バブル

斗有かずお

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 Ⅶ 

昭和63年12月⑤ 夜討ちの集金と銭湯

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 年の瀬が迫っている。一郎は、夕刊配達と晩飯を大急ぎで済ませた後に領収書を三十枚切り、いったん集金を中断した。販売店に戻って精算し、翌朝の折込みの準備を整え、いつもより一時間ほど早い午後九時に寮の自室に戻った。腰高の冷蔵庫の中に、手にしていたクリスマスケーキの箱を入れる。これから、十一区の先にある銭湯へ。その行き帰りに、帰宅時間の遅いアパート、マンション住まいの読者に狙いを定め、再び集金にまわるつもりだ。クリスマスに近づくにつれて折込みの枚数が増え、厚く重くなった朝刊の配達の負担は増している。集金にも追われていた。例月は二十日開始で翌月十五日に九十八パーセントの本〆があるのに、十二月に限って十五日開始で大晦日に九十五パーセントの仮〆がなされるからだ。
「今日は連勝! 未だかつてない大当たり連発!」
 受験シーズンを控えた同室の先輩は、細い目を喜々と垂らしながら叫ぶように言った。このところ昼間は寮よりも、予備校のある高田馬場よりも、歌舞伎町にいることが多いようだ。部屋の真ん中の畳の上で胡坐を掻いている春田は、口元にべっとりと生クリームをつけていた。ケーキのホール食いで、数日早いクリスマスを祝っているらしい。一郎と同様に、担当するコンビニ経営の読者から買わされたのだ。十二月も一日きりの春田の休暇は、充実していたらしい。例によって、世話になったお姉さんの批評が始まる。すぐに「優」と分かる上機嫌だった。わざわざ開店前の行列に並んだパチンコ店で大当たりの三連チャンを二回出した後に、馴染みの個室高級サウナでも大当たりを引いたのだという。
「小柄で、細くて、顔がすんげえ可愛かった。色が白くて、肌が綺麗でさ。ちょっと年増で、地味めだったから、ファンデーションが厚めなのは仕方ないよなー、うん」
 依然やらハタの一郎は、集金バッグを襷にかけたままで擦り切れた畳の上に正座し、興奮しながら話す春田に相槌を打ちつづける。
「まさに、至福の時だった。いやあー、本当に最高だった。次から指名しよう、カスミさん」
 ――カスミさん。好ましい響きだと、一郎は思った。漢字を当てるとすれば、霞、香純……。
「きっと、子持ちだな。経産婦っぽかった。鎖骨の辺りに、北斗七星みたいな黒子があってさ、ミステリアスでもあったよな。猪野もさ、筆下ろしするときにどうだ? 性格も明るいから、やらハタ男には絶対お薦めだぜ。でも、アルバイトらしくて、出勤は早番のみの週一日だって言うの。車関係の仕事も忙しいらしくて。本業なんて、辞めちゃえばいいのに。麗人で専業になれば、何倍も稼げるって。店のナンバーワンにだってなれると思うぜ」
(それって、沈めってことか? いや、もうすでに、沈んでるか……)
 一郎は、春田の自慢話のネタにされている兼業のお姉さんが気の毒に思えた。話を打ち切るべく立ち上がり、洗面用具を持って玄関に向かう。
「夜討ちの集金と、銭湯に行って来ます」
「いってらっしゃい! 猪野も、連チャンで集金取れると良いな」
 本人いわく万事好調な春田は、来年四月に大学予備校四年生となるのだろうか。あるいは、専門学校生。学生を辞めて専業員に横滑りするかもしれない。他人の心配をしている場合ではなかった。一郎も、何かの拍子に張っている気が抜け、ずるずると堕ちていけば、大学の単位を落として留年の憂き目に会いかねない。後期試験に備え、冬休み中に無理してでも時間を作り、こつこつと勉強しておかねばならなかった。

 入浴前の集金は、不在が多く空振りに終わり、領収書を一枚も切れなかった。ファールならあった。アパートの玄関ドア上方に設置された電気メーターの円盤はぐるぐるまわっていたのに、応答なしが一軒。持ち合わせなしが一軒。一郎は、気を取り直す。風呂上がりのもう一まわりがあると。銭湯の番台に置かれた小型テレビは、最終回でクライマックスに達しているらしいトレンディドラマなるものを映し出していた。主人公の若手俳優が顔も背格好も一郎に似ていると、先月の集金時に担当する女子大生の読者から言われたことを思い出す。画面に納まった同年代の女優のなびかせるワンレングスとかいう長い髪に目を奪われつつ、二百八十円ちょうどを無人の番台に置いて脱衣場に入った。
 素っ裸になると、必ず体重計にのり、ベストの五十四キロより一、二キロ重いかどうかを確認する。大学の前期試験の終わった後に四十度近い熱を出して以来、いつ体調が悪くなっても配達だけはできるように、エネルギーに変わりやすい脂肪を余分に蓄えるようにしていた。つづいて、間仕切りに張られた大きな鏡の前で仁王立ちになる。パッドを当てたみたいに、肩幅が広くなった。逆に、ウエストは細くなり、トレンディドラマに出ている女優たちの着た服のような上体に、自らうっとりする。反転して振り返り、きゅっと上がった尻、尾根のように盛り上がった腿の裏側、子持ちのシシャモのようなふくらはぎを確認することも忘れない。
 どんなに高価なブランド物の服よりも、新聞屋の無駄の少ない筋肉の方が自分には似合っているはずだ。佐藤の若奥さんに見せつけたい。強固になった体で、彼女を抱きしめたい――。慌てて妄想を振り払い、一郎は背中を丸めて新聞社名入りの白タオルで前を隠し、洗面用具を持ち、浴場に入った。髭を剃っている最中に、夏に一度だけ目にした佐藤の若奥さんの白い腿を思い出し、危うく伸びた鼻の下を切りそうになった。
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