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Into the Water

4・離れた手2

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 そのまま由真は歩き続け、いつの間にか海にまで出ていた。誰もいない、寂れた海。砂浜はあるけれど、誰も整備していないのか、割れた瓶などが転がっていた。由真は息を吐き出して、その場に倒れ込んだ。今日だけでどれだけ歩いたのか。もう足は動かせそうになかった。
「何やってんだろう、私……」
 衝動的な行動で、そうすればあの状況を切り抜けられるだとか、考えていたわけではなかった。ただ攻撃を受けた兄を見た瞬間に世界の全てが赤く見えた。やるべきことだけは冷静に考えていた。けれどそれしか考えられなかったのだ。
 もう力は使わないと決めていたのに。たとえ相手が悪人でも、もしかしたらその寿命を著しく縮めてしまうかもしれない行為なのだ。
 あくまで可能性の話だ。けれど由真は確かな害意をもって男を攻撃した。死んでしまえばいいとさえ思っていた。
「……っ」
 男に能力を使った後に、兄は由真の顔を覗き込んだ。その目には心配の色と――その奥に、確かに怯えているような気配があった。
「……ふふ」
 感情が飽和して、自分でも何を考えているのかわからなかった。何故か笑ってしまうのに、同時に涙も溢れ出て来る。何か決定的なものが自分の中で壊れてしまったような、そんな気がした。
 伸ばした指先に割れた瓶の破片が触れる。由真はそれを一つ拾い上げると、その鋭利な部分で、白く滑らかな左腕の内側を抉るように傷つけた。赤い筋に血が浮いて流れ落ちていくのをぼんやりと眺める。先程までは言葉にならない感情で決壊しそうだったのに、今は何もない真っ白な部屋に放り込まれたように静かだ。由真はぼんやりと血が流れ続ける傷口を指でなぞった。
 静かになった世界に、波の音だけが響いている。由真はそっと寄り添ってくる睡魔に身を任せて目を閉じた。このまま消えてしまって、けれど世界には変わらず明日がくればいい。考えることを投げ出せば意識は黒に沈んでいく。
 それからどれくらいが過ぎただろうか。由真は肩を揺り動かされ、ゆっくりと目を開けた。
「由真……由真!」
「梨杏……? なんでここに?」
「何でじゃないわよ……めちゃくちゃ心配したし、めちゃくちゃ探したんだから」
「……別に、地図アプリ使えば一人で帰れたのに」
「そういうことじゃないってば……浩兄からも話聞いたし……」
 由真はゆっくりと上半身を起こした。いまは何時なのだろうか。空を見る限り、ここにきてからそれほど時間は経っていないようには見える。
「大丈夫? 動けそう?」
「うん……」
 体は重かった。動けたとしてもここから動きたくはなかった。家に帰ったところでどうなるというのだ。学校を途中で抜けたことを咎められるかもしれないし、兄とは顔を合わせにくい。由真は再び砂浜の上に横たわった。
「ていうか由真、その腕……! 誰かにやられたの⁉︎」
 梨杏が慌てた声を上げる。由真は一瞬首を傾げてから、ああ、と呟いた。
「誰にもやられてないよ」
「え、じゃあ転んだとか……」
 由真は首を横に振る。梨杏が由真を見下ろしたまま、呆然と呟いた。
「何で……こんなこと」
 由真は何も答えずに、梨杏から目を逸らした。
「ねぇ、由真……」
 梨杏がしゃがみ込むと、今度は由真が立ち上がる。由真は左腕に右手で触れながら波音に掻き消されそうなほど小さな声で答える。
「……うるさかった、から」
 きっと梨杏には理解できないだろう、と由真は思った。いや誰も理解なんてしてはくれない。自分がしたことと、それが普通の行動でないことはわかっていた。そして痛みをほとんど感じなかったことも。
「こんなことしないで」
「梨杏には関係ないじゃん」
「関係あるわよ! 私は由真が傷つくところなんて見たくない! 怪我するのも誰かに傷つけられるのも自分で傷つけるのも全部嫌!」
「何で梨杏のためにそんなことしなきゃいけないの? 私の体なんだから私の自由にさせてよ!」
 右手の指に力が入り、塞がり始めていた傷から再び赤く丸い血が浮く。由真も本当は嫌だった。梨杏が傷つくところなど見たくはなかった。それなのに――傷つけてしまう。
「私のことなんて……何もわかってないくせに!」
「由真……」
「わかるわけないよね。だって梨杏は私と違ってバケモノなんかじゃない!」
「私は……由真のこと、バケモノなんて思ってない」
「どうやってそれを信じればいいって言うの?」
 能力者と無能力者。ただ特殊な力を使えるというだけで、種を宿しているというだけで、それ以外は同じ人間同士なのに、両者の間には線が引かれている。同じ場所にいても区切られて、一緒にいることはできない。
 その線を引いたのは誰なのか?
 由真は梨杏に背を向け、海へ向かって歩いていく。スニーカーの爪先が海水に包まれたところで、梨杏が由真の腕を掴んだ。
「信じなくてもいい。私が勝手に、由真を友達だと思ってるだけだから。だから――こんなこともうしないで。もっと自分を大事にしてよ!」
 由真は自分の心が急速に冷えていくのを感じていた。けれどそれが何故なのか、自分でも説明することはできなかった。だから何も言わずに梨杏の手を振り払う。
「……ほっといてよ、もう」
「放っておけるわけないでしょ。由真は私の友達――」
「私は、友達だなんて思ってない」
 それが嘘かどうかすら、もうわからなくなっていた。ただ、一人になりたかった。梨杏の目が見開かれて、その目から透明な雫が溢れ出る。
「だからもう、私のことは忘れて」
 由真はそのまま梨杏に背を向けて、海の中へ歩き始めた。足首まで海水に浸かったところで立ち止まる。梨杏がまだそこにいて由真を見ていることを背中で感じる。けれど由真は頑なに振り返らなかった。
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。梨杏の足音が遠ざかっていく。これでいいんだ――由真はいつの間にか陽が沈んでいた空に目を向ける。空の低いところにある満月が海を照らして、淡い光の道を作り出している。けれどそこに向かって歩いたところで月に辿り着くことなどできないのはとうの昔にわかっていた。
 ゆっくりと振り返ると、そこには誰もいない。線を引いたのは由真自身だ。梨杏は何度も引いた線を踏み越えてきた。だから踏み越えられないほど深い線を引いた。これは望んでいた結果だ。自分と離れれば、梨杏は無能力者として平穏な日々を送れるのだから。
「……っ」
 それでも、投げつけた酷い言葉に涙を流した梨杏の顔が頭から離れなかった。梨杏が本当のことを言っていることはわかっている。心から由真のことを心配しているし、友達だと思ってくれていたのだろう。
「梨杏……っ!」
 自分でやったことなのに、あとからあとから涙が溢れ出して止まらなくなる。由真はその場にしゃがみ込んだ。戻ってきて欲しいわけではない。ただ後悔だけが押し寄せてくる。
 傷つけたいわけではなかった。傷つくのは自分だけでよかったのだ。それなのに、どうしようもないほどに傷つけてしまった。そのことが心に重くのしかかり、体が少しずつ沈んでいくように感じた。ふくらはぎの中ほどまでが水に浸かり、服が水を吸って重くなっていく。
「――柊さん?」
 不意に上から聞こえてきた声に、由真は驚いて顔を上げた。
「角田さん……」
「やはり柊さんでしたか。今しがたこの上の道を車で走っていたのですが、あなたの姿が見えたような気がしましてね」
 角田は革靴を履いているにも関わらず海に浸かり、スラックスの裾を濡らしながらもしゃがみ込む。
「……ほっといてよ、私のことなんか」
「何があったかは知りませんが、職業柄、泣いている子供は放っておけない質なんです」
「私のことなんてどうだっていいでしょ。角田さんには、あの家の子たちがいる」
「私にとっては、柊さんもあの家の仲間ですよ」
「でも、最近行ってないし……」
 能力を使わないようにしてからは足が向かなくなった。もう忘れられているかもしれないとさえ思っていた。しかし角田は柔らかく微笑む。
「いつでも、来たいときに来ればいいんです。今の生活がどうしようもなくつらくなったときの逃げ場所でもあるんですから」
「逃げ場所……」
「どんな人間も、逃げ場がなければ苦しくなってしまいます。ありのままの自分で、自然でいられる場所。能力者の子供は生まれながらにそれを奪われてしまっている場合が多い」
 あの場所は確かに暖かかった。けれど自分の能力が、他の能力者の寿命を縮めるものかもしれないと知ったあと、どこか引け目を感じてしまって行くことができなかった。それでも、今このまま家に帰るよりは――。
「帰りたくないのなら、今日だけ泊まっていってもいいんですよ。ご家族には私から連絡することもできます」
 帰りたくはなかった。学校を抜け出してしまったことは知られているだろうし、何より兄と顔を合わせたくなかった。自分でも自分がわからなくなって、使わないと決めていた力を使ってしまった。あのとき兄が見せた一瞬の表情。その目の奥の恐怖の色が脳裏をよぎって、胸が締め付けられるような気がした。
「……今日だけ、行ってもいい?」
「構いませんよ」
 由真は角田の手を借りて立ち上がる。今日一日だけ。由真はそう考えていた。明日、落ち着いたら家に帰ればいい。そしてまた日常に戻っていけば――。

 しかしそれは甘い考えだったのだと、それからすぐに思い知らされた。
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