バブル

斗有かずお

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 Ⅵ

昭和63年12月④ 公休日

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 一郎は、毎週木曜日に公休を取っているので、仕事を終えた水曜日の夜更けに、最もリラックスした時間をすごせる。寮の自室に立ち寄った後に、上石神井駅前へ夜遊びに出かけることにした。これから大晦日にかけ、新聞屋も忙しくなるらしい。十二月中旬の今のうちに、憂さを晴らしておく必要があった。深夜営業を行っている「圓ラーメン」で、千二百円の瓶ビールとラーメンとジャンボ餃子のセットを味わって飲み食いした後は、入場料八百円の安サウナへ。――この上ない至福の時が、たったの二千円で買えるなんて。自虐的に笑いながら、溜まった老廃物を汗に含ませて流し出した後は、午前二時まで営業している本屋へ。本に囲まれた静かな空間にいると、多忙な毎日でささくれかけた心が和む。
 木曜日の朝ぐらいは、ゆっくりと寝ていたいところだが、七時すぎに起きざるをえない。販売店で朝飯を七時半までに食べ終えねばならなかった。賄い担当の女子大生も、新聞奨学生制度を利用し、一郎たちが朝夕刊の配達等をしている最中に、二十二人分の食事の準備や後片づけに励んでいた。彼女も新聞屋になるつもりで上京したそうだが、小柄な女性に東京の配達業務は厳しすぎると、多数の学生を抱えながら石神井で販売店を長く営んでいる清川から止められたらしい。
 朝飯を食べ終えると、寮の自室に戻って英語の予習をした後に、業務用自転車に跨りS大へ。木曜日は一限から四限まで、すべて講義やゼミを受けねばならない。――優を取るより、一つでも多く可を拾え。四月の日曜日のミーティングで、販売店主の清川が大学に籍を置く新聞奨学生生たちにかけた言葉だ。一郎の前期試験の成績は、良と可のみ。期間中、晩の業務を終えた後など、暇さえあれば販売店二階の家庭版等を保管する納戸に籠って必死に勉強した成果だ。朝刊輸送トラックの到着前に、作業場に敷いた座布団の上に横たわり一時間ほどの仮眠しか取らないような日々を送ったので、当然のごとく無理がたたり、すべての試験を終えた翌日に四十度近い熱を出してしまい、ふらふらの状態で配達をする羽目になった。
 石神井販売店は、「完全週休一日制」である。病気等で配達を休めば、その週もしくは翌週に公休を取れなくなってしまう。ぎりぎりでまわしている販売店全体の「代配」のローテーションも狂うので、発熱程度では休みたいと言い出しづらくもある。急遽、十一区の代配に東海をまわせば、公休日でぐっすり寝ている江川が起されて九区を配達せねばならなかった。
 江川は、前期試験で一つ不可を取ってしまい、酷く落ち込んでいた。一方で、すべて不可をもらって涼しい顔の強者もいる。大学五年生の二人を含む先輩たちは、単位を落とすことに慣れているらしい。真面目に休まず通学している一郎と江川が、むしろ珍しい存在と言えた。週に四十八時間を超える労働を強いられれば、試験勉強どころでない。新聞屋の仕事で疲れ切った体は、ただ学校に行くことすら嫌う。

 S大で空き時間のすべてを仮眠に充てても、退屈であろうがなかろうが講義中にずっと意識を保ちつづけるのは困難だ。配達等で業務用自転車を漕がない代わりに、やはり今日も一限の英語の講義中、ほぼ九十分にわたって船を漕ぎつづけた。終了のチャイムが鳴って覚醒し、せっかく予習してきたのにと、落ち込んだのもいつものパターンどおりだった。新聞屋を休める木曜日は、いつにもまして教室内で気が緩む。緊張感を取り戻すのも不可能に近い。
 机に突っ伏さなかった自分を褒め、気を取り直して二限の名物教授の基礎法学ゼミは何とか寝ずに頑張った。三限の東洋史の臨時休講につづき、四限の体育も溜まった疲労を考慮して自主休講に。体育は語学や基礎法学科目と同様に必修だが、単位取得のために必要な出席日数をすでにクリアしている。サッカーの実技のような激しい運動は、できるだけ避けたい。日々の新聞配達だけで充分に堪えている足腰が、摩耗するように疲弊してしまい、業務用自転車のタイヤのようにパンクしかねなかった。
 一郎は、学生食堂に向かい一人で素早く昼飯を済ませた後に、迷った。昨夜、上石神井駅前で憂さ晴らしをしたつもりだったが、精神的になおも疲れている。歌舞伎町へ行き、ゲームセンター内にあるコンテナのようなカラオケボックスなるものの中で、ストレス解消のために歌いまくっておくべきかもしれない。新聞屋になって以来、肺活量は格段に多くなり、声量も増えたのを実感している。いつか、佐藤の若奥さんにラブソングを聴かせる機会があるかもしれない――。
 妄想を抑え込み、後期試験に備えて勉強する現実的な選択肢を取り、図書館に入ったまでは良かった。浅い冬の心地好い日差しを浴びながら、いつの間にか机に突っ伏し、そのまま閉館時間を迎えてアナウンスに起こされた。たいそう凹んだものの、疲れ切っていた身心を休めることができただけでも良しとせねばならない。来週や再来週の木曜日は、配達を休めても、例月にも増して〆の厳しい集金を休めないに違いなかった。

「新聞屋さん」と呼ばれることに慣れたのは、夏だった。電話口で両親に祝福され、寮で同室の春田から「やらハタ男」と揶揄われた、二十歳の誕生日を迎えたころだ。集金時に訛ることなく標準語を話せるようになり、大学の勉強よりも半人前になった新聞屋の仕事に面白味を感じ始めたころでもある。春先には、まだ違和感を覚えて戸惑いもした。ほとんどの読者から、とくに佐藤の若奥さんから「新聞屋さん」と呼ばれるうちに、自分の中で徐々にしっくりくるようになった。――彼女には、猪野君、できれば一郎君と呼んでもらいたいのだが。
 まゆみ荘に七月分の集金に行ったときのことである。Tシャツにホットパンツ姿の佐藤の若奥さんは、二〇三号室の玄関の土間に立った一郎の頬を指差した。
「新聞屋さん、大変。ここ、蚊に刺されてるよ」
 一瞬だけ触れそうで触れない距離まで近づいた指に、一郎はどきりとした。頬の刺された箇所の小さな膨らみを自分の指で確認しながら、同じ高さにある目と目が合い、鼓動はさらに高鳴った。太くない眉毛。親しみを感じる、少し日焼けしたナチュラルな素肌。ボブの黒髪には、ソバージュとかいうパーマなどかかっていない。流行遅れであったとしても、逆に好ましく思えた。そのときに、恋心が確定したのかもしれない。佐藤の若奥さんは、台所の板の間から居室にいったん引っ込み、白地に赤の細長い小箱を片手に戻って来た。
「これ、あげる。新聞屋さんには、いつもお世話になってるから。雨の日も、暑い日も、ご苦労様。配達も、集金も、最近はとくに大変だよね」
 胸が熱くなった。他の読者から言われたとしても嬉しい台詞だ。彼女の優しい声を介すれば、なおさらだった。虫刺されの薬を受けとるときに、指と指が僅かに触れ合い、またどきりとした。一郎は、ぽっ、赤面している自分を恥じた。もし使いかけの物だったら、なお嬉しいと、ジーパンの尻ポケットに小箱を納めながら思った。ポロシャツの内で高鳴りつづけている鼓動が彼女に聞こえはしまいかと、瞬いた。見てはいけないと思っていたものの、彼女の細くて意外に白い腿に目を奪われ、さらにどきりとした。
「あ、ありがとうございます。大切に使わせて頂きますので」
「ふふっ、大袈裟ね。うっかりダブらせて買っちゃった物だから、そんなに気にしないで」
 一郎は、彼女と再び目を合わせたかったが、できはしなかった。毎月二千八百円ちょうどの紙幣と硬貨で用意される新聞代を受け取り、領収書をわたし、古新聞用の紙パックと家庭版の冊子をわたし、サービスのタオルをわたし、そのたびに触れ合う指に神経を集中させた。
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