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Ⅺ
兄・了治⑥
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「長い役人人生だ。生まれ故郷で、二年くらいのんびりしてくるのも悪くないぞ」
二年後に定年を迎えるノンキャリアの課長は、辞令書を手にしたキャリアの課長補佐に餞別代わりの慰めの言葉を贈ってくれた。閑職での頑張りなんか無意味だぞ。そんな言外の含みは聞き流したが、了治は肩を叩かれている現実を素直に受け止め、本省別館をあとにした。長崎に左遷された五年前と異なり、予測はできていた。落ちゆく先は九州熊本。了治にとって幸いだった。この先ノンキャリアのように九州管内でドサ回りする運命にあるのかもしれないが、気候にも人にもやはり馴染めない東京での暮しに疲れを感じていたところだ。昔ながらの熊本ラーメンが毎日でも食べられると思うと、嬉しくさえあった。
了治は、出勤を免除された移動日であるにも拘わらず、熊本空港に着いたその足でボストンバッグとバナナ菓子の入った紙袋を両手にリムジンバスに乗り、JR熊本駅に程近い合同庁舎内の熊本事務所に出向いた。挨拶回りを終えると路面電車に乗り、遅い昼食を摂りに熊本城下の繁華街の上通りアーケードへ向かった。
午後三時半をすぎていたが、中休みを取らない蘇水亭は暖簾を掲げ、「営業中」の看板を入口に立てている。奥行のある店内に、客はスーツ姿の営業マンらしき中年男が一人だけ。手前のカウンター席に座り麺を啜っている。その客と向き合うように、厨房で昔ながらの水色と白の縦縞模様の制服を着た頑固そうな親爺が、これまた一人で黙々と仕込みをしていた。頭に巻いた水色のタオルから白い物が覗き、顔に刻まれた皺の数も増えている。三週間前に会った父の了三郎が年を取るはずだと思いながら、了治はセルフサービスでお冷やをコップに入れ、二十年以上も店を守っている初老の大将に声を掛けた。
「ラーメン大盛りください。すんませんけど、座敷によかですかね」
「はいよ、毎度。リョウジ君、久しぶりやな。一番奥の座敷にせんね。昔そこに親子三人でよう座りよったやろ」
了治は、目を見開く。
「恐縮です。僕んことば覚えとってくれなさったとですか」
「開店当初からのお馴染みさん親子だけん。親父さんはちょくちょく顔ば出してくれなさるばってん、リョウスケは元気にしとっとね? 熊大には受かったばってん九大には落ちたて報告にきてから、もう十何年もうちにはきとらんばい。高校生のときは入り浸っとったとに。何人も違う女ば連れてきてから」
「弟は高校ば卒業して上京してから、一回も熊本には帰ってきとらんとです。昨日、東京で一緒に飲んだとですけど、元気にはしとります」
「そうね。なら、よかばってん。今は別のリョウスケがうちに入り浸っとるけん、君たち兄弟は久しぶりって感じがせんばい」
大将はそう言って、麺を茹ではじめた。
(リョウスケ? お孫さんかな)
了治は、靴を脱いで座敷に上がり、座布団に腰を下ろして胡坐をかいた。
(やっぱ、暑かな、熊本は。四月て言うても、東京の五月のごたるばい)
スーツの上着を脱いで隣の座布団に置き、ネクタイをはずして脇のボストンバックに入れ、壁に背をもたれた。やがて、高校生だったころの記憶が蘇ってきた。了三郎は日曜日の午後、ちょうど今ごろの時間帯に、了治と了介を職場に近いこの店によく呼び出していた。この一番奥の座敷席で、親子三人は揃ってラーメン大盛りを食べていた。とはいえ、了治は大将が自分や弟の顔だけでなく、名前まで覚えていてくれたとは思いもしなかった。
手書きの古びたおしながきには今も、癖のある字で「ラーメン」と「ラーメン大盛り」、そして「コーラ」と「オレンジジュース」の縦に計四行だけ。自分と同じように年を取った馴染みのラーメン屋の光景を目にしながら、自然と心が和んでいく。ふと人の気配を感じて、了治は座敷席から従業員控室に抜ける通路へ視線を向けた。我が目を疑った。眼前には、小さかったころの自分が立っている。幼稚園に入る前の了治が、三十六歳になった自分を凝視していた。
「リョウちゃん、そっちにいっちゃ、ダメよ」
咀嚼中らしい若い女の声を耳にして、了治は、今度は我が耳を疑った。おっとりした自らの声を追うように、蘇水亭の制服姿で通路に姿を現した女は、やはり志村恵だった。口の中の物を飲み込み、こちらを向いて、いらっしゃいませ、すみま、と言ったところで、恵は言葉につまった。三年前と変わらず色白で細身だが、不健康さは感じられない。元気そうだ。目の辺りがジンと熱くなり、了治も言葉を掛けることができない。二人の間を取り持つように、「リョウちゃん」が無言で恵と了治に視線を交互に向けている。
了治は、唾を飲み込んで気持ちを落ち着かせ、居住まいを正して口を開いた。
「今、大将から聞いたんだけど、この店に入り浸ってるリョウスケって……」
「はい、この子です」
恵は、淀みなく言った。了治は、瞬いたあとに続けた。
「スケ、は、どの字を書くの?」
「助け船の、助け、って字です。助は、おじいちゃんからもらいました。了は、お父さんからです」
(介じゃなくて良かった)
そう思いながら再び気持ちを落ち着かせていると、厨房から、
「恵ちゃん、休憩中に悪かばってん、お願い」
と大将の声がした。はーい、と恵は言って厨房に向かい、昔ながらの銀色の小盆に白いラーメン丼を載せて戻ってきた。了助は、通路におとなしく立ったまま、働いている母親の姿をどこか誇らしげな目で追っている。恵は、昔ながらの水色の雷文の入った丼を小盆ごとテーブルに置き、気を付けの姿勢を取るように背筋を伸ばして微笑んだ。
「ラーメン大盛り、お待ちどうさまです。うちのラーメンは、福州林のちゃんぽんに負けないくらい、美味しいですよ。私は、三年前にはじめて食べたときに、一口目で涙が出ちゃいました。それで、思ったんです。このお店で働きたいって」
了治は、恵を見あげた。
「今、休憩中なんだよね。何時まで?」
「五時までです」
「急いで食べるから、そのあとに外で、少しでもいいから話せるかな?」
割り箸を手に取ると、リョウジくん、と今度は通路から大将の声がした。
「久しぶりだけんが、ゆっくり食わんね。お客さんはもう他におらんけん、恵ちゃんもそこで賄いば食えばよか。オレは奥で一休みするけん、店番ばお願い。食い終わったら呼んで。了助ば連れて、うちが込み合う時間になるまで、外でゆっくりしてこんね。三人で」
頑固親爺はそう言って破顔し、恵の肩を軽く叩いて控室へと姿を消した。
了助は、ファミレスの子供用椅子に行儀良く座り、子供用フォークを器用に動かしてお子様うどんを口に運んでいる。恵に着けてもらったアンパンマンの涎掛けは、必要ないのかもしれない。
「この子は、顔だけじゃなくて、性格も、お父さんに似たみたいです。言葉がすごく早いのに口数は少なくて、優しくて。すごく頭も良くて、あんまり手が掛からないんで、本当に助かってます。それに、麺類が大好き。もちろん、大将が作るラーメンも」
白いコーヒーカップを手にした恵に微笑み掛けられ、そうなんだ、とだけ了治は相槌を打った。恵は、コーヒーカップを静かに白い受け皿に置き、了治を正視した。
「あの仕事は、了治さんと稲佐山で別れたあとに、すぐに辞めました。下りのロープウェイを降りた所で、事務所に電話して。その日からしばらく、ユイちゃんの家に居候させてもらいました。コーヒーレディーの派遣の仕事に戻って、お母さんの携帯電話を解約したり、弁護士さんに相談して借金の整理をしたり、お祖母ちゃんの納骨の準備をしたりしてたころに、生理が遅れてることに気づいたんです。私って、あんまり遅れないタイプだから、まさかと思ったんですけど、この子を授かってて」
恵と了治から同時に視線を向けられた了助は、相変わらず行儀良くうどん食いに熱中している。
「二度と妊娠は無理だろうって、お医者さんから言われてたのに……。それに、了治さんの子供だって改めて思ったら、たまらなく愛しく思えて、お母さんのことは、もうどうでも良くなっちゃいました。お祖母ちゃんの納骨がすんだあとに、家を出ます、借金は全部整理しました、って置き手紙をして、荷物を纏めて完全に実家を出たんです。彼氏とは連絡がつかなくて、自然消滅っていうか、うやむやになってました。でも、けじめをつけるために、妊娠したから本当に、絶対に別れます、車のローンは全額払いました、って最後にメールを送りました」
恵は、一呼吸置いて、いったん伏せた目を、また了治に向ける。
「そのあとに、高校のころの親友を頼って、熊本にきたんです。この子を、お父さんが育った街で、産んで、育てたかったから。親友の子ね、先輩ママで、熊本人の公務員のダンナさんと一緒に、親身になってくれて、アパートや病院や、市役所の窓口を紹介してくれて、今も時々、了助を預かってくれるんです。蘇水亭の大将や奥さんも、すごく良くしてくれるんですよ。今は、住み込みで働かせてもらってるんです。了助もね、開店当初からのお馴染みさんの子供の、弟と同じ名前で、お兄ちゃんと顔がよく似てるからって、可愛がってもらってます。そのお兄ちゃんって、やっぱり、了治さんのことだったんですね」
「そうみたいだね……とにかく、ありがとう。この子を育ててくれて。いや、それ以前に、生んでくれてありがとう。いろいろ大変だったよね。なにも知らなくて、全部一人でやらせちゃって、本当にゴメン」
了治は、こみあげてくる涙を堪えながらカップを手に取り、コーヒーを啜った。恵は、大きな目を細めた。
「蘇水亭で働いてたら、了治さんに、きっといつか、会えるって思ってました。一目でいいから、この子の姿を、見てもらいたかったんです」
うどんを食べ終えた了助は、口を凛々しく閉じ、じっと了治の顔を見つめている。
「了治さんは、出張できたんですか? それとも、帰省で?」
瞬いたあとに鼻を啜り、了治は了助の目を優しく見つめ返しながら答えた。
「いや。これから、こっちに二年はいると思う。今度は熊本事務所に転勤になったんだ。また左遷だけどね」
認知届と婚姻届は、どっちを先に出すんだ? 理屈から言って、認知届が先か。いや、同時に出せるはずだ。その前に、父さんと母さんになんて言おう。出会いは、長崎のパチンコ店。客とコーヒーレディーの関係だった。で、嘘じゃないからいいとして、別れたあとに妊娠が発覚したっていうのは、事実にしても本当にまずいな。それに、了介になんて弁解すればいいんだ。
了治は、思案を巡らせながら、ちょっと席をはずすね、と言って携帯電話を手にし、立ちあがった。そして、ファミレスを出てすぐの、アーケードの裏通りの歩道でメールを打ちはじめた。日は傾いているが、熊本の街はまだ真昼の明るさで、なおも初夏のような熱気を残している。しかし、歩道をうねらせている街路樹たちをあらうように、その合間を縫ってくる心地良いそよ風は、まだたしかに春であることをおしえてくれた。
了介。恥ずかしながら兄は、知らぬ間に男の子の父親になっていた。弁解は今度する。ちなみに、その子の名前は、了助だ。
打ったメールを一度読み返したあとに、了治は深呼吸しながら送信キーを押した。ファミレスに戻り、席まであと数歩の所まできたときに、背中を向けている恵が了助の顔を覗き込んだ。
「リョウちゃん、パパも、しばらく熊本に住むんだって。また今度、会えるといいね」
「やっぱり、あの人がパパなの? だったらいいなあって、ぼく、ソスイテイで会ったときから思ってたんだ。やったー」
了助は、整った横顔に喜色を浮かべている。弟の了介に知らせたことで、覚悟できた。腹が据われば、了治はすぐに言動に移せる。
「了助、パパはまた会いにくるぞ。いや、近いうちに迎えにくる。そして、了助とママとパパの三人で暮らすんだ。いいな?」
了治はそう言って、子供用椅子から我が息子を持ちあげた。両脇を抱えられた了助は、三回続けて瞬いたあとに、はい、と凛々しく答えた。いいよね? と了治に問われて、恵はまた目を細め、口角をあげて熊本の街を吹く春の風のように微笑み、頷いた。
二年後に定年を迎えるノンキャリアの課長は、辞令書を手にしたキャリアの課長補佐に餞別代わりの慰めの言葉を贈ってくれた。閑職での頑張りなんか無意味だぞ。そんな言外の含みは聞き流したが、了治は肩を叩かれている現実を素直に受け止め、本省別館をあとにした。長崎に左遷された五年前と異なり、予測はできていた。落ちゆく先は九州熊本。了治にとって幸いだった。この先ノンキャリアのように九州管内でドサ回りする運命にあるのかもしれないが、気候にも人にもやはり馴染めない東京での暮しに疲れを感じていたところだ。昔ながらの熊本ラーメンが毎日でも食べられると思うと、嬉しくさえあった。
了治は、出勤を免除された移動日であるにも拘わらず、熊本空港に着いたその足でボストンバッグとバナナ菓子の入った紙袋を両手にリムジンバスに乗り、JR熊本駅に程近い合同庁舎内の熊本事務所に出向いた。挨拶回りを終えると路面電車に乗り、遅い昼食を摂りに熊本城下の繁華街の上通りアーケードへ向かった。
午後三時半をすぎていたが、中休みを取らない蘇水亭は暖簾を掲げ、「営業中」の看板を入口に立てている。奥行のある店内に、客はスーツ姿の営業マンらしき中年男が一人だけ。手前のカウンター席に座り麺を啜っている。その客と向き合うように、厨房で昔ながらの水色と白の縦縞模様の制服を着た頑固そうな親爺が、これまた一人で黙々と仕込みをしていた。頭に巻いた水色のタオルから白い物が覗き、顔に刻まれた皺の数も増えている。三週間前に会った父の了三郎が年を取るはずだと思いながら、了治はセルフサービスでお冷やをコップに入れ、二十年以上も店を守っている初老の大将に声を掛けた。
「ラーメン大盛りください。すんませんけど、座敷によかですかね」
「はいよ、毎度。リョウジ君、久しぶりやな。一番奥の座敷にせんね。昔そこに親子三人でよう座りよったやろ」
了治は、目を見開く。
「恐縮です。僕んことば覚えとってくれなさったとですか」
「開店当初からのお馴染みさん親子だけん。親父さんはちょくちょく顔ば出してくれなさるばってん、リョウスケは元気にしとっとね? 熊大には受かったばってん九大には落ちたて報告にきてから、もう十何年もうちにはきとらんばい。高校生のときは入り浸っとったとに。何人も違う女ば連れてきてから」
「弟は高校ば卒業して上京してから、一回も熊本には帰ってきとらんとです。昨日、東京で一緒に飲んだとですけど、元気にはしとります」
「そうね。なら、よかばってん。今は別のリョウスケがうちに入り浸っとるけん、君たち兄弟は久しぶりって感じがせんばい」
大将はそう言って、麺を茹ではじめた。
(リョウスケ? お孫さんかな)
了治は、靴を脱いで座敷に上がり、座布団に腰を下ろして胡坐をかいた。
(やっぱ、暑かな、熊本は。四月て言うても、東京の五月のごたるばい)
スーツの上着を脱いで隣の座布団に置き、ネクタイをはずして脇のボストンバックに入れ、壁に背をもたれた。やがて、高校生だったころの記憶が蘇ってきた。了三郎は日曜日の午後、ちょうど今ごろの時間帯に、了治と了介を職場に近いこの店によく呼び出していた。この一番奥の座敷席で、親子三人は揃ってラーメン大盛りを食べていた。とはいえ、了治は大将が自分や弟の顔だけでなく、名前まで覚えていてくれたとは思いもしなかった。
手書きの古びたおしながきには今も、癖のある字で「ラーメン」と「ラーメン大盛り」、そして「コーラ」と「オレンジジュース」の縦に計四行だけ。自分と同じように年を取った馴染みのラーメン屋の光景を目にしながら、自然と心が和んでいく。ふと人の気配を感じて、了治は座敷席から従業員控室に抜ける通路へ視線を向けた。我が目を疑った。眼前には、小さかったころの自分が立っている。幼稚園に入る前の了治が、三十六歳になった自分を凝視していた。
「リョウちゃん、そっちにいっちゃ、ダメよ」
咀嚼中らしい若い女の声を耳にして、了治は、今度は我が耳を疑った。おっとりした自らの声を追うように、蘇水亭の制服姿で通路に姿を現した女は、やはり志村恵だった。口の中の物を飲み込み、こちらを向いて、いらっしゃいませ、すみま、と言ったところで、恵は言葉につまった。三年前と変わらず色白で細身だが、不健康さは感じられない。元気そうだ。目の辺りがジンと熱くなり、了治も言葉を掛けることができない。二人の間を取り持つように、「リョウちゃん」が無言で恵と了治に視線を交互に向けている。
了治は、唾を飲み込んで気持ちを落ち着かせ、居住まいを正して口を開いた。
「今、大将から聞いたんだけど、この店に入り浸ってるリョウスケって……」
「はい、この子です」
恵は、淀みなく言った。了治は、瞬いたあとに続けた。
「スケ、は、どの字を書くの?」
「助け船の、助け、って字です。助は、おじいちゃんからもらいました。了は、お父さんからです」
(介じゃなくて良かった)
そう思いながら再び気持ちを落ち着かせていると、厨房から、
「恵ちゃん、休憩中に悪かばってん、お願い」
と大将の声がした。はーい、と恵は言って厨房に向かい、昔ながらの銀色の小盆に白いラーメン丼を載せて戻ってきた。了助は、通路におとなしく立ったまま、働いている母親の姿をどこか誇らしげな目で追っている。恵は、昔ながらの水色の雷文の入った丼を小盆ごとテーブルに置き、気を付けの姿勢を取るように背筋を伸ばして微笑んだ。
「ラーメン大盛り、お待ちどうさまです。うちのラーメンは、福州林のちゃんぽんに負けないくらい、美味しいですよ。私は、三年前にはじめて食べたときに、一口目で涙が出ちゃいました。それで、思ったんです。このお店で働きたいって」
了治は、恵を見あげた。
「今、休憩中なんだよね。何時まで?」
「五時までです」
「急いで食べるから、そのあとに外で、少しでもいいから話せるかな?」
割り箸を手に取ると、リョウジくん、と今度は通路から大将の声がした。
「久しぶりだけんが、ゆっくり食わんね。お客さんはもう他におらんけん、恵ちゃんもそこで賄いば食えばよか。オレは奥で一休みするけん、店番ばお願い。食い終わったら呼んで。了助ば連れて、うちが込み合う時間になるまで、外でゆっくりしてこんね。三人で」
頑固親爺はそう言って破顔し、恵の肩を軽く叩いて控室へと姿を消した。
了助は、ファミレスの子供用椅子に行儀良く座り、子供用フォークを器用に動かしてお子様うどんを口に運んでいる。恵に着けてもらったアンパンマンの涎掛けは、必要ないのかもしれない。
「この子は、顔だけじゃなくて、性格も、お父さんに似たみたいです。言葉がすごく早いのに口数は少なくて、優しくて。すごく頭も良くて、あんまり手が掛からないんで、本当に助かってます。それに、麺類が大好き。もちろん、大将が作るラーメンも」
白いコーヒーカップを手にした恵に微笑み掛けられ、そうなんだ、とだけ了治は相槌を打った。恵は、コーヒーカップを静かに白い受け皿に置き、了治を正視した。
「あの仕事は、了治さんと稲佐山で別れたあとに、すぐに辞めました。下りのロープウェイを降りた所で、事務所に電話して。その日からしばらく、ユイちゃんの家に居候させてもらいました。コーヒーレディーの派遣の仕事に戻って、お母さんの携帯電話を解約したり、弁護士さんに相談して借金の整理をしたり、お祖母ちゃんの納骨の準備をしたりしてたころに、生理が遅れてることに気づいたんです。私って、あんまり遅れないタイプだから、まさかと思ったんですけど、この子を授かってて」
恵と了治から同時に視線を向けられた了助は、相変わらず行儀良くうどん食いに熱中している。
「二度と妊娠は無理だろうって、お医者さんから言われてたのに……。それに、了治さんの子供だって改めて思ったら、たまらなく愛しく思えて、お母さんのことは、もうどうでも良くなっちゃいました。お祖母ちゃんの納骨がすんだあとに、家を出ます、借金は全部整理しました、って置き手紙をして、荷物を纏めて完全に実家を出たんです。彼氏とは連絡がつかなくて、自然消滅っていうか、うやむやになってました。でも、けじめをつけるために、妊娠したから本当に、絶対に別れます、車のローンは全額払いました、って最後にメールを送りました」
恵は、一呼吸置いて、いったん伏せた目を、また了治に向ける。
「そのあとに、高校のころの親友を頼って、熊本にきたんです。この子を、お父さんが育った街で、産んで、育てたかったから。親友の子ね、先輩ママで、熊本人の公務員のダンナさんと一緒に、親身になってくれて、アパートや病院や、市役所の窓口を紹介してくれて、今も時々、了助を預かってくれるんです。蘇水亭の大将や奥さんも、すごく良くしてくれるんですよ。今は、住み込みで働かせてもらってるんです。了助もね、開店当初からのお馴染みさんの子供の、弟と同じ名前で、お兄ちゃんと顔がよく似てるからって、可愛がってもらってます。そのお兄ちゃんって、やっぱり、了治さんのことだったんですね」
「そうみたいだね……とにかく、ありがとう。この子を育ててくれて。いや、それ以前に、生んでくれてありがとう。いろいろ大変だったよね。なにも知らなくて、全部一人でやらせちゃって、本当にゴメン」
了治は、こみあげてくる涙を堪えながらカップを手に取り、コーヒーを啜った。恵は、大きな目を細めた。
「蘇水亭で働いてたら、了治さんに、きっといつか、会えるって思ってました。一目でいいから、この子の姿を、見てもらいたかったんです」
うどんを食べ終えた了助は、口を凛々しく閉じ、じっと了治の顔を見つめている。
「了治さんは、出張できたんですか? それとも、帰省で?」
瞬いたあとに鼻を啜り、了治は了助の目を優しく見つめ返しながら答えた。
「いや。これから、こっちに二年はいると思う。今度は熊本事務所に転勤になったんだ。また左遷だけどね」
認知届と婚姻届は、どっちを先に出すんだ? 理屈から言って、認知届が先か。いや、同時に出せるはずだ。その前に、父さんと母さんになんて言おう。出会いは、長崎のパチンコ店。客とコーヒーレディーの関係だった。で、嘘じゃないからいいとして、別れたあとに妊娠が発覚したっていうのは、事実にしても本当にまずいな。それに、了介になんて弁解すればいいんだ。
了治は、思案を巡らせながら、ちょっと席をはずすね、と言って携帯電話を手にし、立ちあがった。そして、ファミレスを出てすぐの、アーケードの裏通りの歩道でメールを打ちはじめた。日は傾いているが、熊本の街はまだ真昼の明るさで、なおも初夏のような熱気を残している。しかし、歩道をうねらせている街路樹たちをあらうように、その合間を縫ってくる心地良いそよ風は、まだたしかに春であることをおしえてくれた。
了介。恥ずかしながら兄は、知らぬ間に男の子の父親になっていた。弁解は今度する。ちなみに、その子の名前は、了助だ。
打ったメールを一度読み返したあとに、了治は深呼吸しながら送信キーを押した。ファミレスに戻り、席まであと数歩の所まできたときに、背中を向けている恵が了助の顔を覗き込んだ。
「リョウちゃん、パパも、しばらく熊本に住むんだって。また今度、会えるといいね」
「やっぱり、あの人がパパなの? だったらいいなあって、ぼく、ソスイテイで会ったときから思ってたんだ。やったー」
了助は、整った横顔に喜色を浮かべている。弟の了介に知らせたことで、覚悟できた。腹が据われば、了治はすぐに言動に移せる。
「了助、パパはまた会いにくるぞ。いや、近いうちに迎えにくる。そして、了助とママとパパの三人で暮らすんだ。いいな?」
了治はそう言って、子供用椅子から我が息子を持ちあげた。両脇を抱えられた了助は、三回続けて瞬いたあとに、はい、と凛々しく答えた。いいよね? と了治に問われて、恵はまた目を細め、口角をあげて熊本の街を吹く春の風のように微笑み、頷いた。
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