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Ⅶ
弟・了介④
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(むなしいねえ)
了介は、ため息を吐き、長テーブルの上に飲みかけのジョージアのロング缶を置いた。続けてタオルの入った白い紙袋と年季の入った黒革の集金バッグを置き、パイプ椅子に腰を下ろして駅売りの朝刊を広げた。ライブドア社長に実刑判決が下ったことに興味はないが、とりあえずその記事を読みはじめる。自宅で取っているライバル紙との論調の比較には持ってこいのネタだし、ほぼ同じであるとしても暇潰しには悪くない。新聞拡張団の朝礼が時間通りにはじまることなどまれだ。
「了介さん、おっはよーっす。いやあ、今日も外は寒いっすねえ。もう三月も後半だってえのに、春はどこにいったんだか。冷蔵庫に入ってるみたいだったから、暖房の効きが悪くても事務所の中は天国だわ、天国。知ってますう? 急に雲行きが怪しくなってきたっすよお。昼から冷たい雨、いいや、季節外れの雪が降るっすよ、絶対。参ったなあ」
中村祐一は顔を顰め、丸刈りがだらしなく伸びたモンチッチのようなの髪を両手で掻きむしった。新聞をまったく読まないこの拡張員は、今日の降水確率が低いことを知らないらしい。さも当然のように了介の隣のパイプ椅子に腰を下ろすと、だぶついたジャンバーを羽織った小さな上体を丸め、貧乏ゆすりをしながら長テーブルの上で伝票を書きはじめた。前日に稼いだ契約カード料の半額を前借りするためだ。
祐一は、なにかにつけて餌をねだる小動物のように了介に纏わりついてくる。自称二十歳。ボールペンを持った小さな右手の甲はすでに張りを失っていて、実年齢が二十代後半であることを物語っている。
「昨日ついたピンサロの姉ちゃん、最高だったすっよお。マキちゃん、十九歳。若いっすよねえ。肌がピッチピチでえ、めっちゃ可愛くてえ。東武線沿いじゃあ、あんな子には滅多にお目に掛かれねえっすよ。これがさあ、また上手くてえ。けっけっけっ……」
甲高い声で嗤う祐一に、この前オレも本ヘルで当たりを引いたぞ、とは言わない。この小男は千円札を数枚持っていることはあっても、万札とはほとんど縁がない。了介は、そうか、とだけ相槌を打った。たまに牛丼並盛を奢ってやることはあるが、風俗までねだられ、纏わりつかれては堪らない。
祐一は、ボールペンを伝票の上に転がして上体を背もたれに預けた。口は動かし続けている。百のうちに一つか二つは有益な情報が含まれているので、了介は耳を傾けてはいる。しかし祐一の話は脈絡がなく、しかも延々と続く。おしゃべりな小男を一刻も早く玄関から追い出したいがためだけに、契約カードに印鑑を押す客もたまにいる。
(こいつは昨日、何本あげたんだっけ)
朝刊の頁を捲りながら、了介は長テーブルの上に目をやった。「2000」と前借り伝票に殴り書きされている。たった一本。しかも三ヶ月契約ということになる。その報酬である契約カード料の残り半額は、給料日に祐一に支払われることはまずない。借金返済と馬鹿高い寮費の名目で、拡張団に吸いあげられる。前借りする必要のない了介は、拡張団に借金もない。寮には入らず、事務所の近くに安アパートを借りている。お気楽な独身貴族と言ってもいい。一方で、今日の、下手をすればこの先一週間の食い扶持がたったの二千円といった、祐一のような「乞食拡張員」も複数人いる。
了介は、成績優秀な拡張員だが、「連歓」は苦手だ。とくにその勧誘で連れ立つ相手が祐一のときはカードがほとんどあがらない。新聞拡張員は嘘をついてナンボの商売でもあるが、祐一の隣で嘘を耳にするたびに口を開くことすら億劫になる。「泣き歓の祐一」と呼ばれるこの年齢詐称男は、新聞社名の刺繍が左胸に入ったジャンバーを着て、勧誘の際に新聞奨学生を装い、客の前でなんのためらいもなく顔をくしゃくしゃにして、涙声で真っ赤な嘘を吐く。
「人助けだと思ってえ、三ヶ月だけ付き合ってくださいよお。私立理系なんでえ、大学の学費が馬鹿高くてえ、奨学金だけじゃ賄い切れなくてえ、拡張で稼がなきゃなんないんですう。大学の事務局には未納分を分割払いにしてもらってるんすけどお、今月分は明日までに納めなくちゃなんなくてえ、今日契約が取れないとお、退学になっちゃうんすよお」
実際の祐一は、新聞奨学生が夕刊配達を終える時間まで、スーパーや公園のベンチで昼寝をしているか、販売店から渡された契約実績のある客の「過去読リスト」や住宅地図のコピーと睨めっこをしていることが多い。出所の不明な軍資金でパチンコを打っていることもある。
まだ若いんだから汗水垂らして働けよ、と言いたくもなるが、その台詞はため息とともに飲み込こまざるをえない。了介自身が拡張員になったのは、二十七歳のころだった。それに、現役の大学生がセールスメイトと名乗り、アルバイト感覚で拡張団に入ってくることもさほど珍しくなくなっている。朝刊を八つ折りにして長テーブルの上に放り投げ、了介は腕を組んだ。口を引き結ぶ。祐一は、小さな体から熱を発しつつ、パチンコ「大海物語」のリーチパターンについて独り合点に頷きながら語っている。客の前でもそんな風に怪気炎をあげてみろよ、と了介は思いつつ苦く笑った。
(熊大にいってたら、オレの人生、どうなってたんだろうな……)
高校の隣の駅弁大学なんかにいったって、と数年前までは強がっていたが、今となっては若気の至りだったと後悔しなくもない。現役で熊本大学に合格したのは、十四年前のちょうど今ごろだった。了介は、学校の先生から「日下部の弟」とよく言われた。中学校や高校では、お前は本当にあの日下部了治の弟か? と生活指導の先生に真顔で尋ねられたこともあった。父親似の了介と、母親似の一学年上の兄は、一見たしかに顔も体格も性格も似ていない。
兄の了治は、熊本人が好む文武両道の典型的な優等生だった。小学校で児童会長を、中学校で生徒会長を務め、いずれも卒業式では総代を務めた。読書感想文に硬筆、毛筆に絵画と、市のコンクール入選の常連だった。部活動でもたびたび表彰を受け、高校三年生のときにはインターハイと国体に出場した。高校の卒業式の総代の座は首席のガリ勉女に譲ったが、運動部活に所属する生徒としてはただ一人だけ三年間トップテンの成績を取り続け、現役で九州大学に合格した。
了介は、上背のある典型的な美男子だった。運動神経も良く、運動会の徒競走ではいつも一等賞だったが、兄程の集中力を持ち合わせていなかったせいか、目立った表彰を受けたことはなかった。勉強は嫌いであまりせず、成績は中の上だったが、受験勉強だけは人並みに頑張った。高校受験のときは、了治と同じ進学校にいきたかった。大学受験のときは、兄に勝てないにしても負けたくはなくて九大も受験した。了治が九大入学に伴い実家を離れるやいなや、抜け殻のようになってしまった母の文江の姿を高校三年生の一年間目にし続けながら、了介は兄に抱く感情をより複雑なものにしていった。
浪人するかどうか迷っていたときに、文江は、しょせんあんたに九大合格は無理だったのよ、と言わんばかりの顔をして、当然のように熊大入学の準備に取り掛かった。金の遣り繰りの上手い母は、端から兄を大学院まで進学させる気だった。家のローンもまだ残っていたので、了介を予備校生にする気も、県外の大学にいかせる気も、さらさらなかった。
了介は、実家を出るを決意し、部活動の先輩に倣い、新聞奨学生として働きながら予備校にいく道を選んだ。文江は、馬鹿な子だと言いたげな目をしながら、好きにしなさい、と投げやりに言った。父の了三郎は、市内の予備校にいってもう一回九大ば目指せ、と言って反対したが、了介にその気は失せていた。一浪して受かったとしても、兄に負けたことになる。浪人するからにはより偏差値の高い大学に受からねばならないが、国立大の五教科受験では無理のように思えた。三教科に絞り早慶上智を受験すると決意して、十八歳の誕生日に上京した。
「おっといけねえ、前借り前借り」
祐一がそう言ってようやく口を閉じ、伝票を片手に立ちあがると、入れ替わりに諸田正三がねっとりとした加齢臭を漂わせながら、よいしょ、と言ってパイプ椅子に細い腰を下ろした。ボサボサの白髪交じりの薄い頭が、フケを二つ三つ降らしながら迫ってくる。それを誘導するように、細い人差し指が前後に動く。
「クサカベちゃーん、いっぽん。一本でいいからさあ、見込み客、紹介してえ。苦しいのよお、今月」
(毎月じゃねえか。胡麻塩まだら禿オヤジ)
正三の鳥の巣のような髪を一瞥して、了介は口元だけで笑った。祐一も正三も、新聞拡張員に不可欠な狡さを備えているものの、客の前では上手く立ち回れない。
「ないっすよ、そんなの。オレが紹介して欲しいくらいっす」
「またまたまたあ。いいじゃない、一本くらいさあ。たんまり稼いでるくせにい」
了介は、片眉を吊りあげる。各販売店から課された毎月のノルマを達成すれば、拡張団に賞与として「まとめ料」なるものが支給される。そのおこぼれを正三も頂戴できるのは、準エース格である了介が本数を稼いでいるおかげだ。諦めの良さだけは一級品の老いた拡張員は、すでに砕けている腰をあげた。
このまだら禿オヤジの口癖は、しょっぱいなあ、だ。胡麻塩の塊を口に含んでいるかのように、シミの目立つ骨張った顔を歪めてしばしば呟く。拡張員ズレしてまともに取り合ってくれない、「しょっぱい」客が年々増えているのはわかり切ったことである。着た切り雀の正三は、競馬に注ぎ込む数枚の千円札があるのなら、いずれも見るからにしょっぱそうなブルゾンかズボンかスニーカーを買い換えるべきだ。
「置き歓の正三」と呼ばれるこの還暦の痩せぎすオヤジは、よくある名字の客に洗剤を挨拶代わりだと無理やり受け取らせる。あるいは、閉まったままの玄関ドアの脇に置いてくる。名前と電話番号は公衆電話備え付けの電話帳で調べて住所ともども「代筆」し、手持ちの認印を押して契約カードをあげてくる。販売店が行う監査で「置き歓」とバレても、すっとぼけるだけだ。おっかしいなあ、とほとんど毛のない頭頂部を撫でながら嘯く。
石川県出身の正三は、金沢大学中退だ。安酒に酔うと顔を赤黒く染め、オレさー、昔、名門国立大にいってたんだよねー、と言って色のさめたしわくちゃの学生証を財布から大事そうに取り出す。旧制第四高等学校の金沢大学中退と、旧制第五高等学校の熊本大学入学辞退。あげる契約カードの本数の桁は違うが、正三と了介の学力偏差値はほぼ同じである。人生いきついた先の職業が同じであることにも、了介はやるせなさを覚えずにはいられない。
祐一と正三は、食うや食わずの乞食だと、単なる頭数だと拡張員仲間から蔑まれている。祐一はまだ若いが、新聞販売店に売られても専業店員としては使い物になりそうにない。配達だけでも三日と持たず音をあげそうだ。正三は年齢的に、それ以上に見た目からして論外で売物にすらならず、新聞拡張団から見捨てられれば、どこかの公園かガード下をねぐらにするしかない。
「集合、朝礼はじめるぞ」
清水部長の低くて太い拡張用の声が、小汚くて狭い事務所内に響き渡った。若いころはやり手の地上げ屋だった男の、柄のよろしくない声だ。恰幅の良いこの中背の四十男には、アイロンパーマと派手なダブルのスーツが似合っている。事務所内に蠢いていた男たちは清水の声に反射して立ちあがったが、了介は茶色い缶の中身を飲み干したあとにゆっくりと腰をあげ、人だかりの尻についた。
団内切っての問題児で、客を脅すことでしか契約カードをあげられない「喝勧の浩二」は、今日も遅刻だ。昨年末に前の部長が独立して新団を設立し、腹心の班長とその班員を丸ごと引き抜いていった。深刻な人手不足であるがゆえに、山田浩二も戦力として勘定に入れねばならない。大川団長のスモーカーぶりがヘビーからチェーンに格があがるのもやむをえないと思いつつ、その原因の一端が自分にあることにふと気づき、了介は苦く笑った。
朝礼といっても、この道三十五年のずんぐりした大川が、はち切れそうなジャケットの襟を正して訓示を垂れることはまずない。全員で掛け声をあげることもない。進行役の清水が口にしたのは、各班のノルマ達成までの残り本数と、了介の属している佐竹班ともう一班が入る販売店の変更だけだった。拡張団の予定は未定だ。当日になっての販売店変更は珍しくない。
「なにがなんでもカードをあげてこいや」
オールバックの白髪頭の大川が、太い指で両切り煙草を部長席のガラス製の灰皿で揉み消す。太くて短いスラックスのポケットに手を突っ込んで、団栗眼を三角にして凄みを利かすと、拡張員たちは一斉に背筋を伸ばして礼をする。そして、一斉にだらしなく背筋を丸めた時点で朝礼は終わる。セールスチームとセールススタッフ。新聞紙面で新たな公称をえても、拡張団も拡張員も十年前となにも変わっていない。新聞セールス証を左胸に着けることを義務づけられるようになったものの、多くの拡張員はビール券と一緒にセカンドバックにしまい込んでいて、客から求められない限り出そうとはしない。
(あそこは、おいしいけど嫌な販売店だ)
「へ」の字になった了介の薄い唇の隙間から、小さなため息がもれた。
「日下部、ちょっといいか」
清水は、少々高い地声と厚みのある手で了介を背後から呼び止めた。五つの太い指先が、ブルーのトレーニングスーツ越しに一瞬だけ肩に食い込む。追い越していった清水の小岩のような背中に従い、了介は団長室へ向かった。部や課がある拡張団など少ない。中規模の新聞拡張団である有限会社大川企画には、班しか存在しない。部長といっても名ばかりで、団長ともども勧誘をする。おまけに、清水は班長兼任だ。
六畳足らずの団長室には窓がない。三面の壁には所狭しと額縁に入った賞状が掲げられ、残り一面を覆う古びたガラス製の展示棚にはトロフィーや盾がびっしり並べられている。しかし、了介の入団以来、新聞社から賜った表彰グッズは存在しない。了介は、裂け目の目立つ黒い合皮の一人掛けソファーに腰を下ろし、大きなヒビが入ったガラステーブルを挟んで、蹲踞した力士のようにソファーに浅く腰掛けている清水と向き合った。アイロンパーマを見せつけるように、部長が顎を引く。
「日下部、班長の件だけどよ、考え直してくれや。オレもしんどいんだ。班長兼任だとよ」
(この迫力と、この拡張用の声、それとこのソフトパンチの頭。清水さんから突きと押しを食らえば、そりゃあ客も早かれ遅かれ土俵を割ってハンコを押すわな)
団の不動のナンバーワンから目をそらしつつ、了介は改めて思う。
「前に団長にも言いましたけど、自分は班長の器じゃないっすから」
「昨日な、団長と改めて話したんだが、オレたちはお前の将来に期待してんだよ。幹部候補生としてな。去年の暮れに連中が飛ぶ前からよ、次に班長にあげるやつはお前しかいないって二人で話してたんだ」
(あんたらに期待されてもねえ。それに、新人にカードを譲ったり、班員に配る拡材を自腹で買ったりなんて、やってらんねえよ。班員のカード料の何パーセントかのマージンをもらえても、割に合わねえし)
了介は、清水にそう言ってやりたかったが、自分は一人でコツコツやるのが性に合ってますんで、とだけ落ち着き払った声で答えた。
「……もういっぺん、考えといてくれや。お前が班長になれば、マージンは十パーいくかもしんねえぞ。もちろん、班で本数をまとめればの話だけどな」
しつこく迫って、班員では稼ぎ頭の了介にまで辞められては、大川企画としては弱り目に祟り目だ。団に借金がない拡張員を縛るのは難しい。清水は、それ以上なにも言わず、眉根の皺をより深くして小兵力士のような体を屈め、仕切り直しだ、と言いたげな顔をして席を立った。
朝刊に一渡り目を通し終えたところで、急行電車が各駅に停まりはじめた。座席に腰掛けた了介は、憂鬱になっていく。空一面を覆った厚い雲のせいではない。電車が駅に停まるごとに、街との相性が徐々に悪くなっていく。「叩く」気を、勧誘する気を失い、珍しく契約カードを一枚もあげられない「ボウズ」に終わるのは、決まってこの辺りから先の新聞販売店に入るときだ。
車内はすでにガラガラで、電車が駅と駅との中間辺りまでくると、急に窓外の視界が開ける。線路沿いの大きな田んぼで、列をなした薄茶色の刈株が同色に枯れたヒコバエごとトラクターに牽引された耕耘機に均され、その後ろで数羽の鳩が地表に掘り起こされた餌をついばんでいた。空っ風は吹いていないが、車窓越しに見える田園風景はまだ冬で、了介の目には異国の荒野のように映ってしまう。
(久しぶりに食いてえなあ。蘇水亭の熊本ラーメン……。あのもっこす親爺のことだ。今も味は変えてねえだろうなあ)
防風林に護られた大きな農家屋敷と離れ家。細長い三階建ての一軒家がドミノのように並んで、今にも崩れ出しそうな小規模団地。生まれ育った街では目にしたことのない人家が、電車に乗った了介たち新聞拡張員を避けているかのように、線路から離れて点在している。佐竹班長が、右隣の席に置いた朝刊の上にドスンと腰を下ろし、了介に広いおでこで迫ってきた。興奮しているのが、膨らんだ鼻孔でわかる。ハーフコートのファスナーは、ビール腹の前まで下がっていた。
「日下部、すまんが、今日は縛りと先縛りと起こし込みでよ、七本、なんとかしてくれ。弾は用意してっから。無料招待券は、いるだけ持ってけ。オレも七本あげるからよ。あとは残りの三人で、もう六本」
これから向かう新聞販売店でも、店員の多くが当月で契約終了の現読者と再契約をする「縛り」をやらない。翌月から他紙の契約が入っている現読者の「先縛り」も当然やらないし、過去読者の「起こし」もやらない。
「今日入る販売店な、このところ部数減が続いて、新聞社から改廃の対象に挙げられてるんだと。班で二十本のノルマをクリアしたら、一本当たり千円の特別報奨金を出すってよ。もちろん現ナマでだ。それによう、山川班なんかには負けてらんねえからなあ」
と佐竹は煙草でしゃがれた声で続けて言った。真剣そのものだったが、日銭に困っていない了介にとってはどうでもいい話だった。佐竹班と山川班のブービー争いにも興味はない。剃り跡が青くて厚みのある顎を引き、佐竹は自信ありげに細い目とM字進行型のおでこを光らせている。縛りと先縛り込みとはいえ、部数の少ない販売店で七本あげるのは容易でない。佐竹班は、これから入る販売店の南北両隣にも今月一回ずつ入っている。班長がそのときに「越境」してあげ、取って置いた「隠しカード」を数本持っているのは明らかだった。
了介は、販売網の越境をしないし、あげたカードは必ずその日のうちに販売店に差し出す。隠しカードは持たない主義だ。今日のように特別報奨金が出る日には、その手の契約カードの存在は大きい。しかし客が誤って、あるいはあこぎな客が景品である「拡材」欲しさに意図的に、もしくは他の拡張員が承知の上で重複契約してカードがあがった場合には、隠しカードは販売店から差し戻される「不良カード」に変身してしまう。了介は、退却しつつある佐竹の無造作な短い前髪を一瞥して言った。
「わかりました。なんとかします。ただし、一人で回らせてくださいよ」
佐竹が班長に昇格し、その下に了介と、祐一、浩二、正三の「乞食三人組」が配置されたのは、年が明けてすぐだった。大川団長と清水部長の「幹部候補生」に対する無言の圧力である。
「もちろん。連歓NGのお前は一人で回らせないと、あがるもんまであがらなくなっちまうからなあ」
佐竹は、片肘を背もたれに突き、脚を組んで大袈裟に笑い出した。
「マッチ箱が一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十か。今度叩こうかなあ」
白い紙袋を挟んだ了介の左隣の席で、泣き歓誘の祐一が、すぎていく古くて小さい平屋建ての公営住宅の群を目で追いながら独り言ちている。そのまた隣の席で、置き歓誘の正三が、競馬新聞を握り締めて終電の酔っ払い客のような格好で鼾をかいている。喝歓誘の浩二は、正三の向かいの席で、汚いデッキシューズを履いたまま胡坐をかいて斜め上方にガンをつけている。相手は週刊誌の吊り下げ広告らしい。
(浩二のやつも、母親から愛されずに育ったんだろうな)
一瞬間同情したが、拡張団にいるやつはほとんどそうだ、と了介はすぐに思い直した。児童養護施設を脱走して、少年院を出たあとに二度も刑務所に入っていた浩二は、柄の悪さだけは一級品だ。どこでおそわったのか、民事不介入という言葉は知っている。自分でバリカンを入れている坊主頭と極細の目と無精髭と小太りの体で客に迫り、どこまで脅して、どこまで腕力を使って契約カードをあげているのか、了介は知りたいと思わない。
浩二は、翌日に前借りできる数枚の千円札欲しさに、サービスだから、あるいはモニターだから契約期間中の新聞代は払わなくていいと嘘を吐いて、「後爆カード」をあげることも少なくない。正三におそわったのか、あるいは真似たのか、安物の認印十数本と朱肉を入れた巾着を革ジャンバーの内ポケットに忍ばせていて、架空の「てんぷらカード」をあげるのもお手の物だ。どちらの契約カード料も、見つかりしだい拡張団を通して販売店に返還しなければならない。
そんなこんなで、浩二は拡張団への借金が雪達磨式に膨らみ続けていて、「パンク」するのはもはや時間の問題となっている。大川団長も馬鹿ではない。同い年の浩二が新聞販売業界以外のどこへ売られることになるのか。了介は、暖房の効きすぎた電車内にいても背筋が寒くなる。
車体が傾きはじめた。冬色の田園風景に大きな弧を描き終えると、電車は速度を落としはじめる。聳え立つ何本もの鉄塔が、お入んなさい、と長縄飛びでもしているかのように、数本の高圧電線をだらしなく垂らしている。車内に終着駅名がアナウンスされ、了介の口からため息がもれた。
どんよりとした寒空の下で、東武鉄道主導で開発された新興団地の一部と、その周辺の農村とで構成された区域を、了介は休むことなくママチャリで回り続けた。団地の奥様方が買物等で不在の時間帯には、農家の婆ちゃんや母ちゃんが屋敷で休憩を取っているからだ。それに、尻に火の点いた販売店主から頭をさげられつつ預かった住宅地図のコピーは、今月で契約終了の現読者と過去読者が色分けされているので、下手に「鉄砲」を撃つのとでは雲泥の差があった。了介は、蛍光ペンで塗られた読者の家と、自身で以前から開拓していた見込み客の家をすべて訪問した。
いつの間にか雲は去り、空は晴れ渡っていた。販売店から預かった拡材と、佐竹から押しつけられた無料招待券、拡張団から自腹で買った引き換え券、そして常備しているタオルをすべて使い切り、七本目のカードをあげたのは夕暮れ時だった。不在だった家を再訪すればもう三、四本はいけそうな気がしたが、了介は拡材を取りに再び販売店まで戻る気にはなれなかった。
終着駅の街にはパチンコ店どころか、ファミレスもファストフード店もない。了介は、県道沿いのセブンイレブンで缶ビールとつまみとホットのジョージアのロング缶を買って販売店の裏の公園に向かい、虎刈りの坊主頭のような寒々しい藤棚の下のベンチに腰を下ろし、時間を潰すことにした。風は弱いが、冷たい。今日も春の風は吹かなかった。
「むなしいねえ」
了介は、貪欲な「乞食読者」に拡材もろとも「叩く」気まで、勧誘する気まですっかり吸い取られてしまった。拡材を貪る乞食のような読者はどこにでもいるが、東武線沿いでは終着駅に近づくにつれてその数が増える。大きな屋敷を持つ農家とその分家の数と無関係ではないらしい。
――洗剤もっと寄越せ、ビール券もっと寄越せ、今日は他になに持ってきた?
妖怪のような婆ちゃんや母ちゃんから段ボール箱と集金バッグと紙袋の中身を次々とぶん取られて、了介は珍しく半年と一年のカードを二枚ずつあげた。四人の裕福な乞食に会うのは、しばらくは御免だった。
「……オレも、堪え性がなくなったな」
了介は、缶ビールを片手に苦笑した。すっかり脚が伸びたオレンジ色の夕日が、スモッグにぼかされた秩父の山々の稜線に懸かりはじめている。
「日が沈むのがはええよ、関東は。……熊本だったら、今の季節のこの時間は、もっと日が高いし、もっと明るい」
苛立つ頭に、子供のころに兄の了治と感動を分ち合った夕焼け空が浮かんだ。実家近くの公園から見える夕日は真っ赤で、金峰山の稜線をくっきりと濃く縁取っている。了介は頭を振り、残像を消した。
(感傷に浸るなんて、らしくねえよな。なんたってオレは、着け忘れの子だからなあ……)
母の文江は、了介を叱っている最中に、父さんが着け忘れんかったら、とうっかり口にしたことがあった。幼稚園の年長組のときのことだ。つけわすれんかったらって、どぎゃん意味? と了介は即座に尋ねたが、文江はバツの悪そうな顔をしただけでなにも答えなかった。小学一年生だった了治にも尋ねたが、わかるはずもない。明くる朝に父の了三郎にも尋ねてみたが、苦笑されただけだった。
(あのお袋のことだから、兄貴だけにあれこれ世話を焼いて、一人っ子として大事に育てたかったんだろうな。年子の弟なんて、邪魔なだけの存在だったに違いねえ……)
焼きあがったばかりの小学校の入学式の写真を目にして、六歳になって間もない少年なりに、やはり自分は母親から愛されていないと確信した。校舎と校門と桜の木、そして「入学式」の立て看板を背景にしたお決まりの写真の中で、了介はしかめっ面をしていた。カメラのレンズを向けられたときに出る了治の癖を真似たのだった。ツーピース姿の文江は、面倒臭そうな顔をしてレンズから目をそらしていた。
その前年に撮られた同じアングルの写真の中で、兄はしかめっ面を、着物姿の母は満面の笑顔を見せていた。了介は、赤ん坊のころから文江以外の女にはよくもて、女の子みたいに可愛か、と老若を問わずチヤホヤされた。しかし、物心ついて以来、どうすれば母さんに好きになってもらえるんだろう、と思わない日はなかった。了治は、文江に溺愛されていた。だから、いつも兄に引っついて、その真似ばかりしていた。それじゃあ、だめなんだ、と了介は悟り、写真を持った小さな指に力を込めた。
そして、了治の真似を一切止めた。兄とは正反対のことをするようになった。どうにかして母の気を惹きたかった。男女七歳にして席を同じうせず、といった風潮が当時の熊本の小学校にはまだ残っていたので、優等生だった了治は必要最低限しか女子と話そうとしなかった。了介は、「ちんちんかもかも」「女たらし」と周りの男子から陰口を叩かれながらも、あれやこれやと女子によく話し掛けた。
兄は、あまり笑わなかった。了介は、手鏡を相手に笑う練習をして、女子を相手にその成果を試してみた。自分と話している女子の大半が嬉しそうな顔をしていることに、改めて気づいた。了介も、嬉しかった。文江は、了介と話すときはいつも面倒臭そうな顔をしていて、嬉しそうな顔を見せるのは了治の自慢話をするときだけだった。
中学校では学期ごとに付き合う女子を変えた。高校では二股三股は当たり前で、何股まで掛けられるかを友だちと賭けをした。新聞屋になってからも学生、OL、主婦、お水、風俗嬢のいかんを問わず女と遊び続けた。母親から愛されたいという思いは、いつの間にか失せていた。女から広く浅く愛されることを求めるようになっていた。
了介は、佐竹・山川両班であげた契約カードの監査待ちの時間を持て余していた。電車内で佐竹に座布団代わりにされた朝刊は、終着駅のゴミ箱に捨ててしまった。夕刊を読みたいが、この新聞販売店内にはもうない。今日の予備の「残紙」は、朝夕刊ともすでに、配達しようのない「押し紙」もろとも外にある倉庫に押し込められているらしい。了介は、この販売店への新聞社からの押し紙、無理やり過剰なノルマを達成されられた結果に残る配達しようのない新聞の部数は、二区域分くらいあると踏んでいる。
(新聞社は、いつまでこんなことを続けるのかねえ。販売店に余計な新聞紙を押しつけて、拡材代を折半してまで拡張員を突っ込んで)
「へ」の字になった了介の唇の隙間から、ため息がもれる。目の前の人だかりの中には、「不良カード」であることがバレて、販売店主に突き返されはしないかとハラハラしている者もいるが、了介は余裕綽々だ。まれにあげてしまう不良カードは、重複契約絡みのそれだけだ。今日は念を入れて、契約してくれた客に確認し、区域情報を書き込んだキャンパスノートでも確認したので、その心配もほぼない。首が飛ぶ間際の販売店主は、了介のあげた七枚の契約カードを手にし、血眼になって「購読申込み」の確認の電話を繰り返している。その隣で、いつもやる気のなさそうな顔をしている主任が、販売店の廃業の危機などどこ吹く風といった表情で、パソコンに別の契約カードの読者情報と契約期間を入力していた。
(新聞販売店も変わったな。十年くらい前までは重症のパソコンアレルギー患者で、その分店員に負担を掛けてやがったくせに。今じゃあ、こんな田舎の販売店までパソコンを入れてやがる。でも、読者管理システムは、店員が縛りや起こしに使わなきゃ、宝の持ち腐れだ)
了介は俯いた。口角をあげて小さく笑うと、肩に掛けた集金バッグから「幻想即興曲」のメロディーが流れた。メール不精の加藤葵からだ。即座に携帯電話を取り出す。
リョウちゃん、今日も九時あがり? どこに入ってるの? 私は九時半ごろに仕事が終わりそうなんだけど、今晩どう? 食事代とホテル代は私が持つわよ。
「リョウちゃん」は止めてくれよな、と了介は久しぶりに思った。そう呼ぶなとかれこれ十四年も言い続けているが、葵は、私がそう呼びたいんだからいいじゃん、と言って聞く耳を持とうとしない。日下部家では、「リョウちゃん」は兄の了治を意味する。もっとも、休日も仕事でろくに家にいなかった父の了三郎は、「リョウジ」「リョウスケ」と兄弟を呼んだが、母の文江は、「リョウちゃん」「リョウスケ」と呼び続けた。葵の他にも「リョウちゃん」と呼びたがる女は少なくなかったが、了介は頑なに拒んだ。そう呼ばれると、女の顔が文江のそれとダブってしまう。自分ではなく、兄を見つめる母の顔と。付き合いの長すぎる葵は、唯一の例外だ。
(食事代とホテル代は私が持つわよ、ときたか。いつもはきっちり割り勘なのにな。いろんな意味でたまってるってわけだ)
細すぎない葵の体は、了介の好みそのものだ。とくに、タイトなパンツがよくフィットする腰から下のラインが良い。Cカップの乳房や小さすぎない乳頭に、飽きを感じたこともない。体のラインは少しずつ崩れてきているが、それはお互い様だ。セックスの相性が抜群に良く、おまけに年々達しやすい体質になっているので、ゲーム感覚で楽しめもする。
葵もセックスフレンドと割り切っている。了介の顔と手と尻は、葵の好みそのものだ。新聞奨学生とその客のころからの付き合いがダラダラと続いているのは、精神的な結びつきが希薄だからだが、その関係を保つためには、キャリアウーマン路線を歩んでいる葵の愚痴を飲み食いしながら聞いてやり、そのあとにベッドでも様々な要求を聞いてやらねばならない。
少々疲れていたが、了介は精神の疲労回復には相性の良い女とのセックスが一番だと思い、誘いに乗る気になった。携帯電話を集金バッグに戻すと同時に、今度は「華麗なる大円舞曲」のメロディーが流れた。メールもマメな岡村早季子からだ。再び携帯電話を取り出す。
お仕事ご苦労様。明日の週休は取れそう? 久しぶりにお昼を一緒に食べたいな。 サキコ
東口の低地にある築四十年の木造安アパートの一階に住む了介と、西口に聳え立つ超高層マンションの三十階に住む早季子は、最寄りの駅こそ同じ北千住だが、住む世界が違う人間だ。ダメもとでマンションのエントランスから「ドアホン勧誘」をしていたときに、早季子が引っ掛かった。了介が引っ掛かったとも言える。早季子がオートロックの分厚いガラスドアを開けた理由は、画面に映った顔がモロ好みだったから、だった。早季子の純和風の整った顔立ちに、了介も文句はなかった。
了介の部屋ではじめて頂点に達しようとしたときに、早季子は、ショウ君、と呟き、終わって服を着たあとに、かつて了介によく似た彼氏と木造アパートで同棲していたことを白状した。それ以来、少なくとも週に一回は了介の部屋に通うようになった。甲斐甲斐しく掃除し、洗濯し、食事を作る。了介が週休を取っていれば早めに昼食を一緒に摂り、シングルベッドでセックスをする。朝の九時にやってきて、昼の二時に帰ることが多い。付き合いはじめたころにホヤホヤの幼稚園の年少さんだった一人息子の翔太は、四月から小学生になる。
早季子は、帝王切開で翔太を出産した。臍の下に太い縦線とそれを囲む横線や斜め線が刻まれて以来、ダンナから体を求められることはなくなっている。ゆえに、了介は早季子の体を愛撫するときに、下腹の線に舌を這わせることを決して忘れない。
「ご苦労さーん。我が班は二十枚きっちりで、見事に今日のノルマ達成だー。ちなみに、山川班は十八枚」
佐竹班長は、煙草でしゃがれた声を弾ませると、「特別報奨金」を含めた千円札を配りはじめた。了介は、明日から新聞の配達を開始する「即入」二本分を合わせた枚数を手にするやいなや、
「班長、すんません。これから兄貴と飲むことになったんで、お先に失礼します。なにかあったら休み明けに朝一でやりますんで」
と言って一人先に販売店をあとにした。
終着駅前にはコンビニはないのに居酒屋があり、拡張員仲間の多くはそこで晩飯を食べることになる。祐一や正三に、一杯だけ、と引きずり込まれて、たかられてはたまらない。浩二を含めた「乞食三人組」が手にした千円札の合計枚数は、了介の九枚に及ばない。
(ノルマ達成はめでたいが、不良カードが何本あることやら。浩二の三本ってのが怪しすぎるな。佐竹さんも喜んでいられるのは今日だけだろう)
了介は、すでに寝静まりつつある住宅街を歩きながらメールの返信を打ちはじめた。居酒屋の赤い電飾看板の脇で葵に送信し、駅の改札口へと向かう階段の途中で早季子に送信した。
(三月後半の休みは明日一日っきりなのに、久々の連チャンときたか。欲深な女は勘が働くからなあ。しっかしオレも、いつまでこんな生活を続けるのかねえ。販売店を渡り歩きながら客に新聞紙を押しつけて、女を渡り歩きながらナニを突っ込んで……)
階段を上り終えた所で、家路を急ぐくたびれた中年男と目が合った。サラリーマン風の男はすぐに目をそらしたが、了介は妙な親近感を覚え、男のヨレヨレのスーツを振り返ってまで目で追いながら、トレーニングスーツの上着の内ポケットからパスモを取り出した。
(むなしいねえ)
舌で一回、指で二回、そして前から後ろから三回ずつ。そこまで数えた時点で、了介は馬鹿らしくなってしまった。しかし、馬鹿にはできない馴染んだ快楽に浸ってもいた。了介に馬乗りになった加藤葵は、ようやく最後の〆を終えて大きく息を吐き、大きく傾いたかと思うと、前のめりにキングサイズのベッドに崩れ落ちる。
今日は桁が違った。達したときに女がえる快感は、少なくとも男の七倍。達してから果てるまでの女の持続時間は、男の約十五倍。七×十五=百五、さらに×十数回。葵とのセックスを終えて暗算するたびに、了介の口からため息がもれる。
セックスの本来の目的である出産は、数キロとも十数キロとも言われる体脂肪を燃やすだけのエネルギーを女に消費させるそうだ。産みの苦しみや痛みに、男は到底耐えられないらしい。それでも、単純計算とはいえ、女と男がそれぞれえる快楽の桁の違いに、了介はむなしさを覚えざるをえない。おまけに、セックスで女が消費するエネルギーは、男の約三分の一。射精したあとに重たい疲労感を覚えるようになって以来、むなしさはさらに倍になった。
悪趣味な鏡張りの天井に、女と男の裏と表の裸体が幾重にも映っている。「結婚したいなあ」とうつ伏したままの葵がため息混じりに呟いた。珍しいことを言うな、と了介は思ったが、「大学の同級生の結婚式が、この前の日曜日にあったんだあ」と葵が続けて言い、すぐに納得した。
「どんな男とよ?」
了介は、枕元にあるティッシュを数枚引き抜いて上体を起こし、うーん、と唸りながら体を反転させて仰向けになった葵と自分の後始末をした。括ったコンドームを入れて丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げ、横になりながら葵と自分に布団を掛ける。
「アシタカ。やっぱり、アシタカみたいな男が良いなあ」
予想通りの葵の答えがようやく返ってきた。了介と葵がはじめて二人で一緒に見にいった映画は、「もののけ姫」だった。はじめてセックスをした日から四年以上が経っていた。映画館で爛々と瞳を輝かせていた葵は、発売日当日にビデオを買い、その鑑賞に了介を何度も付き合わせた。葵にとってアシタカは、今もなおアカシシに乗った王子様らしい。
「えっ、早稲田にいってるんですか?」
「うん、一浪してるんだけどね」
「実は僕も早稲田にいってるんですよ。予備校のほうだけど。来年は大学のほうにいきたいと思ってるんです」
「そうなんだ。じゃあ、予備校も大学も私の後輩になるんだね」
といったトークで、翌日から新聞の配達を開始する「即入」で、四月の残り三週間分無料サービスの一年契約が纏まった。了介がはじめてあげた「新歓カード」、新規勧誘の購読契約だった。大学予備校の寮を出て、アパートで一人暮らしの女子大生になって間もなかった葵と、「拡材」は、景品は洗剤八個入りの段ボール丸々一箱で折り合った。
「アシタカねえ。葵はサンってわけか」
了介は、アイシャドーとアイラインがすっかり崩れた、奥二重の瞼に目をやった。葵は、動物的な勘の持ち主で、狙った男は切れ長の目と美しい体のラインを武器に、かなりの確率で落としてきた。ベッドの上では本能むき出しになる。今日も、ほんの数分前までは動物そのものだった。
二人は昔、葵のアパートでセックスをしていたが、回数を重ねるごとに動物のような声が大きくなっていき、隣部屋に住んでいた大家から苦情がくるようになった。葵が社会人になってからの四年の間は、了介はよく吉祥寺のラブホテルの部屋に呼び出された。深夜に激しいセックスを終えると、葵は朝までぐっすり眠り、了介は一、二時間仮眠を取ったあとに、道端に停めておいた業務用自転車に跨って朝刊配達へと向かう。ご苦労な話だが、苦にはならなかった。さすがに、その翌暁の配達中に腰にきたが、脳味噌はスッキリと冴え渡り、朝刊の「不着」を、不配をしたことは一度もない。それほど二人のセックスの相性は良かった。
「リョウちゃん。アシタカみたいな独身男を、誰か知らない? ふふっ。そんな男を、リョウちゃんが知ってるわけないか……」
全身に響き渡った快楽の余韻に再び浸るように、葵は奥二重の瞼を閉じた。
「実はさ、知ってるよ。キャリア官僚で独身。弓道参段でインターハイ個人戦八位、国体は団体で四位だったかな。けど、アシタカみたいに小柄だぜ」
と了介はおどけた口調で答えた。葵はカッと目を見開き、横臥の体勢になり、
「身長は妥協する。百六十八あればいい」
ときっぱり言い切った。日本人男性の平均身長を考えれば、さほど低い条件とは言えないが、要は「私以上」であればいいのだ。学歴も、キャリアや年収も、葵以上であることが求められる。了介は、身長以外の条件を満たしていない。結婚相手としては論外ということになる。
「身長は、ギリギリセーフかな」
思い出しながら言うと、
「マジ? マジ? どこの誰?」
と葵が食いついてきた。了介は、葵の見開いたままの目から視線をそらしながら口を開いた。
「オレの兄貴だよ。でも、キャリア官僚って言っても公務員だから、給料はたいして高くないぜ。それに、院までいってるけど、九大出。おまけに、バツイチで親権も監護権も持ってないけど、娘もいる」
「公務員でも、キャリア官僚なら全然問題ないわ。それに、九大って旧帝大でしょう。お兄さんって、たしか私と同級生だったよね。三十三でバツイチか。そこはちょっと微妙かも。でも、リョウちゃんのお兄さんだから、ルックスは期待できるよね」
「オレとは全然似てないけど、イケメンだな。いや、一昔前のタイプの男だから、ハンサムとか、男前って言ったほうがいいか。兄貴もさ、熊本の中学や高校で女子に騒がれたなあ。タタラ場で女たちにチヤホヤされるアシタカみたいな感じで。そう言えば、アシタカって蝦夷の末裔だったよな。兄貴は熊襲、いや、祖父ちゃんが鹿児島出身だから、隼人の末裔ってところだ。口数少ないしな。もっとも、顔は濃くないけど」
「マジ? タイプかも。もっと詳しくお兄さんのことを話してよ。ていうか、どうして今までほどんど話してくれなかったのよ。十何年の長い付き合いなのに」
冗談めかして言いながらも、葵は瞳を爛々と輝かせている。
「そりゃあ決まってるじゃん。葵の毒牙から人の良い兄貴を守るためさ。葵に食われて骨までしゃぶられるのは、弟のオレだけで十分だ。なんたってオレと兄貴は、たった二人っきりの兄弟だからなあ。兄弟丼は勘弁してくれよ」
了介は、悪戯っぽく見開いた目をなおも輝いている葵の瞳に向け、言葉を続けた。
「そうだな。兄貴は一言で言えばさ、女の独占欲の対象になりにくいタイプの男だな。中学や高校のころは、女子からアイドル扱いされたり、鑑賞の対象にされたりしてたからな。同級生の女子の間ではさ、日下部了治君には単独でアプローチしてはならない、っていう不文律まであったらしいぜ」
葵は、わかったようなわからないような顔をして、小さく頷いている。
「兄貴はさ、オレよりずっともてるのに、女運がないって言うか、女難の人生を歩んでるんだよなあ。請われて婿養子に入ったのに、犬猫が捨てられるように離縁されたし」
女難の最たるものは、兄の了治にとっても、了介にとっても、母の文江との関係であるが、それについて直截的には語れない。
「はじめて見舞われた女難も悲惨だったなあ。兄貴は、まだ小学六年生だったから。その一年間、同級生の女子から村八分を食らっちまったんだ。五年生の三学期に、バレンタインデーのチョコレートを兄貴に渡す権利を巡って、女子のグループの間でいがみ合いが起こってさ。勝ち組が教室の机の中にチョコレートを忍ばせたまでは良かったんだけど、兄貴はホワイトデーにクッキーを返せなくて。お袋がダメだって許さなくってさ。それに、バレンタインデーのずっと前から、兄貴にしょっちゅう女子から電話が掛かってきてたんだけど、お袋がことごとくシャットアウトして、取次ぎもしなかったんだ。そのせいもあって、勝ち組が泣いたあとに怒って、いがみ合ってた負け組と他の女子も巻き込んで、兄貴を『女の敵』に仕立てあげちまったんだ。熊本女は、火の国の女はさ、扱いが難しいんだよな。気が強いし、情熱的だし。子供だってさ、侮れないくらいませてるし」
葵は黙ったまま、ふんふん、と言いたげな顔をして了介の話に聞き入っている。
「それに、兄貴は女の先生からよく嫌われてたっけ。とくに、エリート女教師タイプから。自分のエリートとしての存在や立場を危うくする生徒、って思われてたのかなあ。だから、小学生のときは担任が女の先生の学年は成績があんまり良くなくって、中学生のときは通知表の評価が5以外の教科はたいがいが女の先生が担任だった」
「担任の先生はブスだけんが、顔の可愛いかリョウちゃんばひがんで通知表ば悪くつけたとよ」
と文江は真顔で小学生だった了介に不満をぶちまけたこともあった。
「そうそう。通知表と言えばさ、兄貴は中学三年生の学年総合で、オール5を取ったんだぜ。見たことあるかよ? オール5の通知表なんて。まだ相対評価のころだぜ。漫画じゃあるまいしさ。『クラス担任の女教師が、教科も担任してる美術と音楽で理不尽なことをやりやがるから、オレはとりあえず堪えて、嫌でも通知表に5をつけざるをえないように筆記試験で満点を取ったんだ』って、兄貴は言ったなあ。高校の受験教科でもないのにさ。あと、兄貴は自分がインターハイや国体にいっただけじゃなくて、主将として高校の名門弓道部を立て直したんだけど、スパルタ式のやり方に反感を持たれちゃったんだよな。それで、女子部員から練習をボイコットされちゃってさ。でも、信念を持ってたから、めげずにやり通したんだぜ」
「リョウちゃんさ、お兄さんのことが、大好きなんだね」
と葵は言ってくすりと笑った。
「そんなことない、でもないか」
了介は、葵から目をそらして頭を掻いた。
「お兄さんの写メある?」
葵は顎を引き、珍しく上目遣いになっている。
「ないよ。兄貴の娘のだったら、前の前の携帯に入ってるけど。あ、それは女に折られたんだった。とにかく、兄貴は自分の写真を送ってくるようなナルシストじゃないね」
「ふーん、いいじゃん。会ってみたいなあ。不覚だったわ。灯台下暗しってやつね」
と葵はまた冗談めかして言って、仰向けになった。
「マジかよ」
了介も、冗談めかした口調で続けた。
「葵はさ、兄貴の元奥さんに似てなくもないから、その気になれば上手くいくかもな。兄貴は恋愛に関しては偏差値が低いっていうか、免疫がほとんどないから、簡単に落とせるわ。もし、葵が兄貴と付き合うようになったら、いよいよオレたちの腐れ縁も切れるってわけだ」
「なによ。腐れ縁って。アパートの保証人にまでなってあげてるのに。でもさあ、私は誰かと結婚しても、リョウちゃんとはしたいなあ。できればずっと。だって、リョウちゃんのと私のって、まさに刀と鞘じゃん。やっぱりさ、納まるもんは時々でも納まるところに納まんなきゃ。アレとコレの相性だけは、努力してもどうにもなんないじゃん。十五センチの身長差も理想的って言うし」
「まあ、たしかにね」
「リョウちゃんは、どんな女と結婚したい?」
「カヤ」
と了介は即答した。葵は、ぷっ、と言っていったんは堪えたが、やがて大声で笑い出した。
「アシタカを『兄様』って呼んで、アシタカの旅立ちのシーンで『いつもいつも兄様を想っています』って言うカヤ? 自分はいつもいつも何股も掛けてるくせに、一人の女に生涯一途に愛されたいわけ?」
「そうだよ。それが理想だね」
了介は大真面目に答えたが、葵は冗談だと思ったのか、それ以上はなにも言わなかった。一人の女から一途に愛され続けた憶えはない。自らそれを拒んでいるせいもあるが、一番長くていわくつきの三年だ。
(だからオレはダメなのかもな……)
目を閉じ、ため息を吐いた。早季子にとって、了介は元カレの身代わりにすぎない。一は息子の翔太、二は元カレの翔。了介は三以下だ。早季子と時間をともにすごすようになって以来、翔太が母親から愛されるように、自分も一度は女から深く長く愛されてみたいと思うようになった。人生の節目々々で力を出し切れない原因は、そういう経験の欠如にある。兄には及ばないにしても、「日下部の弟」としての力量はあるはずだが、セックスの最中に中折れしてしまうように、肝心なときになると精神の腰が砕けてしまう。
了介は、ガラス張りの天井を仰いだ。数えるのが億劫になるくらいに、たくさんの葵と自分がいる。風俗嬢を除いても、その葵の数と同じくらいの女たちとベッドをともにしてきた。顔や名前すら思い出せない女も少なくない。数十人の葵が、一斉に寝返りを打った。女の鼾が、了介の鼓膜にむなしく響いた。
葵とは違って、岡村早季子はセックスの最中に上の空になることがある。元来はベッドの上でだけ激しくなるタイプの女だ。生理が近く、欲情がピークに達しているはずなのに、今日は年増のラブドールのようにおとなしい。
(こういう日は、早くすませるに限る)
と了介が思ったときだった。
「あっ、ゴメン、了介君」
きしむパイプベッドの脇のカラーボックスの上で、オレンジ色の携帯電話が持ち主に代わって声をあげ、宙に浮くように全身を震わせている。早季子の手が携帯電話に伸びた。
「はい、岡村です。……はい……翔太が熱を……はい。わかりました。すぐにお迎えにいきます」
思っていた通り、と言いたげな口調だった。音の鳴る先に携帯電話のLEDが緑色を放った時点で、了介は幼稚園からの着信であることを察していた。緑は早季子の一人息子が好きな色だ。翔太はすでに卒園しているが、今日は春休み保育を利用して幼稚園にいっている。
「ゴメンね。いかなきゃ」
と早季子は作った沈痛な面持ちで見あげた。羽毛布団を背負った了介は、両膝を突いたままあとずさる。すぐに、早季子はベッドから下り、畳の上のシルクのショーツに手をやった。了介は、巻き取ったコンドームを括り、カラーボックスの上のティッシュに手を伸ばしながら口を開いた。
「翔太君、風邪ひいたの?」
「うん。そうみたい。昨日の夜中に咳き込んでたから。小学校が別々になる一番の仲良しのお友だちがいてね、その子と一緒にお迎えの時間までずっと園庭で遊ぶんだって、張り切ってたんだけど。今日は暖かくて絶好の腕白日和だったから、翔太もそのお友だちも残念がってるだろうな」
早季子は、垂れた乳房を手際良くFカップのブラジャーに納めていく。
「そのお友だちって、イガラシシュンくんだよね」
「よく覚えてるね。しかもフルネームで」
ブラジャーのホックを留めながら、早季子は目を丸めた。翔太の親友のシュンは、年子の姉がいるので、仮面ライダー、ウルトラマン、ゴレンジャー、ポケモンの各シリーズに加えて、プリキュアシリーズにまで明るい。当然のように翔太が、そして早季子までもが影響を受けているおかけで、了介は自腹で買う幼児向けの「拡材」の選択で迷うことはない。未就学児の手にその種の無料招待券や引き換え券をいったん握らせれば、景品はそれだけであっても、三ヶ月の契約成立に至る確率はドンと跳ねあがる。
「やっぱり、可愛いい? 翔太君のこと」
了介は、トランクスを穿きながら尋ねた。
「うん。可愛いよ。すごく。好きでもなんでもない男との子供なのに、不思議なくらい」
早季子は、着痩せする体に高価な春物のブランド品の服を纏っていく。
「もし、了介君の、了介君似の男の子だったら、もっともっと可愛いんだろうね。想像つかないなあ」
(元カレの、翔似の男の子だったら、だろう?)
了介は、無言でジーパンを穿き、長袖Tシャツとチェック柄のシャツに袖を通し、半纏を羽織った。そして、早季子の化粧直しが終わるのを待った。
「了介君、ゴメンね。本当にゴメン」
玄関でパンプスを履き終えて振り返った早季子は、目を細めていた。
「気にすんなよ。今日もメシ、美味かったよ」
嘘だった。パスタは茹ですぎで、了介の好物であるカルボナーラの手作りソースは粉っぽく、料理上手の人妻らしくない味つけだった。
早季子は駆けるように、振り返ることもなく外廊下を渡り切り、駅前に通じる道へと去っていった。いつもは何度も振り返り、名残惜しそうな顔をして、サンダル履きの了介に何度も手を振るのが嘘のようだ。了介は、なによりそれが嬉しかった。兄の了治を見送る母の文江の姿を、今でもはっきりと覚えている。文江は、晴れの日も雨の日も風の日も、家の門前のアスファルトの路面に立ち、了治の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。そのときほど、了介は兄が羨ましく思えたことはない。
畳敷きの六畳間に戻ると、了介は窓を開けて外を見下ろした。目に映るのは、干した洗濯物とコンクリート三面張りのドブ川だ。早季子は、この風景をぼんやりと見つめることがある。
「『神田川』の世界だったの。二人ともお金がなくて、銭湯は一日おきで」
と憂えを帯びた目をして呟くように言ったこともあった。
了介は、早季子の息子と元カレが羨ましい。翔太は、母親の献身的な愛に包まれながら成長していく。翔は、今は自分を身代わりにしているが、たぶんこの先もずっと早季子に愛され続ける。了介は、黒い川面を見つめ続けた。
(……潮時かな。身代わりの分際で、三年は長すぎた)
了介は、ため息を吐き、長テーブルの上に飲みかけのジョージアのロング缶を置いた。続けてタオルの入った白い紙袋と年季の入った黒革の集金バッグを置き、パイプ椅子に腰を下ろして駅売りの朝刊を広げた。ライブドア社長に実刑判決が下ったことに興味はないが、とりあえずその記事を読みはじめる。自宅で取っているライバル紙との論調の比較には持ってこいのネタだし、ほぼ同じであるとしても暇潰しには悪くない。新聞拡張団の朝礼が時間通りにはじまることなどまれだ。
「了介さん、おっはよーっす。いやあ、今日も外は寒いっすねえ。もう三月も後半だってえのに、春はどこにいったんだか。冷蔵庫に入ってるみたいだったから、暖房の効きが悪くても事務所の中は天国だわ、天国。知ってますう? 急に雲行きが怪しくなってきたっすよお。昼から冷たい雨、いいや、季節外れの雪が降るっすよ、絶対。参ったなあ」
中村祐一は顔を顰め、丸刈りがだらしなく伸びたモンチッチのようなの髪を両手で掻きむしった。新聞をまったく読まないこの拡張員は、今日の降水確率が低いことを知らないらしい。さも当然のように了介の隣のパイプ椅子に腰を下ろすと、だぶついたジャンバーを羽織った小さな上体を丸め、貧乏ゆすりをしながら長テーブルの上で伝票を書きはじめた。前日に稼いだ契約カード料の半額を前借りするためだ。
祐一は、なにかにつけて餌をねだる小動物のように了介に纏わりついてくる。自称二十歳。ボールペンを持った小さな右手の甲はすでに張りを失っていて、実年齢が二十代後半であることを物語っている。
「昨日ついたピンサロの姉ちゃん、最高だったすっよお。マキちゃん、十九歳。若いっすよねえ。肌がピッチピチでえ、めっちゃ可愛くてえ。東武線沿いじゃあ、あんな子には滅多にお目に掛かれねえっすよ。これがさあ、また上手くてえ。けっけっけっ……」
甲高い声で嗤う祐一に、この前オレも本ヘルで当たりを引いたぞ、とは言わない。この小男は千円札を数枚持っていることはあっても、万札とはほとんど縁がない。了介は、そうか、とだけ相槌を打った。たまに牛丼並盛を奢ってやることはあるが、風俗までねだられ、纏わりつかれては堪らない。
祐一は、ボールペンを伝票の上に転がして上体を背もたれに預けた。口は動かし続けている。百のうちに一つか二つは有益な情報が含まれているので、了介は耳を傾けてはいる。しかし祐一の話は脈絡がなく、しかも延々と続く。おしゃべりな小男を一刻も早く玄関から追い出したいがためだけに、契約カードに印鑑を押す客もたまにいる。
(こいつは昨日、何本あげたんだっけ)
朝刊の頁を捲りながら、了介は長テーブルの上に目をやった。「2000」と前借り伝票に殴り書きされている。たった一本。しかも三ヶ月契約ということになる。その報酬である契約カード料の残り半額は、給料日に祐一に支払われることはまずない。借金返済と馬鹿高い寮費の名目で、拡張団に吸いあげられる。前借りする必要のない了介は、拡張団に借金もない。寮には入らず、事務所の近くに安アパートを借りている。お気楽な独身貴族と言ってもいい。一方で、今日の、下手をすればこの先一週間の食い扶持がたったの二千円といった、祐一のような「乞食拡張員」も複数人いる。
了介は、成績優秀な拡張員だが、「連歓」は苦手だ。とくにその勧誘で連れ立つ相手が祐一のときはカードがほとんどあがらない。新聞拡張員は嘘をついてナンボの商売でもあるが、祐一の隣で嘘を耳にするたびに口を開くことすら億劫になる。「泣き歓の祐一」と呼ばれるこの年齢詐称男は、新聞社名の刺繍が左胸に入ったジャンバーを着て、勧誘の際に新聞奨学生を装い、客の前でなんのためらいもなく顔をくしゃくしゃにして、涙声で真っ赤な嘘を吐く。
「人助けだと思ってえ、三ヶ月だけ付き合ってくださいよお。私立理系なんでえ、大学の学費が馬鹿高くてえ、奨学金だけじゃ賄い切れなくてえ、拡張で稼がなきゃなんないんですう。大学の事務局には未納分を分割払いにしてもらってるんすけどお、今月分は明日までに納めなくちゃなんなくてえ、今日契約が取れないとお、退学になっちゃうんすよお」
実際の祐一は、新聞奨学生が夕刊配達を終える時間まで、スーパーや公園のベンチで昼寝をしているか、販売店から渡された契約実績のある客の「過去読リスト」や住宅地図のコピーと睨めっこをしていることが多い。出所の不明な軍資金でパチンコを打っていることもある。
まだ若いんだから汗水垂らして働けよ、と言いたくもなるが、その台詞はため息とともに飲み込こまざるをえない。了介自身が拡張員になったのは、二十七歳のころだった。それに、現役の大学生がセールスメイトと名乗り、アルバイト感覚で拡張団に入ってくることもさほど珍しくなくなっている。朝刊を八つ折りにして長テーブルの上に放り投げ、了介は腕を組んだ。口を引き結ぶ。祐一は、小さな体から熱を発しつつ、パチンコ「大海物語」のリーチパターンについて独り合点に頷きながら語っている。客の前でもそんな風に怪気炎をあげてみろよ、と了介は思いつつ苦く笑った。
(熊大にいってたら、オレの人生、どうなってたんだろうな……)
高校の隣の駅弁大学なんかにいったって、と数年前までは強がっていたが、今となっては若気の至りだったと後悔しなくもない。現役で熊本大学に合格したのは、十四年前のちょうど今ごろだった。了介は、学校の先生から「日下部の弟」とよく言われた。中学校や高校では、お前は本当にあの日下部了治の弟か? と生活指導の先生に真顔で尋ねられたこともあった。父親似の了介と、母親似の一学年上の兄は、一見たしかに顔も体格も性格も似ていない。
兄の了治は、熊本人が好む文武両道の典型的な優等生だった。小学校で児童会長を、中学校で生徒会長を務め、いずれも卒業式では総代を務めた。読書感想文に硬筆、毛筆に絵画と、市のコンクール入選の常連だった。部活動でもたびたび表彰を受け、高校三年生のときにはインターハイと国体に出場した。高校の卒業式の総代の座は首席のガリ勉女に譲ったが、運動部活に所属する生徒としてはただ一人だけ三年間トップテンの成績を取り続け、現役で九州大学に合格した。
了介は、上背のある典型的な美男子だった。運動神経も良く、運動会の徒競走ではいつも一等賞だったが、兄程の集中力を持ち合わせていなかったせいか、目立った表彰を受けたことはなかった。勉強は嫌いであまりせず、成績は中の上だったが、受験勉強だけは人並みに頑張った。高校受験のときは、了治と同じ進学校にいきたかった。大学受験のときは、兄に勝てないにしても負けたくはなくて九大も受験した。了治が九大入学に伴い実家を離れるやいなや、抜け殻のようになってしまった母の文江の姿を高校三年生の一年間目にし続けながら、了介は兄に抱く感情をより複雑なものにしていった。
浪人するかどうか迷っていたときに、文江は、しょせんあんたに九大合格は無理だったのよ、と言わんばかりの顔をして、当然のように熊大入学の準備に取り掛かった。金の遣り繰りの上手い母は、端から兄を大学院まで進学させる気だった。家のローンもまだ残っていたので、了介を予備校生にする気も、県外の大学にいかせる気も、さらさらなかった。
了介は、実家を出るを決意し、部活動の先輩に倣い、新聞奨学生として働きながら予備校にいく道を選んだ。文江は、馬鹿な子だと言いたげな目をしながら、好きにしなさい、と投げやりに言った。父の了三郎は、市内の予備校にいってもう一回九大ば目指せ、と言って反対したが、了介にその気は失せていた。一浪して受かったとしても、兄に負けたことになる。浪人するからにはより偏差値の高い大学に受からねばならないが、国立大の五教科受験では無理のように思えた。三教科に絞り早慶上智を受験すると決意して、十八歳の誕生日に上京した。
「おっといけねえ、前借り前借り」
祐一がそう言ってようやく口を閉じ、伝票を片手に立ちあがると、入れ替わりに諸田正三がねっとりとした加齢臭を漂わせながら、よいしょ、と言ってパイプ椅子に細い腰を下ろした。ボサボサの白髪交じりの薄い頭が、フケを二つ三つ降らしながら迫ってくる。それを誘導するように、細い人差し指が前後に動く。
「クサカベちゃーん、いっぽん。一本でいいからさあ、見込み客、紹介してえ。苦しいのよお、今月」
(毎月じゃねえか。胡麻塩まだら禿オヤジ)
正三の鳥の巣のような髪を一瞥して、了介は口元だけで笑った。祐一も正三も、新聞拡張員に不可欠な狡さを備えているものの、客の前では上手く立ち回れない。
「ないっすよ、そんなの。オレが紹介して欲しいくらいっす」
「またまたまたあ。いいじゃない、一本くらいさあ。たんまり稼いでるくせにい」
了介は、片眉を吊りあげる。各販売店から課された毎月のノルマを達成すれば、拡張団に賞与として「まとめ料」なるものが支給される。そのおこぼれを正三も頂戴できるのは、準エース格である了介が本数を稼いでいるおかげだ。諦めの良さだけは一級品の老いた拡張員は、すでに砕けている腰をあげた。
このまだら禿オヤジの口癖は、しょっぱいなあ、だ。胡麻塩の塊を口に含んでいるかのように、シミの目立つ骨張った顔を歪めてしばしば呟く。拡張員ズレしてまともに取り合ってくれない、「しょっぱい」客が年々増えているのはわかり切ったことである。着た切り雀の正三は、競馬に注ぎ込む数枚の千円札があるのなら、いずれも見るからにしょっぱそうなブルゾンかズボンかスニーカーを買い換えるべきだ。
「置き歓の正三」と呼ばれるこの還暦の痩せぎすオヤジは、よくある名字の客に洗剤を挨拶代わりだと無理やり受け取らせる。あるいは、閉まったままの玄関ドアの脇に置いてくる。名前と電話番号は公衆電話備え付けの電話帳で調べて住所ともども「代筆」し、手持ちの認印を押して契約カードをあげてくる。販売店が行う監査で「置き歓」とバレても、すっとぼけるだけだ。おっかしいなあ、とほとんど毛のない頭頂部を撫でながら嘯く。
石川県出身の正三は、金沢大学中退だ。安酒に酔うと顔を赤黒く染め、オレさー、昔、名門国立大にいってたんだよねー、と言って色のさめたしわくちゃの学生証を財布から大事そうに取り出す。旧制第四高等学校の金沢大学中退と、旧制第五高等学校の熊本大学入学辞退。あげる契約カードの本数の桁は違うが、正三と了介の学力偏差値はほぼ同じである。人生いきついた先の職業が同じであることにも、了介はやるせなさを覚えずにはいられない。
祐一と正三は、食うや食わずの乞食だと、単なる頭数だと拡張員仲間から蔑まれている。祐一はまだ若いが、新聞販売店に売られても専業店員としては使い物になりそうにない。配達だけでも三日と持たず音をあげそうだ。正三は年齢的に、それ以上に見た目からして論外で売物にすらならず、新聞拡張団から見捨てられれば、どこかの公園かガード下をねぐらにするしかない。
「集合、朝礼はじめるぞ」
清水部長の低くて太い拡張用の声が、小汚くて狭い事務所内に響き渡った。若いころはやり手の地上げ屋だった男の、柄のよろしくない声だ。恰幅の良いこの中背の四十男には、アイロンパーマと派手なダブルのスーツが似合っている。事務所内に蠢いていた男たちは清水の声に反射して立ちあがったが、了介は茶色い缶の中身を飲み干したあとにゆっくりと腰をあげ、人だかりの尻についた。
団内切っての問題児で、客を脅すことでしか契約カードをあげられない「喝勧の浩二」は、今日も遅刻だ。昨年末に前の部長が独立して新団を設立し、腹心の班長とその班員を丸ごと引き抜いていった。深刻な人手不足であるがゆえに、山田浩二も戦力として勘定に入れねばならない。大川団長のスモーカーぶりがヘビーからチェーンに格があがるのもやむをえないと思いつつ、その原因の一端が自分にあることにふと気づき、了介は苦く笑った。
朝礼といっても、この道三十五年のずんぐりした大川が、はち切れそうなジャケットの襟を正して訓示を垂れることはまずない。全員で掛け声をあげることもない。進行役の清水が口にしたのは、各班のノルマ達成までの残り本数と、了介の属している佐竹班ともう一班が入る販売店の変更だけだった。拡張団の予定は未定だ。当日になっての販売店変更は珍しくない。
「なにがなんでもカードをあげてこいや」
オールバックの白髪頭の大川が、太い指で両切り煙草を部長席のガラス製の灰皿で揉み消す。太くて短いスラックスのポケットに手を突っ込んで、団栗眼を三角にして凄みを利かすと、拡張員たちは一斉に背筋を伸ばして礼をする。そして、一斉にだらしなく背筋を丸めた時点で朝礼は終わる。セールスチームとセールススタッフ。新聞紙面で新たな公称をえても、拡張団も拡張員も十年前となにも変わっていない。新聞セールス証を左胸に着けることを義務づけられるようになったものの、多くの拡張員はビール券と一緒にセカンドバックにしまい込んでいて、客から求められない限り出そうとはしない。
(あそこは、おいしいけど嫌な販売店だ)
「へ」の字になった了介の薄い唇の隙間から、小さなため息がもれた。
「日下部、ちょっといいか」
清水は、少々高い地声と厚みのある手で了介を背後から呼び止めた。五つの太い指先が、ブルーのトレーニングスーツ越しに一瞬だけ肩に食い込む。追い越していった清水の小岩のような背中に従い、了介は団長室へ向かった。部や課がある拡張団など少ない。中規模の新聞拡張団である有限会社大川企画には、班しか存在しない。部長といっても名ばかりで、団長ともども勧誘をする。おまけに、清水は班長兼任だ。
六畳足らずの団長室には窓がない。三面の壁には所狭しと額縁に入った賞状が掲げられ、残り一面を覆う古びたガラス製の展示棚にはトロフィーや盾がびっしり並べられている。しかし、了介の入団以来、新聞社から賜った表彰グッズは存在しない。了介は、裂け目の目立つ黒い合皮の一人掛けソファーに腰を下ろし、大きなヒビが入ったガラステーブルを挟んで、蹲踞した力士のようにソファーに浅く腰掛けている清水と向き合った。アイロンパーマを見せつけるように、部長が顎を引く。
「日下部、班長の件だけどよ、考え直してくれや。オレもしんどいんだ。班長兼任だとよ」
(この迫力と、この拡張用の声、それとこのソフトパンチの頭。清水さんから突きと押しを食らえば、そりゃあ客も早かれ遅かれ土俵を割ってハンコを押すわな)
団の不動のナンバーワンから目をそらしつつ、了介は改めて思う。
「前に団長にも言いましたけど、自分は班長の器じゃないっすから」
「昨日な、団長と改めて話したんだが、オレたちはお前の将来に期待してんだよ。幹部候補生としてな。去年の暮れに連中が飛ぶ前からよ、次に班長にあげるやつはお前しかいないって二人で話してたんだ」
(あんたらに期待されてもねえ。それに、新人にカードを譲ったり、班員に配る拡材を自腹で買ったりなんて、やってらんねえよ。班員のカード料の何パーセントかのマージンをもらえても、割に合わねえし)
了介は、清水にそう言ってやりたかったが、自分は一人でコツコツやるのが性に合ってますんで、とだけ落ち着き払った声で答えた。
「……もういっぺん、考えといてくれや。お前が班長になれば、マージンは十パーいくかもしんねえぞ。もちろん、班で本数をまとめればの話だけどな」
しつこく迫って、班員では稼ぎ頭の了介にまで辞められては、大川企画としては弱り目に祟り目だ。団に借金がない拡張員を縛るのは難しい。清水は、それ以上なにも言わず、眉根の皺をより深くして小兵力士のような体を屈め、仕切り直しだ、と言いたげな顔をして席を立った。
朝刊に一渡り目を通し終えたところで、急行電車が各駅に停まりはじめた。座席に腰掛けた了介は、憂鬱になっていく。空一面を覆った厚い雲のせいではない。電車が駅に停まるごとに、街との相性が徐々に悪くなっていく。「叩く」気を、勧誘する気を失い、珍しく契約カードを一枚もあげられない「ボウズ」に終わるのは、決まってこの辺りから先の新聞販売店に入るときだ。
車内はすでにガラガラで、電車が駅と駅との中間辺りまでくると、急に窓外の視界が開ける。線路沿いの大きな田んぼで、列をなした薄茶色の刈株が同色に枯れたヒコバエごとトラクターに牽引された耕耘機に均され、その後ろで数羽の鳩が地表に掘り起こされた餌をついばんでいた。空っ風は吹いていないが、車窓越しに見える田園風景はまだ冬で、了介の目には異国の荒野のように映ってしまう。
(久しぶりに食いてえなあ。蘇水亭の熊本ラーメン……。あのもっこす親爺のことだ。今も味は変えてねえだろうなあ)
防風林に護られた大きな農家屋敷と離れ家。細長い三階建ての一軒家がドミノのように並んで、今にも崩れ出しそうな小規模団地。生まれ育った街では目にしたことのない人家が、電車に乗った了介たち新聞拡張員を避けているかのように、線路から離れて点在している。佐竹班長が、右隣の席に置いた朝刊の上にドスンと腰を下ろし、了介に広いおでこで迫ってきた。興奮しているのが、膨らんだ鼻孔でわかる。ハーフコートのファスナーは、ビール腹の前まで下がっていた。
「日下部、すまんが、今日は縛りと先縛りと起こし込みでよ、七本、なんとかしてくれ。弾は用意してっから。無料招待券は、いるだけ持ってけ。オレも七本あげるからよ。あとは残りの三人で、もう六本」
これから向かう新聞販売店でも、店員の多くが当月で契約終了の現読者と再契約をする「縛り」をやらない。翌月から他紙の契約が入っている現読者の「先縛り」も当然やらないし、過去読者の「起こし」もやらない。
「今日入る販売店な、このところ部数減が続いて、新聞社から改廃の対象に挙げられてるんだと。班で二十本のノルマをクリアしたら、一本当たり千円の特別報奨金を出すってよ。もちろん現ナマでだ。それによう、山川班なんかには負けてらんねえからなあ」
と佐竹は煙草でしゃがれた声で続けて言った。真剣そのものだったが、日銭に困っていない了介にとってはどうでもいい話だった。佐竹班と山川班のブービー争いにも興味はない。剃り跡が青くて厚みのある顎を引き、佐竹は自信ありげに細い目とM字進行型のおでこを光らせている。縛りと先縛り込みとはいえ、部数の少ない販売店で七本あげるのは容易でない。佐竹班は、これから入る販売店の南北両隣にも今月一回ずつ入っている。班長がそのときに「越境」してあげ、取って置いた「隠しカード」を数本持っているのは明らかだった。
了介は、販売網の越境をしないし、あげたカードは必ずその日のうちに販売店に差し出す。隠しカードは持たない主義だ。今日のように特別報奨金が出る日には、その手の契約カードの存在は大きい。しかし客が誤って、あるいはあこぎな客が景品である「拡材」欲しさに意図的に、もしくは他の拡張員が承知の上で重複契約してカードがあがった場合には、隠しカードは販売店から差し戻される「不良カード」に変身してしまう。了介は、退却しつつある佐竹の無造作な短い前髪を一瞥して言った。
「わかりました。なんとかします。ただし、一人で回らせてくださいよ」
佐竹が班長に昇格し、その下に了介と、祐一、浩二、正三の「乞食三人組」が配置されたのは、年が明けてすぐだった。大川団長と清水部長の「幹部候補生」に対する無言の圧力である。
「もちろん。連歓NGのお前は一人で回らせないと、あがるもんまであがらなくなっちまうからなあ」
佐竹は、片肘を背もたれに突き、脚を組んで大袈裟に笑い出した。
「マッチ箱が一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十か。今度叩こうかなあ」
白い紙袋を挟んだ了介の左隣の席で、泣き歓誘の祐一が、すぎていく古くて小さい平屋建ての公営住宅の群を目で追いながら独り言ちている。そのまた隣の席で、置き歓誘の正三が、競馬新聞を握り締めて終電の酔っ払い客のような格好で鼾をかいている。喝歓誘の浩二は、正三の向かいの席で、汚いデッキシューズを履いたまま胡坐をかいて斜め上方にガンをつけている。相手は週刊誌の吊り下げ広告らしい。
(浩二のやつも、母親から愛されずに育ったんだろうな)
一瞬間同情したが、拡張団にいるやつはほとんどそうだ、と了介はすぐに思い直した。児童養護施設を脱走して、少年院を出たあとに二度も刑務所に入っていた浩二は、柄の悪さだけは一級品だ。どこでおそわったのか、民事不介入という言葉は知っている。自分でバリカンを入れている坊主頭と極細の目と無精髭と小太りの体で客に迫り、どこまで脅して、どこまで腕力を使って契約カードをあげているのか、了介は知りたいと思わない。
浩二は、翌日に前借りできる数枚の千円札欲しさに、サービスだから、あるいはモニターだから契約期間中の新聞代は払わなくていいと嘘を吐いて、「後爆カード」をあげることも少なくない。正三におそわったのか、あるいは真似たのか、安物の認印十数本と朱肉を入れた巾着を革ジャンバーの内ポケットに忍ばせていて、架空の「てんぷらカード」をあげるのもお手の物だ。どちらの契約カード料も、見つかりしだい拡張団を通して販売店に返還しなければならない。
そんなこんなで、浩二は拡張団への借金が雪達磨式に膨らみ続けていて、「パンク」するのはもはや時間の問題となっている。大川団長も馬鹿ではない。同い年の浩二が新聞販売業界以外のどこへ売られることになるのか。了介は、暖房の効きすぎた電車内にいても背筋が寒くなる。
車体が傾きはじめた。冬色の田園風景に大きな弧を描き終えると、電車は速度を落としはじめる。聳え立つ何本もの鉄塔が、お入んなさい、と長縄飛びでもしているかのように、数本の高圧電線をだらしなく垂らしている。車内に終着駅名がアナウンスされ、了介の口からため息がもれた。
どんよりとした寒空の下で、東武鉄道主導で開発された新興団地の一部と、その周辺の農村とで構成された区域を、了介は休むことなくママチャリで回り続けた。団地の奥様方が買物等で不在の時間帯には、農家の婆ちゃんや母ちゃんが屋敷で休憩を取っているからだ。それに、尻に火の点いた販売店主から頭をさげられつつ預かった住宅地図のコピーは、今月で契約終了の現読者と過去読者が色分けされているので、下手に「鉄砲」を撃つのとでは雲泥の差があった。了介は、蛍光ペンで塗られた読者の家と、自身で以前から開拓していた見込み客の家をすべて訪問した。
いつの間にか雲は去り、空は晴れ渡っていた。販売店から預かった拡材と、佐竹から押しつけられた無料招待券、拡張団から自腹で買った引き換え券、そして常備しているタオルをすべて使い切り、七本目のカードをあげたのは夕暮れ時だった。不在だった家を再訪すればもう三、四本はいけそうな気がしたが、了介は拡材を取りに再び販売店まで戻る気にはなれなかった。
終着駅の街にはパチンコ店どころか、ファミレスもファストフード店もない。了介は、県道沿いのセブンイレブンで缶ビールとつまみとホットのジョージアのロング缶を買って販売店の裏の公園に向かい、虎刈りの坊主頭のような寒々しい藤棚の下のベンチに腰を下ろし、時間を潰すことにした。風は弱いが、冷たい。今日も春の風は吹かなかった。
「むなしいねえ」
了介は、貪欲な「乞食読者」に拡材もろとも「叩く」気まで、勧誘する気まですっかり吸い取られてしまった。拡材を貪る乞食のような読者はどこにでもいるが、東武線沿いでは終着駅に近づくにつれてその数が増える。大きな屋敷を持つ農家とその分家の数と無関係ではないらしい。
――洗剤もっと寄越せ、ビール券もっと寄越せ、今日は他になに持ってきた?
妖怪のような婆ちゃんや母ちゃんから段ボール箱と集金バッグと紙袋の中身を次々とぶん取られて、了介は珍しく半年と一年のカードを二枚ずつあげた。四人の裕福な乞食に会うのは、しばらくは御免だった。
「……オレも、堪え性がなくなったな」
了介は、缶ビールを片手に苦笑した。すっかり脚が伸びたオレンジ色の夕日が、スモッグにぼかされた秩父の山々の稜線に懸かりはじめている。
「日が沈むのがはええよ、関東は。……熊本だったら、今の季節のこの時間は、もっと日が高いし、もっと明るい」
苛立つ頭に、子供のころに兄の了治と感動を分ち合った夕焼け空が浮かんだ。実家近くの公園から見える夕日は真っ赤で、金峰山の稜線をくっきりと濃く縁取っている。了介は頭を振り、残像を消した。
(感傷に浸るなんて、らしくねえよな。なんたってオレは、着け忘れの子だからなあ……)
母の文江は、了介を叱っている最中に、父さんが着け忘れんかったら、とうっかり口にしたことがあった。幼稚園の年長組のときのことだ。つけわすれんかったらって、どぎゃん意味? と了介は即座に尋ねたが、文江はバツの悪そうな顔をしただけでなにも答えなかった。小学一年生だった了治にも尋ねたが、わかるはずもない。明くる朝に父の了三郎にも尋ねてみたが、苦笑されただけだった。
(あのお袋のことだから、兄貴だけにあれこれ世話を焼いて、一人っ子として大事に育てたかったんだろうな。年子の弟なんて、邪魔なだけの存在だったに違いねえ……)
焼きあがったばかりの小学校の入学式の写真を目にして、六歳になって間もない少年なりに、やはり自分は母親から愛されていないと確信した。校舎と校門と桜の木、そして「入学式」の立て看板を背景にしたお決まりの写真の中で、了介はしかめっ面をしていた。カメラのレンズを向けられたときに出る了治の癖を真似たのだった。ツーピース姿の文江は、面倒臭そうな顔をしてレンズから目をそらしていた。
その前年に撮られた同じアングルの写真の中で、兄はしかめっ面を、着物姿の母は満面の笑顔を見せていた。了介は、赤ん坊のころから文江以外の女にはよくもて、女の子みたいに可愛か、と老若を問わずチヤホヤされた。しかし、物心ついて以来、どうすれば母さんに好きになってもらえるんだろう、と思わない日はなかった。了治は、文江に溺愛されていた。だから、いつも兄に引っついて、その真似ばかりしていた。それじゃあ、だめなんだ、と了介は悟り、写真を持った小さな指に力を込めた。
そして、了治の真似を一切止めた。兄とは正反対のことをするようになった。どうにかして母の気を惹きたかった。男女七歳にして席を同じうせず、といった風潮が当時の熊本の小学校にはまだ残っていたので、優等生だった了治は必要最低限しか女子と話そうとしなかった。了介は、「ちんちんかもかも」「女たらし」と周りの男子から陰口を叩かれながらも、あれやこれやと女子によく話し掛けた。
兄は、あまり笑わなかった。了介は、手鏡を相手に笑う練習をして、女子を相手にその成果を試してみた。自分と話している女子の大半が嬉しそうな顔をしていることに、改めて気づいた。了介も、嬉しかった。文江は、了介と話すときはいつも面倒臭そうな顔をしていて、嬉しそうな顔を見せるのは了治の自慢話をするときだけだった。
中学校では学期ごとに付き合う女子を変えた。高校では二股三股は当たり前で、何股まで掛けられるかを友だちと賭けをした。新聞屋になってからも学生、OL、主婦、お水、風俗嬢のいかんを問わず女と遊び続けた。母親から愛されたいという思いは、いつの間にか失せていた。女から広く浅く愛されることを求めるようになっていた。
了介は、佐竹・山川両班であげた契約カードの監査待ちの時間を持て余していた。電車内で佐竹に座布団代わりにされた朝刊は、終着駅のゴミ箱に捨ててしまった。夕刊を読みたいが、この新聞販売店内にはもうない。今日の予備の「残紙」は、朝夕刊ともすでに、配達しようのない「押し紙」もろとも外にある倉庫に押し込められているらしい。了介は、この販売店への新聞社からの押し紙、無理やり過剰なノルマを達成されられた結果に残る配達しようのない新聞の部数は、二区域分くらいあると踏んでいる。
(新聞社は、いつまでこんなことを続けるのかねえ。販売店に余計な新聞紙を押しつけて、拡材代を折半してまで拡張員を突っ込んで)
「へ」の字になった了介の唇の隙間から、ため息がもれる。目の前の人だかりの中には、「不良カード」であることがバレて、販売店主に突き返されはしないかとハラハラしている者もいるが、了介は余裕綽々だ。まれにあげてしまう不良カードは、重複契約絡みのそれだけだ。今日は念を入れて、契約してくれた客に確認し、区域情報を書き込んだキャンパスノートでも確認したので、その心配もほぼない。首が飛ぶ間際の販売店主は、了介のあげた七枚の契約カードを手にし、血眼になって「購読申込み」の確認の電話を繰り返している。その隣で、いつもやる気のなさそうな顔をしている主任が、販売店の廃業の危機などどこ吹く風といった表情で、パソコンに別の契約カードの読者情報と契約期間を入力していた。
(新聞販売店も変わったな。十年くらい前までは重症のパソコンアレルギー患者で、その分店員に負担を掛けてやがったくせに。今じゃあ、こんな田舎の販売店までパソコンを入れてやがる。でも、読者管理システムは、店員が縛りや起こしに使わなきゃ、宝の持ち腐れだ)
了介は俯いた。口角をあげて小さく笑うと、肩に掛けた集金バッグから「幻想即興曲」のメロディーが流れた。メール不精の加藤葵からだ。即座に携帯電話を取り出す。
リョウちゃん、今日も九時あがり? どこに入ってるの? 私は九時半ごろに仕事が終わりそうなんだけど、今晩どう? 食事代とホテル代は私が持つわよ。
「リョウちゃん」は止めてくれよな、と了介は久しぶりに思った。そう呼ぶなとかれこれ十四年も言い続けているが、葵は、私がそう呼びたいんだからいいじゃん、と言って聞く耳を持とうとしない。日下部家では、「リョウちゃん」は兄の了治を意味する。もっとも、休日も仕事でろくに家にいなかった父の了三郎は、「リョウジ」「リョウスケ」と兄弟を呼んだが、母の文江は、「リョウちゃん」「リョウスケ」と呼び続けた。葵の他にも「リョウちゃん」と呼びたがる女は少なくなかったが、了介は頑なに拒んだ。そう呼ばれると、女の顔が文江のそれとダブってしまう。自分ではなく、兄を見つめる母の顔と。付き合いの長すぎる葵は、唯一の例外だ。
(食事代とホテル代は私が持つわよ、ときたか。いつもはきっちり割り勘なのにな。いろんな意味でたまってるってわけだ)
細すぎない葵の体は、了介の好みそのものだ。とくに、タイトなパンツがよくフィットする腰から下のラインが良い。Cカップの乳房や小さすぎない乳頭に、飽きを感じたこともない。体のラインは少しずつ崩れてきているが、それはお互い様だ。セックスの相性が抜群に良く、おまけに年々達しやすい体質になっているので、ゲーム感覚で楽しめもする。
葵もセックスフレンドと割り切っている。了介の顔と手と尻は、葵の好みそのものだ。新聞奨学生とその客のころからの付き合いがダラダラと続いているのは、精神的な結びつきが希薄だからだが、その関係を保つためには、キャリアウーマン路線を歩んでいる葵の愚痴を飲み食いしながら聞いてやり、そのあとにベッドでも様々な要求を聞いてやらねばならない。
少々疲れていたが、了介は精神の疲労回復には相性の良い女とのセックスが一番だと思い、誘いに乗る気になった。携帯電話を集金バッグに戻すと同時に、今度は「華麗なる大円舞曲」のメロディーが流れた。メールもマメな岡村早季子からだ。再び携帯電話を取り出す。
お仕事ご苦労様。明日の週休は取れそう? 久しぶりにお昼を一緒に食べたいな。 サキコ
東口の低地にある築四十年の木造安アパートの一階に住む了介と、西口に聳え立つ超高層マンションの三十階に住む早季子は、最寄りの駅こそ同じ北千住だが、住む世界が違う人間だ。ダメもとでマンションのエントランスから「ドアホン勧誘」をしていたときに、早季子が引っ掛かった。了介が引っ掛かったとも言える。早季子がオートロックの分厚いガラスドアを開けた理由は、画面に映った顔がモロ好みだったから、だった。早季子の純和風の整った顔立ちに、了介も文句はなかった。
了介の部屋ではじめて頂点に達しようとしたときに、早季子は、ショウ君、と呟き、終わって服を着たあとに、かつて了介によく似た彼氏と木造アパートで同棲していたことを白状した。それ以来、少なくとも週に一回は了介の部屋に通うようになった。甲斐甲斐しく掃除し、洗濯し、食事を作る。了介が週休を取っていれば早めに昼食を一緒に摂り、シングルベッドでセックスをする。朝の九時にやってきて、昼の二時に帰ることが多い。付き合いはじめたころにホヤホヤの幼稚園の年少さんだった一人息子の翔太は、四月から小学生になる。
早季子は、帝王切開で翔太を出産した。臍の下に太い縦線とそれを囲む横線や斜め線が刻まれて以来、ダンナから体を求められることはなくなっている。ゆえに、了介は早季子の体を愛撫するときに、下腹の線に舌を這わせることを決して忘れない。
「ご苦労さーん。我が班は二十枚きっちりで、見事に今日のノルマ達成だー。ちなみに、山川班は十八枚」
佐竹班長は、煙草でしゃがれた声を弾ませると、「特別報奨金」を含めた千円札を配りはじめた。了介は、明日から新聞の配達を開始する「即入」二本分を合わせた枚数を手にするやいなや、
「班長、すんません。これから兄貴と飲むことになったんで、お先に失礼します。なにかあったら休み明けに朝一でやりますんで」
と言って一人先に販売店をあとにした。
終着駅前にはコンビニはないのに居酒屋があり、拡張員仲間の多くはそこで晩飯を食べることになる。祐一や正三に、一杯だけ、と引きずり込まれて、たかられてはたまらない。浩二を含めた「乞食三人組」が手にした千円札の合計枚数は、了介の九枚に及ばない。
(ノルマ達成はめでたいが、不良カードが何本あることやら。浩二の三本ってのが怪しすぎるな。佐竹さんも喜んでいられるのは今日だけだろう)
了介は、すでに寝静まりつつある住宅街を歩きながらメールの返信を打ちはじめた。居酒屋の赤い電飾看板の脇で葵に送信し、駅の改札口へと向かう階段の途中で早季子に送信した。
(三月後半の休みは明日一日っきりなのに、久々の連チャンときたか。欲深な女は勘が働くからなあ。しっかしオレも、いつまでこんな生活を続けるのかねえ。販売店を渡り歩きながら客に新聞紙を押しつけて、女を渡り歩きながらナニを突っ込んで……)
階段を上り終えた所で、家路を急ぐくたびれた中年男と目が合った。サラリーマン風の男はすぐに目をそらしたが、了介は妙な親近感を覚え、男のヨレヨレのスーツを振り返ってまで目で追いながら、トレーニングスーツの上着の内ポケットからパスモを取り出した。
(むなしいねえ)
舌で一回、指で二回、そして前から後ろから三回ずつ。そこまで数えた時点で、了介は馬鹿らしくなってしまった。しかし、馬鹿にはできない馴染んだ快楽に浸ってもいた。了介に馬乗りになった加藤葵は、ようやく最後の〆を終えて大きく息を吐き、大きく傾いたかと思うと、前のめりにキングサイズのベッドに崩れ落ちる。
今日は桁が違った。達したときに女がえる快感は、少なくとも男の七倍。達してから果てるまでの女の持続時間は、男の約十五倍。七×十五=百五、さらに×十数回。葵とのセックスを終えて暗算するたびに、了介の口からため息がもれる。
セックスの本来の目的である出産は、数キロとも十数キロとも言われる体脂肪を燃やすだけのエネルギーを女に消費させるそうだ。産みの苦しみや痛みに、男は到底耐えられないらしい。それでも、単純計算とはいえ、女と男がそれぞれえる快楽の桁の違いに、了介はむなしさを覚えざるをえない。おまけに、セックスで女が消費するエネルギーは、男の約三分の一。射精したあとに重たい疲労感を覚えるようになって以来、むなしさはさらに倍になった。
悪趣味な鏡張りの天井に、女と男の裏と表の裸体が幾重にも映っている。「結婚したいなあ」とうつ伏したままの葵がため息混じりに呟いた。珍しいことを言うな、と了介は思ったが、「大学の同級生の結婚式が、この前の日曜日にあったんだあ」と葵が続けて言い、すぐに納得した。
「どんな男とよ?」
了介は、枕元にあるティッシュを数枚引き抜いて上体を起こし、うーん、と唸りながら体を反転させて仰向けになった葵と自分の後始末をした。括ったコンドームを入れて丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げ、横になりながら葵と自分に布団を掛ける。
「アシタカ。やっぱり、アシタカみたいな男が良いなあ」
予想通りの葵の答えがようやく返ってきた。了介と葵がはじめて二人で一緒に見にいった映画は、「もののけ姫」だった。はじめてセックスをした日から四年以上が経っていた。映画館で爛々と瞳を輝かせていた葵は、発売日当日にビデオを買い、その鑑賞に了介を何度も付き合わせた。葵にとってアシタカは、今もなおアカシシに乗った王子様らしい。
「えっ、早稲田にいってるんですか?」
「うん、一浪してるんだけどね」
「実は僕も早稲田にいってるんですよ。予備校のほうだけど。来年は大学のほうにいきたいと思ってるんです」
「そうなんだ。じゃあ、予備校も大学も私の後輩になるんだね」
といったトークで、翌日から新聞の配達を開始する「即入」で、四月の残り三週間分無料サービスの一年契約が纏まった。了介がはじめてあげた「新歓カード」、新規勧誘の購読契約だった。大学予備校の寮を出て、アパートで一人暮らしの女子大生になって間もなかった葵と、「拡材」は、景品は洗剤八個入りの段ボール丸々一箱で折り合った。
「アシタカねえ。葵はサンってわけか」
了介は、アイシャドーとアイラインがすっかり崩れた、奥二重の瞼に目をやった。葵は、動物的な勘の持ち主で、狙った男は切れ長の目と美しい体のラインを武器に、かなりの確率で落としてきた。ベッドの上では本能むき出しになる。今日も、ほんの数分前までは動物そのものだった。
二人は昔、葵のアパートでセックスをしていたが、回数を重ねるごとに動物のような声が大きくなっていき、隣部屋に住んでいた大家から苦情がくるようになった。葵が社会人になってからの四年の間は、了介はよく吉祥寺のラブホテルの部屋に呼び出された。深夜に激しいセックスを終えると、葵は朝までぐっすり眠り、了介は一、二時間仮眠を取ったあとに、道端に停めておいた業務用自転車に跨って朝刊配達へと向かう。ご苦労な話だが、苦にはならなかった。さすがに、その翌暁の配達中に腰にきたが、脳味噌はスッキリと冴え渡り、朝刊の「不着」を、不配をしたことは一度もない。それほど二人のセックスの相性は良かった。
「リョウちゃん。アシタカみたいな独身男を、誰か知らない? ふふっ。そんな男を、リョウちゃんが知ってるわけないか……」
全身に響き渡った快楽の余韻に再び浸るように、葵は奥二重の瞼を閉じた。
「実はさ、知ってるよ。キャリア官僚で独身。弓道参段でインターハイ個人戦八位、国体は団体で四位だったかな。けど、アシタカみたいに小柄だぜ」
と了介はおどけた口調で答えた。葵はカッと目を見開き、横臥の体勢になり、
「身長は妥協する。百六十八あればいい」
ときっぱり言い切った。日本人男性の平均身長を考えれば、さほど低い条件とは言えないが、要は「私以上」であればいいのだ。学歴も、キャリアや年収も、葵以上であることが求められる。了介は、身長以外の条件を満たしていない。結婚相手としては論外ということになる。
「身長は、ギリギリセーフかな」
思い出しながら言うと、
「マジ? マジ? どこの誰?」
と葵が食いついてきた。了介は、葵の見開いたままの目から視線をそらしながら口を開いた。
「オレの兄貴だよ。でも、キャリア官僚って言っても公務員だから、給料はたいして高くないぜ。それに、院までいってるけど、九大出。おまけに、バツイチで親権も監護権も持ってないけど、娘もいる」
「公務員でも、キャリア官僚なら全然問題ないわ。それに、九大って旧帝大でしょう。お兄さんって、たしか私と同級生だったよね。三十三でバツイチか。そこはちょっと微妙かも。でも、リョウちゃんのお兄さんだから、ルックスは期待できるよね」
「オレとは全然似てないけど、イケメンだな。いや、一昔前のタイプの男だから、ハンサムとか、男前って言ったほうがいいか。兄貴もさ、熊本の中学や高校で女子に騒がれたなあ。タタラ場で女たちにチヤホヤされるアシタカみたいな感じで。そう言えば、アシタカって蝦夷の末裔だったよな。兄貴は熊襲、いや、祖父ちゃんが鹿児島出身だから、隼人の末裔ってところだ。口数少ないしな。もっとも、顔は濃くないけど」
「マジ? タイプかも。もっと詳しくお兄さんのことを話してよ。ていうか、どうして今までほどんど話してくれなかったのよ。十何年の長い付き合いなのに」
冗談めかして言いながらも、葵は瞳を爛々と輝かせている。
「そりゃあ決まってるじゃん。葵の毒牙から人の良い兄貴を守るためさ。葵に食われて骨までしゃぶられるのは、弟のオレだけで十分だ。なんたってオレと兄貴は、たった二人っきりの兄弟だからなあ。兄弟丼は勘弁してくれよ」
了介は、悪戯っぽく見開いた目をなおも輝いている葵の瞳に向け、言葉を続けた。
「そうだな。兄貴は一言で言えばさ、女の独占欲の対象になりにくいタイプの男だな。中学や高校のころは、女子からアイドル扱いされたり、鑑賞の対象にされたりしてたからな。同級生の女子の間ではさ、日下部了治君には単独でアプローチしてはならない、っていう不文律まであったらしいぜ」
葵は、わかったようなわからないような顔をして、小さく頷いている。
「兄貴はさ、オレよりずっともてるのに、女運がないって言うか、女難の人生を歩んでるんだよなあ。請われて婿養子に入ったのに、犬猫が捨てられるように離縁されたし」
女難の最たるものは、兄の了治にとっても、了介にとっても、母の文江との関係であるが、それについて直截的には語れない。
「はじめて見舞われた女難も悲惨だったなあ。兄貴は、まだ小学六年生だったから。その一年間、同級生の女子から村八分を食らっちまったんだ。五年生の三学期に、バレンタインデーのチョコレートを兄貴に渡す権利を巡って、女子のグループの間でいがみ合いが起こってさ。勝ち組が教室の机の中にチョコレートを忍ばせたまでは良かったんだけど、兄貴はホワイトデーにクッキーを返せなくて。お袋がダメだって許さなくってさ。それに、バレンタインデーのずっと前から、兄貴にしょっちゅう女子から電話が掛かってきてたんだけど、お袋がことごとくシャットアウトして、取次ぎもしなかったんだ。そのせいもあって、勝ち組が泣いたあとに怒って、いがみ合ってた負け組と他の女子も巻き込んで、兄貴を『女の敵』に仕立てあげちまったんだ。熊本女は、火の国の女はさ、扱いが難しいんだよな。気が強いし、情熱的だし。子供だってさ、侮れないくらいませてるし」
葵は黙ったまま、ふんふん、と言いたげな顔をして了介の話に聞き入っている。
「それに、兄貴は女の先生からよく嫌われてたっけ。とくに、エリート女教師タイプから。自分のエリートとしての存在や立場を危うくする生徒、って思われてたのかなあ。だから、小学生のときは担任が女の先生の学年は成績があんまり良くなくって、中学生のときは通知表の評価が5以外の教科はたいがいが女の先生が担任だった」
「担任の先生はブスだけんが、顔の可愛いかリョウちゃんばひがんで通知表ば悪くつけたとよ」
と文江は真顔で小学生だった了介に不満をぶちまけたこともあった。
「そうそう。通知表と言えばさ、兄貴は中学三年生の学年総合で、オール5を取ったんだぜ。見たことあるかよ? オール5の通知表なんて。まだ相対評価のころだぜ。漫画じゃあるまいしさ。『クラス担任の女教師が、教科も担任してる美術と音楽で理不尽なことをやりやがるから、オレはとりあえず堪えて、嫌でも通知表に5をつけざるをえないように筆記試験で満点を取ったんだ』って、兄貴は言ったなあ。高校の受験教科でもないのにさ。あと、兄貴は自分がインターハイや国体にいっただけじゃなくて、主将として高校の名門弓道部を立て直したんだけど、スパルタ式のやり方に反感を持たれちゃったんだよな。それで、女子部員から練習をボイコットされちゃってさ。でも、信念を持ってたから、めげずにやり通したんだぜ」
「リョウちゃんさ、お兄さんのことが、大好きなんだね」
と葵は言ってくすりと笑った。
「そんなことない、でもないか」
了介は、葵から目をそらして頭を掻いた。
「お兄さんの写メある?」
葵は顎を引き、珍しく上目遣いになっている。
「ないよ。兄貴の娘のだったら、前の前の携帯に入ってるけど。あ、それは女に折られたんだった。とにかく、兄貴は自分の写真を送ってくるようなナルシストじゃないね」
「ふーん、いいじゃん。会ってみたいなあ。不覚だったわ。灯台下暗しってやつね」
と葵はまた冗談めかして言って、仰向けになった。
「マジかよ」
了介も、冗談めかした口調で続けた。
「葵はさ、兄貴の元奥さんに似てなくもないから、その気になれば上手くいくかもな。兄貴は恋愛に関しては偏差値が低いっていうか、免疫がほとんどないから、簡単に落とせるわ。もし、葵が兄貴と付き合うようになったら、いよいよオレたちの腐れ縁も切れるってわけだ」
「なによ。腐れ縁って。アパートの保証人にまでなってあげてるのに。でもさあ、私は誰かと結婚しても、リョウちゃんとはしたいなあ。できればずっと。だって、リョウちゃんのと私のって、まさに刀と鞘じゃん。やっぱりさ、納まるもんは時々でも納まるところに納まんなきゃ。アレとコレの相性だけは、努力してもどうにもなんないじゃん。十五センチの身長差も理想的って言うし」
「まあ、たしかにね」
「リョウちゃんは、どんな女と結婚したい?」
「カヤ」
と了介は即答した。葵は、ぷっ、と言っていったんは堪えたが、やがて大声で笑い出した。
「アシタカを『兄様』って呼んで、アシタカの旅立ちのシーンで『いつもいつも兄様を想っています』って言うカヤ? 自分はいつもいつも何股も掛けてるくせに、一人の女に生涯一途に愛されたいわけ?」
「そうだよ。それが理想だね」
了介は大真面目に答えたが、葵は冗談だと思ったのか、それ以上はなにも言わなかった。一人の女から一途に愛され続けた憶えはない。自らそれを拒んでいるせいもあるが、一番長くていわくつきの三年だ。
(だからオレはダメなのかもな……)
目を閉じ、ため息を吐いた。早季子にとって、了介は元カレの身代わりにすぎない。一は息子の翔太、二は元カレの翔。了介は三以下だ。早季子と時間をともにすごすようになって以来、翔太が母親から愛されるように、自分も一度は女から深く長く愛されてみたいと思うようになった。人生の節目々々で力を出し切れない原因は、そういう経験の欠如にある。兄には及ばないにしても、「日下部の弟」としての力量はあるはずだが、セックスの最中に中折れしてしまうように、肝心なときになると精神の腰が砕けてしまう。
了介は、ガラス張りの天井を仰いだ。数えるのが億劫になるくらいに、たくさんの葵と自分がいる。風俗嬢を除いても、その葵の数と同じくらいの女たちとベッドをともにしてきた。顔や名前すら思い出せない女も少なくない。数十人の葵が、一斉に寝返りを打った。女の鼾が、了介の鼓膜にむなしく響いた。
葵とは違って、岡村早季子はセックスの最中に上の空になることがある。元来はベッドの上でだけ激しくなるタイプの女だ。生理が近く、欲情がピークに達しているはずなのに、今日は年増のラブドールのようにおとなしい。
(こういう日は、早くすませるに限る)
と了介が思ったときだった。
「あっ、ゴメン、了介君」
きしむパイプベッドの脇のカラーボックスの上で、オレンジ色の携帯電話が持ち主に代わって声をあげ、宙に浮くように全身を震わせている。早季子の手が携帯電話に伸びた。
「はい、岡村です。……はい……翔太が熱を……はい。わかりました。すぐにお迎えにいきます」
思っていた通り、と言いたげな口調だった。音の鳴る先に携帯電話のLEDが緑色を放った時点で、了介は幼稚園からの着信であることを察していた。緑は早季子の一人息子が好きな色だ。翔太はすでに卒園しているが、今日は春休み保育を利用して幼稚園にいっている。
「ゴメンね。いかなきゃ」
と早季子は作った沈痛な面持ちで見あげた。羽毛布団を背負った了介は、両膝を突いたままあとずさる。すぐに、早季子はベッドから下り、畳の上のシルクのショーツに手をやった。了介は、巻き取ったコンドームを括り、カラーボックスの上のティッシュに手を伸ばしながら口を開いた。
「翔太君、風邪ひいたの?」
「うん。そうみたい。昨日の夜中に咳き込んでたから。小学校が別々になる一番の仲良しのお友だちがいてね、その子と一緒にお迎えの時間までずっと園庭で遊ぶんだって、張り切ってたんだけど。今日は暖かくて絶好の腕白日和だったから、翔太もそのお友だちも残念がってるだろうな」
早季子は、垂れた乳房を手際良くFカップのブラジャーに納めていく。
「そのお友だちって、イガラシシュンくんだよね」
「よく覚えてるね。しかもフルネームで」
ブラジャーのホックを留めながら、早季子は目を丸めた。翔太の親友のシュンは、年子の姉がいるので、仮面ライダー、ウルトラマン、ゴレンジャー、ポケモンの各シリーズに加えて、プリキュアシリーズにまで明るい。当然のように翔太が、そして早季子までもが影響を受けているおかけで、了介は自腹で買う幼児向けの「拡材」の選択で迷うことはない。未就学児の手にその種の無料招待券や引き換え券をいったん握らせれば、景品はそれだけであっても、三ヶ月の契約成立に至る確率はドンと跳ねあがる。
「やっぱり、可愛いい? 翔太君のこと」
了介は、トランクスを穿きながら尋ねた。
「うん。可愛いよ。すごく。好きでもなんでもない男との子供なのに、不思議なくらい」
早季子は、着痩せする体に高価な春物のブランド品の服を纏っていく。
「もし、了介君の、了介君似の男の子だったら、もっともっと可愛いんだろうね。想像つかないなあ」
(元カレの、翔似の男の子だったら、だろう?)
了介は、無言でジーパンを穿き、長袖Tシャツとチェック柄のシャツに袖を通し、半纏を羽織った。そして、早季子の化粧直しが終わるのを待った。
「了介君、ゴメンね。本当にゴメン」
玄関でパンプスを履き終えて振り返った早季子は、目を細めていた。
「気にすんなよ。今日もメシ、美味かったよ」
嘘だった。パスタは茹ですぎで、了介の好物であるカルボナーラの手作りソースは粉っぽく、料理上手の人妻らしくない味つけだった。
早季子は駆けるように、振り返ることもなく外廊下を渡り切り、駅前に通じる道へと去っていった。いつもは何度も振り返り、名残惜しそうな顔をして、サンダル履きの了介に何度も手を振るのが嘘のようだ。了介は、なによりそれが嬉しかった。兄の了治を見送る母の文江の姿を、今でもはっきりと覚えている。文江は、晴れの日も雨の日も風の日も、家の門前のアスファルトの路面に立ち、了治の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。そのときほど、了介は兄が羨ましく思えたことはない。
畳敷きの六畳間に戻ると、了介は窓を開けて外を見下ろした。目に映るのは、干した洗濯物とコンクリート三面張りのドブ川だ。早季子は、この風景をぼんやりと見つめることがある。
「『神田川』の世界だったの。二人ともお金がなくて、銭湯は一日おきで」
と憂えを帯びた目をして呟くように言ったこともあった。
了介は、早季子の息子と元カレが羨ましい。翔太は、母親の献身的な愛に包まれながら成長していく。翔は、今は自分を身代わりにしているが、たぶんこの先もずっと早季子に愛され続ける。了介は、黒い川面を見つめ続けた。
(……潮時かな。身代わりの分際で、三年は長すぎた)
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