたが、剣呑な話だった。サラ金や携帯金融からそれだけ借りれば、利払いだけで稼ぎの大半は消えるのではないか。セイカの身柄も危ういかもしれない。
「三百幾らの中には、自分で借りた分もあるから、仕方がないんです」
 自らを鼓舞するように、セイカは作った笑顔のままで言った。白い歯を覗かせながら吐いたため息が、遠慮がちに痛切を響かせて宙に漂う。
「彼氏と二人で、中古のセルシオを買って、ローンはセイカが全額払ってるのに、まだたったの一回しか、乗せてもらってないんですよお。酷いですよねえ」
 とっくに諦めたような、乾いた小さな笑いが続く。彼氏の職業を尋ねると、無職です、という湿り気のない答えが返ってきた。了治の意識がセイカを取り巻く状況の認識を拒もうとする。インフルエンザの高熱と疼痛と倦怠に、ただ堪えねばならないような無力感に襲われる。セイカも、ずっと失望感に苛まれ続けているのではないか。了治は、体が震えそうになるのを堪え、小さく息を吐いた。セイカを庇ってやる義務すらない。無力感は重なる。 一方で、セイカは安堵したように大きく息を吐いた。
「なんだか、スッキリしちゃいました。この仕事を、やるって決めてから、やる理由は、誰にも、店長にも言わなかったんです。言いたくなかったんです。でも、ほとんどのお客さんに、訊かれるんですよねえ。どうして、こんな仕事をやってるのって。ただお金がいるからって答えて、ずっとごまかしてたら、疲れちゃいました」
 セイカは、足掻くことを止めた目にうっすらと涙を浮かべていた。悲しみを滲ませ、泣き笑うように。母親と彼氏に「沈められた」デリヘルの仕事で、変態野郎の相手をさせられ、挙句に強姦までされてしまった。多くの男から下腹の傷痕について、ときには引き裂かれるように、根掘り葉掘り訊かれているのも想像に難くない。「優しいほうのオイカワ」と関係を持つのは、寂しさや辛さを紛らわすためなのだろう。
 幾つもの悲しい過去を持ち、屈辱に塗れた苦しい現在を生きているのに、それでもセイカの瞳は清んでいる。その下の隈が清らかさを際立たせていた。了治は、距離を縮めて底の深い瞳を見つめ続けた。涙と了治の顔を表面に浮かべた双眸は、孤独と静謐を僅かばかりの青緑の色素で表現しながら清み切り、瞬くたびに複色の淡い光を放つ。心が潤い、体が癒され、この世の理不尽への怒りが鎮められる。乾く季節のない長崎の空気が、街の世俗的な灯りの星々のごとく輝く長崎の夜景が、そうしてくれるように。
「セイカの本当の名前ね、シムラメグミっていうんです。名字は知ってますよね。ココロザシにムラで志村。名前は、天の恵みの恵です。セイカね、本当の名前が、すっごく気に入ってるんです。名字にも、名前にも、心って字が入ってるから」
 口角をあげ、セイカはこぼれかけた涙を指先で押さえながら微笑んだ。人伝であれば聞き流していたに違いない。しかし、清浄潔白な瞳を見つめ、いつしか絡め合った脚に心地良い温もりを感じながら耳にすると、なにものにも決して汚されない清らかさが、心にジンと沁み込んできた。
(天の恵みの、恵……この子に相応しい名前だ)
 了治は、静かに目を閉じた。

 一時間延長して、了治はまたセイカに仮眠を取らせることにした。温かい寝息が心地良い。セイカは了治の肩口に鼻先を当て、了治の腕を抱いている。幼女ように腕の主を頼り切った姿は、否応なしに結婚して間もないころの及川小春を思い起こさせた。
 阿蘇の大観峰(だいかんぼう)から見あげた星空のような、光を鏤めた黒い瞳を目にして、了治は爛々とはこういう様を言うのかと思った。区役所の合皮の長椅子に小春と並んで座り、窓口に提出した婚姻届と養子縁組届の審査を待っていたときのことだった。
「了治さんを一目見て、この人この人、私の運命の人は絶対にこの人、って直感したの」
「生涯で一番好きになった人とは結婚できないってよく言うけど、そんなことないよね。だって、私は、了治さんと結婚できるんだもん」
「お祖父様のご遺言だから仕方がないけど、本当は私、子供はしばらく欲しくないの。二人だけの生活を楽しみたいから」
「亀山さんの結婚式で私が着てた真っ赤なドレスを覚えてる? 本当はね、すごく恥ずかしかったの。でも、滅多に会えなくなってたから、絶対に了治さんの目に留まるように、頑張ったの。あとね、うちで親睦会を開いたときも、亀山さんから了治さん好みの服装を聞いて……」
 小春は、奥二重の瞼をしきりに開閉させながら、間もなく夫となる男を相手に待ち時間中ずっと声を弾ませ続けた。戸籍の届出はめでたいものばかりではない。了治は、周囲の人たちを気に掛けつつ、笑顔を作りながら聞いていたが、素直に嬉しくもあった。しかし、小春の了治に対する感情は、そののち二年の結婚生活を経て百八十度転回してしまった。
「宗教なんぞがあるけん、この世から戦争のなくならん」
 尊敬していた祖父の賢治が一族の年賀の席でよく口にした言葉は、まだ幼かった了治の脳裏に一種の教義として焼きつけられた。いつも背筋をピンと伸ばし、引き締まった表情を滅多に崩さなかった賢治に対して、了治は長ずるに及んで畏敬の念すら抱くようになった。
「陸軍が天皇ば現人神に祭りあげて、官僚がその宗教じみた思想に迎合せんやったら、あぎゃん悲惨な戦争は起こらんやった。お前は官僚として生きていくとなら、そのことば決して忘るんな」
 薩摩隼人の血を引く元職業軍人で、極端に口数が少なかった祖父からもらった最後の、そして最長の言葉だった。
 及川家の信仰は、大きすぎる問題だった。了治は、自分の無宗教心をついに曲げることができなかった。及川家が信じ尊ぶ「聖神教」を受容することも、養父となった正夫のように寛容することもできなかった。熊本には宗教に保守的な人間が数多くいる。了治はその典型で、神道、仏教、キリスト教以外は宗教として認めていなかった。新興宗教に入信できるだけの思考的柔軟性も、一種の無邪気さも生来備えていなかった。

「御聖神様」が九字を切った「御手」で「御施しを授けた」ときに、胃癌で余命宣告を受けた小春の祖父、及川精太郎の腹部に黄金の閃光が宿ったのだという。及川家の信仰は、その「奇跡」を目の当たりにした小春の母、貞子からはじまった。教祖がその場で「特殊御祈願」を行ったおかげで、精太郎は国会議場に戻ることができ、天寿をまっとうすることもできたのだそうだ。
「聖神教」の最大の売りは、「医者が匙を投げた病を治せる」ことだった。無論、治せるわけではない。死に至った信者の家族に言う。「御導き」が遅きに失したがゆえに、宿った黄金の光が小さすぎたと。信心が篤くなければ「聖なる光」は視覚で感じ取れず、「御力」は患部に効能しないのだと。僅かばかり起こった病状の好転をことさら強調し、それさえも奇跡と呼ぶ。
 結納を交わした日の午後に、了治は小春と貞子にはじめて「教会」へ連れていかれた。教会とは、主としてキリスト教会を意味する。小春と貞子の母校はカトリック系だ。教会、教会、と二人は当たり前のように口にしていたので、了治はてっきりカトリック教会だと思っていた。しかし、「教会」の駐車場で車から降りてまず目にしたのは、白亜の天守閣だった。
 小春は、平坦な住宅街に忽然と立つ三重櫓を誇らしげに指差して、あれは天神閣よ、と唖然としている婚約者に告げた。了治は、熊本城の三つの天守閣と比較しながら宇土櫓に一番近いと思った。ここの教祖は二十万石級の大名、小西行長みたいなものか。「あれには誰でも入れるの?」と小春に尋ねると、「私たちはまだ入れないの、選ばれた人しか入れないのよ」という答えが返ってきた。
 三人揃って合掌一礼し「御聖門」を通り抜けると、了治は「説法部屋」に連れていかれ、葵巴の家紋の入った白装束を身に纏う高慢な「説法者」から「御教え」を説教された。「天神」と人間との間に存在する「御聖神様」が、「世界人類を救済してくださる」のだという。
 豪華絢爛な書院造りの「御聖神殿」では、バスケットボール大の地球に立った「大宇宙神の分神」たる教祖の銅像と、テレビ画面に映った教祖の長男である「二世様」の前で、了治は跪かされた。二百人程の信者ともども額を畳に擦りつけ、「御聖神様御聖神様……」と教祖の尊称をひらすら復唱することに、屈辱を感じないわけにはいかなかった。「御唱え」の大合唱は念仏よりはるかに不快で不気味で、了治の鼓膜を暗く震えさせた。
「説法部屋」や「御聖神殿」には、幾つもの教祖の全身写真が見受けられ、多くは鴨居の上から絶妙な角度で、強すぎない威圧感を与えつつ了治たちを見下ろしていた。なるほど目力があり、しっかりと張った顎は大将のそれで、一代で二十万石級の平城を築くだけの人物に思えた。頭皮はフサフサとした毛髪で覆われていたが、明らかにカツラなのが了治には可笑しく思えた。
「御聖門」へと続く真っ白な砂利敷きの「御教えの道」を三列縦隊の集団で鈍々と歩きながら、了治は人酔いではない気色悪さを感じた。両脇にあるガラス張りの長屋では、人形と模型を使って小作人の倅からなりあがった教祖の逸話が再現されていた。
「硫黄島戦線からの奇跡の御生還」では、なぜか教祖は軍服の上に白菊の花々で紡がれたチョッキを身に着け、帰還を祝う群集に手を振っていた。「御聖行」が行われた東北地方の山々は勝手に命名されていて、正式名称は括弧書きで併記されていた。元号も変えられていて、聖神何十何年(昭和何十何年)と記されていた。寒村で病人に「御施し」をしている教祖と脇で土下座をしている村人たち。掘っ立て小屋で数人の信者に囲まれての教祖降臨……。
「御聖神様と二世様を心から信じていれば、私たちはどんな病気に罹っても治してもらえるの」
 すぐ隣を歩いていた小春は、黒い瞳を気持ち悪く輝かせながらそう言った。しかし、ありとあらゆる病を治せる「御聖神様」は多臓器不全で、一説によれば癌で死んでいる。いずれにしても、世界人類のすべての痛みや苦しみを一身に背負って、六十七歳の若さで旅立たれた、らしい。

 教祖が死に、二代目が「御力」を相続して以来、「教会」や「支部教会」には葵巴の家紋がデカデカと貼り付けられた鉄筋のハコモノが増殖していた。莫大な工事代金は気前よく蹴り出され、法外に上積みされた分の額が二代目の袖の下へ蹴り返される。そんな構図が了治には透けて見えた。
「賛助金」という名の献金は、一人一年につき三万円。葵巴が模られた藍色のバッジが下賜される。家内・交通安全、受験合格、安産などの「御祈願」には、それぞれ数千円が掛かる。「高額賛助金」は、一人一年につき最低十万円。下賜されるバッジの色は金に変わり、新規の「賛助金」を集めてくる信者と同様に厚遇を受ける。望む神託を頂戴できるらしい。
 毎月発行される会報誌は、百ページに満たないのに一冊千円。一家ではなく一人一冊の購入が推奨される。購入する冊数が多いほど、一家に御利益があるのだという。勧誘した幽霊信者の分も含め、小春には毎月計十冊が郵送されていた。「家族信仰」は形式さえ整えば、つまり人数分の賛助金を納めさえすればいいのだが、徹底されていた。
 上限が設けられていない賛助金。諸祈願代、会報誌代、神体代、その他の諸雑費。サラリーマンの平均年収の約一割を、生涯においては家一軒が建つ金を信者に納めさせるシステムが緻密に構成されていた。
 白い修行衣姿の信者たちは平城内で直参を気取り、優越感に満ちた顔つきを見せていた。自身や身内の不幸自慢に加えて、誰々に何々をしてやった、「教会」に幾ら金を使ったという善行自慢に、了治は閉口した。

 一人娘の唯は、生まれて間もないころから「聖神歌」を貞子に歌ってもらい、「御聖神様と二世様」と題された漫画本を小春に読んでもらうことが日課となった。おかげで、はじめて口にした単語は「ごしぇし」だった。貞子と小春は歓喜の声をあげ、その場に居合わせた了治は心臓が止まりそうになった。
 午前様で帰った日の夜明け前に、唯が夜泣きしてるのにどうして寝てられるの? と小春に真顔で叩き起こされることには我慢できた。しかし、一ヶ月ぶりに取れた休日の朝に、お休みなのにどうして教会にいかないの? と叩き起こされることには我慢できなかった。了治は、何度も自分の無宗教心について話をし、小春に理解を求めた。
 戦後のどさくさに紛れて誕生し、死んだ教祖のカリスマに帰依し続け、病気の治癒をはじめとした現世利益を安易に売りさばく、単なる昭和の新興宗教。了治は「聖神教」をそう結論づけながらも、結婚してからの一年間は、及川家の人間になったのだと自分に言い聞かせ、養父の正夫に倣い、月に一度は「世界平和人類救済の中心地」に足を運んだ。
 しかし、その「教会」と言う名の平城に入るたびに、精神に加えて肉体も拒絶反応を見せた。嫌悪からくる身震いは堪え難かった。水前寺成趣園さながらの桃山式の庭園。豪壮な和風建造物と、「御宸居」とも呼ばれる白亜三層の天守閣。「二世様」が乗った金ピカの「御鳳輦」を目にしたときには吐き気を催した。
 そろそろお召しになってよろしくてよ、と貞子から聖神教を意味する「SSK」の刺繍が胸元に入った白い修行衣を渡されたときに、了治は意を決した。「教会」にいかなくなった婿を、貞子は激しく非難した。小春は不思議がった。
「どうして教会にいかないの? いくだけでも御聖神様の御加護がいただけるのに」
「最近は忙しくて毎日午前様で疲れてるでしょう。そういうときこそ教会にいくべきなの。いくだけでも日々の生活の疲れがとれるんだから」
 小春の妄信的な言い種に、了治は怒りすら覚えた。同時に寒気がした。宗教的快楽に溺れた――性交の高まりつれて開かれたときと同様に――妻の目は気色悪かった。勃起不全の原因は、出産の立会いにではなく、その鈍く光る黄みを帯びた黒目にあったのかもしれない。
 男は了治しか知らなかった小春だが、回を重ねるにつれて淫らになっていった。単純に反復される二拍子の律動は、高まりいくと小春の口から発せられた、「ごせいしんさまごせいしんさま……」と暗く薄気味悪く了治の鼓膜に染み込む二拍子の連呼と重なり、女の快楽を倍加させた。性交と宗教の二重の快楽に溺れた妻の姿は、夫の勃起から射精へと至るシステムを徐々に壊していったらしい。
「御唱えとかいう教祖の尊称を連呼する行為は念仏とどう違う?」
「君やお義母さんがライバル視していつも悪く言う学会と聖神教の違いは?」
「将軍様の金正日と二世様の山瀬行雄はどう違う?」
 小春から答えは返ってこなかった。問いを発するごとに了治の語気は荒くなり、「不肖の夫」を敵視する妻の目頭は角度を鋭くしていった。

 了治の浮気の発覚が、離婚の引き金となった。熊本への出張の帰りに職場に寄り、たまっていた仕事の一部をさばいて、一棟丸ごと小春名義のマンションに帰ったときには日付が変わろうとしていた。玄関ドアを開けると同時に、椅子に座って待ちかまえていた小春から名詞のコピーを突きつけられた。
「ブルースカイ 亜弥」の文字を目にして、了治は手で頭を抱えた。羽田空港から直帰した亀山光次は、そういうことに関しても間が抜けていた。了治の相手は「菜々子」だったが、そんな名刺は当然処分していた。ソープランドを出たあとに、熊本女は情が深くてヨカですねー、とはしゃいでいた亀山にもそうしろと言ったのだが、サービス料を貸した恩を仇で返されてしまった。小春と亀山麗子は、夫の相互監視条約を結んでいたらしい。
「こういう所へいく人だなんて思わなかった」
 小春は、水商売の女と正反対のことを言う女だった。
「あなたみたいに真面目そうな人は、ウチみたいな店の女の子とデキたりはせんでしょう。風俗ですませるタイプよね」
 前日、クラブの熊本女のママは了治に遠慮なしにそう言ったが、ご名答だった。
 了治は謝ったが、母親になって以来、頑を表に出すようになった小春は、私は身も心もあなた一人しか知らないのに、と言って許す気配を微塵も見せなかった。品行方正な男と夫婦になった。そんな幻想までもが崩れ、夫の不信心への怒りは倍加した。小春の感情の波は大潮のように防波堤を越えたが、了治は心の底からは謝らなかった。出張先での仕事上の付き合いでやむをえなかったのだ。地方では飲みにいったあとの締めが風俗であることも間々ある。それに、勃起不全で事を果たしてはいない。そう開き直っていた。
 女性と接することは極力避けたい、結婚はしなくてすむのであればそれにこしたことはない、と了治は思っていた。しかし、性欲は生ずる。不能不発を克服した中洲にはじまり、新宿、渋谷、吉原、出張でいった地方都市。結婚前は風俗店で性欲を処理していたので、罪悪感も品行方正な男ほどは抱いていなかった。それでも、はじめてだから許してくれ、付き合いで入っただけでなにもしなかった、と言うべきだったが、了治は出張帰りで疲れ切っていた。
「こういう所へいったのは、はじめてだよ。君と結婚してからはね。風俗にいくのは、オナニーをするのとたいして変わんないんだよ。人に手伝ってもらうか、自分だけでやるか。違いはそれだけだ」
 了治は、さらにたまっていた鬱憤まで晴らしてしまった。
「僕みたいな男が風俗にいくのと、君たちが教会にいくのは、結局同じことなんだよ。肉体を慰めてもらうか、精神を慰めてもらうか、違いはそれだけだ」
「教会」では集団オナニーがなされているとまで言い切ったのは、夫の心の中にある部屋のすべてを占拠しなければ気がすまない、典型的なお嬢様で我儘な妻に対する不満が爆発したからだった。小春は潮が干るように血の気を失い、絶対に許さない、と宗教的な呪いを掛けるような声音で呟き、寝室に駆け込んだ。その日を境に、二人の寝室は別々になった。会話はほとんどなくなり、結婚生活は実質的に終わってしまった。潔癖症の妻は、一人娘も夫から遠ざけるようになった。「唯一無二の聖なる現人神」に背を向けた婿を、貞子と小春は容赦なく切り捨てる決意を固めた。あとは潮合を見計らうだけだった。
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