バブル

斗有かずお

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 Ⅰ

昭和63年11月① 朝刊紙受け

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 練馬区の新聞屋も、やはり朝が早い。好景気に浮かれて飲んだくれた大学生たちが、なおも東京の繁華街を闊歩している未明に、朝刊は販売店に届けられる。
(吉祥寺の駅前には、まだいるんだろうな。お祭り騒ぎの奴らが)
 猪野一郎は、店先に同僚の江川と二人で構えて立ち、輸送トラックの荷台に上った運転手から重たい朝刊の梱包を受け取りながら思う。
 居酒屋で生ビールを飲んで食って笑い、おしゃれなバーでカクテルを飲んで気取り、〆は屋台で日本酒を飲んで声を上げる。一ヶ月ほど前、昭和六十三年十月の最後の公休日に、大学の語学クラスのコンパに初めて参加した。それになりに楽しくはあったが、それ以上にむなしかった。酒場で飲んだり、ディスコで踊ったりしてではなく、新聞を配達して発汗する方が性に合っている。アルコールや場の雰囲気にではなく、日々のストイックな生活の中で自分自身に酔いたい。そんな男でありたいと、二十歳の一郎は思う。
 運転手は、手慣れている。朝刊八十部、十キロ強の梱包を放り投げるように、ジャージを着て軍手をはめた学生の二人に交互にわたす。小柄でバンタム級のボクサーのような体つきをした一郎は、顔面に食らいそうになりつつもかわした朝刊の塊をいったん懐におさめ、長身でスキーウェアが似合いそうな江川ともども、急ぎ塀を作るように、計六十を超える梱包を土間より一段高い作業場に次々と積み上げていく。慣れないころは、よく途中で崩していまい、運転手に「一年坊主が、また雪崩を起こしやがった」と揶揄われたものだ。
 石神井公園や三宝寺の草木は、まだ眠っている。この午前三時ごろに始まる「紙受け」の今日の当番は、江川だ。一郎が当番のときは、江川が補助役を買って出る。同い年の同期。ともに地元で一年浪人した私立大学一年生で、Y新聞石神井販売店の学生店員、新聞奨学生となって八ヶ月になろうとしている。

 輸送トラックは、他店へと向かう。熊本出身の一郎と、広島出身の江川は、東京の晩秋の未明の冷気をガラス引戸で遮り、板の間の作業場にジョギングシューズを脱いで上がった。梱包を両手に隣り合った定位置に移動し、プラスチック製の十字の紐とビニールを鎌で切り、朝刊の塊を裸にする。座布団の上に胡坐を掻き、脇に置いている折込みチラシを朝刊に挟む作業に移った。ここから二人が会話を交わすことは稀だ。配達業務に慣れたとは言え、まだまだ余裕は持ちえない。朝刊は明るくなる前に、夕刊は暗くなる前に配達を終えるのが望ましい――午前六時と、午後五時を目安に。一郎と江川は、系列の販売店の合同新人研修会で教わったことを忠実に守ろうとしている。
 一郎の担当する十一区は、三百二十部強。江川の担当する九区は、二百八十部弱。四十部以上も違えば、折込みを挟む作業も配達も、競争にはならない。先ほど切ったプラスチック紐とビニールを使い、一郎は折込みの分だけ厚くなった朝刊を八十部ずつ、二組を簡易に再梱包し、表に油性フェルトペンで「11区コーポ梶山」、「11区三幸荘」と書いてガラス引戸の脇まで運ぶ。販売店のワンボックスカーで、「中継当番」に配達区域内の二つの地点まで運んでもらうことになる。一息つく間もなく、また梱包を両手に定位置に戻り、再び黙々と、一郎はリズム良く折込みを朝刊に挟んでいく。
(今日のチラシは丁合機一回転分だけで薄いし、二十分で終わりそうだな。四月は全部を挟み終えるまで、四十分はかかっていたのに)
 先に作業を終えた江川がガラス引戸を開け、スタンドを立てた業務用自転車に朝刊を積み始めると、他の同期の新聞奨学生が一人、また一人と姿を現す。きれいな標準語で、「おはよう、江川、猪野」、新潟訛りで、「鉄の意志を持つ江川と猪野のコンビは今日もはえっ」、茨城訛りで、「おっはよー、みんなはええなー」と大学予備校や専門学校にも在籍する一年坊主たちだ。
 江川が販売店を後にすると、一郎はまず業務用自転車の荷台に専用シートで包んだ八十部の本紙と二十部のスポーツ紙、一部の証券新聞を載せ、黒いゴム紐で括る。つづいて、前籠に八十数部の本紙を積み上げる――土台となる部分を除き、交互に「<」と「>」に折り曲げて山を作るように。そして、スタンドを蹴り上げ、サドルに跨って重たいハンドルを操り、重たいペダルを漕ぎ始める。
 北海道出身で新聞奨学生あがりの同年代の専業店員である三村と朝の挨拶を交わした後に、十一区まで片道約五分。最初の一部から最後の一部まで、朝刊すべての投函に、まる二時間はかかってしまう。朝飯前に済まさねばならない仕事に、悪天候でなくとも計二時間半は費やす。

 朝刊配達を終えると、食堂と化した販売店の作業場に戻る。一郎は、脚に疲労から来る震えを覚えながら座布団の上に胡坐を掻き、賄いの朝飯を二人前食べるのが常だ。丼飯と味噌汁は、お代わり自由なので二杯ずつ。一皿に盛られたおかずは、二階に住み込んでいる販売拡張専門の宮田から自分の分も代わりに食べて欲しいと頼まれている。「朝っぱらから、焼き魚なんてよく食えるよな」としょっちゅう口にする初老の営業員に、若い肉体労働者向けの栄養バランスの整ったおかずは重すぎるらしい。――睡眠の不足は、食って補え。基礎法学ゼミの担当教授の名言だと思う。大学で得た、最も実のある教えだ。
 朝飯を食べ終えると、歩いて二分の販売店員寮の自室に急いで戻り、第一外国語の英語、もしくは第二外国語のスペイン語の予習をして仮眠を取った後に、原色やパステルカラーの服をまとった学生が集うS大に向け、武蔵野市の吉祥寺まで再び業務用自転車を漕ぐ。

 午後の講義が終わると、今度は販売店で夕刊が待っている。配達を終えて作業場で晩飯を食べた後は、集金と拡張のために、また区域へと向かう。販売店に戻るのは、九時をすぎる場合が多い。集金の清算や購読契約カードの提出を終えると、最後に翌朝の折込みの準備。読者管理の事務で、さらに時間を取られる場合もある。寮の自室に帰るのは、十時ごろだ。集金に忙しく、折込みの枚数も増える月末は、十一時をすぎることも少なくない。金曜日や土曜日や祝前日は、午前様になることも珍しくなかった。
 配達等で一日に数リットルの汗を掻くのだが、銭湯には週三、四回しか行けない。営業終了時間までに暖簾をくぐれないことも多々ある。夜のうちに三十分でも一時間でも長く布団の中で寝ておかねば、何より体がもたない。行けても、烏の行水になる。ゆっくりと湯に浸かれば、溜まりに溜まった疲れが一気に出てしまう。布団の中で深い眠りに就いてしまっては、午前三時に起きられなくなり、翌日の朝刊配達で己の首を絞めかねない。

 四月は、大学の講義やゼミと、予想していたよりもはるかに厳しい配達に慣れるだけで終わった。五月になると、集金にも慣れてきた。六月は、雨中の配達に難渋しつつ、拡張の要領を掴みかけた。梅雨の長引いた七月は、大学の前期試験であたふたした。大学に行く必要のない八月は、暇さえあれば、疲労困憊の身心を休めるために寮の自室で寝てすごした。九月は、秋の長雨に苦しめられた。十月になると、九州人にはもはや晩秋に思える気候や低い日差しに寂しい思いをした。そして、十一月も下旬に差しかかっている。
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