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3・同じ穴の狢_2
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訳ありの人間が多く集まる日雇いの仕事は、仕事さえしていれば事情を深く聞かれることもないので楽だった。何か訳があるのだろう、とは思っているだろうが、その訳を探ろうとはしない。相手もまた自分の事情は知られたくないからだ。
仕事が終わった頃には二十二時を回っていた。遅くなるときには勝手に食事を摂って寝ていてもいいと天花には言ってあるが、天花は時々特に理由もなく食事を抜いてしまったりすることもあるので少し心配だった。特に逃亡生活が始まってからはそれが顕著だ。今のところ体調を崩したりはしていないけれど、子供の頃は入退院を繰り返していたし、今もそこまで体が強い方とは言えない。早く新しい生活を送れるようにしたい。けれどその突破口はまだ見つけられずにいた。
何にせよ早く天花のところに帰りたい。もしかしたらこの心配は杞憂に過ぎなくて、一人で食事をして、もう眠っているかもしれないけれど。誰もいない道を足早に進んでいると、コンビニを過ぎたところでくたびれたコートを着た若い男に話しかけられた。
「すいません、私、こういう者なのですが――」
男が出したのはテレビでも見たことがある警察手帳だった。顔写真も男のものと一致している。名前は昭島優。逃げるべきか。いや、単なる職務質問だとしたら逃げたらかえって怪しまれる。少なくとも天花の存在を知られるわけには行かない。自分一人なら調べられてもそこまで痛手はないはずだ。そう判断して、恭一は昭島にまっすぐ目を向けた。動揺を悟られてはならない。恭一は酒に酔ったような笑みを浮かべる。
「もしかして職質ってやつですか? お疲れ様でーす」
酔っ払っている振りをして適当にやり過ごそう。どこかで見た羽目をはずしがちな男たちの態度を真似てみる。そうしながらも恭一は昭島の様子を鋭く観察していた。
「そうですね。身分証明書見せてもらえますか?」
警察官には横柄な男もいるが、昭島という男はあくまで礼儀正しかった。おそらくは真面目な男なのだろう。恭一はポケットから財布を取り出しながら言う。
「俺免許持ってないんスよ。保険証ならあるんだけど」
協力的な態度を見せながらも、何もかもが偽りでできた身分証明書を出す。それを確認している昭島に、恭一は尋ねた。
「そういやこの前見たドラマでは警察は大体二人一組で行動するって言ってましたけど、一人なんですね?」
昭島の表情が一瞬揺らぐ。本当に警察官なのか、それとも違うのかはわからないが、少なくとも職務中ではない。確信を得た恭一は笑みを浮かべた。昭島の胸倉を掴んで詰問する。
「――職質装って、何をするつもりだったんだ?」
目的は読めない。けれどこの男が敵であることは確実だった。
「君に対してはただ話を聞きたいだけですよ、本宮恭一くん」
昭島は恭一が恭一であるとわかっていて声をかけてきたのだ。話を聞きたいだけ――確実にこの男の目的は天花だ。けれど天花だけは何があっても渡すわけにはいかない。
「本宮天花の居場所さえ教えてくれれば、君のことは悪いようにはしない」
「誰が教えるか」
相手が職務中でなければ公務執行妨害も取られない。恭一は吐き捨てるように言った。
「彼女のことを本当に思っているなら、隠すのはむしろ逆効果だと思います。――彼女には父親殺し以上の嫌疑がかかっている」
声を出すのはどうにか抑えられた。だが恭一の動揺は悟られてしまっただろう。父親を殺して家に火をつけたのは間違いなく天花だ。それは揺るがない事実だ。けれど「それ以上の嫌疑」とはどういうことなのか。
「以前から、彼女の周りでは不審な事件が起きている。まあ死人までは出てないんですが。何より君たちの母親の死には不審な点が多い」
「……十三年前だぞ。五歳の子供に何ができる?」
「日本で記録に残っている最年少の殺人者は、たった二歳の少女ですよ。可能性がないとは言い切れない」
けれど流石にそんなに幼い頃の事件で責任能力が問えるはずもない。問題はその前の言葉だ。
「彼女の同級生に、原因不明の不調で入院した子がいるんですがね。検査の結果、誰かに少しずつ毒を盛られたことによる中毒症状だったことがわかったんですよ」
「それと天花と何の関係があるんだ?」
「焼け残った彼女の部屋からそれと同じ薬品が見つかったんです。そして君たちの父親は彼女のことを不審に思って民間の調査会社を使って彼女を調べていたことがわかっています」
恭一にここまで話すということは、ある程度確信があるのだろう。だが真実は天花自身の言葉で聞かなければわからない。
「彼女の居場所を知っているなら、早く教えた方が身のためでもありますよ」
「それはどういう意味だ?」
「ここまで聞いたからわかってるでしょう? 次に殺されるのは君かもしれない」
首に触れた手の冷たさと、その力の強さを思い出す。次に殺されるのは自分かもしれない。それは間違ってはいない予測だ。別に死を望んでいるわけではない。けれどこの男に天花の居場所を教えることだけはしたくないと恭一は思った。
「信じたくない気持ちもわかりますが」
「天花の居場所は教えない。――誰にも」
真実も、自分の生死も、天花自身の感情すらそこには関係がなかった。ただ、天花を誰にも奪われたくないという思いだけだった。天花がどこにいるのかを知られないためには、この昭島という男を排除しなければならない。恭一は昭島が隙を見せた瞬間に、その腹部を蹴り上げた。昭島が吹っ飛び地面に膝を突く。けれどそれだけで諦めるような相手でないことは十分理解している。
「荒っぽいですね……でもこんなことで脅されはしませんよ」
「それはわかってる」
どうするべきなのかは、頭では理解できている。だがそれを実行に移すことにまだ躊躇いがあった。そして実行できるかもわからない。何せ、恭一にとっては正真正銘初めてのことだった。周囲を見回して、大きく尖った岩を手に取る。それで昭島の頭を殴り、地面に倒れた彼の首に手をかける。当然のように抵抗され、手に引っ掻き傷をつけられた。けれど構わずに更に力を込める。
「あの子を庇ってるなら、いずれ後悔することになるぞ」
息も絶え絶えになりながら昭島が言う。恭一はその命の終わりだけを望みながら答えた。
「……庇ってるなんて、そんな綺麗な話じゃないんだ」
本当に天花のことを思うのなら、おそらくあのとき逃げるべきではなかった。自分のしていることが間違っていることは最初から知っていた。それでも恭一が天花を連れて逃げたのは、天花を奪われたくないと思ったからだ。
抵抗の力がなくなる。恭一はそれでも不安に駆られて、暫く力を抜けずにいた。事切れた昭島を確認して、ようやく息を吐き出す。このまま死体をここに放置するわけにもいかない。幸いにもここは廃墟ばかりが立ち並ぶ山だ。ここに来た初日に色々と物色していたことを思い出し、恭一は廃墟の一つに昭島の死体を運び込んだ。幸いにもその廃墟に鉄製のスコップが残されていたので、それを使って死体を埋める。土をかける前に何気なく昭島の持ち物を探った恭一は、指に触れた金属にある種の確信を得ながらそれを取り出す。それはこの日本では警察だけが持ち歩くことを許されているもの――拳銃だった。
「……危ないところだったな」
昭島がこれを使って抵抗したら、死んでいたのは恭一の方だっただろう。けれど使わなかった。おそらくは職務中にしか持ち歩けないものを無断で持ち出していたのだろう。いざというときにだけ使うつもりだったが、その瞬間が来る前に死んでしまった。
撃ち方を知っているわけではない。それでも恭一はそれを懐に仕舞い込んだ。今後使えるかもしれない。けれど、今後どうなるのかはこれまでよりも見えなくなった。昭島は排除した。しかし他にも追手はいるだろう。何よりも昭島に言われたことが引っかかっていた。天花には父親殺し以上の嫌疑がかかっている。それにどこまで真実が含まれていたかはわからないが、嘘にしては突拍子もなさすぎる。いずれにしても天花の口から聞くまでは何も信じることはできない。
でも、もしそれが真実だとしたら?
恭一は溜息を吐いた。それでも何も変わらない。天花はそんなことをしないと断言はできないが、もし仮に昭島の言うことが正しかったとしても、恭一は天花を手放したくはなかったのだ。
訳ありの人間が多く集まる日雇いの仕事は、仕事さえしていれば事情を深く聞かれることもないので楽だった。何か訳があるのだろう、とは思っているだろうが、その訳を探ろうとはしない。相手もまた自分の事情は知られたくないからだ。
仕事が終わった頃には二十二時を回っていた。遅くなるときには勝手に食事を摂って寝ていてもいいと天花には言ってあるが、天花は時々特に理由もなく食事を抜いてしまったりすることもあるので少し心配だった。特に逃亡生活が始まってからはそれが顕著だ。今のところ体調を崩したりはしていないけれど、子供の頃は入退院を繰り返していたし、今もそこまで体が強い方とは言えない。早く新しい生活を送れるようにしたい。けれどその突破口はまだ見つけられずにいた。
何にせよ早く天花のところに帰りたい。もしかしたらこの心配は杞憂に過ぎなくて、一人で食事をして、もう眠っているかもしれないけれど。誰もいない道を足早に進んでいると、コンビニを過ぎたところでくたびれたコートを着た若い男に話しかけられた。
「すいません、私、こういう者なのですが――」
男が出したのはテレビでも見たことがある警察手帳だった。顔写真も男のものと一致している。名前は昭島優。逃げるべきか。いや、単なる職務質問だとしたら逃げたらかえって怪しまれる。少なくとも天花の存在を知られるわけには行かない。自分一人なら調べられてもそこまで痛手はないはずだ。そう判断して、恭一は昭島にまっすぐ目を向けた。動揺を悟られてはならない。恭一は酒に酔ったような笑みを浮かべる。
「もしかして職質ってやつですか? お疲れ様でーす」
酔っ払っている振りをして適当にやり過ごそう。どこかで見た羽目をはずしがちな男たちの態度を真似てみる。そうしながらも恭一は昭島の様子を鋭く観察していた。
「そうですね。身分証明書見せてもらえますか?」
警察官には横柄な男もいるが、昭島という男はあくまで礼儀正しかった。おそらくは真面目な男なのだろう。恭一はポケットから財布を取り出しながら言う。
「俺免許持ってないんスよ。保険証ならあるんだけど」
協力的な態度を見せながらも、何もかもが偽りでできた身分証明書を出す。それを確認している昭島に、恭一は尋ねた。
「そういやこの前見たドラマでは警察は大体二人一組で行動するって言ってましたけど、一人なんですね?」
昭島の表情が一瞬揺らぐ。本当に警察官なのか、それとも違うのかはわからないが、少なくとも職務中ではない。確信を得た恭一は笑みを浮かべた。昭島の胸倉を掴んで詰問する。
「――職質装って、何をするつもりだったんだ?」
目的は読めない。けれどこの男が敵であることは確実だった。
「君に対してはただ話を聞きたいだけですよ、本宮恭一くん」
昭島は恭一が恭一であるとわかっていて声をかけてきたのだ。話を聞きたいだけ――確実にこの男の目的は天花だ。けれど天花だけは何があっても渡すわけにはいかない。
「本宮天花の居場所さえ教えてくれれば、君のことは悪いようにはしない」
「誰が教えるか」
相手が職務中でなければ公務執行妨害も取られない。恭一は吐き捨てるように言った。
「彼女のことを本当に思っているなら、隠すのはむしろ逆効果だと思います。――彼女には父親殺し以上の嫌疑がかかっている」
声を出すのはどうにか抑えられた。だが恭一の動揺は悟られてしまっただろう。父親を殺して家に火をつけたのは間違いなく天花だ。それは揺るがない事実だ。けれど「それ以上の嫌疑」とはどういうことなのか。
「以前から、彼女の周りでは不審な事件が起きている。まあ死人までは出てないんですが。何より君たちの母親の死には不審な点が多い」
「……十三年前だぞ。五歳の子供に何ができる?」
「日本で記録に残っている最年少の殺人者は、たった二歳の少女ですよ。可能性がないとは言い切れない」
けれど流石にそんなに幼い頃の事件で責任能力が問えるはずもない。問題はその前の言葉だ。
「彼女の同級生に、原因不明の不調で入院した子がいるんですがね。検査の結果、誰かに少しずつ毒を盛られたことによる中毒症状だったことがわかったんですよ」
「それと天花と何の関係があるんだ?」
「焼け残った彼女の部屋からそれと同じ薬品が見つかったんです。そして君たちの父親は彼女のことを不審に思って民間の調査会社を使って彼女を調べていたことがわかっています」
恭一にここまで話すということは、ある程度確信があるのだろう。だが真実は天花自身の言葉で聞かなければわからない。
「彼女の居場所を知っているなら、早く教えた方が身のためでもありますよ」
「それはどういう意味だ?」
「ここまで聞いたからわかってるでしょう? 次に殺されるのは君かもしれない」
首に触れた手の冷たさと、その力の強さを思い出す。次に殺されるのは自分かもしれない。それは間違ってはいない予測だ。別に死を望んでいるわけではない。けれどこの男に天花の居場所を教えることだけはしたくないと恭一は思った。
「信じたくない気持ちもわかりますが」
「天花の居場所は教えない。――誰にも」
真実も、自分の生死も、天花自身の感情すらそこには関係がなかった。ただ、天花を誰にも奪われたくないという思いだけだった。天花がどこにいるのかを知られないためには、この昭島という男を排除しなければならない。恭一は昭島が隙を見せた瞬間に、その腹部を蹴り上げた。昭島が吹っ飛び地面に膝を突く。けれどそれだけで諦めるような相手でないことは十分理解している。
「荒っぽいですね……でもこんなことで脅されはしませんよ」
「それはわかってる」
どうするべきなのかは、頭では理解できている。だがそれを実行に移すことにまだ躊躇いがあった。そして実行できるかもわからない。何せ、恭一にとっては正真正銘初めてのことだった。周囲を見回して、大きく尖った岩を手に取る。それで昭島の頭を殴り、地面に倒れた彼の首に手をかける。当然のように抵抗され、手に引っ掻き傷をつけられた。けれど構わずに更に力を込める。
「あの子を庇ってるなら、いずれ後悔することになるぞ」
息も絶え絶えになりながら昭島が言う。恭一はその命の終わりだけを望みながら答えた。
「……庇ってるなんて、そんな綺麗な話じゃないんだ」
本当に天花のことを思うのなら、おそらくあのとき逃げるべきではなかった。自分のしていることが間違っていることは最初から知っていた。それでも恭一が天花を連れて逃げたのは、天花を奪われたくないと思ったからだ。
抵抗の力がなくなる。恭一はそれでも不安に駆られて、暫く力を抜けずにいた。事切れた昭島を確認して、ようやく息を吐き出す。このまま死体をここに放置するわけにもいかない。幸いにもここは廃墟ばかりが立ち並ぶ山だ。ここに来た初日に色々と物色していたことを思い出し、恭一は廃墟の一つに昭島の死体を運び込んだ。幸いにもその廃墟に鉄製のスコップが残されていたので、それを使って死体を埋める。土をかける前に何気なく昭島の持ち物を探った恭一は、指に触れた金属にある種の確信を得ながらそれを取り出す。それはこの日本では警察だけが持ち歩くことを許されているもの――拳銃だった。
「……危ないところだったな」
昭島がこれを使って抵抗したら、死んでいたのは恭一の方だっただろう。けれど使わなかった。おそらくは職務中にしか持ち歩けないものを無断で持ち出していたのだろう。いざというときにだけ使うつもりだったが、その瞬間が来る前に死んでしまった。
撃ち方を知っているわけではない。それでも恭一はそれを懐に仕舞い込んだ。今後使えるかもしれない。けれど、今後どうなるのかはこれまでよりも見えなくなった。昭島は排除した。しかし他にも追手はいるだろう。何よりも昭島に言われたことが引っかかっていた。天花には父親殺し以上の嫌疑がかかっている。それにどこまで真実が含まれていたかはわからないが、嘘にしては突拍子もなさすぎる。いずれにしても天花の口から聞くまでは何も信じることはできない。
でも、もしそれが真実だとしたら?
恭一は溜息を吐いた。それでも何も変わらない。天花はそんなことをしないと断言はできないが、もし仮に昭島の言うことが正しかったとしても、恭一は天花を手放したくはなかったのだ。
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