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青の向こう側

3・普通の悪意2

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 制服から私服に着替え、バイクに跨る。エンジンキーを回そうとして、出動のときはいつも後ろに由真を乗せていることを思い出して星音は手を止めた。その温もりを背中に感じないことが寂しいと思うようになるなんて。緋彩の話を聞いてもらってからだろうか。気が付けば星音はふとした瞬間に由真のことを考えるようになっていた。
「いや待て、何やこれ」
 もうそれは恋やない? と頭の中で声が響いた。『青の向こう側』で楓が呉羽に言うセリフの一つだ。呉羽は相手をぼかして楓に自分の気持ちが何なのかわからないと相談する。そして楓は何も考えずに答えるのだ。相手が自分だとは気付かないまま。そのシーンも緋彩と二人で再現した。楓の言葉で自分の気持ちを自覚した呉羽の表情が当時はかなり話題になったりもした。
 もうそれは恋やない?――緋彩の声で、その言葉が頭に響く。
「恋って何やねん……うちが知っとるんは鯉だけや……」
 星音は溜息まじりに呟いてからバイクを走らせる。今は余計なことは考えないでおこう。邪念を振り払うため、いつもよりもっと交通法規を意識して運転した。十数分走ると目的の河川敷が見えてくる。バイクを近くに停めて由真の姿を探すと、橋の支柱を背もたれにして座っているのが見えた。由真は全身黒の服を着ていて、一歩間違えれば見逃してしまうくらいには夜の中に溶け込んでいた。
「……由真さん」
「梨杏に聞いてきたの?」
「そうです。で、こんなとこで何してるんですか?」
 由真は無言で、星音が来たのとは反対の方向を指差す。そこには河川敷の草むらに本を片手に立っている緋彩の姿があった。時折その声が聞こえてくる。発声練習なのだろう。けれどそれだけでは由真が何をしているのかはわからなかった。
「個人的に……ボディーガードみたいなことを」
「え、何でそれ今まで黙ってたん!?」
「寧々にもハルさんにも話してないから。梨杏は知ってるし……多分寧々たちにもバレてると思うけど」
「緋彩から依頼があったってことですか?」
「いや、私が持ちかけたんだけど。結局何もなかったけどね」
 自分で持ちかけたから「個人的にやりたいこと」なのか。けれどどうしてそんな提案をしたのだろう。この前の依頼はもう報酬も支払われて、完全に終わったはずなのに。
「どうして……」
「色々心配だったし……あとは、個人的にちゃんと話してみたいなと思って」
「何話したんですか?」
「んー……たいしたことではないよ。どうして役者になりたいと思ったのかとか、あの役をどうしてもやりたい理由はなんなのかとか。なんか、聞いてみたくて」
 本人もどうして聞きたかったのかはわかっていないのだろう。けれど緋彩は由真に正直に答えたのだ、というのが由真の表情からわかる。少し力を抜いた、優しい目をしていた。
「私には演じるってどういうことなのかすらわからなかったんだけど、でも、それを通して誰かに何かを伝えたいからやってるんだってのはわかった。少なくとも彼女はね」
「誰かに何かを伝えたい……って結構抽象的やな」
「それは演じる役によって変わるらしいよ。じゃあ今度の役は誰に何を伝えたいのかな、と思って」
 緋彩が楓役にこだわるにはそれなりに理由があるのだろう、と星音はそのとき初めて思い至った。二人の思い出もある。けれどそれ以上のものを緋彩は伝えようとしているのではないか。
「『役を見せる前にそれを言っちゃうのは嫌なので』って言われちゃったけど。まあそうだよね。言葉で簡単に説明できたら演技なんてする必要ないんだもん」
「それは確かに。……緋彩にも理由があるんやって、わかってたつもりやけど……全然わかってなかったんやな、私」
「この前車で言ってたこと?」
「聞いてたんですか、あれ……」
「本当に寝てたんだよ? でもちょっと目が覚めたタイミングだったから」
 慌てて言い訳をする由真に、星音はふっと笑みをこぼした。別に聞かれて困るほどの話ではない。星音はその場に腰掛けながら、言葉を置くように話し始めた。
「私は、緋彩が役を降りれば……全部解決するような気がして」
「そんなことないんだよ。叩きたい人は何だっていいんだから、降りたら降りたで『その程度の気持ちだったのか』って言うし、続けたら続けたで『降りろ』って言うし。それなら私は本人がどうしたいかが一番大事だと思う」
 星音は思う。この言葉を発するまでに、由真が辿ってきた道の険しさを。能力者関連の事件を解決する調停人トラブルシューター。けれど能力者には無能力者の肩を持つのかと罵られ、無能力者には恐ろしい力を持った能力者だと怖がられる。今の仕事を辞めたところで同じように批判に晒されるのだろう。それならやりたいことをやると決めた。そんな由真の姿はとても強く、けれど何かを諦めてしまったかのようにも見えた。
「あの子が何したって叩かれるなら、標的が変わればいいと思ったんだけど……正直私も見通しが甘かった。私だけでどうにかなると思ったけど、店にまで影響出ちゃったし」
「寧々さんは『ただでさえバイトに能力者多すぎて星1レビューばっかりだから今更増えたところで』とは言っとったけど」
「いやそんなレビューサイトとかどうでもいいんだよ」
 由真が笑う。由真が本当に気にしているのは別のことだというのは星音もわかっていた。由真が起こした一件以来、脅迫の電話や営業妨害は日常茶飯事になってしまった。幸い今のところ誰も負傷することなく撃退できているけれど、それもいつまで続くかわからない。
「やる前にひとこと言ってくれればもうちょっとあったと思うんやけど」
「でも言ったら止めるでしょ?」
「当たり前やん。何でそんな自分一人で背負おうとするん?」
「……何でかな。自分ではそんなつもりないんだけど」
 力のない声で由真が言う。きっと悲劇のヒロインになりたいだとか、ヒーローになりたいだとか、もしかしたら誰かを救いたいとすら思っていないのかもしれない。ただ手を伸ばしたいと思ったときに手を伸ばしているだけ。数ヶ月一緒にいて、由真がどんな人間なのか少しずつ見えてきたような気がした。
うちは、由真さんにこれ以上傷ついて欲しくないです」
「うん。でも……私のために誰かが何かを諦めなきゃいけないなら、そっちの方が私はつらい。今みたいにみんなを巻き込むのも本意じゃなかったんだけど」
「みんな巻き込まれたのは気にしてへんで。だって私らがどれだけ悪かったとしても、だからって嫌がらせしていいことにはならへんやろ」
 由真は何も言わずに練習を続ける緋彩を見つめている。街灯の光がその大きな目に反射して、一瞬濡れているように見えた。
「嫌がらせがなくなって、緋彩も心置きなく楓を演じられるように出来へんのかな」
「いろいろ考えてみたけど、上手い方法は見つからなかった。人の心を自由にできるわけじゃないし」
「いや嫌がらせとかしてる奴のことなんて人とは思えへん。緋彩なんて殺されかけてんねんで?」
 生放送で緋彩を襲撃しようとした男たちは、殺人未遂の現行犯で逮捕された。ニュースによると、彼らは正義の行いをしたと主張しているらしい。けれど一人だけ、由真にシードを抜かれた男だけはすっかり怯えてしまって、反省の言葉を何度も口にしているらしい。
(あんときの由真さん、めっちゃ怖かったしな――)
 怖い気持ちはわかる。けれど自業自得だ。星音はそう思っていた。
「ああいうことする人って根っからの極悪人だと思ってる?」
「性根が腐った奴だとは思ってますけど」
「でもね、普通に付き合ってると本当に普通の人だったりするんだよ。普通の人なのに、多くの人が正しいと思っていることに乗っかれば人を殺すことだってできてしまう。それが凄く怖いけど――でも、それに負けたくはない」
 これまで由真に何があったのかを星音はほとんど知らない。けれど誰も知らない空白の時間を除いても、アルカイドで働き始めたあとも、様々なことがあったのは想像に難くない。本当なら目を閉じて、耳を塞いで逃げてしまってもいいようなことに、由真はずっと闘いを挑んできたのかもしれない。
(負けず嫌いって言うてたしな)
 理不尽に傷つけられることから逃げることも大切だ。本当は戦う必要なんてないと今でも星音は思っている。けれど負けたくないと言うのなら、それでも立ち向かいたいと言うのなら、無理に止めることもできないと思っていた。
(ああ、そうや。緋彩もああ見えてめちゃくちゃ負けず嫌いだったわ)
 緋彩がオーディションの前日に神社の階段から突き落とされて泣きながら星音に電話をしてきたとき、緋彩はこう言ったのだ。「私、こんなことに負けたくない」と。星音はそれを聞いて、緋彩の怪我を全て治そうと決意した。泣きながら負けたくないと言っていた緋彩に心を動かされたのだ。
(今もそう思ってるんやろな。『こんなことに負けたくない』って)
 それなら、やることはたった一つだ。星音は立ち上がって、服についた土を軽く払った。
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