上 下
48 / 125
蒼き櫻の満開の下

1・人の夢1

しおりを挟む
 屋敷の中に入って、自室に入るまでの間、或果に声をかけるものは誰もいなかった。この家の中では、能力が弱い人間はいないものとして扱われるのだ。
 或果の母親は或果と同じ力を持っていた。絵に描いたものを現実のものとして存在させる力。そしてその能力を使って、この世には存在しない青色の桜を生み出した。生家の小さな庭を埋め尽くしてしまうほどの不思議な桜を、或果の母は何よりも大切にしていた。
 或果の母親は或果の父――月島つきしま怜士れいじの愛人だった。一人で或果を育てていたが、不慮の事故で亡くなってしまったために或果は月島家に引き取られることになった。その段階では物語にあるような継子いじめのようなことはなかった。怜士の妻である壱華いちかも、壱華の子供である或果の兄の創一そういちも最初は或果に優しかった。それは或果の能力が何なのかわかっていなかったからだ。
 ――何の役にも立たない能力だな。
 怜士の冷たい声は今でも覚えている。褒められると思っていたのだ。実際、兄の創一はその力に目覚めた或果を褒めてくれた。絵に描けるもので、或果が構造を理解しているものなら何でも生み出せる。その力はかなり便利だと或果本人は思っていたのだ。そして母と同じ能力だったことが何よりも嬉しかった。けれど怜士が望んでいたものではなかった。怜士が望んでいたのは、いや、この家の大多数の人間が持っている力は、他者を支配するための力だ。
 空間支配能力――任意の空間を一時的に己の望むように作り変えることができる力。その能力の射程内に入れば、人間も、物理法則さえも全てが相手の思い通りになってしまう。欠点があるとすれば、射程が非常に短いこと、そしてその効果は一時的で、効果が切れると何事もなかったかのように元に戻ってしまうことがあることだが、一時的でも人の心に与える効果は大きい。
 その中でも特に強い力を持つ怜士などは、自分の半径五十センチメートルにいる人間を一時的に殺すことすらできるのだ。そんな力に比べたら確かに或果の力は取るに足らないものだ。それでも、父のことを以前より恐ろしいと思わなくなったのは、きっとアルカイドの面々と出会ったからだろう。
 強い力がある怜士よりも、由真の方がよほど強くて美しく思える。
 先日コンクールに出した絵は抽象画だった。由真から得られる印象を図形と色だけで表現したから、言わなければ誰にも気付かれない。烈しさと優しさ。強さと弱さ。光と影。二つの相反するものが炎のように揺らめいて柊由真という人間を作り出している。そのときの自分の想いの全てをキャンバスに乗せた。それを美しいと思ったから描いたのだ。
 思いの丈をぶつけた作品が今認められつつことは、何よりも嬉しいことだった。或果は描きかけの絵にかかった布を外した。これは誰にも見せる予定がない絵だ。
「由真……」
 由真の眼差しにはいつも嘘がなくて、その深さに吸い込まれそうになる。魅せられて、想いが溢れて、或果はそれを絵にぶつけていた。由真を好きにならなければ、絵の道に進むなんて考えもしなかっただろうと思えるほどに。
 或果は絵の中の由真に微笑みかけてから、もう一度キャンバスに布をかける。ベッドの上に寝転んで由真の姿を思い描いているうちに、或果は眠りに落ちていった。



「……え?」
 次の日、学校で美術教師に告げられたのは衝撃の言葉だった。美術教師は或果と同様に能力者だが、その能力は、爪の先を僅かに光らせることができるというささやかなものだ。けれどその能力を絵に活かせないかと常々考えているような人だ。或果が信用している数少ない大人。その人が今、泣きそうな顔をして或果に謝罪している。
「審査委員長の先生がね、能力者の絵が入賞するのはいかがなものかって言ってきて……ほら、ここの学校って能力者が多いでしょう?」
「そうですね……でも、それだけで?」
「そう。この学校にも無能力者はいるし、そんなところで判断しないで絵だけを見るべきだって言ってくれた人もいたんだけど、結局押し切られてしまって。主催者側も面倒事は避けたいからって」
 ようやく自分の努力が認められる日が来ると思ったのに。けれど自分よりも遥かに落ち込んでいるように見える美術教師を前にして、或果は何も言えなかった。本当は悔しかった。自分が能力者でなければ認められたのか。いや、それよりも、とても大切なものを描いた絵が評価されたのに、そんな理由で評価を取り下げられてしまうのが嫌だった。能力者だろうが無能力者だろうが、美しいものは美しいはずなのに。けれど或果は全てを押し殺して笑みを浮かべた。
「大丈夫です。次、また頑張ればいいんですから」
 差別感情のない審査員だっている。審査に集中するために描いた人間の情報は一切聞かないようにする人もいるという。そんな人だったら、きっとあの絵に込めたものを理解してくれるだろう。けれど同じ絵は二度と描くことができない。そのときの全てをキャンバスに刻み込んだ。それはそのときにしかない一瞬の美しさだったのだ。
「私はあの絵、とてもいいと思ったわ。今まで見せてもらった絵の中で一番。とても大切なものを描いたのね」
「わかるんですか?」
「わかるわよ。絵筆には愛が乗るのだから」
「――その言葉」
 美術教師の言葉に或果は思わず反応してしまった。美術教師は首を傾げる。彼女がつけている銀色のイヤリングがその動きに合わせて揺れた。
「有名な言葉だったりするんですか?」
「昔、絵を教えてくれた人が言ってたのよ。有名な言葉かどうかはわからないわね」
「そうですか。……母も、そんなことを言っていたなと思って」
 母との記憶で覚えていることはそれほど多くない。或果が本格的に絵を描き始めた頃には、母親はもう他界していたのだ。だから絵を教えてもらったこともない。先程の言葉は、絵を描いている母親が或果に向かって呟いたもの。少ない記憶の中で強く残っているもののひとつだ。
「私の先生も誰かから聞いたのかもしれないし……素敵な言葉だと思って」
「そうですね。私も好きです」
「或果さんの絵は特にそれを感じるわ。……だから、本当は絵だけを見て決めてもらいたかったけれど」
「いいんですよ。コンクールは他にもあるし」
 けれど浮かれていた気持ちが萎んでしまったのは事実だ。家を出て絵の道を目指す。そんな夢を語ったばかりだったけれど、まだ何の評価もされていないのに家を出るなんてことはきっと許されないだろう。月島の家に愛情なんてものはないのに。一つあの家で好きなものがあるとすれば、母が大切にしていたあの青い桜だけなのに。
 或果は美術教師に礼を言って美術室を出た。今日はもう授業がないから、今から家に帰らなければならない。誰も自分のことなど見てはいない、それなのに月島家の道筋から外れた生き方をしようとすれば反対される、そんな寒々しい家に。
 或果の父である怜士は、或果が絵を描くことを嫌っていた。何の役にも立たないと吐き捨てることもあった。継母の壱華は徹底した不干渉を貫き、最低限の養育だけを果たせばいいと思っている。或果の絵には全く関心がない。唯一兄の創一だけが或果の絵を褒めてくれる人だった。
 せめて今日がアルカイドのバイトの日だったらよかったのに。行ったところで問題が解決するわけではないけれど、コーヒーを淹れる由真を見るのが或果は好きだった。真剣だけれどどこか楽しそうで、長い睫毛がまばたきの度に動くのをずっと見てしまう。由真に対するこの感情は何なのだろう、と或果はずっと考えていた。恋に限りなく近いけれど、それとは違う気がする。 由真を見ていると、たまらなく絵を描きたくなるのだ。
 考え事をしている間に屋敷に着いてしまい、或果は溜息を吐きながら自室に向かった。使用人はいるが、或果を出迎えてくれる人はいない。けれど今はそれでよかった。一人になりたい。そして何も考えずに眠ってしまいたかった。
「何これ……」
 自室の戸を開けた瞬間に、朝に家を出たときとは違う光景が広がっていた。或果はその場に呆然と立ち尽くしたが、事態が呑み込めた瞬間に床に膝をついた。或果の部屋の中は或果の描いた絵が整然と置かれていた。使い終わったクロッキー帳などは整頓して棚に入れていた。それらが全て引っ張り出されて、繋ぎ合わせることすらできないほどに破られ、壊されている。今までもこんなことはあった。問い詰めたことはないが犯人は父の怜士だとわかっていた。怜士は或果が絵を描くこと自体気に入らないのだ。放っておいてくれたらいいのに、時折何かの腹いせのようにこうやって或果の努力を一瞬で壊してしまう。いつもなら笑って誤魔化すようなこと。けれど今日は耐えられなかった。
 誰にも見せるつもりはなく、ただ描きたいから描いていた由真の絵すら滅茶苦茶にされていて、それが完全に或果の心を折った。自分で夢を掴んでここを出ていくつもりだった。けれどその道は自分が能力者だからという理由だけで簡単に閉ざされていく。いつまでこんな家にいなければならないのか。大切にしたものを壊されてまで。求められているわけでもないのに。
 或果は部屋に入り、一番大きな鞄を引っ張り出した。学校に持って行っていた画材は無事だった。それを鞄に詰め込み、箪笥から服を二、三枚適当に入れ、再び部屋を出る。ここを出て行こう。そう思った。行く宛はない。けれどアルカイドでのバイトでそれなりにお金は貯まっている。それで暫くはどうにかなるはずだ。
 鞄を背負って家を飛び出そうとした或果は、不意に誰かにぶつかった。腹違いの兄の創一だ。創一はただならない様子の或果を見て、驚いたように声を上げた。
「どうしたんだ、或果」
「出て行くの。だって私はこの家に必要ない。お父様の役には立てないし、お父様は私のことが気に入らないみたいだし」
「行く宛なんてないだろう? あの人には俺から言っておくから。今出て行くのは危険だ」
「ほっといてよ。どうせここにいたっていいことなんて何もない!」
 或果は創一を振り払い、屋敷の門の外に出た。行く宛はない。足が赴くままに、とにかく家から離れることだけを考えた。

 暫く歩き続けて、気がつけばアルカイドの近くまで来ていた。いつもは電車に乗って来る場所に歩いて辿り着いたのだ。けれどもう閉店している時間だ。それに寧々も由真もこんな時間に押しかけても迷惑なだけだろう。或果は溜息を吐いて踵を返した。カラオケボックスだとかネットカフェだとか、今日一日をやり過ごす場所ならいくらでもある。そう思って歩き出したとき、後ろから或果の名前を呼ぶ声がした。
「.やっぱり或果だ。どうしたの、こんな時間に? 忘れ物――ではなさそうだね」
 そこにいたのは由真だった。夜に紛れて見失ってしまいそうなくらい上から下まで黒で統一していて、フードを目深にかぶっていても、何故かその目がどこを見ているのかはわかる。由真の目は真っ直ぐに、けれど優しく或果を見ていた。
「ひょっとして……家出?」
 大きな荷物で気付かれたのだろうか。或果は袈裟懸けにした鞄の紐を掴み、ゆっくりと頷いた。
「うちにおいでよ。部屋もひとつあいてるし。あー……他に行くところがあるなら別だけど」
「いいの? 迷惑にならない?」
「そんなわけないでしょ。ほら、うち入ってちょっと休も?」
「でも由真、どこかに出かけるつもりだったんじゃ……」
「ちょっとその辺散歩しようかなって思っただけだから」
 こんな夜中に、と或果は思ったけれど、由真は夜でも気にせずに気ままに外に出てしまうことがあった。何かあったら――と思ってしまうこともあるが、大概の人より由真の方が強いのも事実だ。
「おいで、或果」
 由真が或果に手を差し出す。或果は躊躇いがちにその手を取って歩き出した。喫茶アルカイド。その一階の奥と二階部分が由真たちの暮らす家だ。居住部分に通じる玄関を開けると、微かにコーヒーの香りが漂ってきた。喫茶店の香りに近くて或果は安堵した。リビングから寧々が顔を覗かせる。
「あれ、或果。どうしたの?」
「家出だって。客間使ってもらえばいいよね」
「あーちょっと掃除サボってて埃っぽいから換気してからの方が。てか布団とかも準備するわ」
 寧々は慌ただしく準備を始める。由真はその後ろについて行くように階段を昇り始めた。
「じゃあ準備できるまで私の部屋にいようか」
「え、いやそんな準備とか別に……」
「埃っぽい部屋で風邪とかひかれても嫌だし。どうせずっと使ってない部屋だから、自由に使えばいいよ」
「あの、由真……」
「どうしたの?」
「理由、聞かないの?」
 客間に入っていった寧々の背中を追い越して、由真は奥の部屋に向かう。そこが由真の部屋だ。ドアを開けると、カーテンや寝具のカバー、ソファーなどは全て淡いグリーンで統一されていた。そしてイルカやサメなどの海洋生物のぬいぐるみがいくつか置かれている。由真は或果をソファーを勧め、自分はベッドに腰掛けた。
「或果が話したいなら理由は聞くけど、無理矢理話させることはしたくないから」
 由真らしい、と或果は思った。誰もが理由を問い詰めてしまいそうな局面でも、理由を尋ねはするけれど、相手が答えたくないと言うならそれを無理に聞き出そうとはしない。けれどそんな由真に対してだからこそ、誰も聞けないままでいる。誰も知らない由真の過去を。由真が抱えている秘密を。簡単に話してしまえるものではないとわかっている。けれど由真の優しさに甘え過ぎてしまうことに対する罪悪感は確かにあるのだ。
「この前、コンクールで賞をもらえるかもしれないって言ったじゃない? 実はそれが……」
 或果は今日一日の出来事を由真に話した。由真は時折頷きながらも静かに或果の話を聞いていた。
「お兄様は私の絵を褒めてくれたりもするのだけど、お父様は気に入らないらしくて……気に入らないなら放っておいてくれればいいのに、どうして」
「気に入らないからってそれは酷いね。うちならいつまででもいいからね、或果。あ、でもご飯とかは作ってもらうかもしれない」
「ふふ。そのくらいならいくらでも。でも――能力者ってだけで、何もかもちゃんと見てもらえないんだなって思って……」
 それがこの世界の現状だ。どの分野でも起きていること。だからこそ能力者の役に無能力者が起用されて問題になる、本宮緋彩の事件のようなことも起きてしまう。能力を使わずに勝負するのなら、本来は無能力者と変わらない場所からスタートしているはずなのに。或果はソファーの上で膝を抱えた。由真は俯きながらメンダコのぬいぐるみを右手で撫でていた。
「寧々は、そんな世界を変えたいって言ってる。でも私はそこまで大きな目標があるわけじゃない。それでも……或果が絵の道に進みたいって言うなら、私はそれを叶えてほしいって思ってる」
「由真……」
「私は絵を描いてるときの或果、すごくかっこいいなって思うし」
 不器用に、まっすぐ紡がれる言葉。嘘がないとわかるからその言葉はひび割れてささくれ立った心にも染み込んでいく。
「ありがと、由真。ちょっと元気出たかも」
「別に無理して元気出す必要はないからね?」
「うん、わかってる。暫くここにいて……これからどうするか、ちゃんと考えてみようと思う」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたは知らなくていいのです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:81,679pt お気に入り:3,804

ちびヨメは氷血の辺境伯に溺愛される

BL / 連載中 24h.ポイント:49,687pt お気に入り:5,129

俺、悪役騎士団長に転生する。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:11,354pt お気に入り:2,522

現在、自作にお気に入り付けれる件

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

限界社畜は癒されたいだけなのに

BL / 完結 24h.ポイント:3,125pt お気に入り:10

麻雀少女青春奇譚【財前姉妹】~牌戦士シリーズepisode1~

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:255pt お気に入り:70

お隣どうしの桜と海

BL / 連載中 24h.ポイント:434pt お気に入り:14

処理中です...