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Ⅱ
昭和63年11月② 夕刊配達の後
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午後六時すぎに、最後の一部の夕刊を渡部さん宅の門先で七十年配の旦那さんに手わたし、「ありがとう。ご苦労様」と礼を言われた。
(今日は、良い日だった)
一郎は、ほっ、と息をつきながら、しみじみと思う。すでに日は暮れて久しく、晩秋の風が汗で湿ったジャージと濡れた下着に沁み入っている。
(晩飯の後に、まだ仕事が残ってるけどな。集金が忙しくないうちに、拡張もやっとかなきゃ)
日の短い今の季節の火曜日は、暗くなる前に夕刊配達を終えられない。大学の講義が四限まであるからだ。スペイン語の終了のチャイムが鳴ると同時に教室を駆け出、業務用自転車のサドルに跨り、勢いのままに約二十分、S大から寮までペダルを漕ぎまくる。自室で急ぎ着替えて販売店に向かい、自転車に新聞を積み始めるのは、早くて午後四時二十五分。他の曜日より、一時間以上も遅くなる。急ぎに急いで三百部強の夕刊を一時間半余りですべて配り終えるころには、ハーフマラソンを完走したような疲労感を覚えるのが常だ。
各読者と初めて面と向かった四月分の新聞代集金時に、火曜日だけは学業との兼ね合いで夕刊配達が遅れると、頭を下げてまわった。まゆみ荘二〇三号室の狭い玄関の土間で頭を上げたときに、「大学生と兼業だと、大変だよね。うちは、遅れても全然構わないから」と応えてくれた身長百五十センチくらいの華奢な女性読者の笑顔に惹かれ、惚れてしまいそうになり、五月分以降の集金や夕刊配達の際に逢ううちに惚れてしまった。
――佐藤の若奥さん。一郎は、心の中で彼女をそう呼んでいる。憧れを込め、かつ愛人でないことを強く願いながら。髪は、軽めのボブ。スッピンでも、薄化粧でも、こじんまり愛らしく目鼻の整ったこの和風美人は、埼玉出身の十一区の前任者で大学四年生、新聞奨学生ながら管理職も担っている東海から引き継いだ最重要な読者情報によると、
「たぶん二十代後半だろうけど、ひょっとしたら三十代かもしれないな。職業は意外にも二トントラックの運転手。同年代の旦那を見たことはないけど、たまに背の高い初老のロマンスグレーが部屋に出入りしてるんだよな!」
若奥さんの面影がある小学一年生の娘のジュンちゃんはともかく、他の家族については聞くに聞けない。それ以前に、目と目を合わせて話すことすら困難だったりする。一郎は、改めて思う。佐藤の若奥さんは、シングルマザーと近ごろ呼ばれる子持ちの独身女性なのだろうか。ロマンスグレーは、年の離れた旦那なのだろうか。彼女の父親なのだろうか。ジュンちゃんの父親なのだろうか。あるいは、彼女のパトロンなのだろうか……。
今日が良い日なのは、間違いない。二十部余りの夕刊を順路に沿って配り、日が暮れかけて寂しさを覚えたまさにそのときに、青いトラックを運転する佐藤の若奥さんと路上で擦れ違うことができたのだから。彼女は、気づいてくれた。小さく会釈しながら笑顔も見せてくれ、胸をときめかせてくれた。初めて二トントラックに乗った佐藤の若奥さんと逢った日を思い出す。やはり夕刊配達中に、まゆみ荘近くの狭い鉤形の道路に差しかかったときだった。一歩間違えば衝突しかねなかったのは、互いの前方確認ミス。フロントガラス越しに、目を丸めて口を尖らせた後に明るく可愛らしい笑顔で頷くように会釈してくれ、クールにハンドルを操り、角を曲がって行った彼女。生涯忘れられないだろう。
夕刊配達を終えて販売店に戻る道すがら、一郎は賄いの晩飯のメニューが何だろうなどと思いはしない。この数日は、Winkという女性二人組新人アイドルの「愛が止まらない」のサビを口ずさみつづけている。愛しい佐藤の若奥さんの様々な表情や笑顔を思い浮かべながら。彼女にドラマが始まっているのだろうか。現在進行形なのだろうか。相手は、やはりロマンスグレーなのだろうか。まさか、自分であるはずがない。いかんせん、若輩すぎる。小柄な女性は、ないものねだりで背の高い男性を好むのではないだろうか。熊本では割りと受けが良かった自分の九州しょうゆ顔も、東京に住む女性にはさほど好まれないようだし……。
一郎は、襷にかけた黒革の集金バッグの中に、A六サイズの空色のノートとボールペンを常備している。読者管理の一環で、集金希望日や契約期間や家族構成といった情報を書き込むためだ。毎月の集金時に、受けた要望や配ったサービスの品もメモする。四つ年上の専業員で七区担当の三村を真似ていた。
配達だけでなく、集金にも順番がある。開始日の当月二十日から行ってもいい読者。民間会社の給料日の二十五日以降に行かねばならない読者。末日もしくは翌月明けに行かねばならない読者。概ね三つのグループに分かれる。
各読者の希望日に合わせ、移動の時間を節約しようと、なるべく配達順路に沿ってまわる。気の合う読者とは、世間話に花が咲くものだ。満開になってしまうと、尻に火が点きかねない。当月末日の集金率九十パーセントの〆をクリアするためには、夕刊配達後に三十枚を超える領収書を切らねばならない日が多くなってしまう。販売店で晩飯を食べ――雨の降る火曜日など、時間が押し迫った場合は、後まわしにして――、寮の自室で準備を整え、午後六時半ごろから集金を始める場合が多く、戸建てに住む読者は八時すぎ、アパートやマンションに住む読者は八時半すぎを目途に終えるのが望ましい。九時以降に訪問するのは、一人暮らしの男性か帰宅時間の遅い読者に限っている。
新聞販売業界は、固定読者へのサービスが良いと言えない。三ヶ月、半年、一年といった契約が存在する読者には、更新してもらう「縛り」の際に洗剤をわたすこともできる。拡張強化月間に、携帯型液晶テレビといった最新電化製品までお目見えする豪華景品は、原則として新規勧誘の読者にしかわたせない。リクルート事件の関連記事が紙面を賑わすたびに、一郎は思う。官民の違いこそあるが、報道している新聞の販売業界にも、賄賂は半ば公然と横行しているではないか。気持ちだけでも平等なサービスを心がけたく、集金時に古新聞を入れる紙パックや「家庭版」の冊子に加え、多くの読者にタオルを三ヶ月ごとにわたしている。
プロ野球やサッカーリーグの観戦、映画や美術展の鑑賞、観劇といった無料招待券を欲する読者は決まっており、計二十軒ほど。三、四ヶ月ごとに、原則二枚一組で配る。他の読者にも探りを入れねばならない。主婦のネットワークは侮れないのだ。指定日の前にうっかり集金に行ってしまった際に、誰々さんには遊園地の券をあげているのに、うちにはどうしてくれないのかと、それまで何の要望も口にしなかった奥様からお叱りを受けたことは、記憶に新しい。
(やっぱり、ついてたな。今日は、本当に良い日だった)
集金がいつになくスムーズに進んだ。珍しく留守宅がなかった。居留守を使われることも、持ち合わせがないと断られることもなかった。以前から目をつけていた空き家に立ち寄ると、電気が点いており、転入者の新規勧誘にも成功した。翌朝の折込みも丁合機一回転分のみで、担当者が夕飯前に全作業を終わらせてくれている。販売店に戻ると、ユニフォームのジャンバーを支給された。青一色でシンプルなデザインだが、新聞屋っぽくなく、大学にも着て行けそうだ。冬用の上着を購入する金よりも、時間を節約できたのが嬉しい。給料の額面から税金等と、寮費や賄い代を差し引いた約六万円――加えて、成績しだいで拡張手当が最高四万三千円――が毎月の小遣いとなるものの、使い切るための暇はなかった。
「おかえりー、猪野。聞いてくれよー。今日さあ、歌舞伎町でぼられたわー」
築三十年は超えているらしい木造二階建ての安アパートの部屋に帰るやいなや、寮の同室の先輩で十四区担当の春田が愚痴り始めた。先輩のCDラジカセは、今日もWinkの「愛が止まらない」を繰り返し再生しているらしい。地元の静岡で一年浪人した後に、石神井に来て二年目。大学予備校に在籍して三年目になる春田は、十一月の最初で最後の公休を取っていた。石神井販売店所属の予備校に通う新聞奨学生は、秋から冬にかけて週一日きりの公休を貯めねばならない。受験シーズンに、まとめて使うためだ。朝刊配達を終えて疲れた状態で大学入試を受けるわけにはいかないし、大雨や雪に見舞われては遅刻しかねない。新聞奨学生も専業員も、有給休暇は夏休みの三日間だけしかとれなかった。
春田は、充分な睡眠を取って体調を整え、新宿区の歌舞伎町の個室高級サウナに行って来た。ぼったくりに遭ったのではなく、「地雷」を踏まされたらしい。大衆店「麗人」の常連客と言っていいのだろう。毎月必ず一回、ボーナス月や拡張手当が二万一千円ないし四万三千円つく月は二、三回通っている。足の踏み場の少ない部屋の真ん中の擦り切れた畳の上で胡坐を掻いている先輩は、しかめた顔に両手の人差し指をやった。
「低い鼻がこんなに広がってて、でっかい穴が上を向いててさー」
古臭い和式トイレと流し台のみがついた六畳一間に、二人で寝起きしている――集金や拡張の際に配る「拡材」にも場所を取られつつ。入居した晩から万年床と化している押入れ下段と、その前の一畳だけが、後輩の一郎の専有スペースだ。気心が知れて性格も合う、そちらの方でも先輩の春田の話に、一郎は相槌を打ちながら耳を傾ける。歌舞伎町に点在するビデオボックスで、その手の企画物のアダルトビデオを見たことならあるものの、先輩の体験談はいつ聞いても、「やらハタ」には刺激が強すぎる。やらずにハタチを童貞のままで迎えた八月以降、春田に何度となく麗人に誘われているのだが、佐藤の若奥さんを「裏切る」ことはできないでいた。
「体の方は、まあまあだったから、不可の評価は勘弁してやろう、うん。じゃ、おやすみ」
昼間に入浴を終えている先輩は、窓際の万年床に寝転がり、毛布と掛布団を被った。一郎は、洗面用具を持ち、急いで玄関に向かう。自転車でも七分かかる最寄りの銭湯の営業終了時間が迫っていた。
(今日は、良い日だった)
一郎は、ほっ、と息をつきながら、しみじみと思う。すでに日は暮れて久しく、晩秋の風が汗で湿ったジャージと濡れた下着に沁み入っている。
(晩飯の後に、まだ仕事が残ってるけどな。集金が忙しくないうちに、拡張もやっとかなきゃ)
日の短い今の季節の火曜日は、暗くなる前に夕刊配達を終えられない。大学の講義が四限まであるからだ。スペイン語の終了のチャイムが鳴ると同時に教室を駆け出、業務用自転車のサドルに跨り、勢いのままに約二十分、S大から寮までペダルを漕ぎまくる。自室で急ぎ着替えて販売店に向かい、自転車に新聞を積み始めるのは、早くて午後四時二十五分。他の曜日より、一時間以上も遅くなる。急ぎに急いで三百部強の夕刊を一時間半余りですべて配り終えるころには、ハーフマラソンを完走したような疲労感を覚えるのが常だ。
各読者と初めて面と向かった四月分の新聞代集金時に、火曜日だけは学業との兼ね合いで夕刊配達が遅れると、頭を下げてまわった。まゆみ荘二〇三号室の狭い玄関の土間で頭を上げたときに、「大学生と兼業だと、大変だよね。うちは、遅れても全然構わないから」と応えてくれた身長百五十センチくらいの華奢な女性読者の笑顔に惹かれ、惚れてしまいそうになり、五月分以降の集金や夕刊配達の際に逢ううちに惚れてしまった。
――佐藤の若奥さん。一郎は、心の中で彼女をそう呼んでいる。憧れを込め、かつ愛人でないことを強く願いながら。髪は、軽めのボブ。スッピンでも、薄化粧でも、こじんまり愛らしく目鼻の整ったこの和風美人は、埼玉出身の十一区の前任者で大学四年生、新聞奨学生ながら管理職も担っている東海から引き継いだ最重要な読者情報によると、
「たぶん二十代後半だろうけど、ひょっとしたら三十代かもしれないな。職業は意外にも二トントラックの運転手。同年代の旦那を見たことはないけど、たまに背の高い初老のロマンスグレーが部屋に出入りしてるんだよな!」
若奥さんの面影がある小学一年生の娘のジュンちゃんはともかく、他の家族については聞くに聞けない。それ以前に、目と目を合わせて話すことすら困難だったりする。一郎は、改めて思う。佐藤の若奥さんは、シングルマザーと近ごろ呼ばれる子持ちの独身女性なのだろうか。ロマンスグレーは、年の離れた旦那なのだろうか。彼女の父親なのだろうか。ジュンちゃんの父親なのだろうか。あるいは、彼女のパトロンなのだろうか……。
今日が良い日なのは、間違いない。二十部余りの夕刊を順路に沿って配り、日が暮れかけて寂しさを覚えたまさにそのときに、青いトラックを運転する佐藤の若奥さんと路上で擦れ違うことができたのだから。彼女は、気づいてくれた。小さく会釈しながら笑顔も見せてくれ、胸をときめかせてくれた。初めて二トントラックに乗った佐藤の若奥さんと逢った日を思い出す。やはり夕刊配達中に、まゆみ荘近くの狭い鉤形の道路に差しかかったときだった。一歩間違えば衝突しかねなかったのは、互いの前方確認ミス。フロントガラス越しに、目を丸めて口を尖らせた後に明るく可愛らしい笑顔で頷くように会釈してくれ、クールにハンドルを操り、角を曲がって行った彼女。生涯忘れられないだろう。
夕刊配達を終えて販売店に戻る道すがら、一郎は賄いの晩飯のメニューが何だろうなどと思いはしない。この数日は、Winkという女性二人組新人アイドルの「愛が止まらない」のサビを口ずさみつづけている。愛しい佐藤の若奥さんの様々な表情や笑顔を思い浮かべながら。彼女にドラマが始まっているのだろうか。現在進行形なのだろうか。相手は、やはりロマンスグレーなのだろうか。まさか、自分であるはずがない。いかんせん、若輩すぎる。小柄な女性は、ないものねだりで背の高い男性を好むのではないだろうか。熊本では割りと受けが良かった自分の九州しょうゆ顔も、東京に住む女性にはさほど好まれないようだし……。
一郎は、襷にかけた黒革の集金バッグの中に、A六サイズの空色のノートとボールペンを常備している。読者管理の一環で、集金希望日や契約期間や家族構成といった情報を書き込むためだ。毎月の集金時に、受けた要望や配ったサービスの品もメモする。四つ年上の専業員で七区担当の三村を真似ていた。
配達だけでなく、集金にも順番がある。開始日の当月二十日から行ってもいい読者。民間会社の給料日の二十五日以降に行かねばならない読者。末日もしくは翌月明けに行かねばならない読者。概ね三つのグループに分かれる。
各読者の希望日に合わせ、移動の時間を節約しようと、なるべく配達順路に沿ってまわる。気の合う読者とは、世間話に花が咲くものだ。満開になってしまうと、尻に火が点きかねない。当月末日の集金率九十パーセントの〆をクリアするためには、夕刊配達後に三十枚を超える領収書を切らねばならない日が多くなってしまう。販売店で晩飯を食べ――雨の降る火曜日など、時間が押し迫った場合は、後まわしにして――、寮の自室で準備を整え、午後六時半ごろから集金を始める場合が多く、戸建てに住む読者は八時すぎ、アパートやマンションに住む読者は八時半すぎを目途に終えるのが望ましい。九時以降に訪問するのは、一人暮らしの男性か帰宅時間の遅い読者に限っている。
新聞販売業界は、固定読者へのサービスが良いと言えない。三ヶ月、半年、一年といった契約が存在する読者には、更新してもらう「縛り」の際に洗剤をわたすこともできる。拡張強化月間に、携帯型液晶テレビといった最新電化製品までお目見えする豪華景品は、原則として新規勧誘の読者にしかわたせない。リクルート事件の関連記事が紙面を賑わすたびに、一郎は思う。官民の違いこそあるが、報道している新聞の販売業界にも、賄賂は半ば公然と横行しているではないか。気持ちだけでも平等なサービスを心がけたく、集金時に古新聞を入れる紙パックや「家庭版」の冊子に加え、多くの読者にタオルを三ヶ月ごとにわたしている。
プロ野球やサッカーリーグの観戦、映画や美術展の鑑賞、観劇といった無料招待券を欲する読者は決まっており、計二十軒ほど。三、四ヶ月ごとに、原則二枚一組で配る。他の読者にも探りを入れねばならない。主婦のネットワークは侮れないのだ。指定日の前にうっかり集金に行ってしまった際に、誰々さんには遊園地の券をあげているのに、うちにはどうしてくれないのかと、それまで何の要望も口にしなかった奥様からお叱りを受けたことは、記憶に新しい。
(やっぱり、ついてたな。今日は、本当に良い日だった)
集金がいつになくスムーズに進んだ。珍しく留守宅がなかった。居留守を使われることも、持ち合わせがないと断られることもなかった。以前から目をつけていた空き家に立ち寄ると、電気が点いており、転入者の新規勧誘にも成功した。翌朝の折込みも丁合機一回転分のみで、担当者が夕飯前に全作業を終わらせてくれている。販売店に戻ると、ユニフォームのジャンバーを支給された。青一色でシンプルなデザインだが、新聞屋っぽくなく、大学にも着て行けそうだ。冬用の上着を購入する金よりも、時間を節約できたのが嬉しい。給料の額面から税金等と、寮費や賄い代を差し引いた約六万円――加えて、成績しだいで拡張手当が最高四万三千円――が毎月の小遣いとなるものの、使い切るための暇はなかった。
「おかえりー、猪野。聞いてくれよー。今日さあ、歌舞伎町でぼられたわー」
築三十年は超えているらしい木造二階建ての安アパートの部屋に帰るやいなや、寮の同室の先輩で十四区担当の春田が愚痴り始めた。先輩のCDラジカセは、今日もWinkの「愛が止まらない」を繰り返し再生しているらしい。地元の静岡で一年浪人した後に、石神井に来て二年目。大学予備校に在籍して三年目になる春田は、十一月の最初で最後の公休を取っていた。石神井販売店所属の予備校に通う新聞奨学生は、秋から冬にかけて週一日きりの公休を貯めねばならない。受験シーズンに、まとめて使うためだ。朝刊配達を終えて疲れた状態で大学入試を受けるわけにはいかないし、大雨や雪に見舞われては遅刻しかねない。新聞奨学生も専業員も、有給休暇は夏休みの三日間だけしかとれなかった。
春田は、充分な睡眠を取って体調を整え、新宿区の歌舞伎町の個室高級サウナに行って来た。ぼったくりに遭ったのではなく、「地雷」を踏まされたらしい。大衆店「麗人」の常連客と言っていいのだろう。毎月必ず一回、ボーナス月や拡張手当が二万一千円ないし四万三千円つく月は二、三回通っている。足の踏み場の少ない部屋の真ん中の擦り切れた畳の上で胡坐を掻いている先輩は、しかめた顔に両手の人差し指をやった。
「低い鼻がこんなに広がってて、でっかい穴が上を向いててさー」
古臭い和式トイレと流し台のみがついた六畳一間に、二人で寝起きしている――集金や拡張の際に配る「拡材」にも場所を取られつつ。入居した晩から万年床と化している押入れ下段と、その前の一畳だけが、後輩の一郎の専有スペースだ。気心が知れて性格も合う、そちらの方でも先輩の春田の話に、一郎は相槌を打ちながら耳を傾ける。歌舞伎町に点在するビデオボックスで、その手の企画物のアダルトビデオを見たことならあるものの、先輩の体験談はいつ聞いても、「やらハタ」には刺激が強すぎる。やらずにハタチを童貞のままで迎えた八月以降、春田に何度となく麗人に誘われているのだが、佐藤の若奥さんを「裏切る」ことはできないでいた。
「体の方は、まあまあだったから、不可の評価は勘弁してやろう、うん。じゃ、おやすみ」
昼間に入浴を終えている先輩は、窓際の万年床に寝転がり、毛布と掛布団を被った。一郎は、洗面用具を持ち、急いで玄関に向かう。自転車でも七分かかる最寄りの銭湯の営業終了時間が迫っていた。
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