完結‼️翡翠の歌姫は 後宮で声を隠す〜特殊な眼を持つ歌姫が、2人の皇子と出会い、陰謀に巻き込まれながら王家の隠した真実に迫る

雪城 冴

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百章 パラレルワールド

4-7 雨のぬかるみで……

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 行軍が始まり十日が経とうとしていたが、悪天候が続いている。
 今日も朝日が昇らぬ朝がくる。天幕てんまくを叩く雨音が響く。
 天幕てんまく内は水浸しだった。皆震えながら這い出す。


 火がつかないため、今朝も温かいものにはありつけそうもない。
 干し肉と乾飯が支給される。翠蓮は手を合わせて口に運んだ。
 硬い。


(ううん……食べられるだけありがたいよね)
 意外にも、翠蓮はこの過酷な状況に適応できていた。

(楽府に入ってから、少しは私も強くなったのかな……)
 孤児と嘲られ、衣装を破かれ、後宮では命を狙われたことさえある。
 辛かったが、それが今の自分を形作っているなら、『あの経験も無駄ではなかった』と前向きに捉えられる。


 近くで、新兵の楊秋ヨウシュウが、一口かじっただけの干し肉を見つめている。翠蓮は思わず声をかける。

「大丈夫? 食べにくいよね……」

「うん……」

 よく見ると楊秋は震えていた。
 油布ゆふ外套がいとうと竹笠だけでは、雨は防ぎきれない。
 葉が落ちるこの季節、雨は体力を確実に奪っていく。

 他の兵も例外ではない。
 この数日だけで、既に数名が、怪我や病気で脱落していた。



 あまり慰めにならないと思いながらも、翠蓮は独り言のように呟く。
「今日の夜には、要塞ようさいに着くね」
 要塞に着いても、屋根のある場所で寝られるのはほんの一握り。その他の兵は野営だ。

 翠蓮は、小さく裂いた干し肉を楊秋に手渡す。

 楊秋は干し肉を一口、二口、口に入れ、手を止めて、弱々しく翠蓮を見た。

「ありがとう、翠蓮……」


「ううん、全部食べなくて大丈夫だよ……」


 食事が済むと、女性小隊長の玲玲レイレイが点呼を取る。

「今日は雨が強くなりそうだ。足場に気をつけるように」

 兵たちは黙って持ち場に着いた。


◇ ◆

 夕刻が近づいてきた頃、玲玲レイレイの言葉通り、大きな雨粒が兵たちを打ち始めた。

 泥に足を取られ、全体の歩行はゆったりとし、後衛の中でも、荷の多い軍医などは後れを取っていた。

 翠蓮も、徐々に足が重くなってきたのを感じていた。


 翠蓮の視線は、荷車の横をよろよろと歩く楊秋に止まる。かなり速度が落ちてきている。
 彼の後ろで数名の兵が詰まり始めた。

 荷車の後ろで指揮を執っていた逸龍イーロンが、楊秋に声を荒げる。

「何してんだのろま! 付いてこられないなら避けてろ!」
 
 翠蓮は胸が痛んだ。
 だが、言葉遣いは別にしても逸龍イーロンの主張は正しい。それが分かるのか、楊秋は歯を食いしばり、なんとか調子を戻している。


 道は緩やかな下り坂に入る。

(危ない……!)

 荷車を押す兵の一人が足を滑らせ、泥がはねる。低いうめき声が響く。
 逸龍は前に駆け出し、止まりかけた兵たちに大声で叫ぶ。
「おい、遅れるな!」

 翠蓮が後ろを見ると、軍医は遥か遠くに小さく見えるだけだった。

(応急処置だけでも……)
 張り詰めた空気の中、翠蓮は負傷兵の傍に進み出た。

「おい、余計なことすんなよ……!」

 背後から逸龍イーロンに怒鳴られ、翠蓮は一瞬肩を震わせる。
 しかし、負傷兵はよほど痛むのか、顔を歪めている。放っておけなかった。


 直ぐに足に添え木をし、包帯を巻きつける。
 出発前はピンと来なかったが、いざとなれば身体が動くのは訓練の賜物だ。

 負傷兵は、初日に翠蓮に絡んできた男だった。

「この前は悪かったな……」
 申し訳なさそうにする男に、あえて翠蓮は返事をしなかった。代わりに、包帯の端をきゅっと結び、微笑んだ。

「何もしないよりは、いいと思うんですけど……」


 翠蓮は立ち上がり、怒っているであろう逸龍イーロンに頭を下げる。怖くて目は見られなかった。

「すみません。勝手をしました……」


「ふん……さっさと持ち場に戻れ」
 意外にもその一言で済ませると、逸龍イーロンは負傷兵に肩を貸す。そして、顎で楊秋に合図を送る。

「おい! おまえ代わりに入れ」

「は……はい!」
 楊秋は荷車を必死に押しているように見えたが、動かない。
 どうやら車輪がぬかるみにハマってしまったようだ。


 雨は一層激しくなり、夕闇と相まって視界を遮る。遠くではゴロゴロと雷鳴が轟いている。

 逸龍も加勢する。
 皆必死に押しているのだろうが、翠蓮の目には、てんでに体当りしているように見えた。
(呼吸さえあえば……)


「くそっ……!」
 逸龍が力なく腕を下ろしかけた時、翠蓮は手で拍子を取り始めた。

 楊秋が、その拍子に合わせ小さく声を出す。逸龍イーロンは、ハッと目を見開いた。
「そうか……皆、掛け声だ!"二"のタイミングで押せよ!!」

「一,二! 一,二!……」

 兵たちは掛け声に合わせ、荷車を押し始める。車輪が、わずかに前へ進む。

「いいぞ! もう少しだ!」

 ゴトンっと音がし、車輪が抜けた。
 小さく歓声が上がり、翠蓮もほっと一息ついた。

「ほら! 油断すんなよ!」
 そういう逸龍イーロンの声にも、明るさが戻っている。


「大丈夫かー!」
 騒ぎを聞きつけた後衛隊長が、前方から大声で状況を尋ねる。逸龍も軽く手を上げ、負けじと声を張る。
「負傷者一名! 荷は問題なしです!」

 返答を終えた逸龍が、ふいに後方を振り返る。
 翠蓮はまた怒鳴られるのではと、咄嗟に手を後ろに隠してしまう。

 逸龍はぼそっと呟く。

「助かった……」

 そのひと言で、翠蓮の胸は温かい気持ちに満たされた。
 雨は徐々に弱まってきていた。
 

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