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青の向こう側
2・守りたいもの2
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*
本宮緋彩宛に届いた脅迫メールに書かれていたその当日。司令塔である寧々の指示が全員に通るようにインカムをつけ、それぞれの配置につく。ご丁寧に時刻まで予告してきたので、公式の警備もかなり手厚いものだ。出る幕はないかもしれないと思いながらも、いつでも動き出せるように由真は気を張っていた。
その日の緋彩は生放送の歌番組に出るためにテレビ局の中にいた。緋彩は役者ではあるが、数年前まではミュージカルを中心に活動していて、歌手としても注目されているらしい。由真が求めてもいないのに星音が解説してくれた。朝にリハーサルをやって夜まで待機なのは大変そうだ。予告の時刻以外も安全のために楽屋から出ないことにしているらしい。
(私なら絶対脱走してるな……)
楽屋の中に長時間閉じ込められるなんて耐えられそうもない。昔から狭い場所にずっといるのは嫌いだったのだ。
予告されている時間は午後九時半。ちょうど本宮緋彩がステージで歌う時間だ。ステージの上までSPに囲ませるわけにもいかないので、確かにそこが一番狙いやすいと寧々も言っていた。しかも生放送でその様子が放送されれば見せしめにもなる。由真はどこか浮かない表情をしている星音に声を掛けた。
「……一応まだ時間あるから、少し休んでおく?」
「むしろ由真さんの方が休んでた方がいいんじゃ……?」
「適度に気抜いてるから大丈夫。でも星音は待機が長いの慣れてないかなと思って」
「いや、昨日めっちゃ寝たんで大丈夫です! それよりもやっぱ緋彩が心配で」
心配になる気持ちはどうにもできない。今日を凌げても明日同じことが起きるかもしれない。けれどその不安が動きを鈍らせることがあってはならない。
「そういえば、寧々と一緒に本宮さんの出てる映画とドラマを何本か見たんだけど」
「え、仕事のためにそこまでしたんですか?」
「いや、何か興味があって……。寧々も見てみたいって言ってたし。でも『青の向こう側』の楓役が結構珍しい感じというか……」
「最初が『ねじの回転』のフローラ役やったんで……結構暗いやつが多いというか。でも素の性格はわりと明るいんですよ。あんま知られてへんけど」
本宮緋彩が批判されているのは、彼女のこれまでの役の印象と楓が食い違っているというのもあるらしい。オーディションを通過して射止めたのだからと言いたいところだが、その審査も人間がやっている以上、不正を疑う声を消すことはできない。それどころか十代の少女に向けていい言葉でないものまで飛び交っているのが現状だ。
「ネットだと全部同じみたいな書き方されてたけど、全然そんなことなかった。ちゃんとその人になってるように見えた。だから……次は何を見せてくれるんだろうって楽しみになるね」
「由真さん……」
「まあ演技の良し悪しはよくわかんないけど」
批判している人は本当に彼女の姿を見ているのだろうか。出演作を少し見ただけでわかったつもりになる気もなかったが、星音の感じているもどかしさのようなものは少しわかる気がした。由真はぼんやりと宙を眺めながら呟く。
「……何にも知らないから、勝手なこと言えるんだよね」
本人が望んでいたわけでもない能力者か無能力者かという属性のせいで奪われていくものがある。能力者でなければ、と言われたことは何度もあるけれど、無能力者でなければ、ということも数は少ないながらも発生しうるのだ。
寧々はそんな世界を変えたいと言った。けれど果たしてそれは可能なのだろうか。もしかしたら道半ばで終わってしまうかもしれない。その可能性の方が高い。でも、諦めて、受け入れて生きていくつもりもなかった。由真は目を閉じて細く長く息を吐く。予告の時間まで、あと四時間だ。
*
「やばい飽きてきた」
「待機慣れてるんじゃなかったんか……」
「我慢しても生まれ持った性格だけはどうしようもなくない? 私昔からほんっとすぐ飽きる子供だったからね」
「いやそんな自慢げに言われましても」
予告の時間まであと三十分を切ったところで、とうとう集中力を切らした由真が声を上げる。その声をインカム越しに聞いていた寧々は大仰な溜息を漏らす。
『由真、あともう少しだから』
「わかってるよ……でも飽きちゃったんだもん……」
『とりあえず今のところ異常はないよ。なんか仕掛けるならやっぱりステージ立ったときだろうね』
由真は頷いて、ゆっくりと目を閉じた。三十秒くらいしてから再び目を開いたときには、もう集中力を取り戻していた。
「戦闘モードのスイッチみたいなのあるんですか?」
「これがそうなのかはわからないけど……これやると能力を使いやすくなる。寧々もなんかあったよ。左目隠すやつ」
星音が返事をしようと思った瞬間に、インカムから寧々の声が響く。
『今、緋彩ちゃんがトークに入った。あと五分くらいで本番だね。概ね予定通りの進行』
「了解。ステージ付近で待機に移行するよ」
短いやりとりが終わると、由真と星音はステージの裏に移動した。見つからずに移動できるルートは寧々が既に調べ上げている。そして仮に見つかったとしても本宮緋彩のスタッフだと言い張れるように準備はしていた。
司会の男性とトークをしている緋彩の顔には緊張の色が浮かんでいた。普通に生放送で歌うだけでも緊張するだろうに、今は世間からの批判にもさらされている。失敗すればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。緋彩にかかっている重圧は相当なものだろう。星音は何も起きずに緋彩のステージが終わることを祈りながら手を組んだ。
合図とともに音楽が流れ始め、緋彩のステージが始まる。舞台で鍛えた発声、そして表現力。後ろ姿しか見えなくても、多くの人を惹きつけるパフォーマンスであることはわかった。けれど緋彩のことだけを見ているわけにもいかない。何もなければいい、と思いながらも由真は周囲を見回した。
『――対象の真上に能力波を感知』
寧々の言葉を聞き終わる前に、由真は走り出していた。いきなり乱入してきた人影に驚く緋彩を突き飛ばし、上から降ってくる照明器具を、そちらの方は全く見ずに剣に纏わせた能力波で破壊する。
「――星音!」
由真が一瞬出遅れた星音を呼ぶ。星音は頷き、床に座り込んで呆然としている緋彩の腕を引いた。
「星音……どうして」
「説明は後や! とりあえず安全なところに逃げるで」
ステージを降りるとすぐに緋彩のマネージャーに出迎えられる。星音は緋彩をマネージャーに引き渡し、ステージに目を向けた。ステージの上には由真と、スタッフパスを首から下げた数人の男がいる。
「お前は能力者のくせに無能力者を庇うのか?」
由真は何も言い返さなかった。ただ目の前の男たちを黙って見つめている。
『星音!』
インカムから寧々の鋭い声が飛ぶ。
『何してもいいから今すぐ由真をステージから降ろして。このままじゃまずいことになる!』
いつもは落ち着いて店員たちに指示を出している寧々の焦った声。それだけで状況が逼迫していることはわかった。星音が急いでステージに駆け上がると、それまでは聞こえなかった音が聞こえるようになった。
[俺たちの方が選ばれた人間なのに]
[無能力者は夢だって見られる]
[許せない。だって]
[今すぐこいつら全部殺せるのに]
[この能力者殺しが]
[無能力者の味方をする能力者は同罪]
はっきり言葉になっているものから、誰かの呟きのようなものまで音が混ざり合っている。その中には由真や緋彩を個人的に攻撃するようなものや、下品で性的な冗談さえも紛れ込んでいた。
(誰かの能力――だよな、多分)
おそらくステージ上にいる人間にしか聞こえない音なのだ。だから寧々は由真をステージから降ろすように言ったのだろう。
「聞こえるか? これが俺たち能力者の総意だ」
男の一人が言う。由真は何も答えないままだ。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。星音が由真に駆け寄ろうとした瞬間、由真は口元に笑みを浮かべて、挑発するように言った。
「――だから何?」
それはいつもの由真の声のはずだった。それなのに星音の動きを止めるには十分な程の力があった。それが生み出した逡巡の間に由真が動き出す。
それはいつもの戦闘とは明らかに違う動きだった。やっていることはさほど変わりはない。相手の攻撃を剣でいなして懐に飛び込み、背中に手を当てて種を抜き取る。違うのは、その相手が暴走した能力者ではないということだ。
由真はもう手の施しようがないほどに暴走が進行した人にしかその能力を使わない。能力使用の代償として体に傷がついてしまうため、使用する対象を限定しているのだ。そのはずなのに。
由真は抜き取った種を地面に叩きつけて、握りしめた剣をそれに突き立てて壊す。まるで誰かに見せつけるかのような、いつもとは違う行動。
(このまま戦わせたらダメだ……!)
星音は竦んでいる足に鞭を打って走り出す。同時に残った男たちが由真を取り押さえようと一斉に由真に襲いかかった。星音が由真の腕を引くのと、舞台の上のスプリンクラーから突如として水が噴き出したのはほぼ同時だった。星音はそのまま由真の手を強引に引っ張って舞台から降りる。下には腕組みをした寧々とおろおろしている黄乃が待ち構えていた。
「由真」
寧々が呼びかけても、由真は返事をしなかった。寧々は由真の顔を真正面から覗き込んで畳み掛けるように言った。
「離脱してって言ったよね私?」
「……何で止めたの」
「何でじゃないわよ! ねえ、どうして離脱しなかったの?」
仕事としては、星音が緋彩を安全な場所に避難させた段階で終わっていた。不要な戦闘は避ける寧々の戦略が本来は正しいはずだ。それなのにどうして由真は寧々の指示に背いてまで戦闘を継続しようとしたのか――。
「その辺の路地裏でやってんならいざ知らず、全国放送されてんだからね? 自分が何したかわかってるの?」
「放送されてるのはわかってる。だからやったんだけど」
その言葉にはっとして、星音は掴んだままの由真の腕を見た。スプリンクラーの水だけではない、生暖かい液体が指に触れている。
「由真。もう一度聞くけど、自分が何したか本当にわかってる?」
「あの子が標的から外されない限り、根本的な解決にはならないから」
寧々は深く溜息を吐いた。
「星音。この馬鹿の止血してあげて。私と黄乃は本宮さんのマネージャーとハル姉に色々報告してくる」
寧々は事態が飲み込めないままでいる黄乃を引き連れてスタジオを出て行く。星音は由真の服の袖を捲り上げて腕の傷を確認した。かなり深い傷だ。
「……止血だけでいい。寧々もそう言ってたでしょ」
「さっき指示ガン無視したくせに何言うてんねん。傷塞ぐまではやります。あとでハーゲンダッツでも奢ってください」
傷を治すには星音自身のエネルギーを消費する。かつて緋彩の傷を治したときに自分の限界を知ったこともあり、どこまでなら治せるかの計算もできるようになった。能力で作った包帯を由真の腕に巻きながら、星音を溜息を吐く。
「……寧々さん、めっちゃ怒ってたやん。何で指示無視したん?」
「私は自分の身は自分で守れるし、慣れてるから」
「あんまそういうことに慣れんといてください。それは慣れてるんやなくて麻痺しとるだけです」
「……それならそれでいい。その方が傷つかないでいられる」
「由真さん、痛覚がない人間ってどうなるか知ってます?」
沢山の人の傷を能力を使って治してきた。こんな力があるから、何度も人を治してきたから、星音はその人が怪我をしているかどうかを見抜くことができる。けれどそれは、その人が痛みを感じているからだ。痛みがあるからその部分を庇って動きが不自然になる。その人に痛みがなければ、星音も、その人自身も傷があることに気が付けない。痛みはその人自身を守るために一番必要なものだ。だから痛みに慣れて、麻痺してはいけない。それが心の痛みであっても同じことだ。
「痛くならないと怪我してることにも気が付かなくなって、ようやく気付いたときには手遅れになってたりするんです。だから痛みに慣れすぎたらダメです」
たとえその方が幸せに生きられるとしても、麻痺してしまうよりはいい。由真は巻き終わった包帯に手を添えるが、星音の言葉に返事をすることはなかった。
「しかし私ら濡れ鼠やけど、着替えとか用意してくれてんのかな。由真さん、どう思います?」
「私は濡れるの好きだからこのままでいいけど」
「聞く人間違えたわ……」
星音は大仰に溜息を吐いてから、笑みを浮かべた。これからのことを考えると不安になってしまうけれど、せめて今は一仕事終えた安心感に浸っていたかった。
本宮緋彩宛に届いた脅迫メールに書かれていたその当日。司令塔である寧々の指示が全員に通るようにインカムをつけ、それぞれの配置につく。ご丁寧に時刻まで予告してきたので、公式の警備もかなり手厚いものだ。出る幕はないかもしれないと思いながらも、いつでも動き出せるように由真は気を張っていた。
その日の緋彩は生放送の歌番組に出るためにテレビ局の中にいた。緋彩は役者ではあるが、数年前まではミュージカルを中心に活動していて、歌手としても注目されているらしい。由真が求めてもいないのに星音が解説してくれた。朝にリハーサルをやって夜まで待機なのは大変そうだ。予告の時刻以外も安全のために楽屋から出ないことにしているらしい。
(私なら絶対脱走してるな……)
楽屋の中に長時間閉じ込められるなんて耐えられそうもない。昔から狭い場所にずっといるのは嫌いだったのだ。
予告されている時間は午後九時半。ちょうど本宮緋彩がステージで歌う時間だ。ステージの上までSPに囲ませるわけにもいかないので、確かにそこが一番狙いやすいと寧々も言っていた。しかも生放送でその様子が放送されれば見せしめにもなる。由真はどこか浮かない表情をしている星音に声を掛けた。
「……一応まだ時間あるから、少し休んでおく?」
「むしろ由真さんの方が休んでた方がいいんじゃ……?」
「適度に気抜いてるから大丈夫。でも星音は待機が長いの慣れてないかなと思って」
「いや、昨日めっちゃ寝たんで大丈夫です! それよりもやっぱ緋彩が心配で」
心配になる気持ちはどうにもできない。今日を凌げても明日同じことが起きるかもしれない。けれどその不安が動きを鈍らせることがあってはならない。
「そういえば、寧々と一緒に本宮さんの出てる映画とドラマを何本か見たんだけど」
「え、仕事のためにそこまでしたんですか?」
「いや、何か興味があって……。寧々も見てみたいって言ってたし。でも『青の向こう側』の楓役が結構珍しい感じというか……」
「最初が『ねじの回転』のフローラ役やったんで……結構暗いやつが多いというか。でも素の性格はわりと明るいんですよ。あんま知られてへんけど」
本宮緋彩が批判されているのは、彼女のこれまでの役の印象と楓が食い違っているというのもあるらしい。オーディションを通過して射止めたのだからと言いたいところだが、その審査も人間がやっている以上、不正を疑う声を消すことはできない。それどころか十代の少女に向けていい言葉でないものまで飛び交っているのが現状だ。
「ネットだと全部同じみたいな書き方されてたけど、全然そんなことなかった。ちゃんとその人になってるように見えた。だから……次は何を見せてくれるんだろうって楽しみになるね」
「由真さん……」
「まあ演技の良し悪しはよくわかんないけど」
批判している人は本当に彼女の姿を見ているのだろうか。出演作を少し見ただけでわかったつもりになる気もなかったが、星音の感じているもどかしさのようなものは少しわかる気がした。由真はぼんやりと宙を眺めながら呟く。
「……何にも知らないから、勝手なこと言えるんだよね」
本人が望んでいたわけでもない能力者か無能力者かという属性のせいで奪われていくものがある。能力者でなければ、と言われたことは何度もあるけれど、無能力者でなければ、ということも数は少ないながらも発生しうるのだ。
寧々はそんな世界を変えたいと言った。けれど果たしてそれは可能なのだろうか。もしかしたら道半ばで終わってしまうかもしれない。その可能性の方が高い。でも、諦めて、受け入れて生きていくつもりもなかった。由真は目を閉じて細く長く息を吐く。予告の時間まで、あと四時間だ。
*
「やばい飽きてきた」
「待機慣れてるんじゃなかったんか……」
「我慢しても生まれ持った性格だけはどうしようもなくない? 私昔からほんっとすぐ飽きる子供だったからね」
「いやそんな自慢げに言われましても」
予告の時間まであと三十分を切ったところで、とうとう集中力を切らした由真が声を上げる。その声をインカム越しに聞いていた寧々は大仰な溜息を漏らす。
『由真、あともう少しだから』
「わかってるよ……でも飽きちゃったんだもん……」
『とりあえず今のところ異常はないよ。なんか仕掛けるならやっぱりステージ立ったときだろうね』
由真は頷いて、ゆっくりと目を閉じた。三十秒くらいしてから再び目を開いたときには、もう集中力を取り戻していた。
「戦闘モードのスイッチみたいなのあるんですか?」
「これがそうなのかはわからないけど……これやると能力を使いやすくなる。寧々もなんかあったよ。左目隠すやつ」
星音が返事をしようと思った瞬間に、インカムから寧々の声が響く。
『今、緋彩ちゃんがトークに入った。あと五分くらいで本番だね。概ね予定通りの進行』
「了解。ステージ付近で待機に移行するよ」
短いやりとりが終わると、由真と星音はステージの裏に移動した。見つからずに移動できるルートは寧々が既に調べ上げている。そして仮に見つかったとしても本宮緋彩のスタッフだと言い張れるように準備はしていた。
司会の男性とトークをしている緋彩の顔には緊張の色が浮かんでいた。普通に生放送で歌うだけでも緊張するだろうに、今は世間からの批判にもさらされている。失敗すればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。緋彩にかかっている重圧は相当なものだろう。星音は何も起きずに緋彩のステージが終わることを祈りながら手を組んだ。
合図とともに音楽が流れ始め、緋彩のステージが始まる。舞台で鍛えた発声、そして表現力。後ろ姿しか見えなくても、多くの人を惹きつけるパフォーマンスであることはわかった。けれど緋彩のことだけを見ているわけにもいかない。何もなければいい、と思いながらも由真は周囲を見回した。
『――対象の真上に能力波を感知』
寧々の言葉を聞き終わる前に、由真は走り出していた。いきなり乱入してきた人影に驚く緋彩を突き飛ばし、上から降ってくる照明器具を、そちらの方は全く見ずに剣に纏わせた能力波で破壊する。
「――星音!」
由真が一瞬出遅れた星音を呼ぶ。星音は頷き、床に座り込んで呆然としている緋彩の腕を引いた。
「星音……どうして」
「説明は後や! とりあえず安全なところに逃げるで」
ステージを降りるとすぐに緋彩のマネージャーに出迎えられる。星音は緋彩をマネージャーに引き渡し、ステージに目を向けた。ステージの上には由真と、スタッフパスを首から下げた数人の男がいる。
「お前は能力者のくせに無能力者を庇うのか?」
由真は何も言い返さなかった。ただ目の前の男たちを黙って見つめている。
『星音!』
インカムから寧々の鋭い声が飛ぶ。
『何してもいいから今すぐ由真をステージから降ろして。このままじゃまずいことになる!』
いつもは落ち着いて店員たちに指示を出している寧々の焦った声。それだけで状況が逼迫していることはわかった。星音が急いでステージに駆け上がると、それまでは聞こえなかった音が聞こえるようになった。
[俺たちの方が選ばれた人間なのに]
[無能力者は夢だって見られる]
[許せない。だって]
[今すぐこいつら全部殺せるのに]
[この能力者殺しが]
[無能力者の味方をする能力者は同罪]
はっきり言葉になっているものから、誰かの呟きのようなものまで音が混ざり合っている。その中には由真や緋彩を個人的に攻撃するようなものや、下品で性的な冗談さえも紛れ込んでいた。
(誰かの能力――だよな、多分)
おそらくステージ上にいる人間にしか聞こえない音なのだ。だから寧々は由真をステージから降ろすように言ったのだろう。
「聞こえるか? これが俺たち能力者の総意だ」
男の一人が言う。由真は何も答えないままだ。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。星音が由真に駆け寄ろうとした瞬間、由真は口元に笑みを浮かべて、挑発するように言った。
「――だから何?」
それはいつもの由真の声のはずだった。それなのに星音の動きを止めるには十分な程の力があった。それが生み出した逡巡の間に由真が動き出す。
それはいつもの戦闘とは明らかに違う動きだった。やっていることはさほど変わりはない。相手の攻撃を剣でいなして懐に飛び込み、背中に手を当てて種を抜き取る。違うのは、その相手が暴走した能力者ではないということだ。
由真はもう手の施しようがないほどに暴走が進行した人にしかその能力を使わない。能力使用の代償として体に傷がついてしまうため、使用する対象を限定しているのだ。そのはずなのに。
由真は抜き取った種を地面に叩きつけて、握りしめた剣をそれに突き立てて壊す。まるで誰かに見せつけるかのような、いつもとは違う行動。
(このまま戦わせたらダメだ……!)
星音は竦んでいる足に鞭を打って走り出す。同時に残った男たちが由真を取り押さえようと一斉に由真に襲いかかった。星音が由真の腕を引くのと、舞台の上のスプリンクラーから突如として水が噴き出したのはほぼ同時だった。星音はそのまま由真の手を強引に引っ張って舞台から降りる。下には腕組みをした寧々とおろおろしている黄乃が待ち構えていた。
「由真」
寧々が呼びかけても、由真は返事をしなかった。寧々は由真の顔を真正面から覗き込んで畳み掛けるように言った。
「離脱してって言ったよね私?」
「……何で止めたの」
「何でじゃないわよ! ねえ、どうして離脱しなかったの?」
仕事としては、星音が緋彩を安全な場所に避難させた段階で終わっていた。不要な戦闘は避ける寧々の戦略が本来は正しいはずだ。それなのにどうして由真は寧々の指示に背いてまで戦闘を継続しようとしたのか――。
「その辺の路地裏でやってんならいざ知らず、全国放送されてんだからね? 自分が何したかわかってるの?」
「放送されてるのはわかってる。だからやったんだけど」
その言葉にはっとして、星音は掴んだままの由真の腕を見た。スプリンクラーの水だけではない、生暖かい液体が指に触れている。
「由真。もう一度聞くけど、自分が何したか本当にわかってる?」
「あの子が標的から外されない限り、根本的な解決にはならないから」
寧々は深く溜息を吐いた。
「星音。この馬鹿の止血してあげて。私と黄乃は本宮さんのマネージャーとハル姉に色々報告してくる」
寧々は事態が飲み込めないままでいる黄乃を引き連れてスタジオを出て行く。星音は由真の服の袖を捲り上げて腕の傷を確認した。かなり深い傷だ。
「……止血だけでいい。寧々もそう言ってたでしょ」
「さっき指示ガン無視したくせに何言うてんねん。傷塞ぐまではやります。あとでハーゲンダッツでも奢ってください」
傷を治すには星音自身のエネルギーを消費する。かつて緋彩の傷を治したときに自分の限界を知ったこともあり、どこまでなら治せるかの計算もできるようになった。能力で作った包帯を由真の腕に巻きながら、星音を溜息を吐く。
「……寧々さん、めっちゃ怒ってたやん。何で指示無視したん?」
「私は自分の身は自分で守れるし、慣れてるから」
「あんまそういうことに慣れんといてください。それは慣れてるんやなくて麻痺しとるだけです」
「……それならそれでいい。その方が傷つかないでいられる」
「由真さん、痛覚がない人間ってどうなるか知ってます?」
沢山の人の傷を能力を使って治してきた。こんな力があるから、何度も人を治してきたから、星音はその人が怪我をしているかどうかを見抜くことができる。けれどそれは、その人が痛みを感じているからだ。痛みがあるからその部分を庇って動きが不自然になる。その人に痛みがなければ、星音も、その人自身も傷があることに気が付けない。痛みはその人自身を守るために一番必要なものだ。だから痛みに慣れて、麻痺してはいけない。それが心の痛みであっても同じことだ。
「痛くならないと怪我してることにも気が付かなくなって、ようやく気付いたときには手遅れになってたりするんです。だから痛みに慣れすぎたらダメです」
たとえその方が幸せに生きられるとしても、麻痺してしまうよりはいい。由真は巻き終わった包帯に手を添えるが、星音の言葉に返事をすることはなかった。
「しかし私ら濡れ鼠やけど、着替えとか用意してくれてんのかな。由真さん、どう思います?」
「私は濡れるの好きだからこのままでいいけど」
「聞く人間違えたわ……」
星音は大仰に溜息を吐いてから、笑みを浮かべた。これからのことを考えると不安になってしまうけれど、せめて今は一仕事終えた安心感に浸っていたかった。
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