バブル

斗有かずお

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 Ⅲ

昭和63年12月① 朝刊配達

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 暁闇の中、と言うよりも、十二月になったばかりの今の時節はまだ夜更けに、一郎は前籠と荷台に新聞を満載した業務用自転車に跨る。寮の近くを流れる石神井川に架かった橋をわたると、ペダルを強く踏み、勢いをつけながら井草通りの裏道の急な上り坂に挑む。慣れたとは言え、油断は大敵だ。脚力も腕力も不足し、まだ要領も掴めていなかった四月に、何度もこの一方通行の坂道の途中で自転車を倒し、新聞をぶちまけた記憶は、なおも苦い。
 裏道を一気に駆け上がってほどなく、中堅不動産会社の支店の大きな銀ポストに、最初の一部を投函する。一区との境に沿って上石神井三丁目の一角を配り、井草通りへ。コンビニ経営の山田の奥さんに、十一月分の集金の際にクリスマスケーキの予約を無理やり取らされた。一人では食べ切れないと、いったんは断ったが、東海にも、その前の担当者にも付き合いで買ってもらったと返されては、申込書に記入するしかなかった。弁当屋の高山の奥さんは、固定読者どころか、契約読者にすらなってくれない。毎月の集金時に頼んでも、契約カードに署名押印することは拒まれてしまう。翌月のみ延長の口約束しかもらえない。昼間に集金や拡張で区域をまわる日曜日や祝日に、必ず弁当を買いに行っているのだが、無駄な努力に終わりそうだ。高山さんは、他紙の新聞拡張員がたくさんの景品を持って勧誘に来るのを待っているらしい。
 順路は、下石神井五丁目の住宅街へと進んで行く。計三十部ほどを配り、汗ばみ始めると、一郎はジャージの上に着たジャンバーを脱ぎ、荷台に載せている新聞を括った黒いゴム紐に引っかける。前籠に積んだ朝刊の山は半分に減っていき、ボクサーのロードワークさながらに配達がすっかりリズムに乗り始めるころに、本紙と最初の一部であるスポーツ紙を重ねて折り、杉崎さん宅の古くて錆びた赤い壁ポストに投函する。ほっ、と一息つけ、同時に心が温まる。集金に行くたびに、杉崎さん夫婦は揃って玄関先まで出て来てくれ、「いつもご苦労様」などと労ってくれるからだ。ともに八十近い二人暮らし。朝夕届ける新聞の記事が、老夫婦に会話の種を提供している。新聞屋冥利に尽きると思う。

 山本荘は、玄関、トイレ、炊事場共同、風呂なしの古びた木造二階建ての安アパートである。一階の二号室に住む藤田さんは、還暦をすぎた青森訛りの日雇い労働者だ。坊主頭で顔が黒く、見た目が怖い上に、声も大きいが、歴代担当者の新聞奨学生に優しく接してくれる。どうやらスポーツ紙しか読まないらしいのに、本紙も三ヶ月ごとに契約を更新し、一郎たちに「縛り」の成績を与えながら取ってくれている。早朝に土木の仕事へ向かう際に両紙とも持ち出し、連れ立つ小倉さんに本紙を貸すらしい。そのおかげか、順路の終盤にある小倉さん宅に朝刊の配達が遅れても、苦情を受けたことはなかった。
「次の休みの日に、うちに飲みに来い」と藤田さんは集金に行くたびに誘ってくれる。東海と、その前の担当者は、四畳半の部屋で酒と肴をご馳走になったという。一郎も、誘いを受けようと思いはするものの、新聞屋の仕事と大学の勉強をぎりぎりの線で何とか両立させているので、先延ばしにせざるをえない。ほんの数時間が惜しかった。意地でも大学の単位は一つも落とさないと、固く誓っている。人は好いが山賊の長のような風貌の藤田さんと、差しで飲む決意もできないでいた。大学の後期試験の終わるころには、腹を据えたいと思っている。

 八十部ほどを配り、中元酒店の前で荷台に載せた朝刊を前籠に積み替えるころに、塚本の旦那さんと会うことがある。身長は百五十センチ強と、小柄。ハンチング帽がトレードマークの四十前らしき塚本さんは、決まって「スポーツ新聞ある?」。一郎は、東海にならい、本紙も、グリーン見出しのスポーツ紙も、予備を二部ずつ自転車に載せていた。スポーツ紙は一部売りで百十円だが、塚本さんは必ず五百円玉で払い、お釣りはいらないと言ってくれる。お返しに、一郎は月に三、四回の割合で、順路の中盤にある塚本さん宅の壁ポストに、本紙と一緒にサービスのスポーツ紙を投函していた。
 順路の最後尾の渡部の旦那さんも、集金の際に必ず千円札三枚で払い、二百円のお釣りを決して受けとろうとしない。朝夕に新聞を配達してくれる学生への心ばかりのお礼だと、「そのお釣りで、缶コーヒーでも買って下さい」と言ってくれる。雨の日などはとくに、朝夕刊とも渡部さん宅に配達が遅れがちになってしまう。苦情をいっさい口にしないでもらえるのは、よりありがたい。尾上さん宅では、インターホン越しに奥さんの声が聞こえて来ても、必ず白髪交じりで七三分けの六十代らしき旦那さんが出て来て羊羹や饅頭をくれ、集金に応じてくれる。「これを食って甘くなかったら、過労の証拠だぞ。無理せずに休めよ」などと、いつも体調を心配してもらえるのは、より嬉しい。固定読者の優しさや気遣いは、日々の新聞屋の仕事で実感しっぱなしの世知辛さを中和してくれる。

 コーポ梶山は、朝刊配達の第一中継地点だ。一時間以上かけて自転車に載せた百六十部強を配ると、ほぼ汗を出し切る。鍛錬の域を超える分岐点では、温まり切った体を冷やす事態が起こりえた。この先に配る八十部の梱包の未着だ。中継当番の到着を待つ間、湿ったジャージや濡れた下着に体を冷やされてしまう。再びジャンバーを着ても、未明はとくに冬の季節が進むこのごろは五分、十分と経つうちに凍えるようにもなった。マラソンと同じで、折り返し地点で立ち止まってリズムを失えば、もとのペースを取り戻すのは至難の業だ。ワンボックスカーで全十四区域の各二中継地点、計二十八ヶ所に朝刊の梱包を配ってまわる東海や山崎主任は責められない。彼らが寝坊して遅れるわけではないからだ。原因は、春田をはじめとした二年目以上の新聞奨学生にあった。一郎がコーポ梶山に到着するころに、まだ就寝中の強者もいる。
 第一中継地点を後にすると、六軒つづけて業務用自転車を漕いだまま、道路沿いの壁ポストに新聞を「投げ入れ」できるのが嬉しい。自転車をわざわざ降りることも、停めることすら必要なくて楽だし、何とも良い気分になる。その最後の一軒である斎賀さんは、他紙との三ヶ月ごとの「交替読者」なので、一年のうち半分は家庭版を手にできない。その冊子を楽しみにしている奥さんに、未配分のバックナンバーを販売店の納戸から探し出し、あるだけ全部わたしたときには、たいそう喜んでもらえた。

 第二中継地点である三幸荘は、集金における鬼門だ。しょっちゅう居留守を使う二〇一号室の一人暮らしの老婆や、持ち合わせがないと先延ばす一〇三号室のW大生は、まだいい。一〇二号室の石川の旦那さんは、同じく日雇い土木労働者の藤田さんや小倉さんが「陽」なのに対し、「陰」だ。湿り気もたっぷり含んでいる。五十代らしき加齢と飲酒が原因の臭気だけでも閉口してしまう。奥さんはリウマチ持ち。玄関ドアの脇には異なる高校のシールの貼られた自転車が二台停められている。親子四人で、日当たりの悪い縦長の二Kの安アパートに住んでいるようだ。拡材の散らかった一郎たちの寮よりも、蛸部屋に近いかもしれない。
 そんな生活に甘んじているからといって、あることないこと当たってくれるな――。石川の旦那さんが新聞屋以外は見下せないのを理解できても、やはり悲しい。悔しく、屈辱的でもある。好景気に沸く東京では、仕事にあぶれることのない日雇い労働者よりも、新聞屋は社会的に低く位置づけられているのが実情だ。一郎は、改めて痛感するたびに、目を瞑って佐藤の若奥さんに頼る。瞼の裏に焼きついた彼女の明るい笑顔に。凍えかけた胸に熱を帯びつつ、気を取り直して仕事を再開する。
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