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Ⅹ
兄・了治⑤
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バツイチチョンガーの部屋の荷物など、たかが知れていた。了治は、物に執着しない。二年前に一棟丸ごと及川小春名義のマンションから引越す際に、現金化できる物はすべて出張買取り業者に売り払っていた。エアコンと冷蔵庫と洗濯機が備え付けのこのワンルームマンションに入居してからも、いずれも近所のリサイクルショップで買ったパイプベッドとタンスと電子レンジ、パソコンデスクと椅子と本棚くらいしか目ぼしい大物は増えていない。
そんな独身寮に出戻る男の荷物の搬出作業など、大手引越し業者の単身パックを利用したこともあり、ものの三十分ですべて終わってしまった。湯を沸かす以外はほとんど使わなかったキッチンセット、浴室とトイレ、そしてクローゼット込みで六畳程のフローリングの掃除を終え、ノーネクタイのスーツ姿で近所にある不動産屋に部屋の鍵を返したのは、午後二時すぎだった。
了治は、原爆落下中心地公園内のベンチに腰とボストンバッグを下ろし、ブロンズの母子像に目をやった。角度の高い春の日差しは、網膜を痛くない程度に突き刺す。多種多様な雲を浮かべた青空の下の長崎浦上の街は、明るさに満ちている。煉瓦敷きの地面の照り返しの温もりを楽しみながら、了治はジョージアのロング缶のタブを開け、冷たくて甘ったるい中身を口の中で転がしつつ、携帯電話から「きらきら」の出勤表にアクセスした。セイカは、今日は出勤しているが、明日は出勤予定者のリストに入っていない。明るい地面に視線を落とすと、煉瓦の隙間に根を張った名前も知らない小さな清い花が一輪、忘れられたように、しかし生命力を漂わせながら佇んでいる。
(もう一度、セイカを呼んでもいいものか……)
了治は、迷った。というより、この一週間、ずっと迷い続けていた。引越しの荷物の搬出作業やそのあとの掃除が一時間そこらで終わることは、過去の経験からしてわかっていた。前の日曜日にオイカワとセイカは別れの言葉を交わしたではないか。いや、二人が彼氏彼女の関係なのは三月いっぱいだから、また呼んでもかまわない。セイカもオイカワからの指名を待っているに違いない。そういったことを、ずっと繰り返し考え続けている。
(なにも難しく考える必要はないさ。引越しが早くすんだから、今から呼ぶ。そう単純に考えればいい)
しかし、了治は難しく考えざるをえない。単に、もう一度呼びたいだけではない。あの仕事から足を洗って、恵に戻り新しい未来を生きて欲しい。そう思い、願っている。
恵は、プライベートではラブホテルの利用を嫌がるタイプではないか。それなのに「セイカ」と名乗り、ラブホテルという徒刑場を渡り歩きながら生きている。その移動中に街を歩いていても、デリヘル嬢にはまず見えないはずだ。服装や持ち物は至って地味、というよりむしろ粗末だし、光り物はいっさい身に着けていない。デリヘルの仕事をはじめて一ヶ月が経っても、風俗の臭いはまったく感じられなかった。体内に装置されたフィルターにすべて吸収されているかのように、毒気がない。まだ間に合うのではないか。フィルターがつまる前に。心身を消耗し切って病む前に。精液をぶちまけられて自我を損なう風俗の仕事から思考を奪われる前に。客になる男の浅知恵だろうが、今なら四十日程の難行苦行と割り切れはしまいか。
了治は、風俗店目当てで東京の繁華街を徘徊している最中に、ごてごてした光り物と派手で悪趣味な服を鎧い、湯気で傷んだ髪をなびかせ、風俗の臭いを辺りに撒き散らしている女のあとをつけることがあった。尾行したまま入店し、必ずその女を指名した。放出欲を満たしながら吐き出す精液を受け止めてくれるのは、目に澱が積もった、風俗の垢がもう落とせない女であることが好ましかった。風俗嬢は人格を否定されることで高い報酬をえているとはいえ、罪悪感を半減できればそれにこしたことはなかった。
セイカに足を洗わせるために必要な金なら持っている。婿養子に入っていた二年の間、及川家から生活費を賄われていたので、俸給の手取りは全額小遣いとして使えた。浜市アーケードに支店のある都市銀行に毎月十五万円ずつ、加えて夏のボーナスを全額貯めた臍繰りは、あえて及川了治の名義のままで、長崎にきて以来ずっと眠らせている。それを充てれば十二分だろう。限度額が見えきたゆうちょ銀行の貯金と、国から保障されている俸給、さらには母の文江が全額管理している及川家からの桁違いの結納金があれば、独り者は自由に静かに生きていける。それに、二年前に数々の高価な家具を売り払ってえた及川家からの手切れ金は、現金のまま茶封筒に入れて生命保険証券と一緒に保管している。急な物入りがあったとしても、まず困ることはない。
勃起不全を治してもらったのだ。言うなれば、男の生き地獄から救ってもらった。貸し借りは生じない。それに、金以外の面倒を背負うつもりはない。しかし、二千円の指名料すら受け取ろうとしないセイカが、そんな大金を受け取るだろうか。デパートの商品券とは額が違いすぎる。かりに受け取って約三百万円の借金を完済し、いったんあがったとしても、浪費癖のある母親と甲斐性なしの彼氏に、いずれまた「沈められる」のではないか。
光沢が薄れつつある紺色のズボンの中で、脚が蒸れはじめている。了治は、開港以来、いやそれ以前からこの長崎へ渡航してくる人々を護ってきた金比羅山を仰いだ。春の緑に反射する日差しが眩しい。
(そもそも、オレは女性と深い関わりを持ってはいけないんだ。小春と離婚したときに、そう心に決めたはずだ。金もコネも家柄も際立った能力も持っていないオレを愛してくれた小春に、結局なに一つ応えてやれなかった……)
了治は、ジョージアを一気に飲み干した。そして、弟の了介にメールを打ち、一度読み返したあとに送信した。今年は誕生祝の金を送らないという旨を書いたのは、セイカを今日これから呼ぶか否かの決心がつきかねている今、冬のボーナス相当額は例年以上に大きな金になるからでもある。
セイカの今日の出勤時間は、午後八時まで。受付は六時までと考えたほうがいい。セイカはすでに売れっ子になっているので、今から「きらきら」の事務所に電話を掛けても、先客の予約しだいでは断られる可能性もある。しかし、了治はとりあえず結論を出すタイムリミットを午後六時に設定して、約一キロの距離にある職場の合同庁舎へ向かって缶とボストンバッグを両手に歩き出した。
了治は、浦係長と原主任が二人して驚嘆した、誤字も脱字もない次の総務課長宛のほぼ完璧な引継ぎ文書を何度も読み返し、整理した荷物を何度も確認した。そして、総務課内の机や棚をくまなく雑巾掛けして時間を潰し、合同庁舎の玄関を出たのは午後五時五十分だった。
(タイムリミットまで、残り八分くらいか)
了治は、左手に着替えと貴重品を入れたボストンバッグを持ち、右手をスーツの上着越しにポケットに入れた携帯電話に当て、合同庁舎に程近いシティーとは名ばかりの古びたホテルに早足で入った。フロントでチェックインして昔ながらの重たいプラスチック棒のついた鍵を右手に持ち、再び早足で歩き出したところで目を疑った。エレベーターの脇に、春物のジャケットを着たセイカが立っている。いつもの茶色いハンドバッグに加えて、高島屋と同じ薔薇のデザインの紙袋を手に提げていた。セイカは微笑み掛けてきたが、了治は早足のままで笑顔を返せない。
(このシティーホテルの宿泊客に呼ばれてきたのか? いや、時間帯からして可能性は低い。そう言えば、この前の日曜日にセイカを呼んだのは、すぐ近くのラブホテルだった)
この界隈には、シティーホテルは一つしかない。その事実に気づくと同時に、セイカも小走りで近寄ってきた。二人は足を止め、向き合った。思い切ったように、セイカが口を開く。
「ビックリさせちゃって、ゴメンなさい。日曜日にお話ししてたときに、今日と明日はここに泊まることが、わかっちゃったんです。それで、今日は出勤してる女の子は多いのに、お客さんが少なかったんで、仕事は早退して、きちゃいました。迷惑、でしたよね?」
「迷惑なわけないじゃない。そうだ。これから夕御飯に付き合ってよ」
落ち着いた口調でそう答えながらも、了治はなおも戸惑っていた。「セイカ」が「オイカワ」にではなく、恵が了治に会いにきたことになる。デリヘル嬢はデートコースの場合を除いて、自宅やホテルの部屋以外で客と会うのはご法度だ。「きらきら」の電話番号の市内局番から推測すると、事務所はこのすぐ近くにあってもおかしくない。了治は、ホテルの外に出ないほうが良いと判断した。鍵を上着のポケットにしまうと、恵の手を引きながら開店間もないレストランへと向かい、ホールスタッフに案内された席に着いた。
「スーツ姿、格好良いですね。とくに、ライトブルーのシャツが、よく似合ってます」
恵の言葉に了治が苦く笑ったのは、シャツもスーツも四年程前に及川小春が見立てた物だったからだ。くたびれたレストランの中では、客の数より多いホールスタッフがぼんやりと突っ立ったり、談笑したりしている。
「セイカね、ううん、セイカじゃなくて、恵ね……恵として、一回だけでいいから、また会っておきたかったんです。オイカワさんにじゃなくて、クサカベさんに」
と恵は言って俯き加減になり、年季の入ったテーブルに置かれたお冷やのコップを両手で包んだ。
「嬉しいよ。ありがとう。会いにきてくれて。さすがに、ビックリしたけど。実はね、つい今さっきまで、会う直前まで迷ってたんだ。事務所に電話しようかどうかって」
恵の目元と口元が緩む。本心を口にした了治も、硬い表情を解した。
「今日は、ステーキを食べたい気分だな。付き合ってくれる? 牛肉は大丈夫かな」
恵は、了治に目を向けて頷いた。了治は、テーブルの前を素通りしようとした無愛想なウエイトレスを呼び止め、サーロインステーキセットを二つ注文した。
「この前は、商品券をいただいて、本当にありがとうございました。おかげで、こんなに上等の、春物のジャケットが買えました。昨日、仕事は夕方からにして、昼間に浜市アーケードの、浜屋にいって買ったんです」
少し青緑がかった瞳を輝かせ、満面に笑みを浮かべながら、恵はおっとりした声を弾ませた。頷くように唾を飲み込んで、さらに弾ませる。
「新しい服を買ったの、久しぶりだったから、すっごく嬉しくて、さっそく着てきちゃいましたあ。クサカベさんに、見てもらいたかったし。似合ってますか?」
なおも瞳を輝かせている恵に、すごくよく似合ってるよ、と了治は言って満足げに頷いた。「セイカ」は「オイカワ」に呼ばれた計十一回のうち、六、七回はくたびれたピンク色のハーフコートを着ていた。ベージュ色の真新しいジャケットは、栗色の髪や白い肌によく馴染んでいる。
「これ、三週間遅れになっちゃったけど、誕生日のプレゼントとして、受け取ってもらえませんか。なににしようか迷ったんですけど、結局、ありきたりな物になっちゃいました」
恵は、薔薇のデザインの包装紙に包まれた小箱を了治に差し出した。浜屋から一キロ程離れた、高島屋の系列の玉屋で買ったらしい。恵が迷いながら紳士物を選んでいる姿を想像しながら、了治は小箱の包装を解いた。中身はベージュ色のベルトだった。恵のジャケットと同じ色をしている。
「ありがとう。おそろいの色で、嬉しいよ」
「使ってくださいね。恵のことを、セイカのことでもかまわないんですけど、忘れないで欲しいから、同じ色の物を買ったんです。使うたびに思い出してもらえたら、嬉しいです」
「忘れないよ。彼女だった子のことは」
恵は目を細め、口角をあげて小さく頷いた。了治も目を細めながらベルトを小箱に戻し、包装紙とともに隣の椅子に置いたボストンバッグにしまった。
「恵ね、彼氏とは、別れようと思ってるんです。彼氏のほうは、自然消滅にしたいみたい。会ってくれるどころか、メールの返事も全然くれないし」
「そのほうが良いよ。女癖の悪さは、簡単には直らない。僕の弟がそうだったから。中学のときから家や学校の外で見掛けるたびに違う女を連れてたからね。高校でも女をたらし続けてた。卒業したあとに東京で新聞屋をやってたんだけど、今はどこでなにをやってるのかもわからないんだ。女のヒモにでもなってるんじゃないかって、心配してるんだけどね。毎年、自分の誕生日に、僕と二十日違いの三月三十日にね、金を送ってくれってメールをよこすから、弟の口座に一年分の小遣いを振り込んでたんだけど、今年は止めることにした。もう三十を超えたいい大人だからね」
「意外ですね。クサカベさんの弟なのに」
「うん。けどね、弟が女たらしになった理由は、想像がつくんだ。僕が原因なんだよ。母親の愛情を独り占めにしちゃったから。愛されるべきはずの女性からほったらかしにされたり、裏切られたりした男は、どうしてもおかしくなっちゃうんだ。だからって、弟や恵ちゃんの彼氏を庇うわけじゃないんだけど」
「あっ、今、はじめて、恵ちゃん、って呼んでくれましたね。『の彼氏』がついちゃって、ちょっと残念」
恵は、顎を引いて上目遣いになり、口を尖らせた。
「そうだ。クサカベさんの、下の名前はなんていうんですか」
「ああ、まだ言ってなかったね。リョウジだよ。終了するの了に、政治の治。了は親父から、治は祖父ちゃんから、一字ずつもらったんだ。ちなみに名字は、お日様の日に、下級生の下、勉強部屋の部のほうの日下部」
無愛想なウエイトレスが肉の焼ける音と匂いとともにやってきた。お待たせしました、と言って油を飛ばしている鉄板を、ゴトン、ゴトン、と重たい音を立てながらテーブルに置く。
「わあ、すごーい。こんなに高そうなお肉を食べるの、はじめてかも」
と恵は目を見開きながら言って、思いっ切り喜んだ。了治は微笑みながらスーツの上着を脱いで、隣の椅子のボストンバッグの上に置いた。恵もジャケットを脱ぎ、大事そうに隣の椅子の背もたれに羽織らせる。別の二人のウエイトレスがやってきて、ライスとスープとサラダを、またいちいち音を立てながらテーブルに置き、私たちはアルバイトです、と言いたげな礼をして去っていく。シティーとは名ばかりの、この街の安っぽいホテルらしいサービスだった。了治は閉口したが、すっごく美味しそう、という恵の弾んだ声を耳にして、まあいいか、と機嫌を直した。
了治と恵は、ありきたりな会話を交わしながら食事を楽しんだ。しかし、はじめて喧嘩してしまった。熊本ラーメンと長崎ちゃんぽんはどちらが美味しいかという、福岡に次ぐ「九州で二番目」を自負している県人同士としては、避けて通れない争いだった。了治は熊本城下の繁華街の「上通り」にある「蘇水亭」の名をあげ、恵は長崎新地の中華街にある「福州林」の名をあげて、喧嘩を楽しむように、麺がどうだ、スープがああだ、具材がこうだと言い合い、互いに譲らなかった。
コン、コンコン。
ホテルの部屋の玄関ドアを優しくノックする音がした。耳慣れた優しい、清んだ音だった。インターホンの付いたラブホテルの部屋でも、「セイカ」は必ず玄関ドアをノックした。最初の、コン、は響き具合を確認するように軽く。次の、コンコン、でドアの向こう側で待っている了治に、今着きました、と幾分強めに、おっとり囁くように叩く。やがて、日が暮れる。そろそろ恵がくるころだとは思っていた。ゆえに、了治は椅子に腰掛け、机の上の固定電話にフロントからコールが入るのを待っていたので、驚いてしまった。
(これか)
固定電話の脇に置いた部屋の鍵が目に入り、納得した。昨夕ロビーで会ったときに、恵はプラスチック棒に刻まれた数字を目にしていたらしい。そのあとにレストランで食事をすませて、了治は恵をホテルのタクシー乗り場まで送った。二人とも、さよなら、とは言わなかった。目と目で、そして折り畳んだタクシー代の紙幣を挟んで重ね合った掌と掌で、また明日、という言葉を交し合っていた。
部屋の中に迎え入れてオートロックの玄関ドアが閉まると同時に、了治は恵と静かに見つめ合った。どちらからともなく唇を重ね合わせる。深く、長くなっていく。茶色いハンドバッグが了治のスリッパをかすめて床の絨毯に落ちた。いつまで続くのかわからないように思えたキスを終えると、了治はハンドバッグを拾って恵の肩を真新しい上着越しに抱きながら部屋の奥へと歩き、カーテンを閉めた。
再び見つめ合った二人は、またどちらからともなく二度、軽く唇を重ね合わせた。了治は、恵のベージュ色のジャケットを脱がして椅子の背もたれに羽織らせ、カーテンの隙間からこぼれている夕暮れの明かりをたよりに、一つ一つ、ボタンをはずし、ファスナーをさげ、ホックをはずし、恵の着衣を一枚一枚脱がしていった。母親にはなれなかった細くて美しい肢体を、一瞬一瞬シャッターを切るように、しっかりと網膜に焼きつけながら。
はち切れんばかりに緊張を高めている。数年ぶりに脳にも大量の血流が上っていく。やはり男は頭でセックスをする生き物だ、と了治は改めて思った。そして、果せる、とも思った。男性としての機能を完全に取り戻せる、とも。自然と動きを激しくし、恵も拍子を重ねるように利かせている。二人の荒い呼吸の拍子まで重なりはじめた。了治は熱り立ち、全神経を集中させた。快楽を貪ってより硬直するごとに、目を瞑り両手で枕の両端を握り締めた恵の熱を帯びている短い声が、抑制されてこそいるものの徐々に大きくなっていく。
持病の完治に目処がつき、今日は入念に前戯をする余裕もあった。舌には微かにしょっぱく苦い味がまだ残っている。二拍子の律動に呼応してくれる恵が、及川小春とは異なり愛おしく思える。ごく単純に反復される律動が、宗教心を呼び起こすかのように自意識を遠のかせる。脳が、頭が、体全体が疼きに似たなにかに支配されていく。本能が動きを制御不能にする。
やがて、全身を弛緩させて声を失った恵が、震わせた。収縮していく。欲し、貪るように。若干の苦悩ののちに、了治は身震いを覚えながら射精に至り、恵もまた震わせた。女の本能が鎮まるまで緊張を保ち、その間、男の本能に従って精液は尻窄まりながらも発され続けた。了治は、半ば虚脱して恵に覆い被さった。慌てて両肘で自身の体重を支え直す。恵の首筋に高い鼻を当てて汗を嗅ぎ、息を整えようと努めた。了治も恵も、しばらく言葉を発することができなかった。二人は、ただ荒い呼吸を続け、時折その拍子がまた重なった。
「最後の最後で……良かったあ。それに、ビックリです。恵は、男の人では、はじめて」
「……僕は、女の人では、三年、いや四年ぶりかな」
恵は、細い両腕で了治を抱き締めた。重なり合った肌がくっつきそうなくらいに強く。女の恵み深い鼓動に引き寄せられて、男の心臓が明るく高く音を立てる。
「恵ちゃんは、季節に例えるとしたら、春だよね」
「えっ、どういう意味ですか?」
両腕を緩めた女の肌の心地良い温もりは、まだ朝夕に寒さが残る季節であることを忘れさせてくれる。すっかり暗くなったホテルの部屋の中にいても、麗らかな九州の青空の下で目を瞑り、柔らかな春の日差しに包まれているような清々しい気分にしてくれる。了治は、男女の性器に相性があることは知っていたものの、男女の肌にも相性があることを三十三歳になってはじめて知った。元妻の肌理細やかな肌は、同質の肌を拒むように弾いた。了治と小春の肌は同種の弱い磁極のように斥け合い、そのたびに互いの心の距離は離れていった。クオーターの女の肌は幾分肌理が粗く、了治の滑らかな肌を異種の弱い磁極のように引き寄せてくれる。合わせた胸を、その奥深くをジンと温めてくれる。
恵は、口を尖らせて暗い天井を眺めていたが、鼻先を突き合わせながら見開いた目で了治をじっと見つめた。問いの答えを催促するように。了治は、小さく笑った。すっかり人格を取り戻して暖かい余情に浸りつつも、恵の中からゆっくりと抜ける。枕元の電気のスイッチをオンにし、ティッシュを数枚引き抜いて二人の簡単な後始末をした。丸めたティッシュをセミダブルのベッドの脇のゴミ箱に放り投げ、恵の隣に横臥する。
「長崎とは違って、東京には春がないんだ。もちろん、僕の主観なんだけど、冬が終わったら、すぐに初夏がきちゃう気がする」
長崎で生まれ育ったセイカは、こちらを向いて瞬きながら次の言葉を待っている。見え隠れする瞳は、やはりハッと息を飲むほど清らかだ。
「東京の春は、九州の春とは全然違うんだ。空の青さが足らないし、日差しも弱くて乾いた風も吹くし、清々しさを感じないんだよね。そう、春たけなわなころがないんだ。長崎にきて、つくづく思ったよ。僕は、九州の春が大好きなんだって。恵ちゃんは、僕が子供のころから慣れ親しんだ、九州の春そのものだよ」
恵は、感心したように穏やかな微笑を顔に湛えている。透明感と奥行のある瞳が放つ青みを帯びた光は、やがて冬へと逆戻りするかのような憂えも帯びながら優しく了治を包み込む。了治は、恵を抱き寄せた。何度も重ね合った肌の温もりは、なにものにも代え難いくらい心地良い。悲しみや嘆きや寂しさを秘めやかに胸いっぱいに吸い込んだ、こちらの胸が痛くなるような憂えを抱えた人間特有の優しさ。噛みつかれても声をあげない芯の強さと、なにものにも決して侵食されない心の有り様。それらが、おっとりした性格の中に隠されている。悲しみや嘆きや寂しさはあっても、救いを求めてはいない。しかし。
「明日の夕方の飛行機で東京へ発つんだ。お昼前ごろに、時間を作ってくれないかな?」
「セイカ」とではなく、恵と完全に一線を越えてしまった時点で、了治は意を決していた。
「はい……大丈夫です」
「最初で最後の、外でのデートをしよう。稲佐山の麓の淵神社だっけ。そこのロープウェイ乗り場前で十一時に待ち合わせ、でいいかな?」
鼻を啜った恵が頷いたのを、了治は首筋で感じ取った。
浜田所長から痩せぎすで無味乾燥な文章が記された辞令書をもらい、本省へ送る荷物を宅配便業者に託し、事務所内の挨拶回りを一渡り終えて、ボストンバッグを片手に合同庁舎の玄関を出たのは午前十時すぎだった。左遷されたキャリアであり元々口数の少ない了治は、異動の挨拶に時間は掛からなかった。長々と礼を言って深々とお辞儀をしたあとに両手で握手を求めてきた福田信吾は例外で、最後に挨拶を交わした浦係長と原主任からは、「こちらこそ」「お世話になりました」と二人で一人分の言葉をもらっただけだった。
了治は、ブルーグレー地に小さな銀の桝目模様の入ったネクタイを引きちぎるようにはずし、ボストンバッグに押し込んだ。恵と約束した時間まで、余裕がある。清々しい青空の下、ロープウェイ駅に向かって歩くことにした。東京タワーと同じ背丈の、夜景で名高い稲佐山が斜め前方に見える。信仰の対象とはなりえなかったらしい穏やかな山影は、麗らかな春の日差しを反射していた。
傾斜のきつい階段を上り終えて淵神社の鳥居を通り抜けた所で、了治はロープウェイ駅の脇の古びたベンチに座っている恵を見つけた。恵も気づき、座ったままで小さく手を振っている。了治は早足で近づき、まだ十時半なのにもうきてたんだ、と声を掛けると、恵は立ちあがった。はじめて白日の下で目にしたその肌は、より白く、不健康そうに見える。
「十時に着いちゃったんです。いつも、日下部さんを待たせてたから、一昨日と、最後の最後の今日は、恵が待ちたかったんです」
湿っぽくなった目を、了治は思わず恵からそらした。そして、ここで待ってて、と言って搭乗券売場に向かい、片道と往復の券を一枚ずつ買った。
ゴンドラに乗った客は、了治と恵だけだった。二人は、少しずつ小さくなり、少しずつ広がっていく、海を囲む山々の傾斜にへばりついた長崎の街を眺め続けた。了治が毎日のように所長室のガラス窓越しに眺めていた金比羅山は、連なる山並と麓の家並を従えながら、しだいにその威容を明らかにしていった。了治と恵は、今日は出勤するの? ええ、遅番で、という会話しか交わさなかった。
展望台に通じるエレベーターの中で、恵が口を開いた。
「あの、どうして、ここにきたんですか?」
うん、とだけ答えると、チン、と音がしてRの文字が点灯し、自動ドアが開いた。エレベーターを降りてすぐに、了治は、おおっ、と感嘆の声をあげていた。何度もこの展望台に足を運んでいる恵も、わーっ、と同様の声をあげる。了治は、周辺の海の青さに見とれながら口を開いた。
「ここにきたわけは、あとで話すよ。とりあえず、ここを一周していいかな? 前にきたときは薄曇りだったから、こんなに景色が良くなかったんだ」
「はい。見納めですもんね」
恵は、了治が手に提げているボストンバッグに目を向けながら答えた。了治は、三百六十度広がる青と緑を基調にした生々しいパノラマに目を預けながら、人のまばらな円形の展望台を反時計回りにゆっくりと歩きはじめた。
「すごい眺めだね。ずっと遠くまで見渡せて。天気に恵まれて、ラッキーだ。それに、風が気持ち良いや。九州の春の海風だ」
「本当に、ラッキーです。晴れてても霞が立ってる日は、今日みたいに遠くの離島までは見えないんですよ。それに、五月の海みたい。これ以上ないくらい、真っ青」
半歩後ろを歩いている恵が、言葉を合わせた。
「本当に、地図と同じなんだねえ」
と了治は頓珍漢なことを口にしていた。眼下には陸続きの長崎半島はもちろん、近隣の島々や同じ県に属するとは思えないくらい遠方にある五島列島までが、当たり前ではあるが地図と同じ配置で真っ青な海原に浮かんでいる。三次元の実物だけに青と緑がより濃く、かつその境目が幻想的だ。
展望台を一周し終えると、了治はボストンバッグと恵と一緒にベンチに腰を下ろした。程良く湿った柔らかい海風が、座っているベンチごと二人を包む。
「ああ、あらわれる」
そう呟くように言うと、恵が瞬いたあとに首を傾げた。目の下で対になっている隈が、どこか明るく表情を変えた。
「あらわれてる気がするよ。春の海風と、この景色と、あと、恵ちゃんに」
「……日下部さんでも、キザなことを言うんですね。意外です」
「うん、慣れないことは言うもんじゃないね」
了治は、小指で小鼻を掻いた。
「でも、恵も、なんだか風にあらわれてるような気がします。すっかり汚れちゃったから……。恵は、日下部さんをあらってあげられるほど、キレイじゃありませんよ」
恵は口角をあげ、憂えを帯びた虹彩とその下の隈で微笑み、やがて俯いた。
「いや、そんなことはないよ。今日だけじゃなくて、二月の下旬から時間を掛けて少しずつ、恵ちゃんに心をあらってもらったって感じてる。はじめて恵ちゃんをホテルに呼んだ日ね、ヤケになってたんだ。前の日に異動の内々示を受けて、あがっちゃったから。エリート人生ってやつをね。本当は長崎への左遷を告げられたときにあがってたんだけど、それを認めるのに二年も掛かったって言ったほうが正しいかな。でも今、エリートじゃない人生を歩んでいく覚悟ができたよ」
了治は、スーツの上着の内ポケットに手を入れた。
「これさ、もらってくれないかな」
何気に渡された都市銀行のキャッシュカードを手にして、恵は顔をあげて大きな目を見開いた。
「お気持ちは、ありがたいけど……いただけません」
予想通りの答えを耳にして、了治はキャッシュカードを指差して言った。
「片仮名の名前を、見て」
プラスチック地には「オイカワ リョウジ」という文字が、恵の下腹の傷痕のように浮きあがっている。
「いまさらさ、名字を変更するのって面倒なんだよね。それに、エリートだったころに貯めた金だから、使い切ってスッキリしたいんだ。何日か何回かに分けて、端数だけ残して全額を引き出したあとに、鋏を入れといて。暗証番号は、弟の誕生日。覚えてるかな、三月三十日ね。頭はゼロ」
両手で持ち直したキャッシュカードを、恵は無言でただじっと見つめている。
「その金でさ、恵ちゃんもあがりなよ。デリヘルの仕事から。ただね、条件がある。彼氏とはきっぱり別れて、お母さんとも縁を切って欲しい。残りの借金を払ってもお釣りがくるはずだから、それで部屋を借りて、どこかで一人暮らしをはじめて。僕もね、恵ちゃんぐらいの年のときに、親を、母親を捨てたようなものなんだ。大事に大事に育ててもらったのにさ。母親の大反対を押し切って婿養子に入ってたこともあったし。生んでくれた、育ててくれた恩は決して忘れてないけど、いくら親でも時と場合によっては捨てないと、自分が前には進めないことがある。恵ちゃんは今がその時だと思うよ」
父の了三郎にもまして、母の文江は了治が熊本県庁に入ることを強く望んだ。しかし、了治は文江の束縛から逃れるために、生まれ育った九州を離れるためにキャリア官僚の道を選んだ。
キャッシュカードカードを胸に押し当て、恵は無言のまま深々と頭をさげた。栗色の長い髪が、下手な投網を打ったように乱れた。悲哀を感じさせる姿を目にして、了治の心臓が律動を一拍飛ばし、それを取り戻そうと不規則に早く動く。恵はソープ嬢のように三つ指こそついていないが、これではやはり最後まで買われたことになる。了治は「セイカ」だけでなく、恵まで買ったことになる。
恵は頭をさげ続ける。憂愁で青みを増した虹彩が了治の目に浮かぶ。清み切り、ときには神聖さが宿り、情愛が秘められた瞳。了治は、これまで深い欲の絡んだ愛しか受けてこなかった。「セイカ」は、厚い情を絡めて愛してくれた。あくまでも愛されたのは、「オイカワ」であって、了治ではない。仮想現実の世界での話だ。現実の世界では、全速力の愛をぶつけてきた及川小春を、了治は理解できなかった。理解してやれなかった。
了治は、目を瞑りながら自分に言い聞かせる。互いに金銭を仲立ちにした関係に終始したほうが良い。恵の人生を引き受ける覚悟などないではないか。心が震えるのは、恵の傷ついた心身に同情しているからだ。それに、特定の女との深い関係に絡め取られるのは、もう御免だ。女の勝手に取り決めた規則にも縛られたくはない。しかし、了治は思った。東京に戻ったら、いや九州を発つ前に、母に電話を掛けねばならない。また散々恨み言を言われることはわかっているが。
「頭をあげてよ。そして、ここで別れよう。長崎の恋人同士はさ、稲佐山の展望台でデートすると別れるっていうジンクスがあるんだよね」
「だから、ここにきたんですか?」
と恵は頭をあげながら尋ねた。どこか虚ろな目をしている。
「うん、そうだよ。僕は、もう一つの小さなロープウェイ、スカイウェイっていうんだっけ。それで中腹まで下りて、そこからタクシーで長崎駅前のバスターミナルにいくから」
了治は、恵の手を取り、立ちあがった。
「最後はさ、喧嘩して別れよう。九州の麺料理で一番美味いのは、蘇水亭のラーメンだよ」
「……いいえ、福州林のちゃんぽんです」
ベンチに座ったままの恵の涙声が、了治の鼓膜をくすぐった。ボストンバッグが持ち主の手に提げられるまで、しばしの時間を要した。
そんな独身寮に出戻る男の荷物の搬出作業など、大手引越し業者の単身パックを利用したこともあり、ものの三十分ですべて終わってしまった。湯を沸かす以外はほとんど使わなかったキッチンセット、浴室とトイレ、そしてクローゼット込みで六畳程のフローリングの掃除を終え、ノーネクタイのスーツ姿で近所にある不動産屋に部屋の鍵を返したのは、午後二時すぎだった。
了治は、原爆落下中心地公園内のベンチに腰とボストンバッグを下ろし、ブロンズの母子像に目をやった。角度の高い春の日差しは、網膜を痛くない程度に突き刺す。多種多様な雲を浮かべた青空の下の長崎浦上の街は、明るさに満ちている。煉瓦敷きの地面の照り返しの温もりを楽しみながら、了治はジョージアのロング缶のタブを開け、冷たくて甘ったるい中身を口の中で転がしつつ、携帯電話から「きらきら」の出勤表にアクセスした。セイカは、今日は出勤しているが、明日は出勤予定者のリストに入っていない。明るい地面に視線を落とすと、煉瓦の隙間に根を張った名前も知らない小さな清い花が一輪、忘れられたように、しかし生命力を漂わせながら佇んでいる。
(もう一度、セイカを呼んでもいいものか……)
了治は、迷った。というより、この一週間、ずっと迷い続けていた。引越しの荷物の搬出作業やそのあとの掃除が一時間そこらで終わることは、過去の経験からしてわかっていた。前の日曜日にオイカワとセイカは別れの言葉を交わしたではないか。いや、二人が彼氏彼女の関係なのは三月いっぱいだから、また呼んでもかまわない。セイカもオイカワからの指名を待っているに違いない。そういったことを、ずっと繰り返し考え続けている。
(なにも難しく考える必要はないさ。引越しが早くすんだから、今から呼ぶ。そう単純に考えればいい)
しかし、了治は難しく考えざるをえない。単に、もう一度呼びたいだけではない。あの仕事から足を洗って、恵に戻り新しい未来を生きて欲しい。そう思い、願っている。
恵は、プライベートではラブホテルの利用を嫌がるタイプではないか。それなのに「セイカ」と名乗り、ラブホテルという徒刑場を渡り歩きながら生きている。その移動中に街を歩いていても、デリヘル嬢にはまず見えないはずだ。服装や持ち物は至って地味、というよりむしろ粗末だし、光り物はいっさい身に着けていない。デリヘルの仕事をはじめて一ヶ月が経っても、風俗の臭いはまったく感じられなかった。体内に装置されたフィルターにすべて吸収されているかのように、毒気がない。まだ間に合うのではないか。フィルターがつまる前に。心身を消耗し切って病む前に。精液をぶちまけられて自我を損なう風俗の仕事から思考を奪われる前に。客になる男の浅知恵だろうが、今なら四十日程の難行苦行と割り切れはしまいか。
了治は、風俗店目当てで東京の繁華街を徘徊している最中に、ごてごてした光り物と派手で悪趣味な服を鎧い、湯気で傷んだ髪をなびかせ、風俗の臭いを辺りに撒き散らしている女のあとをつけることがあった。尾行したまま入店し、必ずその女を指名した。放出欲を満たしながら吐き出す精液を受け止めてくれるのは、目に澱が積もった、風俗の垢がもう落とせない女であることが好ましかった。風俗嬢は人格を否定されることで高い報酬をえているとはいえ、罪悪感を半減できればそれにこしたことはなかった。
セイカに足を洗わせるために必要な金なら持っている。婿養子に入っていた二年の間、及川家から生活費を賄われていたので、俸給の手取りは全額小遣いとして使えた。浜市アーケードに支店のある都市銀行に毎月十五万円ずつ、加えて夏のボーナスを全額貯めた臍繰りは、あえて及川了治の名義のままで、長崎にきて以来ずっと眠らせている。それを充てれば十二分だろう。限度額が見えきたゆうちょ銀行の貯金と、国から保障されている俸給、さらには母の文江が全額管理している及川家からの桁違いの結納金があれば、独り者は自由に静かに生きていける。それに、二年前に数々の高価な家具を売り払ってえた及川家からの手切れ金は、現金のまま茶封筒に入れて生命保険証券と一緒に保管している。急な物入りがあったとしても、まず困ることはない。
勃起不全を治してもらったのだ。言うなれば、男の生き地獄から救ってもらった。貸し借りは生じない。それに、金以外の面倒を背負うつもりはない。しかし、二千円の指名料すら受け取ろうとしないセイカが、そんな大金を受け取るだろうか。デパートの商品券とは額が違いすぎる。かりに受け取って約三百万円の借金を完済し、いったんあがったとしても、浪費癖のある母親と甲斐性なしの彼氏に、いずれまた「沈められる」のではないか。
光沢が薄れつつある紺色のズボンの中で、脚が蒸れはじめている。了治は、開港以来、いやそれ以前からこの長崎へ渡航してくる人々を護ってきた金比羅山を仰いだ。春の緑に反射する日差しが眩しい。
(そもそも、オレは女性と深い関わりを持ってはいけないんだ。小春と離婚したときに、そう心に決めたはずだ。金もコネも家柄も際立った能力も持っていないオレを愛してくれた小春に、結局なに一つ応えてやれなかった……)
了治は、ジョージアを一気に飲み干した。そして、弟の了介にメールを打ち、一度読み返したあとに送信した。今年は誕生祝の金を送らないという旨を書いたのは、セイカを今日これから呼ぶか否かの決心がつきかねている今、冬のボーナス相当額は例年以上に大きな金になるからでもある。
セイカの今日の出勤時間は、午後八時まで。受付は六時までと考えたほうがいい。セイカはすでに売れっ子になっているので、今から「きらきら」の事務所に電話を掛けても、先客の予約しだいでは断られる可能性もある。しかし、了治はとりあえず結論を出すタイムリミットを午後六時に設定して、約一キロの距離にある職場の合同庁舎へ向かって缶とボストンバッグを両手に歩き出した。
了治は、浦係長と原主任が二人して驚嘆した、誤字も脱字もない次の総務課長宛のほぼ完璧な引継ぎ文書を何度も読み返し、整理した荷物を何度も確認した。そして、総務課内の机や棚をくまなく雑巾掛けして時間を潰し、合同庁舎の玄関を出たのは午後五時五十分だった。
(タイムリミットまで、残り八分くらいか)
了治は、左手に着替えと貴重品を入れたボストンバッグを持ち、右手をスーツの上着越しにポケットに入れた携帯電話に当て、合同庁舎に程近いシティーとは名ばかりの古びたホテルに早足で入った。フロントでチェックインして昔ながらの重たいプラスチック棒のついた鍵を右手に持ち、再び早足で歩き出したところで目を疑った。エレベーターの脇に、春物のジャケットを着たセイカが立っている。いつもの茶色いハンドバッグに加えて、高島屋と同じ薔薇のデザインの紙袋を手に提げていた。セイカは微笑み掛けてきたが、了治は早足のままで笑顔を返せない。
(このシティーホテルの宿泊客に呼ばれてきたのか? いや、時間帯からして可能性は低い。そう言えば、この前の日曜日にセイカを呼んだのは、すぐ近くのラブホテルだった)
この界隈には、シティーホテルは一つしかない。その事実に気づくと同時に、セイカも小走りで近寄ってきた。二人は足を止め、向き合った。思い切ったように、セイカが口を開く。
「ビックリさせちゃって、ゴメンなさい。日曜日にお話ししてたときに、今日と明日はここに泊まることが、わかっちゃったんです。それで、今日は出勤してる女の子は多いのに、お客さんが少なかったんで、仕事は早退して、きちゃいました。迷惑、でしたよね?」
「迷惑なわけないじゃない。そうだ。これから夕御飯に付き合ってよ」
落ち着いた口調でそう答えながらも、了治はなおも戸惑っていた。「セイカ」が「オイカワ」にではなく、恵が了治に会いにきたことになる。デリヘル嬢はデートコースの場合を除いて、自宅やホテルの部屋以外で客と会うのはご法度だ。「きらきら」の電話番号の市内局番から推測すると、事務所はこのすぐ近くにあってもおかしくない。了治は、ホテルの外に出ないほうが良いと判断した。鍵を上着のポケットにしまうと、恵の手を引きながら開店間もないレストランへと向かい、ホールスタッフに案内された席に着いた。
「スーツ姿、格好良いですね。とくに、ライトブルーのシャツが、よく似合ってます」
恵の言葉に了治が苦く笑ったのは、シャツもスーツも四年程前に及川小春が見立てた物だったからだ。くたびれたレストランの中では、客の数より多いホールスタッフがぼんやりと突っ立ったり、談笑したりしている。
「セイカね、ううん、セイカじゃなくて、恵ね……恵として、一回だけでいいから、また会っておきたかったんです。オイカワさんにじゃなくて、クサカベさんに」
と恵は言って俯き加減になり、年季の入ったテーブルに置かれたお冷やのコップを両手で包んだ。
「嬉しいよ。ありがとう。会いにきてくれて。さすがに、ビックリしたけど。実はね、つい今さっきまで、会う直前まで迷ってたんだ。事務所に電話しようかどうかって」
恵の目元と口元が緩む。本心を口にした了治も、硬い表情を解した。
「今日は、ステーキを食べたい気分だな。付き合ってくれる? 牛肉は大丈夫かな」
恵は、了治に目を向けて頷いた。了治は、テーブルの前を素通りしようとした無愛想なウエイトレスを呼び止め、サーロインステーキセットを二つ注文した。
「この前は、商品券をいただいて、本当にありがとうございました。おかげで、こんなに上等の、春物のジャケットが買えました。昨日、仕事は夕方からにして、昼間に浜市アーケードの、浜屋にいって買ったんです」
少し青緑がかった瞳を輝かせ、満面に笑みを浮かべながら、恵はおっとりした声を弾ませた。頷くように唾を飲み込んで、さらに弾ませる。
「新しい服を買ったの、久しぶりだったから、すっごく嬉しくて、さっそく着てきちゃいましたあ。クサカベさんに、見てもらいたかったし。似合ってますか?」
なおも瞳を輝かせている恵に、すごくよく似合ってるよ、と了治は言って満足げに頷いた。「セイカ」は「オイカワ」に呼ばれた計十一回のうち、六、七回はくたびれたピンク色のハーフコートを着ていた。ベージュ色の真新しいジャケットは、栗色の髪や白い肌によく馴染んでいる。
「これ、三週間遅れになっちゃったけど、誕生日のプレゼントとして、受け取ってもらえませんか。なににしようか迷ったんですけど、結局、ありきたりな物になっちゃいました」
恵は、薔薇のデザインの包装紙に包まれた小箱を了治に差し出した。浜屋から一キロ程離れた、高島屋の系列の玉屋で買ったらしい。恵が迷いながら紳士物を選んでいる姿を想像しながら、了治は小箱の包装を解いた。中身はベージュ色のベルトだった。恵のジャケットと同じ色をしている。
「ありがとう。おそろいの色で、嬉しいよ」
「使ってくださいね。恵のことを、セイカのことでもかまわないんですけど、忘れないで欲しいから、同じ色の物を買ったんです。使うたびに思い出してもらえたら、嬉しいです」
「忘れないよ。彼女だった子のことは」
恵は目を細め、口角をあげて小さく頷いた。了治も目を細めながらベルトを小箱に戻し、包装紙とともに隣の椅子に置いたボストンバッグにしまった。
「恵ね、彼氏とは、別れようと思ってるんです。彼氏のほうは、自然消滅にしたいみたい。会ってくれるどころか、メールの返事も全然くれないし」
「そのほうが良いよ。女癖の悪さは、簡単には直らない。僕の弟がそうだったから。中学のときから家や学校の外で見掛けるたびに違う女を連れてたからね。高校でも女をたらし続けてた。卒業したあとに東京で新聞屋をやってたんだけど、今はどこでなにをやってるのかもわからないんだ。女のヒモにでもなってるんじゃないかって、心配してるんだけどね。毎年、自分の誕生日に、僕と二十日違いの三月三十日にね、金を送ってくれってメールをよこすから、弟の口座に一年分の小遣いを振り込んでたんだけど、今年は止めることにした。もう三十を超えたいい大人だからね」
「意外ですね。クサカベさんの弟なのに」
「うん。けどね、弟が女たらしになった理由は、想像がつくんだ。僕が原因なんだよ。母親の愛情を独り占めにしちゃったから。愛されるべきはずの女性からほったらかしにされたり、裏切られたりした男は、どうしてもおかしくなっちゃうんだ。だからって、弟や恵ちゃんの彼氏を庇うわけじゃないんだけど」
「あっ、今、はじめて、恵ちゃん、って呼んでくれましたね。『の彼氏』がついちゃって、ちょっと残念」
恵は、顎を引いて上目遣いになり、口を尖らせた。
「そうだ。クサカベさんの、下の名前はなんていうんですか」
「ああ、まだ言ってなかったね。リョウジだよ。終了するの了に、政治の治。了は親父から、治は祖父ちゃんから、一字ずつもらったんだ。ちなみに名字は、お日様の日に、下級生の下、勉強部屋の部のほうの日下部」
無愛想なウエイトレスが肉の焼ける音と匂いとともにやってきた。お待たせしました、と言って油を飛ばしている鉄板を、ゴトン、ゴトン、と重たい音を立てながらテーブルに置く。
「わあ、すごーい。こんなに高そうなお肉を食べるの、はじめてかも」
と恵は目を見開きながら言って、思いっ切り喜んだ。了治は微笑みながらスーツの上着を脱いで、隣の椅子のボストンバッグの上に置いた。恵もジャケットを脱ぎ、大事そうに隣の椅子の背もたれに羽織らせる。別の二人のウエイトレスがやってきて、ライスとスープとサラダを、またいちいち音を立てながらテーブルに置き、私たちはアルバイトです、と言いたげな礼をして去っていく。シティーとは名ばかりの、この街の安っぽいホテルらしいサービスだった。了治は閉口したが、すっごく美味しそう、という恵の弾んだ声を耳にして、まあいいか、と機嫌を直した。
了治と恵は、ありきたりな会話を交わしながら食事を楽しんだ。しかし、はじめて喧嘩してしまった。熊本ラーメンと長崎ちゃんぽんはどちらが美味しいかという、福岡に次ぐ「九州で二番目」を自負している県人同士としては、避けて通れない争いだった。了治は熊本城下の繁華街の「上通り」にある「蘇水亭」の名をあげ、恵は長崎新地の中華街にある「福州林」の名をあげて、喧嘩を楽しむように、麺がどうだ、スープがああだ、具材がこうだと言い合い、互いに譲らなかった。
コン、コンコン。
ホテルの部屋の玄関ドアを優しくノックする音がした。耳慣れた優しい、清んだ音だった。インターホンの付いたラブホテルの部屋でも、「セイカ」は必ず玄関ドアをノックした。最初の、コン、は響き具合を確認するように軽く。次の、コンコン、でドアの向こう側で待っている了治に、今着きました、と幾分強めに、おっとり囁くように叩く。やがて、日が暮れる。そろそろ恵がくるころだとは思っていた。ゆえに、了治は椅子に腰掛け、机の上の固定電話にフロントからコールが入るのを待っていたので、驚いてしまった。
(これか)
固定電話の脇に置いた部屋の鍵が目に入り、納得した。昨夕ロビーで会ったときに、恵はプラスチック棒に刻まれた数字を目にしていたらしい。そのあとにレストランで食事をすませて、了治は恵をホテルのタクシー乗り場まで送った。二人とも、さよなら、とは言わなかった。目と目で、そして折り畳んだタクシー代の紙幣を挟んで重ね合った掌と掌で、また明日、という言葉を交し合っていた。
部屋の中に迎え入れてオートロックの玄関ドアが閉まると同時に、了治は恵と静かに見つめ合った。どちらからともなく唇を重ね合わせる。深く、長くなっていく。茶色いハンドバッグが了治のスリッパをかすめて床の絨毯に落ちた。いつまで続くのかわからないように思えたキスを終えると、了治はハンドバッグを拾って恵の肩を真新しい上着越しに抱きながら部屋の奥へと歩き、カーテンを閉めた。
再び見つめ合った二人は、またどちらからともなく二度、軽く唇を重ね合わせた。了治は、恵のベージュ色のジャケットを脱がして椅子の背もたれに羽織らせ、カーテンの隙間からこぼれている夕暮れの明かりをたよりに、一つ一つ、ボタンをはずし、ファスナーをさげ、ホックをはずし、恵の着衣を一枚一枚脱がしていった。母親にはなれなかった細くて美しい肢体を、一瞬一瞬シャッターを切るように、しっかりと網膜に焼きつけながら。
はち切れんばかりに緊張を高めている。数年ぶりに脳にも大量の血流が上っていく。やはり男は頭でセックスをする生き物だ、と了治は改めて思った。そして、果せる、とも思った。男性としての機能を完全に取り戻せる、とも。自然と動きを激しくし、恵も拍子を重ねるように利かせている。二人の荒い呼吸の拍子まで重なりはじめた。了治は熱り立ち、全神経を集中させた。快楽を貪ってより硬直するごとに、目を瞑り両手で枕の両端を握り締めた恵の熱を帯びている短い声が、抑制されてこそいるものの徐々に大きくなっていく。
持病の完治に目処がつき、今日は入念に前戯をする余裕もあった。舌には微かにしょっぱく苦い味がまだ残っている。二拍子の律動に呼応してくれる恵が、及川小春とは異なり愛おしく思える。ごく単純に反復される律動が、宗教心を呼び起こすかのように自意識を遠のかせる。脳が、頭が、体全体が疼きに似たなにかに支配されていく。本能が動きを制御不能にする。
やがて、全身を弛緩させて声を失った恵が、震わせた。収縮していく。欲し、貪るように。若干の苦悩ののちに、了治は身震いを覚えながら射精に至り、恵もまた震わせた。女の本能が鎮まるまで緊張を保ち、その間、男の本能に従って精液は尻窄まりながらも発され続けた。了治は、半ば虚脱して恵に覆い被さった。慌てて両肘で自身の体重を支え直す。恵の首筋に高い鼻を当てて汗を嗅ぎ、息を整えようと努めた。了治も恵も、しばらく言葉を発することができなかった。二人は、ただ荒い呼吸を続け、時折その拍子がまた重なった。
「最後の最後で……良かったあ。それに、ビックリです。恵は、男の人では、はじめて」
「……僕は、女の人では、三年、いや四年ぶりかな」
恵は、細い両腕で了治を抱き締めた。重なり合った肌がくっつきそうなくらいに強く。女の恵み深い鼓動に引き寄せられて、男の心臓が明るく高く音を立てる。
「恵ちゃんは、季節に例えるとしたら、春だよね」
「えっ、どういう意味ですか?」
両腕を緩めた女の肌の心地良い温もりは、まだ朝夕に寒さが残る季節であることを忘れさせてくれる。すっかり暗くなったホテルの部屋の中にいても、麗らかな九州の青空の下で目を瞑り、柔らかな春の日差しに包まれているような清々しい気分にしてくれる。了治は、男女の性器に相性があることは知っていたものの、男女の肌にも相性があることを三十三歳になってはじめて知った。元妻の肌理細やかな肌は、同質の肌を拒むように弾いた。了治と小春の肌は同種の弱い磁極のように斥け合い、そのたびに互いの心の距離は離れていった。クオーターの女の肌は幾分肌理が粗く、了治の滑らかな肌を異種の弱い磁極のように引き寄せてくれる。合わせた胸を、その奥深くをジンと温めてくれる。
恵は、口を尖らせて暗い天井を眺めていたが、鼻先を突き合わせながら見開いた目で了治をじっと見つめた。問いの答えを催促するように。了治は、小さく笑った。すっかり人格を取り戻して暖かい余情に浸りつつも、恵の中からゆっくりと抜ける。枕元の電気のスイッチをオンにし、ティッシュを数枚引き抜いて二人の簡単な後始末をした。丸めたティッシュをセミダブルのベッドの脇のゴミ箱に放り投げ、恵の隣に横臥する。
「長崎とは違って、東京には春がないんだ。もちろん、僕の主観なんだけど、冬が終わったら、すぐに初夏がきちゃう気がする」
長崎で生まれ育ったセイカは、こちらを向いて瞬きながら次の言葉を待っている。見え隠れする瞳は、やはりハッと息を飲むほど清らかだ。
「東京の春は、九州の春とは全然違うんだ。空の青さが足らないし、日差しも弱くて乾いた風も吹くし、清々しさを感じないんだよね。そう、春たけなわなころがないんだ。長崎にきて、つくづく思ったよ。僕は、九州の春が大好きなんだって。恵ちゃんは、僕が子供のころから慣れ親しんだ、九州の春そのものだよ」
恵は、感心したように穏やかな微笑を顔に湛えている。透明感と奥行のある瞳が放つ青みを帯びた光は、やがて冬へと逆戻りするかのような憂えも帯びながら優しく了治を包み込む。了治は、恵を抱き寄せた。何度も重ね合った肌の温もりは、なにものにも代え難いくらい心地良い。悲しみや嘆きや寂しさを秘めやかに胸いっぱいに吸い込んだ、こちらの胸が痛くなるような憂えを抱えた人間特有の優しさ。噛みつかれても声をあげない芯の強さと、なにものにも決して侵食されない心の有り様。それらが、おっとりした性格の中に隠されている。悲しみや嘆きや寂しさはあっても、救いを求めてはいない。しかし。
「明日の夕方の飛行機で東京へ発つんだ。お昼前ごろに、時間を作ってくれないかな?」
「セイカ」とではなく、恵と完全に一線を越えてしまった時点で、了治は意を決していた。
「はい……大丈夫です」
「最初で最後の、外でのデートをしよう。稲佐山の麓の淵神社だっけ。そこのロープウェイ乗り場前で十一時に待ち合わせ、でいいかな?」
鼻を啜った恵が頷いたのを、了治は首筋で感じ取った。
浜田所長から痩せぎすで無味乾燥な文章が記された辞令書をもらい、本省へ送る荷物を宅配便業者に託し、事務所内の挨拶回りを一渡り終えて、ボストンバッグを片手に合同庁舎の玄関を出たのは午前十時すぎだった。左遷されたキャリアであり元々口数の少ない了治は、異動の挨拶に時間は掛からなかった。長々と礼を言って深々とお辞儀をしたあとに両手で握手を求めてきた福田信吾は例外で、最後に挨拶を交わした浦係長と原主任からは、「こちらこそ」「お世話になりました」と二人で一人分の言葉をもらっただけだった。
了治は、ブルーグレー地に小さな銀の桝目模様の入ったネクタイを引きちぎるようにはずし、ボストンバッグに押し込んだ。恵と約束した時間まで、余裕がある。清々しい青空の下、ロープウェイ駅に向かって歩くことにした。東京タワーと同じ背丈の、夜景で名高い稲佐山が斜め前方に見える。信仰の対象とはなりえなかったらしい穏やかな山影は、麗らかな春の日差しを反射していた。
傾斜のきつい階段を上り終えて淵神社の鳥居を通り抜けた所で、了治はロープウェイ駅の脇の古びたベンチに座っている恵を見つけた。恵も気づき、座ったままで小さく手を振っている。了治は早足で近づき、まだ十時半なのにもうきてたんだ、と声を掛けると、恵は立ちあがった。はじめて白日の下で目にしたその肌は、より白く、不健康そうに見える。
「十時に着いちゃったんです。いつも、日下部さんを待たせてたから、一昨日と、最後の最後の今日は、恵が待ちたかったんです」
湿っぽくなった目を、了治は思わず恵からそらした。そして、ここで待ってて、と言って搭乗券売場に向かい、片道と往復の券を一枚ずつ買った。
ゴンドラに乗った客は、了治と恵だけだった。二人は、少しずつ小さくなり、少しずつ広がっていく、海を囲む山々の傾斜にへばりついた長崎の街を眺め続けた。了治が毎日のように所長室のガラス窓越しに眺めていた金比羅山は、連なる山並と麓の家並を従えながら、しだいにその威容を明らかにしていった。了治と恵は、今日は出勤するの? ええ、遅番で、という会話しか交わさなかった。
展望台に通じるエレベーターの中で、恵が口を開いた。
「あの、どうして、ここにきたんですか?」
うん、とだけ答えると、チン、と音がしてRの文字が点灯し、自動ドアが開いた。エレベーターを降りてすぐに、了治は、おおっ、と感嘆の声をあげていた。何度もこの展望台に足を運んでいる恵も、わーっ、と同様の声をあげる。了治は、周辺の海の青さに見とれながら口を開いた。
「ここにきたわけは、あとで話すよ。とりあえず、ここを一周していいかな? 前にきたときは薄曇りだったから、こんなに景色が良くなかったんだ」
「はい。見納めですもんね」
恵は、了治が手に提げているボストンバッグに目を向けながら答えた。了治は、三百六十度広がる青と緑を基調にした生々しいパノラマに目を預けながら、人のまばらな円形の展望台を反時計回りにゆっくりと歩きはじめた。
「すごい眺めだね。ずっと遠くまで見渡せて。天気に恵まれて、ラッキーだ。それに、風が気持ち良いや。九州の春の海風だ」
「本当に、ラッキーです。晴れてても霞が立ってる日は、今日みたいに遠くの離島までは見えないんですよ。それに、五月の海みたい。これ以上ないくらい、真っ青」
半歩後ろを歩いている恵が、言葉を合わせた。
「本当に、地図と同じなんだねえ」
と了治は頓珍漢なことを口にしていた。眼下には陸続きの長崎半島はもちろん、近隣の島々や同じ県に属するとは思えないくらい遠方にある五島列島までが、当たり前ではあるが地図と同じ配置で真っ青な海原に浮かんでいる。三次元の実物だけに青と緑がより濃く、かつその境目が幻想的だ。
展望台を一周し終えると、了治はボストンバッグと恵と一緒にベンチに腰を下ろした。程良く湿った柔らかい海風が、座っているベンチごと二人を包む。
「ああ、あらわれる」
そう呟くように言うと、恵が瞬いたあとに首を傾げた。目の下で対になっている隈が、どこか明るく表情を変えた。
「あらわれてる気がするよ。春の海風と、この景色と、あと、恵ちゃんに」
「……日下部さんでも、キザなことを言うんですね。意外です」
「うん、慣れないことは言うもんじゃないね」
了治は、小指で小鼻を掻いた。
「でも、恵も、なんだか風にあらわれてるような気がします。すっかり汚れちゃったから……。恵は、日下部さんをあらってあげられるほど、キレイじゃありませんよ」
恵は口角をあげ、憂えを帯びた虹彩とその下の隈で微笑み、やがて俯いた。
「いや、そんなことはないよ。今日だけじゃなくて、二月の下旬から時間を掛けて少しずつ、恵ちゃんに心をあらってもらったって感じてる。はじめて恵ちゃんをホテルに呼んだ日ね、ヤケになってたんだ。前の日に異動の内々示を受けて、あがっちゃったから。エリート人生ってやつをね。本当は長崎への左遷を告げられたときにあがってたんだけど、それを認めるのに二年も掛かったって言ったほうが正しいかな。でも今、エリートじゃない人生を歩んでいく覚悟ができたよ」
了治は、スーツの上着の内ポケットに手を入れた。
「これさ、もらってくれないかな」
何気に渡された都市銀行のキャッシュカードを手にして、恵は顔をあげて大きな目を見開いた。
「お気持ちは、ありがたいけど……いただけません」
予想通りの答えを耳にして、了治はキャッシュカードを指差して言った。
「片仮名の名前を、見て」
プラスチック地には「オイカワ リョウジ」という文字が、恵の下腹の傷痕のように浮きあがっている。
「いまさらさ、名字を変更するのって面倒なんだよね。それに、エリートだったころに貯めた金だから、使い切ってスッキリしたいんだ。何日か何回かに分けて、端数だけ残して全額を引き出したあとに、鋏を入れといて。暗証番号は、弟の誕生日。覚えてるかな、三月三十日ね。頭はゼロ」
両手で持ち直したキャッシュカードを、恵は無言でただじっと見つめている。
「その金でさ、恵ちゃんもあがりなよ。デリヘルの仕事から。ただね、条件がある。彼氏とはきっぱり別れて、お母さんとも縁を切って欲しい。残りの借金を払ってもお釣りがくるはずだから、それで部屋を借りて、どこかで一人暮らしをはじめて。僕もね、恵ちゃんぐらいの年のときに、親を、母親を捨てたようなものなんだ。大事に大事に育ててもらったのにさ。母親の大反対を押し切って婿養子に入ってたこともあったし。生んでくれた、育ててくれた恩は決して忘れてないけど、いくら親でも時と場合によっては捨てないと、自分が前には進めないことがある。恵ちゃんは今がその時だと思うよ」
父の了三郎にもまして、母の文江は了治が熊本県庁に入ることを強く望んだ。しかし、了治は文江の束縛から逃れるために、生まれ育った九州を離れるためにキャリア官僚の道を選んだ。
キャッシュカードカードを胸に押し当て、恵は無言のまま深々と頭をさげた。栗色の長い髪が、下手な投網を打ったように乱れた。悲哀を感じさせる姿を目にして、了治の心臓が律動を一拍飛ばし、それを取り戻そうと不規則に早く動く。恵はソープ嬢のように三つ指こそついていないが、これではやはり最後まで買われたことになる。了治は「セイカ」だけでなく、恵まで買ったことになる。
恵は頭をさげ続ける。憂愁で青みを増した虹彩が了治の目に浮かぶ。清み切り、ときには神聖さが宿り、情愛が秘められた瞳。了治は、これまで深い欲の絡んだ愛しか受けてこなかった。「セイカ」は、厚い情を絡めて愛してくれた。あくまでも愛されたのは、「オイカワ」であって、了治ではない。仮想現実の世界での話だ。現実の世界では、全速力の愛をぶつけてきた及川小春を、了治は理解できなかった。理解してやれなかった。
了治は、目を瞑りながら自分に言い聞かせる。互いに金銭を仲立ちにした関係に終始したほうが良い。恵の人生を引き受ける覚悟などないではないか。心が震えるのは、恵の傷ついた心身に同情しているからだ。それに、特定の女との深い関係に絡め取られるのは、もう御免だ。女の勝手に取り決めた規則にも縛られたくはない。しかし、了治は思った。東京に戻ったら、いや九州を発つ前に、母に電話を掛けねばならない。また散々恨み言を言われることはわかっているが。
「頭をあげてよ。そして、ここで別れよう。長崎の恋人同士はさ、稲佐山の展望台でデートすると別れるっていうジンクスがあるんだよね」
「だから、ここにきたんですか?」
と恵は頭をあげながら尋ねた。どこか虚ろな目をしている。
「うん、そうだよ。僕は、もう一つの小さなロープウェイ、スカイウェイっていうんだっけ。それで中腹まで下りて、そこからタクシーで長崎駅前のバスターミナルにいくから」
了治は、恵の手を取り、立ちあがった。
「最後はさ、喧嘩して別れよう。九州の麺料理で一番美味いのは、蘇水亭のラーメンだよ」
「……いいえ、福州林のちゃんぽんです」
ベンチに座ったままの恵の涙声が、了治の鼓膜をくすぐった。ボストンバッグが持ち主の手に提げられるまで、しばしの時間を要した。
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※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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