上 下
42 / 125
azure

2・空間支配能力2

しおりを挟む


 二週間ほどは特に進展はなかった。けれど桜が満開になったとニュースが言っていたその日に、ハルに頼んでいた調査の結果が届いた。結果は予想していた通り――寧々にとっては最悪な展開だった。これからどう動くべきか。そもそもこの結果をどうやって伝えるべきか。考えながら朝食を摂っていた寧々は、不意に視線を感じて顔を上げた。
「どうしたの、由真?」
「いや……それは寧々の方でしょ。何かあったの?」
 一番言いにくい相手は、人の変化に目敏い。寧々は味のしないトーストを咀嚼しながらはぐらかすけれど、付け焼き刃の嘘は簡単に見抜かれてしまう。じっと見つめる由真の目を普段ならかわすこともできるはずなのに、今はそれができない。
 けれど寧々が何も言わずにいると、由真がふっと笑みをこぼした。
「ねえ、今日二人で花見行かない?」
「え?」
 何かと思えば急に花見。しかも由真はこの前或果と夜桜見物に行ったばかりだというのに。そのときにすでに散り始めていたというから、もうどこも葉桜になってしまっているのではないか。寧々がそう思っていると、由真がスマホを寧々の前に置いた。
「今ごろちょうど満開になる種類の桜なんだって。梨杏が教えてくれた」
「こんなところあるんだ……」
 八重桜が咲き誇る川沿いの桜並木。場所を見ると少し遠かったけれど、車を出してもらえば問題のない距離だ。けれど寧々も由真も店をあけてしまうと、何かがあったときにどうすれば――そこまで考えて寧々はかぶりを振った。これでは由真と同じではないか。自分たちがやらなくても他の誰かが動いてくれることは意外にたくさんある。今日はその人たちに任せたっていいのかもしれない。
「いいね、行こっか」
「ご飯食べたらすぐ準備してね。寧々、準備に時間かかるんだから」
「由真は逆に準備しなさすぎだと思うんだけどなぁ……」
 少し遠くに出かけるというのに、ポケットに財布と携帯だけを入れて出かけるときすらある。それだけあればどうにかなるのかもしれないが、あまりの身軽さに寧々はいつも驚かされていた。
 朝食を食べ終わり、食器を食洗機に入れてから自室で出かける準備を始める。ハルには由真が連絡をしてくれるらしい。せっかくだからと買ったばかりの菜の花色のワンピースに袖を通す。姿見の前で一回転してみて、これではまるでデートに浮かれる彼女みたいだ――と寧々は思った。
「寧々ー? 準備できた?」
 ドア越しに由真の声が聞こえる。寧々は斜めがけの白いポシェットをかけてからドアを開けた。
「おまたせ……って由真さん、あなたは本当にその格好で花見に行くつもりですか……?」
「なんか変なとこある? いつも通りの格好じゃない?」
「いつも通りすぎるから言ってんだけど……まあいいや」
 黒いパーカーに黒いズボン。チョーカーの色も黒。花見に行くには彩りが少なすぎる。けれど普段通りのその格好は由真にあまりにも似合いすぎている。本人は目立たない格好のつもりなのかもしれないが、昼間にその姿で由真が歩いていたら確実に人目を引く。
「もうハルさん下で待ってるから。行こう」
 よく見ればうっすらと化粧はしているし、マニキュアの色とアイシャドウの色は緑系で揃えてある。由真は由真なりに花見が楽しみなのかもしれない、と寧々は密かに笑みを浮かべた。
 店の外に停められていた車に乗り込むと、ハルはすぐに車を走らせた。今ここにいるハルは端末のひとつとして動かしている義体だが、その正体を知る人は少ない。アルカイドのメンバーでも寧々と由真しか知らないし、警察の人間でも知っているのは悠子だけだ。人間のように振る舞う人工知能。この世界に能力者が生まれた頃に、ある目的のために生み出された七つの人工知能のひとつ。寧々も知っていることはそのくらいだ。
 由真は窓にもたれかかるようにして外の景色を眺めている。その口角がわずかに上がっていることに寧々は気がついていた。寧々が由真の顔をぼんやり見つめていると、視線に気付いたらしい由真が寧々の方を向いた。
「由真ってわりとドライブとか好きだよね」
「まあ、わりとね。免許あればなぁ……星音みたいにバイクでもいいけど」
「由真は危なっかしいからダメ」
「別に仕事サボって遊びに行ったりとか……いや、しちゃうかもしれない」
 正直に答える由真に寧々は笑みをこぼした。本当はアルカイドの仕事なんてやめたければいつでもやめればいいと思っていることは言わなかった。アルカイドの仕事から離れたいと思っているわけではないことは知っている。ただ、ときどき心が何かから解放されたがってしまうのだ。
「あ、窓開けていい? ハルさんも」
「いいよ」
 外の気温がちょうどいい、春の穏やかな日。由真が車のウィンドウをあけるとすぐに風が吹き込んでくる。由真はその風を浴びて、気持ちよさそうに目を閉じた。

「あ、あそこにお茶屋さんがあるよ」
 公園の中に入って花見に良さそうな場所を探していた寧々は、奥の方にこじんまりとした茶屋があるのを見つけた。店の外に赤い布がかけられた長椅子が並べられていて、ちょうど茶屋の周りに植えられている八重桜を見られるようになっている。
「結構空いてるよ、ラッキーだね」
「もうちょっと混んでるかと思ったけど……」
「もしかしたら穴場かもね、この公園」
「じゃあ来年はみんなで来ようか」
 由真の言葉に、寧々は思わず顔を綻ばせた。由真はおそらく気が付いていないのだろう。けれど由真が未来の話をしたことが、寧々にとってはたまらなく嬉しかった。
「そうだね。来年、ね」
 明日には死んでしまうかもしれない。数秒先の未来だって本当はわからない。それでも来年はみんなでここで花見をしたいと言えるのは、心の奥底では来年の春が訪れると信じているからだ。僅かな変化だとしても、由真は前に進むことができているような気がした。寧々は飛び跳ねるように由真の腕に抱きつく。由真は「なに急に」と呆れたように言ったものの、寧々の腕を振り解こうとはしなかった。
 そのまま茶屋に入り、一番桜に近い長椅子を選んで腰掛ける。寧々は由真の腕に抱きついたまま、お品書きを見ながら由真に話しかけた。
「あんみつもいいし、桜餅もいいし、でもお抹茶セットもいいなぁ……由真どうする?」
「どうしようかな……全部美味しそうに見えてきた……」
「由真ってこういうとき意外に迷うよね」
 何でもすぐに決めてしまいそうに見えるのに、考えすぎて何も決められないときもある。寧々が桜餅と抹茶に決めた後も、由真は二択に頭を悩ませていた。
「ごめん、待ってるよね」
「悩むのは若者の特権だよ? どんどん悩め若者よ」
「同い年じゃん……それにその悩みって人生とかそういうやつじゃん。うーん……桜餅か和菓子か……抹茶は決まってるんだけど」
「両方頼んじゃえば? 余ったら私食べるよ」
「そうしようかな」
 寧々が店内に向かって声をかけると、着物を着たおばあさんが注文を聞きにやってきた。由真が二人分の注文を告げると、穏やかな笑みを浮かべて店の中に戻っていく。
「……うちも季節限定和風メニューとか入れてみる?」
「それ全員覚えるの大変だと思うんだけど……」
「まあ、確かにね。由真なんてメニュー覚えるのに一年かかったしね」
「覚えるの苦手なんだって……」
 覚えていなくても業務はこなせるけれど、覚えていた方がスムーズだ。コーヒーの淹れ方を覚えるのにも実はそれなりに時間がかかった。けれどその時代の由真を知っているのは寧々だけだ。
 他愛のない話をしているうちに抹茶と桜餅と和菓子が運ばれてきた。人の良さそうな笑みを浮かべるおばあさんは、未だにくっついたままの二人を見て目尻の皺を深くした。
「仲良しだねぇ」
「でしょー?」
 由真が胡乱げな瞳を寧々に向けるが、寧々はそれには構わずに微笑んだ。ごゆっくりどうぞ、と言ったおばあさんが店の中に戻るのを見送った由真は、深い溜息をついた。
「絶対カップルかなんかだと思われたよ……」
「いいじゃない別に。私は由真のこと好きよ」
「私も別に寧々のこと嫌いじゃないけど……そういうのじゃないじゃん」
 寧々は笑いながら桜餅が乗った皿を手に取った。由真も同じように皿を持ち上げ、首を傾げる。
「これって抹茶飲むのがあととか先とかあったっけ?」
「美味しく食べて飲めば何でもいいんだよ、こういうのは」
「それもそっか」
 桜の香りを楽しんでから寧々は桜餅を口に運ぶ。塩味の聞いた桜の葉の塩漬けと上品な餡の甘みが口の中で混ざり合って、寧々は思わず目を見開いた。
「これ美味しい……!」
 寧々が思ったことを由真が先に言う。桜餅は絶品だった。特に中の餡が優しい甘さで、桜餅全体をしっかりとまとめている。抹茶を一口飲むと、その苦みで心が弛緩していくのを感じた。
「そっちの和菓子も可愛いね」
 桜の花をかたどった練り切りも美味しそうだ。寧々は自分も二つ頼めば良かったと少しだけ後悔した。けれどこの桜餅だけでも十分だ。寧々は桜餅に舌鼓を打ちながら、咲き誇る桜を眺めた。
「……一口食べる?」
 由真が十文字を使って切り分けた練り切りを寧々に差し出しながら尋ねる。食べたいと思っていたのを見抜かれていたのだろうか。寧々が食べる、と答えると、由真は皿ごと寧々にそれを渡した。
「あーんとかそういうサービスはないの?」
「あるわけないでしょ……」
「じゃあ私がやろっと」
 一口分残った練り切りを由真の口に持っていこうとすると、由真は顔を背けた。照れているのはわかっている。背を向けてしまった由真に、寧々は笑いながら言う。
「由真が見てないうちにこれ全部食べちゃおうかなぁ」
「それは駄目」
 由真が振り向き、寧々が差し出したままの十文字に顔を近付けた。予想外の行動に寧々は固まってしまう。
「どうしてそういうことするかな……」
「だってもうちょっと食べたかったから」
 おそらく本当にそれだけの理由なのだろう。けれどその仕草にどきりとしてしまう寧々の気持ちにはお構いなしだ。涼しい顔をして抹茶を飲んでいるのも何だかずるいと思ってしまう。
 きっと本気で好きだと言っても、流されてしまうのだろうけど。
 そうしているうちに、少しずつ人が増えてきた。公園にもビニールシートを広げる家族連れなどが何人もいるし、茶屋の席も埋まり始めている。そろそろ店を出ようと由真に声をかけようとした寧々は、視界の片隅に青いものが見えた気がして振り返った。
「寧々?」
 見間違いかもしれない、と思いながらも寧々は目を凝らす。青い桜の花びらのように見えたのだ。それは純夏に頼まれて追っている薬に侵された能力者を追っているときに見たものと同じだ。寧々が公園内を見回していると、西側から強い風が吹いてきた。それに乗って、うっすらと青い花びらが見える。嫌な予感がする。寧々は左目を覆ってから、それを外した。これまでぼんやりと見えていただけのものがはっきりと見えるようになる。
「寧々。向こうに、何かいるの?」
「……うん。もしかしたら見間違いかもしれないけれど」
「寧々が見間違うことはまずないでしょ。行こう」
 由真の芯の通った声が寧々の背筋を伸ばす。寧々がこれまで調べた結果を由真は知らない。ここで由真を巻き込めば彼女は本当のことを知ってしまうだろう。そのとき由真はどんな反応をするのか、傷ついてしまわないか。寧々は不安を抱きながらも、寧々にだけ見える花を追い、走り出した。
 けれどその出処を寧々が見つける前に、何かが寧々の首筋を掠めた。その場所に触れると手に赤いものがついた。
「……あっちに人が集まってる。そこからで間違いない?」
「由真……」
「数が多い。サポートよろしく」
 短い言葉だけで、由真が何をしようとしているかがわかった。けれど冷静ではある。寧々にサポートを頼めるほどには周りが見えているのだ。これなら安心して送り出せる。寧々は首の傷をハンカチで押さえながら由真を送り出した。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたは知らなくていいのです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:83,305pt お気に入り:3,803

ちびヨメは氷血の辺境伯に溺愛される

BL / 連載中 24h.ポイント:49,438pt お気に入り:5,129

俺、悪役騎士団長に転生する。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:11,354pt お気に入り:2,522

現在、自作にお気に入り付けれる件

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

限界社畜は癒されたいだけなのに

BL / 完結 24h.ポイント:3,061pt お気に入り:10

麻雀少女青春奇譚【財前姉妹】~牌戦士シリーズepisode1~

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:255pt お気に入り:70

お隣どうしの桜と海

BL / 連載中 24h.ポイント:427pt お気に入り:14

処理中です...