バブル

斗有かずお

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 Ⅳ

昭和63年12月② 日曜日の夜

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「面倒くせえんだよな」と江川は未明に自らが配達したスポーツ紙を開きながら、愚痴をこぼし始めた。一郎と二人で、担当する九区内の銭湯に夕暮れ時から入った後に、向かいのラーメン店のテーブル席に腰を下ろして集金バッグをシートの脇に置くと、いつも広島訛りが交ざる。普段は無口な江川だが、この「ラーメン田村」では多弁になりえた。夕刊配達と、その後に気忙しく済ませる賄い飯がない日曜日や祝日の晩は、身も心も休まるからだろう。
 確かに面倒臭いと、一郎も思った。江川は夕刊配達の途中で、とある読者のために、よその夕刊スポーツ紙を買い求めねばならない。本紙夕刊と一緒にワンルームマンションのドアポストに投函すると、新聞拡張員が勝手に約束し、三ヶ月の購読契約を取って来たからだ。夕刊スポーツ紙代は、その読者から月ごとに全額を集金時に払ってもらえるものの、江川には一利もない。コンビニや駅の売店にわざわざ寄る回数やその手間隙を考えれば、百害しかなかった。

 悪く言えばネクラな江川は、母子家庭で育った。パートタイマーの母親と、今春に社会人となった姉が、広島市内の実家に住んでいる。私立のM大商学部から合格通知を受けたその日に、二人に対して学費や生活費のいっさいの援助は無用と宣言したそうだ。
「姉ちゃんみたいに、オレも地元の公立大に行くべきだったのかもしれない。普通のバイトをしながら」広島訛りで、江川はつづける。「宅浪中に、奨学金をあれこれ調べて、新聞奨学生制度を利用することにしたんだ。オレが小学三年生のときに亡くなった親父も、バイトをしながら親兄弟からの援助はまったくなしでM大を出たって、叔母さんから聞いてさ。男なら大学に受ってから先は己の力のみに頼って生きてみろって、背中を押されたような気がしたんだ。体が強くないお袋も、かけ持ちしてたパートの片一方を辞められたし」
 新聞奨学生の道を選んだ若者は、都内だけでも約三千人いるらしい。多くが、経済的に弱い家庭の出だ。一郎は、事情の異なる江川に対し、ただ頷くことしかできないでいる。両親は裕福でないが、S大に通うための学費と生活費を工面すると言ってくれた。今も、言いつづけている。一刻も早く無茶な生活から抜け出して欲しいと、切実な願いを込めて。
 一人っ子の一郎は、熊本市近郊のベッドタウンで生まれ育った。地元の進学高校と大学予備校を経て旧帝大の受験に挑んだものの、いま一つ勉強に身が入らなかったこともあり、二年つづけて失敗した。滑り止めの北陸にある国立大には受かったのに、両親の反対を押し切って私立のS大に進学したのは、同時に東京で新聞奨学生となって自立するためだった。過保護な両親から溺愛されているのは痛いくらいに分かっていたが、情の深い分だけ強い束縛とすぎた干渉から一刻も早く逃れたかった。汗まみれ泥まみれに、新聞のインクまみれになってでも独り立ちしたく、この道を選んだ。明確な目標を見出せないまま、漠然と二年間の受験生生活を送ってしまった自分への、制裁の意味合いも強かった。
 東京へ来て分かったことだが、好景気で学生アルバイトはどの種の仕事でも引っ張りだこだ。石神井販売店も大学生等を念頭に置いた配達アルバイトを常時募集しているにもかかわらす、朝夕刊ともに応募は皆無に等しい。十二区に新規採用の専業員が担当者として入ったものの、ほどなく辞めている。二人つづけてだ。本来なら担当区域を持たない管理職の新聞奨学生が、臨時で集金と拡張のみならず、朝夕刊の配達もせざるをえないでいた。「しんどい新聞奨学生なんか辞めて、家庭教師とか、楽なバイトで稼げばいいのに」などと一郎も江川も、大学の同級生や担当する地方出身の学生の読者から何度となく言われている。

 ――新聞奨学生。一郎は、思う。語弊があるかもしれないと。単に新聞屋としての報酬で、納入期限までに販売店に立替え払いしてもらう学費と、毎月の生活費を賄っているのが実情だからだ。それなのに、年度の途中で辞めれば、奨学金という名の前借金を即座に全額返済しなければならなくなる。例えば今月、十二月末日で辞めても、四月以降の九ヶ月分の給料から事実上すでに天引きされて返した奨学金の四分の三の額は、まったく考慮されない。
 東京での三百部を超える朝夕刊の配達は、体力のある若い男性でも簡単にはこなせない。全身に蓄積した重たい疲労で、新聞販売店が慢性的な人手不足に悩む理由を実感せざるをえなかった。筋骨隆々となった足腰には、とくに堪える。朝夕刊とも配達の終盤に、膝が笑う。疲労のピークにあった大学の前期試験の期間中に、他の男子学生を真似し、ポロシャツの襟を立ててキャンパスを闊歩しようにも、足はついて来ず、つんのめりそうになったこともある。
 集金や拡張も、地方では考えられないほどに新聞販売競争の激しい東京独特の難しさがあった。新規読者への、場合によっては交替読者への過剰な景品サービスも、契約欲しさに交わす拡張員のでたらめな約束も、愚痴をこぼしつつ、不本意ながらも不条理な現実として受け止めなければ、新聞奨学生はつづけていけない。大雨にも大風にも、夏の暑さにも冬の寒さにも負けてはいられなかった。吠えまくる番犬にも、新聞配達を小馬鹿にしてからかう生意気な小学生にも、集金の際に意地悪くいびる三食昼寝つきの専業主婦のオバタリアンにも、拡張に行って門前払いするだけでなく罵声を浴びせるオヤジにも。
 新聞屋の仕事には、法定労働時間以上を費やされる。朝夕刊の配達の合間に、大学にも行かねばならない。夜に取れる睡眠は、平均で四時間ほど。石神井販売店に所属する新聞奨学生の多くは、仕事だけで気力も体力も使い果たしてしまい、学業をおろそかにしがちだ。つい、勉学に充てるべき昼の時間を寮で寝てすごしてしまう。たまにしか、あるいはまったく学校に行こうとしない者もいる。他の販売店においても少なからず見られる現象らしい。新聞本社が煽り世間からおおいに称賛される勤労学生の実態とも言えた。

 ラーメン田村の経営者夫婦は、十一区に戸建ての自宅を構える固定読者でもあった。一郎や江川とは客同士の関係で、より縁が深い。ともに完食したラーメンとチャーハンと餃子のセット代金を支払い、「ごちそうさまでした」と一郎と江川は声を揃えた。「毎度ありがとうございました」と揃って返した田村さん夫婦に頭を下げて店を出、銭湯の駐輪場に停めている業務用自転車に跨った。明日は、五日。十一月分の集金率九十五パーセントの〆日だ。ひったくりに備えて集金バッグを襷にかけた江川は、洗面用具を前籠に載せたまま、これから九区内をまわらねばならない。
 日曜日や祝日は、朝刊配達後に食事と休憩を挟み、午前十時に集合がかかる。販売店の作業場で行われるミーティングの後に、区域担当者は集金と拡張に出なければならない。精算等と翌朝の折込みの準備を済ませ、ほとんどが午後三時までに販売店を後にする。石神井公園駅に近い九区を持つ江川は、集金を残してしまうことが少なくなかった。新聞記者のように夜討ち朝駆けしても、捕まらない読者はいる。サラリーマン等が自宅で安らいでいる確率の一番高い日曜日や祝日の晩――翌朝も早い新聞屋にとっては、より貴重な休息時間――にも仕事をせねばならない。
 一郎の担当する十一区にも、捕まりにくい読者はいるが、せいぜい三、四人といったところだ。平日の午後十時ごろにいったん集金等の業務を終えてしまい、その後に区域の先にある銭湯への行き帰りに訪問すると、概ね捕まってくれる。苦い思い出は、たった一度だけしかない。二ヶ月分の新聞代を溜めたチョンガーの読者からわたされたのは一万円札で、その日に限って集金バックにも財布にも千円札が不足しており、釣銭を用意できずに領収書を切れなかった。捕まりにくい読者ほど、両替を兼ねてか一万円札や五千円札で払いがちで、江川にも同様の経験なら何度もある。一郎は、その深夜、星の少ない東京の夜空を見上げつつ、泣く泣く帰路に着いた。鼓膜に焼きついている佐藤の若奥さんの優しい声に慰めてもらいながら。

 ユニフォームの青一色のジャンバーを揃って着た一郎と江川は、別々の方角へ自転車のハンドルを切った。――石神井公園駅前のゲーセンに行こうか、しばらく声を聞かせてない両親に電話をかけようか。一郎は、自問し、どちらも止めた。自覚しないように心がけているものの、今の生活は、やはり辛すぎる。石神井池に臨む高級住宅街の坂道を業務用自転車で下りながら、目を細めて鼻を啜った。気が緩んで流れ出した大粒の涙は、ゲームセンターにいても、電話ボックスにいても、なかなか止まらなくて困る。
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