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Ⅷ
兄・了治④
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了治は、受付開始の十一時半になるのを待ってラブホテルの部屋から「きらきら」の事務所に電話を入れ、営業開始の十二時にセイカを予約した。ホテル名と部屋番号を尋ねた女店長は、「優しいほうのオイカワ」である了治に、五回目の指名をした日から折り返しの確認の電話を寄越さなくなっている。セイカがやってくるまでの三十分程の間、やることなどなにもなかった。了治は、ジャケットを着たままクイーンサイズのベッドに寝転がり、薄暗い天井を眺めた。そろそろ引越しの準備に取り掛からねばならない。やがて戻る東京を意識すると、嫌でも二年前のちょうど今ごろの、あの夜を思い出してしまう。
空っ風が断末魔に苦しんでいた夜だった。最終便の航空機から羽田空港に下り立ったときには、すでに了治は疲れ果てていた。最寄りの地下鉄の駅から一棟丸ごと及川小春名義のマンションまでの道すがら、乾いた強風に追討ちを掛けられるように何度も全身を叩かれた。最上階をすべて占める部屋の玄関ドアを開けると、灯りはすべて消えていた。小春は唯と一緒にもう寝たのか、とだけ思ったことを覚えている。リビングのドアを開けても、勘は滑稽なくらいに働かなかった。カーテンは引かれておらず、ライトアップされた東京タワーと、車のライトが幾筋も流れる都心環状線が美しかった。華やかな夜景をハイサッシのガラス窓越しに眺めながら灯りを点けると、アンティークのテーブルに白い便箋と茶封筒が置かれていることに気づいた。
明日区役所に出して下さい。
慰謝料も養育費もいりません。
残りの家具や荷物の処分だけ
お願いします。
縦書きの便箋には、活字のように綺麗な小春の字が整然と、かつ冷然と並んでいた。区役所の封筒から戸籍謄本ともども出てきた離婚届と養子離縁届は、了治の署名押印欄を除いてすべての枠が埋められていた。意識が遠のき、疲労から眠り込みそうになった。まさに、三行半だった。小春からの、そして及川家からの。
「……そういうことか……おめでたいやつだね、オレは」
了治は、自らを嘲笑った。家具や家電製品がほとんど残されていたにもかかわらず、リビングは蛻の殻のように思えた。教祖の額縁入りの写真や神棚神具一式、時計やカレンダー、その他諸々の聖神教関連の品々だけがなくなっていた。億ションのモデルルームのリビングのような三十畳の空間は、とても静かでヒンヤリとしていた。
他人の悪意にずっとあとになってから気づく、自分のお人好しな性格を、了治は笑うしかなかった。伏線は敷かれていたのだ。養母と宗教が支配する及川邸は居心地が悪く、仕事の忙しさにかまけて出向くことを避けていたが、招かれることもまた絶えていた。二月上旬にこのリビングで久しぶりに会い、畏まって無沙汰を詫びたときに、貞子は婿養子の存在を黙殺し、声も視線も向けようとしなかった。そのときすでに貞子の悪意は、了治の頭越しに、しかるべき交渉相手を通して形をなしつつあった。
東京タワーを護るように林立する高層ビルが、窓からこぼれる灯りでおのおのでたらめな模様を尽くしていた。オレンジ色の幻想的な灯りに手招きされたように歩を進めると、リビングの嵌め殺しのガラス窓に肩を落とした男がうっすらと映った。その隣には、瞳に幾つもの小さな灯りをともした女の姿は当然なかった。
「こんなに華やかじゃなかったけど、小学校の修学旅行でいった長崎の港街の夜景もすごく綺麗だったよ。いつか君に見せてあげたいな」
「嬉しい。見たい。見てみたい。絶対、絶対にいつか連れていってね」
結婚して間もないころに、その場で都心の夜景を眺めながら交わした会話を、了治は思い出さないわけにはいかなかった。よく考えてみれば、東京の良家のお嬢様が長崎くんだりに住むはずが、あの母親が許すはずがなかった。そもそも貞子が離婚と養子離縁だけでなく、潮を踏ませるべく左遷まで裁決し、元大臣で大物農林族議員だった亡父の威光と恩義と人脈を駆使して省の人事に介入したのだ。左遷先が長崎となったのは、天の恵みだろう。東京で痛めつけられた心身を、しばらく休めろと。その地は穏やかだ。深い入り江も、それを囲む山々も、住む人々も。
なにも知らなかった了治は、異動の内々示を受けた日の夜に、単身赴任したほうが良いよね、と尋ねたが、小春は口を固く閉じて首を振るばかりだった。妻の悪意も、やはり感じ取れず、それどころか愚かにも、夫婦仲を修正するきっかけになるかもしれないと思った。そして、地方の官舎になど住めない妻のために、一泊二日の強行軍で長崎の港街の夜景が見える高級マンションを探し回って帰ってきた。その夜に受けた仕打ちがこれだった。
一人で住む部屋など不動産屋に適当に探してもらえばいい。引越し業者にパックの変更を連絡しなければならない。家具や家電製品の処分はタウンページを見ながら考えよう。戸籍届と転出届の区役所への提出。水道、電気、ガスの届け。銀行、郵便局、クレジットカード会社、電話会社、携帯電話会社への氏と住所の変更届け。職場への氏と住所と扶養親族の変更届け。生命保険会社への氏と住所と受取人の変更届け……。了治は、婿入りしたときにも経験した面倒な諸手続きを思い浮かべながら気を紛らわせた。
翌日の終業時間きっかりに、代議士バッジをはずした及川正夫がやるせない風情を顔に浮かべ訪ねてきて、新橋の馴染みの赤提灯に了治を誘った。
「娘の名前にだけはこだわってね。うちのやつを押し切ったのは、後にも先にもその一回切りだよ」
小春という名前は正夫がつけ、九州の小春日のような優しい女性になって欲しいという願いが込められていることを、了治は遅れ馳せながらそのときはじめて知った。
「あれは、悪い子じゃないんだがなあ。唯を産んで母親になったころから、生まれてはじめて誰かを、そして及川家を守っていかねばならない立場になってから、小春の中でなにかが変わってしまったのかもしれない……」
正夫はため息を吐き、コップに入った安酒を一気に飲み干した。
「すまんなあ……本当にすまん。うかつにも僕は気づかなかった。昨日の朝、うちのやつに養子離縁届にサインしろと言われるまで。及川貞子の性格からして、もうどうにも仕様がなかった。すまない」
白い物の増えた頭が、小汚いカウンター擦れ擦れまでさがった。
「頭をあげてください。悪いのは僕のほうですから。熊本の父にも言われていたんです。婿に入るからには、及川家の人間にならんといかんて。なり切らんといかんて。僕には、それができませんでした」
「……必ず、必ず二年で本省に戻すから。情けないが今は、まだうちのやつには逆らえん」
永田町や霞ヶ関、そして入り婿ゆえに磐石ではなかった選挙地盤を奔走していた正夫に、了治は返す言葉を見つけることができなかった。
正夫が亡くなったことを了治におしえてくれたのは、新聞の訃報欄だった。前夜のテレビの全国ニュースでも流れていたが、了治はその日に限って閉店時間までパチンコを打ち続け、馴染みの焼鳥屋の暖簾をくぐり看板まで飲んだくれていた。携帯電話にも、自宅の固定電話にも、小春からの連絡はなかった。携帯電話の留守電に正夫の死を悼むメッセージを入れていたのは、父の了三郎だった。葬儀会場は、築地本願寺。貞子が世間体を気にしたわけではなく、聖神教に葬儀を司るだけの教義体系は整っていなかった。
「及川さん、じゃなかった、日下部さん、及川代議士が亡くなられたのを知らないんすか?」
課長補佐に昇進して間もない亀山光次が携帯電話に連絡をくれたは、ちょうど午後の始業チャイムが鳴り止んだときだった。浦係長と原主任の視線が同時に飛んできて、ちょっと待ってくれ、と了治は言いながら課長席を立ち、早足で廊下に向かった。
「いや、新聞で見て、知ってる」
「こっちにこれなかったんすか? 告別式がさっき終わって、これから出棺なんすけど、会場にいないから知らないのかと思って。麗子が昨日、お通夜の手伝いにいったんすけど、日下部さんを見なかったっていうし」
「小春から連絡がこなかったからな。くるなっていうことなんだよ。出張で東京へいくときには、必ず墓参りにいく」
「そうすか」
「及川さん、胃癌だったんだな」
「ええ、見つかったときにはすでに末期で、手の施しようがなかったらしいっす」
血の繋がらない当主なのに、二代続けて胃癌。及川家の女たちの「御唱え」は、「御聖神様」に届かなかったのか。本人の「御繋がり」が深くはなかったゆえに、その腹部に宿った「黄金の光」は小さすぎたのか。
「及川家、今大変みたいっすよ。後釜争いで。貞子皇女様は分家の従弟立てたいみたいっすけど、先代からの第一秘書が補選に出る気満々で、」
「わざわざ電話ありがとうな。そっちにいくときは必ず連絡するから」
了治は、一方的に電話を切った。及川家の後継問題など、もう関係のない話で、聞きたくもなかった。完全に後ろ盾を失ってしまったが、そんなことはどうでも良かった。正夫は、上司としても舅としても理想的な男だった。及川家の婿としてもそうだった。課長だったころは、部下に細心の注意を払いつつ、省内で一、二を争うくらい精力的に仕事をこなしていた。代議士に転進してからは、見掛けるたびに一年生議員らしく額に汗を光らせていた。たまの休みの日には貞子の買い物や娯楽に付き合い、ときには夫婦揃って白い修行衣を身に纏い朝早くから夜遅くまで「教会の御奉仕」に勤しんでいた。
「仰ぐべきものは、現人神ではなく、九州の碧落であり、そして師である」
信仰心について尋ねたときに、正夫は呟くようにそう答えた。了治にとっては、仰ぐべき師であり、敬する養父であり、愛する兄でもあった。胃の痛みは以前からあったに違いない。及川正夫は、痛みや苦しみを決して口にしない、決して弱音をはかない真の九州男児だった。
長崎の街には、まるで真冬に戻ったかのように、やや湿り気を帯びた北風が吹き荒れている。ラブホテルの部屋に入ってすぐに暖房を点けたのだが、まだ足元はヒンヤリとしていて、観音開きの雨戸の僅かな隙間から冬の音が聞こえてくる。小綺麗な部屋は茶色を基調として落ち着いた配色で纏められ、側壁の上部に銅盤を傘にした裸電球が固定シャワーヘッドのようにさげられていて、室内のシックな佇まいを演出している。淡いオレンジ色の光に照らされた女性の後ろ姿は、細身の黒いジーンズがジャストフィットした腰から下のラインが美しい。背中まで届いている栗色の髪は地毛なのかもしれない。同じ色の床や調度品が材質以上に艶めいて見える。やがて、ピンク色の携帯電話を手にしたセイカが声を弾ませた。
「会員番号二八一、オイカワ様、時間は百八十分です」
客の会員番号と名前は、指名のたびに事務所のパソコンに入力されている。五×二回でまた特別割引があるものと思っていたが、セイカと女店長との会話からは汲み取れなかった。どうやら十回目の指名など想定されていないらしい。こぼれんばかりの笑顔で携帯電話を折り畳んだセイカに、了治はそんなせこい話をしようとは思わなかった。それに、セイカは累計二万円になる指名料を受け取っていない。被った金額はその半分になる。フリーの客に九十分ついた場合の取り分から「事務手数料」を差し引いた額と同じだ。
「ふふっ、今日また、ユイちゃんに、羨ましがられちゃいましたあ」
可愛い子だ、と了治は純粋に思った。デートコースに変更してご飯でも一緒に食べようか、と言いたくなったが思い止まった。そんなことをすれば、いよいよ別れがたくなってしまう。月が明けて辞令書を受け取れば、この街を去らねばならない。
了治は、感じていた。流されて幾つかの季節がすぎ去った、このかつては肥前であった地において、女性の体内で感じるのははじめてだった。セックスの相性は良くない。刀と後家鞘みたいだ。そう思っていたのに、馴染みつつある。感度も戻りつつあった。枕の両端を握り締めたセイカの両手は、了治の動きが激しさを増すにつれて握力を増していく。小春とは違って、セイカは最中に決して目を開かない。口も堅く閉じていて、ごせいしんさまごせいしんさま……と連呼することも、もちろんない。忘我の表情を気色悪く浮かべることもない。
緊張を高めるごとに、セイカの細い両腕にも力が籠もる。可能性が生じていた。長い間遮断されていた幾つもの回線が順次復旧しつつある。果たせそうだ。信号が神経を経由して脳に届いている。あと数分で、数年ぶりに女性の体内で射精に至るかもしれない。脳と体の奥底に、疼きに似たなにかをたしかに感じる。しかし、了治は動きを徐々に緩め、やがて止めた。指を当てて確認した根元は、血液で充たされて張り裂けんばかりだ。鋼のように硬直している。元妻の初産に立ち会う前の姿が蘇っていた。今ここで至ってはいけないという直感に、理性が従ったことになる。従えるとは。AV男優じゃあるまいし。年を取ったんだ。薄く苦く笑い、両肘で自身の体重を支えながらセイカに覆い被さった。
「どうかしました?」
セイカはそう言って、力の抜けた両腕で了治の背中を優しく抱いた。まだ折れてはいない。
「良いもんなんだね。セックスって。この年になって、はじめて知ったよ」
了治は、繋がっているだけで満足な気分になり安らぎをえていたが、そうですね、とセイカが相槌を打つと同時に、うっ、と息を飲まされた。弛緩しかけたのを締めつけた女性は、悪戯をした少女のように微笑んでいる。
「しばらく……このままでいてもいいかな?」
「はい。セイカも、このままでいたいです」
鼓膜が明るく震えた。お返しに可能な限りの血液を再び送り込むと、セイカはか細い腰を震わせた。
セイカは、枕に頬を乗せて微笑んでいる。起きてたんだ、と声を掛けて同じ横臥の体勢になると、瞬きで一瞬だけ隠れた少し青緑がかった黒い瞳が、はい、と返事をした。その下に刻まれた隈は、面と向き合うとより濃く了治の目に映る。
「今日は、あんまり眠たくないし、眠りたくもないから……。でも、ありがとうございます。いつも、延長してまで、セイカが仮眠を取る時間を作ってくださって」
「キツい仕事をやってるときは、まめに仮眠を取っといたほうが良いからね」
「そうですね。でも、店長が言ってましたよ。デリヘルの仕事は、慣れると楽って。ユイちゃんも言ってました」
たしかに楽なのかもしれない。仕事をしている時間は、一人の客につき実質二、三十分と言えなくもない。
「でも、セイカちゃんは、そうは思わないよね」
作った笑顔を小さく引き攣らせ、しばらく間をおいてセイカは頷いた。瞳も、顔全体も、気弱そうに曇る。
「ゴメン。余計なことを言っちゃった」
黙したまま、セイカは枕の上で小さく首を振った。細くて柔らかな髪が微かに揺れる。
「僕もね、東京にいたころは仕事がキツくて、職場でよく仮眠を取ってたなあ。男の人と二人で寝たこともあった」
「えっ、今のオイカワさんとセイカみたいにですか?」
セイカは、悪戯っぽく目を丸めた。了治は、胸を撫で下ろしながら静かに笑った。
「テーブルを挟んで、向かい合ったソファーの上に、それぞれ横になって。もちろん服は着たまま。皺になるからスーツの上着は脱いでたけど」
了治は、「霊安室」と呼ばれる庁舎の休憩室で及川課長と仮眠を取ったことを思い出していた。
「及川さんと、よく一緒に寝たな」
「えっ、その人と、仲が良かったんですか?」
「うん。尊敬、いや、敬愛してる。もう亡くなったんだけどね」
「えーっ、その人の名字を偽名で使うのって、その人に悪くないですか」
セイカは、はじめて諌めるような、珍しく早い口調でそう言った。両の瞳の少し青みを帯びた光は、いつになく強い。すぐにセイカは二回瞬いて、表情を緩めた。
「ごめんなさい。セイカも、余計なことを言っちゃいました」
「いや、そんなことはないよ。たしかに、及川って偽名を使ったのは、良くなかった……」
「きらきら」の事務所にはじめて電話を掛けたときに、女店長は、偽名でも結構ですから、と前置きして名前を尋ねてきた。うっかり偽名を用意していなかった了治は、とっさに及川と言ってしまった。脳裏をかすめたのは正夫ではなく、及川家の二人の女たち、小春と貞子の歪んだ顔だった。ささやかな復讐と言っていい。了治はため息を吐き、上体を起こした。セイカも続くと張りをなくした一対の乳房が啜り泣くように小さく揺れ、ずり落ちた布団から帝王切開の傷痕が覗いた。
「セイカね、子供が大好きなんです」
軽い眩暈を覚えた。同時に心臓に重たい衝撃を受け、了治は目を泳がせた。二度目の関係を持つときに、やっぱりコンドームを着けなきゃね、と言ったが、セイカは大きな目を細めて首を振った。了治は、至りこそしないが、微量の精子を含んだカウパー氏腺は分泌していた。妊娠させる可能性はある。しかし、着ける必要はないんです、と時に能弁になる少し青緑がかった黒い瞳は、きっぱりと、かつ悲しげに語っていた。
「この前の日曜日に、中学のころの先輩の家に遊びにいったんです。ずっと、先輩の子供と遊んでたんですよ。その子は、すっごく懐いてくれて、遊び疲れて、セイカの膝の上で寝ちゃったんです。額に汗をかいて。すっごく……可愛かったなあ」
青みを増した瞳を隠すように、セイカは目を伏せた。
「そうなんだ。何歳の子?」
「五歳になったばかりの男の子です」
了治は、訊かなければ良かったと後悔した。セイカの子供も生きていれば、それくらいになっている。
「手を、借りてもいいですか?」
セイカは、掌で了治の手の甲を優しくさすった。
「オイカワさんの手は、綺麗ですよねえ」
小春も、同じことを何度も言った。風俗嬢たちからも、よく言われた。
「あんたは男の武器を使って、及川家に入り込んで、私を出し抜いたわけよ。あんたのその綺麗な手と、その綺麗な顔、おまけに、たまにしか見せないけど、その綺麗な歯並び。男の武器以外のなんなのよ」
役所の同期の張本温子には、真顔でそう言われた。
「綺麗かな。たしかにこの手は、女の人にもてるんだよね」
「でしょう。肌がスベスベで、羨ましいなあ。セイカは、コーヒーレディーだったころから、目をつけてたんです。暖房を入れる季節のね、ちょうど今みたいに温まって、血管が浮きあがったときが、とくに綺麗。思わず触りたくなっちゃいます。こうしたら、嫌なことを、全部忘れられそう」
セイカは、頬に了治の手の甲を当てた。肌は白いが、クオーターであるためか、二十歳をすぎた今はさほど綺麗とはない。老けた手の甲には、過去の苦労が滲み出ている。
「オイカワは、この手のおかげでセイカちゃんの彼氏になれたのかな?」
「それも、理由の一つです」
「だったら、この手に感謝しなきゃ」
薄く微笑みながら、セイカは両掌で了治の手を包んだ。温もりが心地良い。
「そうだ。忘れるところだった。セイカちゃんさ、浜市アーケードで、買い物することはあるよね」
「はい。近いうちに、いこうかなって思ってます。自分へのご褒美に、春物の服を買いに」
「じゃあ、ちょうど良かった。デパートの商品券があるんだけど、もらってくれないかな?」
了治は、ベッドの脇のサイドテーブルに手を伸ばし、セカンドバッグから厚紙封筒を取り出してセイカに手渡した。
「職場の送別会でもらったんだけど、僕はデパートで買い物しないから、代わりに使って」
「ありがとうございます。助かります。でも、本当にいいんですか? たくさん入ってるみたいですけど」
厚紙封筒を両手で持ち直したセイカは、口を噤んで顎を引き、じっと了治を見つめた。
「これだけ入ってる」
人差し指を立てると、セイカの眉尻が申し訳なさそうにさがり、了治はつられて目尻をさげた。
「セイカちゃんも、今から送別会をやってくれないかな。それに、いまさらめでたくもないけど、今月の十日が誕生日だったんだ。ちょっとだけ付き合って」
「そうなんですかあ。おめでとうございます。でも、セイカは、ちょっと不満です。前もって言ってくれれば、なにかプレゼントを用意したのに」
社交辞令じゃないですよ。そう言いたげに、セイカは口を尖らせている。了治は、笑いながらベッドから下り、バスローブを羽織った。そして、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、備え付けのグラスを覆った半透明のビニールを取りながら、また小さく笑った。
「セイカは、お酒弱いのお。彼女酔わせてえ、どうするつもりですかあ?」
下戸が無理をしたらしい。手にしているグラスの半分程の中身はほとんど減っていないが、了治に寄り添ってベッドに腰掛けているセイカは、すっかりできあがっている。茶色いバスローブを身に纏う女の削げた頬は、了治のマンションの部屋から見える平和公園で開いた花々のように、桜色に染まっていた。
「じゃあ、立ってもらおうかな」
言われるがままに、セイカは少々ふらつきながら立ちあがった。了治は、中身がこぼれそうになったグラスを受け取り、サイドテーブルに置いた。そして、中腰になり、
「一回でいいから、こうしてみたかったんだよね」
と言って両腕でセイカを抱きあげた。
驚いて目を丸めているセイカは思いのほか軽く、悲しくなった。背丈は百六十センチくらいあるが、体重は四十キロそこそこだろうか。会うたびに存在感を増していく鎖骨と肋骨と妊娠線が、とある風俗店で耳にした話を思い起こさせた。風俗の仕事をはじめて太る女は続けられるが、痩せる女は続けられないらしい。女は決して自分を崖っ縁までは追い込まない。退路を断つことはない。それが了治の持論だった。ただし、例外がある。風俗に「沈められた」女だ。セイカは長崎湾に臨む崖の縁で逃げ場を失い、痛烈な宿命を背負って一人佇んでいるのかもしれない。
「わーい。お姫様ダッコ。セイカも一回でいいからあ、誰かにやってもらいたかったのお」
了治は、セイカをベッドに寝かせてベージュ色の布団を掛け、隣に添い寝した。そして、栗色の髪を優しく撫でながら言った。
「このまま、少し、お話しようか。眠たくなったら寝ていいよ」
「どうして……どうして、こんなに優しくしてくれるんですか? 涙が出ちゃいます」
言葉通りに、こちらを向いたセイカの目尻から布団と同色の枕にこぼれ落ちた一粒の涙は、じわりと同心円を広げていった。
「……今まで、女の人に優しく接してこなかったから、かな。セイカちゃんに、その罪滅ぼしをさせてもらってるのかもね」
目を伏せて、了治は答えた。
「そんなことは、ないと思います。オイカワさんは、優しい人です。目を見れば、わかります。パチンコ店で、コーヒーレディーとお客さんの関係だったころから、セイカは思ってました。一見、クールで近寄りがたいけど、きっと、根は優しい人なんだろうなあって」
了治は、自己顕示や出世のために同級生や同僚を軽視することが少なくなかったが、とくに女性に対して配慮が足らなさすぎた。それに、元妻に禁じられているとはいえ、娘の唯に会いにいくどころか、手紙を書こうとさえもしていない。老いが目立ちはじめた母の文江には親孝行どころか、ろくに電話すらしていない。及川小春からの三行半は、天罰だったのだ。自分は女運が悪いのではなく、女たちに不運を撒き散らしているのかもしれない。了治は、セイカに返す言葉を見つけることができなかった。
「口を、開けてもらってもいいですか?」
セイカはそう言って、清んだ瞳だけで微笑んだ。了治の口は、ぎこちなく応える。
「やっぱり、綺麗ですね。歯並び。羨ましいなあ。セイカは結構デコボコだから。オイカワさん、もっと、笑ったほうがいいですよ。せっかく、きれいな歯並びをしてるんだから。それに、歯を見せて笑うと、優しい感じがします」
目の前でお手本が示された。了治は、習って歯を見せたまま笑みを作る。セイカは、口を閉じて頷き、また瞳だけで優しく微笑んだ。
「また、手を、借りてもいいですか?」
セイカは、了治の掌を自身の下腹に宛てがった。舌先以外ではじめて触れた傷痕は、やはり硬い。
「オイカワさんの掌は、あったかいなあ。セイカが幼稚園のころに、お父さんが言ったんです。優しい男は、手で、掌でわかるって。恵は大人になったら、掌があったかい男を探せって。オイカワさんの掌は、すっごくあったかいです……」
了治も、掌に温かさを感じていた。加えて、セイカの体温が布団の中で半身を優しく包んでくれている。小春とベッドをともにしたときには感じたことのない、奥行を感じさせる心地良い温かさだった。降り落ちた季節外れの雪さえ、その存在を寛容するような。
「セイカちゃんは、季節に例えるとしたら、」
微かな寝息を耳にして、了治は口を噤んだ。瞼を閉じて瞳を隠していても、セイカの寝つきの顔は清らかだった。この子で二人目なのかもしれない。了治は、心の中でそう呟いていた。二年前のちょうど今ごろに、了治の送別会を兼ねたキャリア組の同期会があった。同期の連中は、本心はともかく、離婚と離縁に同情して左遷を気の毒がり、優しい言葉を掛けてくれた。しかし、張本温子だけは違った。細い目を全開にして、しっかりと張った顎と大きな口を忙しく動かしながら攻撃してきた。
「まったく、バカな男よ、あんたは。あんたはさ、遠くで見てる分には良い男なんだけどさ、側に寄ると感じるのよ。オレに近寄るなオーラ。しかも、あんたはクールじゃなくて氷点下のバリアで全身を覆ってるって感じ。あんたに近寄ってくる女って意外と少ないでしょう。まったく、もったいないことをしたわよね。逆玉や局長への道はともかくさ。近寄るなオーラをかわして、バリアを突破してきたんでしょう。及川代議士の娘さん。そんな女は、もう二度と現れないかもよ。本当にバカよ。あんたは」
張本の言ったことは正しかった。了治は、小春と結婚するまで「素人童貞」だった。それに、たしかに小春は、いくつかの障害を物ともせずに、了治の懐に飛び込んできた女だった。セイカも、オイカワに近寄ってきた。しかし、恵が了治に近寄ってきたわけではない。セイカとオイカワの、あくまでも擬似恋愛の世界での話だ。了治は、自分にそう言い聞かせた。
セイカが目を覚ましたのは、事務所から終了十分前の電話が掛かってきたときだった。了治は、サイドテーブルの上の傷の目立つ携帯電話に手を伸ばし、いけない、寝ちゃった、と布団をはねのけて飛び起きた持ち主に手渡した。すみません、とセイカは咳払いしてピンク色の携帯電話を開いた。事務所とのやりとりを終えると、折り畳んだ携帯電話を脇に置き、体育座りになった。
「もうすぐ、三月も終わりですね。寂しいです。オイカワさんが、いなくなっちゃうと思うと。この仕事……本当に辞めたくなっちゃいました」
きゅっ、と気管が収縮した。気管支炎を起こしたように息が浅くなり、体の芯から力が抜ける。唾を飲み込んで息を整え、了治はゆっくりと上体を起こして胡坐をかいた。
「及川って名字ね、実は、東京で二年間だけ名乗ったことがあるんだ。及川さんは、養父だった。昔の職場の上司で、代議士をやってた。僕も及川さんも、資産家の婿養子だったんだ。逆玉ってやつだね。及川家に婿入りしたときに、職場の同期の連中から日下部はこれで出世間違しだってやっかまれたなあ。でも、僕は妻や養母に嫌われて、離縁されて、おまけに長崎に島流しを食らったんだ。生まれ育ったのが同じ九州の熊本だから、まあ、不幸中の幸いだったんだけど」
「生きていると……いろいろ、ありますよね」
セイカは愛おしいものを、例えば幼い息子を前にしたように目を細め、過去と現在を再び告白するように沁み沁みと言った。
「でも、生きて、生き抜かないと」
この子の分もと言いたげに、セイカは視線を下げ、掌を下腹に当てた。
「引越しは、いつなんですか?」
「それが、次の土曜日になっちゃったんだ。三十一日の午後。その日の午前中か、一日の日曜日にしたかったんだけど、業者の予約が取れなくて。引越しをすませて、この近くにあるシティーホテルに二泊して、二日の月曜日に辞令書をもらったら、長崎ともお別れだ」
「じゃあ、セイカとは、今日でお別れですか?」
セイカは、唇を引き結んだ。
いや、と言いかけたが、了治は思い止まった。セイカがフルタイムで出勤する平日に呼べないことはない。しかし、異動の期日が迫るにつれて、まだいるうちになるたけ多くさばかせておこうと、浦係長と原主任が以前にも増して仕事を押しつけてくるようになっている。年度末の仕事に加えて引き継ぎ業務等もあり、忙しくなる。呼ぶと確約はできない。引越しを終えたあとの土曜日の午後に、予約を取れる保証はない。セイカの出勤時間は午後八時までだし、その容姿と性格が週を追うごとに指名数を着実に増やしている。
「うん。次の日曜日は、四月一日だからね。オイカワとセイカちゃんの関係は、三月いっぱいの期間限定だから」
了治も、唇を引き結ぶ。
「……今日は、一緒に部屋を出ませんか」
力なく微笑んで、セイカは再び唇を引き結んだ。諦めることには慣れっこです。唇がそう呟くのを防ぐように。
「そうだね。最後の思い出に」
了治とセイカはベッドから下り、無言で服を着た。セイカが事務所に電話を掛けている間に、了治はエアシューターで料金の精算をすませた。二人は部屋を出て、どちらからともなく手を繋いで階段を下りはじめた。了治は、一秒でも長く手を繋いでいたいと思った。エレベーターに向かおうとしなかったセイカも、同じ思いだったらしい。細い肩にいろんなものを背負っているはずなのに、足取りはしっかりしていた。一人ぼっちなのに、どこか逞しさを感じさせる足音だった。
ピロティの駐車場には誰もいなかった。セイカの送迎車がくるまでの間、了治とセイカはワンボックスカーの陰に隠れて、人目を忍んで体育館裏でキスをしている高校生カップルのように、何度も唇を重ね合わせた。不器用に、互いの高い鼻を時折ぶつけ合いながら。茶色のジャケットとピンク色のハーフコートも何度も重なり合った。セイカの唇は、程良く温かかった。そして、清々しい感触を了治の唇に残してくれた。
空っ風が断末魔に苦しんでいた夜だった。最終便の航空機から羽田空港に下り立ったときには、すでに了治は疲れ果てていた。最寄りの地下鉄の駅から一棟丸ごと及川小春名義のマンションまでの道すがら、乾いた強風に追討ちを掛けられるように何度も全身を叩かれた。最上階をすべて占める部屋の玄関ドアを開けると、灯りはすべて消えていた。小春は唯と一緒にもう寝たのか、とだけ思ったことを覚えている。リビングのドアを開けても、勘は滑稽なくらいに働かなかった。カーテンは引かれておらず、ライトアップされた東京タワーと、車のライトが幾筋も流れる都心環状線が美しかった。華やかな夜景をハイサッシのガラス窓越しに眺めながら灯りを点けると、アンティークのテーブルに白い便箋と茶封筒が置かれていることに気づいた。
明日区役所に出して下さい。
慰謝料も養育費もいりません。
残りの家具や荷物の処分だけ
お願いします。
縦書きの便箋には、活字のように綺麗な小春の字が整然と、かつ冷然と並んでいた。区役所の封筒から戸籍謄本ともども出てきた離婚届と養子離縁届は、了治の署名押印欄を除いてすべての枠が埋められていた。意識が遠のき、疲労から眠り込みそうになった。まさに、三行半だった。小春からの、そして及川家からの。
「……そういうことか……おめでたいやつだね、オレは」
了治は、自らを嘲笑った。家具や家電製品がほとんど残されていたにもかかわらず、リビングは蛻の殻のように思えた。教祖の額縁入りの写真や神棚神具一式、時計やカレンダー、その他諸々の聖神教関連の品々だけがなくなっていた。億ションのモデルルームのリビングのような三十畳の空間は、とても静かでヒンヤリとしていた。
他人の悪意にずっとあとになってから気づく、自分のお人好しな性格を、了治は笑うしかなかった。伏線は敷かれていたのだ。養母と宗教が支配する及川邸は居心地が悪く、仕事の忙しさにかまけて出向くことを避けていたが、招かれることもまた絶えていた。二月上旬にこのリビングで久しぶりに会い、畏まって無沙汰を詫びたときに、貞子は婿養子の存在を黙殺し、声も視線も向けようとしなかった。そのときすでに貞子の悪意は、了治の頭越しに、しかるべき交渉相手を通して形をなしつつあった。
東京タワーを護るように林立する高層ビルが、窓からこぼれる灯りでおのおのでたらめな模様を尽くしていた。オレンジ色の幻想的な灯りに手招きされたように歩を進めると、リビングの嵌め殺しのガラス窓に肩を落とした男がうっすらと映った。その隣には、瞳に幾つもの小さな灯りをともした女の姿は当然なかった。
「こんなに華やかじゃなかったけど、小学校の修学旅行でいった長崎の港街の夜景もすごく綺麗だったよ。いつか君に見せてあげたいな」
「嬉しい。見たい。見てみたい。絶対、絶対にいつか連れていってね」
結婚して間もないころに、その場で都心の夜景を眺めながら交わした会話を、了治は思い出さないわけにはいかなかった。よく考えてみれば、東京の良家のお嬢様が長崎くんだりに住むはずが、あの母親が許すはずがなかった。そもそも貞子が離婚と養子離縁だけでなく、潮を踏ませるべく左遷まで裁決し、元大臣で大物農林族議員だった亡父の威光と恩義と人脈を駆使して省の人事に介入したのだ。左遷先が長崎となったのは、天の恵みだろう。東京で痛めつけられた心身を、しばらく休めろと。その地は穏やかだ。深い入り江も、それを囲む山々も、住む人々も。
なにも知らなかった了治は、異動の内々示を受けた日の夜に、単身赴任したほうが良いよね、と尋ねたが、小春は口を固く閉じて首を振るばかりだった。妻の悪意も、やはり感じ取れず、それどころか愚かにも、夫婦仲を修正するきっかけになるかもしれないと思った。そして、地方の官舎になど住めない妻のために、一泊二日の強行軍で長崎の港街の夜景が見える高級マンションを探し回って帰ってきた。その夜に受けた仕打ちがこれだった。
一人で住む部屋など不動産屋に適当に探してもらえばいい。引越し業者にパックの変更を連絡しなければならない。家具や家電製品の処分はタウンページを見ながら考えよう。戸籍届と転出届の区役所への提出。水道、電気、ガスの届け。銀行、郵便局、クレジットカード会社、電話会社、携帯電話会社への氏と住所の変更届け。職場への氏と住所と扶養親族の変更届け。生命保険会社への氏と住所と受取人の変更届け……。了治は、婿入りしたときにも経験した面倒な諸手続きを思い浮かべながら気を紛らわせた。
翌日の終業時間きっかりに、代議士バッジをはずした及川正夫がやるせない風情を顔に浮かべ訪ねてきて、新橋の馴染みの赤提灯に了治を誘った。
「娘の名前にだけはこだわってね。うちのやつを押し切ったのは、後にも先にもその一回切りだよ」
小春という名前は正夫がつけ、九州の小春日のような優しい女性になって欲しいという願いが込められていることを、了治は遅れ馳せながらそのときはじめて知った。
「あれは、悪い子じゃないんだがなあ。唯を産んで母親になったころから、生まれてはじめて誰かを、そして及川家を守っていかねばならない立場になってから、小春の中でなにかが変わってしまったのかもしれない……」
正夫はため息を吐き、コップに入った安酒を一気に飲み干した。
「すまんなあ……本当にすまん。うかつにも僕は気づかなかった。昨日の朝、うちのやつに養子離縁届にサインしろと言われるまで。及川貞子の性格からして、もうどうにも仕様がなかった。すまない」
白い物の増えた頭が、小汚いカウンター擦れ擦れまでさがった。
「頭をあげてください。悪いのは僕のほうですから。熊本の父にも言われていたんです。婿に入るからには、及川家の人間にならんといかんて。なり切らんといかんて。僕には、それができませんでした」
「……必ず、必ず二年で本省に戻すから。情けないが今は、まだうちのやつには逆らえん」
永田町や霞ヶ関、そして入り婿ゆえに磐石ではなかった選挙地盤を奔走していた正夫に、了治は返す言葉を見つけることができなかった。
正夫が亡くなったことを了治におしえてくれたのは、新聞の訃報欄だった。前夜のテレビの全国ニュースでも流れていたが、了治はその日に限って閉店時間までパチンコを打ち続け、馴染みの焼鳥屋の暖簾をくぐり看板まで飲んだくれていた。携帯電話にも、自宅の固定電話にも、小春からの連絡はなかった。携帯電話の留守電に正夫の死を悼むメッセージを入れていたのは、父の了三郎だった。葬儀会場は、築地本願寺。貞子が世間体を気にしたわけではなく、聖神教に葬儀を司るだけの教義体系は整っていなかった。
「及川さん、じゃなかった、日下部さん、及川代議士が亡くなられたのを知らないんすか?」
課長補佐に昇進して間もない亀山光次が携帯電話に連絡をくれたは、ちょうど午後の始業チャイムが鳴り止んだときだった。浦係長と原主任の視線が同時に飛んできて、ちょっと待ってくれ、と了治は言いながら課長席を立ち、早足で廊下に向かった。
「いや、新聞で見て、知ってる」
「こっちにこれなかったんすか? 告別式がさっき終わって、これから出棺なんすけど、会場にいないから知らないのかと思って。麗子が昨日、お通夜の手伝いにいったんすけど、日下部さんを見なかったっていうし」
「小春から連絡がこなかったからな。くるなっていうことなんだよ。出張で東京へいくときには、必ず墓参りにいく」
「そうすか」
「及川さん、胃癌だったんだな」
「ええ、見つかったときにはすでに末期で、手の施しようがなかったらしいっす」
血の繋がらない当主なのに、二代続けて胃癌。及川家の女たちの「御唱え」は、「御聖神様」に届かなかったのか。本人の「御繋がり」が深くはなかったゆえに、その腹部に宿った「黄金の光」は小さすぎたのか。
「及川家、今大変みたいっすよ。後釜争いで。貞子皇女様は分家の従弟立てたいみたいっすけど、先代からの第一秘書が補選に出る気満々で、」
「わざわざ電話ありがとうな。そっちにいくときは必ず連絡するから」
了治は、一方的に電話を切った。及川家の後継問題など、もう関係のない話で、聞きたくもなかった。完全に後ろ盾を失ってしまったが、そんなことはどうでも良かった。正夫は、上司としても舅としても理想的な男だった。及川家の婿としてもそうだった。課長だったころは、部下に細心の注意を払いつつ、省内で一、二を争うくらい精力的に仕事をこなしていた。代議士に転進してからは、見掛けるたびに一年生議員らしく額に汗を光らせていた。たまの休みの日には貞子の買い物や娯楽に付き合い、ときには夫婦揃って白い修行衣を身に纏い朝早くから夜遅くまで「教会の御奉仕」に勤しんでいた。
「仰ぐべきものは、現人神ではなく、九州の碧落であり、そして師である」
信仰心について尋ねたときに、正夫は呟くようにそう答えた。了治にとっては、仰ぐべき師であり、敬する養父であり、愛する兄でもあった。胃の痛みは以前からあったに違いない。及川正夫は、痛みや苦しみを決して口にしない、決して弱音をはかない真の九州男児だった。
長崎の街には、まるで真冬に戻ったかのように、やや湿り気を帯びた北風が吹き荒れている。ラブホテルの部屋に入ってすぐに暖房を点けたのだが、まだ足元はヒンヤリとしていて、観音開きの雨戸の僅かな隙間から冬の音が聞こえてくる。小綺麗な部屋は茶色を基調として落ち着いた配色で纏められ、側壁の上部に銅盤を傘にした裸電球が固定シャワーヘッドのようにさげられていて、室内のシックな佇まいを演出している。淡いオレンジ色の光に照らされた女性の後ろ姿は、細身の黒いジーンズがジャストフィットした腰から下のラインが美しい。背中まで届いている栗色の髪は地毛なのかもしれない。同じ色の床や調度品が材質以上に艶めいて見える。やがて、ピンク色の携帯電話を手にしたセイカが声を弾ませた。
「会員番号二八一、オイカワ様、時間は百八十分です」
客の会員番号と名前は、指名のたびに事務所のパソコンに入力されている。五×二回でまた特別割引があるものと思っていたが、セイカと女店長との会話からは汲み取れなかった。どうやら十回目の指名など想定されていないらしい。こぼれんばかりの笑顔で携帯電話を折り畳んだセイカに、了治はそんなせこい話をしようとは思わなかった。それに、セイカは累計二万円になる指名料を受け取っていない。被った金額はその半分になる。フリーの客に九十分ついた場合の取り分から「事務手数料」を差し引いた額と同じだ。
「ふふっ、今日また、ユイちゃんに、羨ましがられちゃいましたあ」
可愛い子だ、と了治は純粋に思った。デートコースに変更してご飯でも一緒に食べようか、と言いたくなったが思い止まった。そんなことをすれば、いよいよ別れがたくなってしまう。月が明けて辞令書を受け取れば、この街を去らねばならない。
了治は、感じていた。流されて幾つかの季節がすぎ去った、このかつては肥前であった地において、女性の体内で感じるのははじめてだった。セックスの相性は良くない。刀と後家鞘みたいだ。そう思っていたのに、馴染みつつある。感度も戻りつつあった。枕の両端を握り締めたセイカの両手は、了治の動きが激しさを増すにつれて握力を増していく。小春とは違って、セイカは最中に決して目を開かない。口も堅く閉じていて、ごせいしんさまごせいしんさま……と連呼することも、もちろんない。忘我の表情を気色悪く浮かべることもない。
緊張を高めるごとに、セイカの細い両腕にも力が籠もる。可能性が生じていた。長い間遮断されていた幾つもの回線が順次復旧しつつある。果たせそうだ。信号が神経を経由して脳に届いている。あと数分で、数年ぶりに女性の体内で射精に至るかもしれない。脳と体の奥底に、疼きに似たなにかをたしかに感じる。しかし、了治は動きを徐々に緩め、やがて止めた。指を当てて確認した根元は、血液で充たされて張り裂けんばかりだ。鋼のように硬直している。元妻の初産に立ち会う前の姿が蘇っていた。今ここで至ってはいけないという直感に、理性が従ったことになる。従えるとは。AV男優じゃあるまいし。年を取ったんだ。薄く苦く笑い、両肘で自身の体重を支えながらセイカに覆い被さった。
「どうかしました?」
セイカはそう言って、力の抜けた両腕で了治の背中を優しく抱いた。まだ折れてはいない。
「良いもんなんだね。セックスって。この年になって、はじめて知ったよ」
了治は、繋がっているだけで満足な気分になり安らぎをえていたが、そうですね、とセイカが相槌を打つと同時に、うっ、と息を飲まされた。弛緩しかけたのを締めつけた女性は、悪戯をした少女のように微笑んでいる。
「しばらく……このままでいてもいいかな?」
「はい。セイカも、このままでいたいです」
鼓膜が明るく震えた。お返しに可能な限りの血液を再び送り込むと、セイカはか細い腰を震わせた。
セイカは、枕に頬を乗せて微笑んでいる。起きてたんだ、と声を掛けて同じ横臥の体勢になると、瞬きで一瞬だけ隠れた少し青緑がかった黒い瞳が、はい、と返事をした。その下に刻まれた隈は、面と向き合うとより濃く了治の目に映る。
「今日は、あんまり眠たくないし、眠りたくもないから……。でも、ありがとうございます。いつも、延長してまで、セイカが仮眠を取る時間を作ってくださって」
「キツい仕事をやってるときは、まめに仮眠を取っといたほうが良いからね」
「そうですね。でも、店長が言ってましたよ。デリヘルの仕事は、慣れると楽って。ユイちゃんも言ってました」
たしかに楽なのかもしれない。仕事をしている時間は、一人の客につき実質二、三十分と言えなくもない。
「でも、セイカちゃんは、そうは思わないよね」
作った笑顔を小さく引き攣らせ、しばらく間をおいてセイカは頷いた。瞳も、顔全体も、気弱そうに曇る。
「ゴメン。余計なことを言っちゃった」
黙したまま、セイカは枕の上で小さく首を振った。細くて柔らかな髪が微かに揺れる。
「僕もね、東京にいたころは仕事がキツくて、職場でよく仮眠を取ってたなあ。男の人と二人で寝たこともあった」
「えっ、今のオイカワさんとセイカみたいにですか?」
セイカは、悪戯っぽく目を丸めた。了治は、胸を撫で下ろしながら静かに笑った。
「テーブルを挟んで、向かい合ったソファーの上に、それぞれ横になって。もちろん服は着たまま。皺になるからスーツの上着は脱いでたけど」
了治は、「霊安室」と呼ばれる庁舎の休憩室で及川課長と仮眠を取ったことを思い出していた。
「及川さんと、よく一緒に寝たな」
「えっ、その人と、仲が良かったんですか?」
「うん。尊敬、いや、敬愛してる。もう亡くなったんだけどね」
「えーっ、その人の名字を偽名で使うのって、その人に悪くないですか」
セイカは、はじめて諌めるような、珍しく早い口調でそう言った。両の瞳の少し青みを帯びた光は、いつになく強い。すぐにセイカは二回瞬いて、表情を緩めた。
「ごめんなさい。セイカも、余計なことを言っちゃいました」
「いや、そんなことはないよ。たしかに、及川って偽名を使ったのは、良くなかった……」
「きらきら」の事務所にはじめて電話を掛けたときに、女店長は、偽名でも結構ですから、と前置きして名前を尋ねてきた。うっかり偽名を用意していなかった了治は、とっさに及川と言ってしまった。脳裏をかすめたのは正夫ではなく、及川家の二人の女たち、小春と貞子の歪んだ顔だった。ささやかな復讐と言っていい。了治はため息を吐き、上体を起こした。セイカも続くと張りをなくした一対の乳房が啜り泣くように小さく揺れ、ずり落ちた布団から帝王切開の傷痕が覗いた。
「セイカね、子供が大好きなんです」
軽い眩暈を覚えた。同時に心臓に重たい衝撃を受け、了治は目を泳がせた。二度目の関係を持つときに、やっぱりコンドームを着けなきゃね、と言ったが、セイカは大きな目を細めて首を振った。了治は、至りこそしないが、微量の精子を含んだカウパー氏腺は分泌していた。妊娠させる可能性はある。しかし、着ける必要はないんです、と時に能弁になる少し青緑がかった黒い瞳は、きっぱりと、かつ悲しげに語っていた。
「この前の日曜日に、中学のころの先輩の家に遊びにいったんです。ずっと、先輩の子供と遊んでたんですよ。その子は、すっごく懐いてくれて、遊び疲れて、セイカの膝の上で寝ちゃったんです。額に汗をかいて。すっごく……可愛かったなあ」
青みを増した瞳を隠すように、セイカは目を伏せた。
「そうなんだ。何歳の子?」
「五歳になったばかりの男の子です」
了治は、訊かなければ良かったと後悔した。セイカの子供も生きていれば、それくらいになっている。
「手を、借りてもいいですか?」
セイカは、掌で了治の手の甲を優しくさすった。
「オイカワさんの手は、綺麗ですよねえ」
小春も、同じことを何度も言った。風俗嬢たちからも、よく言われた。
「あんたは男の武器を使って、及川家に入り込んで、私を出し抜いたわけよ。あんたのその綺麗な手と、その綺麗な顔、おまけに、たまにしか見せないけど、その綺麗な歯並び。男の武器以外のなんなのよ」
役所の同期の張本温子には、真顔でそう言われた。
「綺麗かな。たしかにこの手は、女の人にもてるんだよね」
「でしょう。肌がスベスベで、羨ましいなあ。セイカは、コーヒーレディーだったころから、目をつけてたんです。暖房を入れる季節のね、ちょうど今みたいに温まって、血管が浮きあがったときが、とくに綺麗。思わず触りたくなっちゃいます。こうしたら、嫌なことを、全部忘れられそう」
セイカは、頬に了治の手の甲を当てた。肌は白いが、クオーターであるためか、二十歳をすぎた今はさほど綺麗とはない。老けた手の甲には、過去の苦労が滲み出ている。
「オイカワは、この手のおかげでセイカちゃんの彼氏になれたのかな?」
「それも、理由の一つです」
「だったら、この手に感謝しなきゃ」
薄く微笑みながら、セイカは両掌で了治の手を包んだ。温もりが心地良い。
「そうだ。忘れるところだった。セイカちゃんさ、浜市アーケードで、買い物することはあるよね」
「はい。近いうちに、いこうかなって思ってます。自分へのご褒美に、春物の服を買いに」
「じゃあ、ちょうど良かった。デパートの商品券があるんだけど、もらってくれないかな?」
了治は、ベッドの脇のサイドテーブルに手を伸ばし、セカンドバッグから厚紙封筒を取り出してセイカに手渡した。
「職場の送別会でもらったんだけど、僕はデパートで買い物しないから、代わりに使って」
「ありがとうございます。助かります。でも、本当にいいんですか? たくさん入ってるみたいですけど」
厚紙封筒を両手で持ち直したセイカは、口を噤んで顎を引き、じっと了治を見つめた。
「これだけ入ってる」
人差し指を立てると、セイカの眉尻が申し訳なさそうにさがり、了治はつられて目尻をさげた。
「セイカちゃんも、今から送別会をやってくれないかな。それに、いまさらめでたくもないけど、今月の十日が誕生日だったんだ。ちょっとだけ付き合って」
「そうなんですかあ。おめでとうございます。でも、セイカは、ちょっと不満です。前もって言ってくれれば、なにかプレゼントを用意したのに」
社交辞令じゃないですよ。そう言いたげに、セイカは口を尖らせている。了治は、笑いながらベッドから下り、バスローブを羽織った。そして、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、備え付けのグラスを覆った半透明のビニールを取りながら、また小さく笑った。
「セイカは、お酒弱いのお。彼女酔わせてえ、どうするつもりですかあ?」
下戸が無理をしたらしい。手にしているグラスの半分程の中身はほとんど減っていないが、了治に寄り添ってベッドに腰掛けているセイカは、すっかりできあがっている。茶色いバスローブを身に纏う女の削げた頬は、了治のマンションの部屋から見える平和公園で開いた花々のように、桜色に染まっていた。
「じゃあ、立ってもらおうかな」
言われるがままに、セイカは少々ふらつきながら立ちあがった。了治は、中身がこぼれそうになったグラスを受け取り、サイドテーブルに置いた。そして、中腰になり、
「一回でいいから、こうしてみたかったんだよね」
と言って両腕でセイカを抱きあげた。
驚いて目を丸めているセイカは思いのほか軽く、悲しくなった。背丈は百六十センチくらいあるが、体重は四十キロそこそこだろうか。会うたびに存在感を増していく鎖骨と肋骨と妊娠線が、とある風俗店で耳にした話を思い起こさせた。風俗の仕事をはじめて太る女は続けられるが、痩せる女は続けられないらしい。女は決して自分を崖っ縁までは追い込まない。退路を断つことはない。それが了治の持論だった。ただし、例外がある。風俗に「沈められた」女だ。セイカは長崎湾に臨む崖の縁で逃げ場を失い、痛烈な宿命を背負って一人佇んでいるのかもしれない。
「わーい。お姫様ダッコ。セイカも一回でいいからあ、誰かにやってもらいたかったのお」
了治は、セイカをベッドに寝かせてベージュ色の布団を掛け、隣に添い寝した。そして、栗色の髪を優しく撫でながら言った。
「このまま、少し、お話しようか。眠たくなったら寝ていいよ」
「どうして……どうして、こんなに優しくしてくれるんですか? 涙が出ちゃいます」
言葉通りに、こちらを向いたセイカの目尻から布団と同色の枕にこぼれ落ちた一粒の涙は、じわりと同心円を広げていった。
「……今まで、女の人に優しく接してこなかったから、かな。セイカちゃんに、その罪滅ぼしをさせてもらってるのかもね」
目を伏せて、了治は答えた。
「そんなことは、ないと思います。オイカワさんは、優しい人です。目を見れば、わかります。パチンコ店で、コーヒーレディーとお客さんの関係だったころから、セイカは思ってました。一見、クールで近寄りがたいけど、きっと、根は優しい人なんだろうなあって」
了治は、自己顕示や出世のために同級生や同僚を軽視することが少なくなかったが、とくに女性に対して配慮が足らなさすぎた。それに、元妻に禁じられているとはいえ、娘の唯に会いにいくどころか、手紙を書こうとさえもしていない。老いが目立ちはじめた母の文江には親孝行どころか、ろくに電話すらしていない。及川小春からの三行半は、天罰だったのだ。自分は女運が悪いのではなく、女たちに不運を撒き散らしているのかもしれない。了治は、セイカに返す言葉を見つけることができなかった。
「口を、開けてもらってもいいですか?」
セイカはそう言って、清んだ瞳だけで微笑んだ。了治の口は、ぎこちなく応える。
「やっぱり、綺麗ですね。歯並び。羨ましいなあ。セイカは結構デコボコだから。オイカワさん、もっと、笑ったほうがいいですよ。せっかく、きれいな歯並びをしてるんだから。それに、歯を見せて笑うと、優しい感じがします」
目の前でお手本が示された。了治は、習って歯を見せたまま笑みを作る。セイカは、口を閉じて頷き、また瞳だけで優しく微笑んだ。
「また、手を、借りてもいいですか?」
セイカは、了治の掌を自身の下腹に宛てがった。舌先以外ではじめて触れた傷痕は、やはり硬い。
「オイカワさんの掌は、あったかいなあ。セイカが幼稚園のころに、お父さんが言ったんです。優しい男は、手で、掌でわかるって。恵は大人になったら、掌があったかい男を探せって。オイカワさんの掌は、すっごくあったかいです……」
了治も、掌に温かさを感じていた。加えて、セイカの体温が布団の中で半身を優しく包んでくれている。小春とベッドをともにしたときには感じたことのない、奥行を感じさせる心地良い温かさだった。降り落ちた季節外れの雪さえ、その存在を寛容するような。
「セイカちゃんは、季節に例えるとしたら、」
微かな寝息を耳にして、了治は口を噤んだ。瞼を閉じて瞳を隠していても、セイカの寝つきの顔は清らかだった。この子で二人目なのかもしれない。了治は、心の中でそう呟いていた。二年前のちょうど今ごろに、了治の送別会を兼ねたキャリア組の同期会があった。同期の連中は、本心はともかく、離婚と離縁に同情して左遷を気の毒がり、優しい言葉を掛けてくれた。しかし、張本温子だけは違った。細い目を全開にして、しっかりと張った顎と大きな口を忙しく動かしながら攻撃してきた。
「まったく、バカな男よ、あんたは。あんたはさ、遠くで見てる分には良い男なんだけどさ、側に寄ると感じるのよ。オレに近寄るなオーラ。しかも、あんたはクールじゃなくて氷点下のバリアで全身を覆ってるって感じ。あんたに近寄ってくる女って意外と少ないでしょう。まったく、もったいないことをしたわよね。逆玉や局長への道はともかくさ。近寄るなオーラをかわして、バリアを突破してきたんでしょう。及川代議士の娘さん。そんな女は、もう二度と現れないかもよ。本当にバカよ。あんたは」
張本の言ったことは正しかった。了治は、小春と結婚するまで「素人童貞」だった。それに、たしかに小春は、いくつかの障害を物ともせずに、了治の懐に飛び込んできた女だった。セイカも、オイカワに近寄ってきた。しかし、恵が了治に近寄ってきたわけではない。セイカとオイカワの、あくまでも擬似恋愛の世界での話だ。了治は、自分にそう言い聞かせた。
セイカが目を覚ましたのは、事務所から終了十分前の電話が掛かってきたときだった。了治は、サイドテーブルの上の傷の目立つ携帯電話に手を伸ばし、いけない、寝ちゃった、と布団をはねのけて飛び起きた持ち主に手渡した。すみません、とセイカは咳払いしてピンク色の携帯電話を開いた。事務所とのやりとりを終えると、折り畳んだ携帯電話を脇に置き、体育座りになった。
「もうすぐ、三月も終わりですね。寂しいです。オイカワさんが、いなくなっちゃうと思うと。この仕事……本当に辞めたくなっちゃいました」
きゅっ、と気管が収縮した。気管支炎を起こしたように息が浅くなり、体の芯から力が抜ける。唾を飲み込んで息を整え、了治はゆっくりと上体を起こして胡坐をかいた。
「及川って名字ね、実は、東京で二年間だけ名乗ったことがあるんだ。及川さんは、養父だった。昔の職場の上司で、代議士をやってた。僕も及川さんも、資産家の婿養子だったんだ。逆玉ってやつだね。及川家に婿入りしたときに、職場の同期の連中から日下部はこれで出世間違しだってやっかまれたなあ。でも、僕は妻や養母に嫌われて、離縁されて、おまけに長崎に島流しを食らったんだ。生まれ育ったのが同じ九州の熊本だから、まあ、不幸中の幸いだったんだけど」
「生きていると……いろいろ、ありますよね」
セイカは愛おしいものを、例えば幼い息子を前にしたように目を細め、過去と現在を再び告白するように沁み沁みと言った。
「でも、生きて、生き抜かないと」
この子の分もと言いたげに、セイカは視線を下げ、掌を下腹に当てた。
「引越しは、いつなんですか?」
「それが、次の土曜日になっちゃったんだ。三十一日の午後。その日の午前中か、一日の日曜日にしたかったんだけど、業者の予約が取れなくて。引越しをすませて、この近くにあるシティーホテルに二泊して、二日の月曜日に辞令書をもらったら、長崎ともお別れだ」
「じゃあ、セイカとは、今日でお別れですか?」
セイカは、唇を引き結んだ。
いや、と言いかけたが、了治は思い止まった。セイカがフルタイムで出勤する平日に呼べないことはない。しかし、異動の期日が迫るにつれて、まだいるうちになるたけ多くさばかせておこうと、浦係長と原主任が以前にも増して仕事を押しつけてくるようになっている。年度末の仕事に加えて引き継ぎ業務等もあり、忙しくなる。呼ぶと確約はできない。引越しを終えたあとの土曜日の午後に、予約を取れる保証はない。セイカの出勤時間は午後八時までだし、その容姿と性格が週を追うごとに指名数を着実に増やしている。
「うん。次の日曜日は、四月一日だからね。オイカワとセイカちゃんの関係は、三月いっぱいの期間限定だから」
了治も、唇を引き結ぶ。
「……今日は、一緒に部屋を出ませんか」
力なく微笑んで、セイカは再び唇を引き結んだ。諦めることには慣れっこです。唇がそう呟くのを防ぐように。
「そうだね。最後の思い出に」
了治とセイカはベッドから下り、無言で服を着た。セイカが事務所に電話を掛けている間に、了治はエアシューターで料金の精算をすませた。二人は部屋を出て、どちらからともなく手を繋いで階段を下りはじめた。了治は、一秒でも長く手を繋いでいたいと思った。エレベーターに向かおうとしなかったセイカも、同じ思いだったらしい。細い肩にいろんなものを背負っているはずなのに、足取りはしっかりしていた。一人ぼっちなのに、どこか逞しさを感じさせる足音だった。
ピロティの駐車場には誰もいなかった。セイカの送迎車がくるまでの間、了治とセイカはワンボックスカーの陰に隠れて、人目を忍んで体育館裏でキスをしている高校生カップルのように、何度も唇を重ね合わせた。不器用に、互いの高い鼻を時折ぶつけ合いながら。茶色のジャケットとピンク色のハーフコートも何度も重なり合った。セイカの唇は、程良く温かかった。そして、清々しい感触を了治の唇に残してくれた。
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