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百章 パラレルワールド
4-10 手当て
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空が白む頃――いつもより早い時間だというのに、翠蓮は完全に目が覚めていた。
部屋は、野営とはやはり違った。冷えも、地面の硬さも、周りの喧騒もない。
それなのに眠った気がしないのはなぜなのか。
休めと言ってくれた。だけど、それは刃としてだ。
軍歌に限れ――
炎辰の冷たい声が耳に蘇る。
翠蓮は自分の喉に手を当てる。
「私の歌って……」
不意に蒼瑛のことが胸によぎる。守られたくない、強くありたいと思うのに、結局離れても、彼の存在そのものが自分の救いになっていた。
ふと外を見ると、いつもより活動している兵が多いように思えた。胸騒ぎがして、そっと外に出た。
玲玲が、どこか緊張した顔で火の傍に座っている。
「玲玲隊長、何かあったんですか?」
「ああ、前線軍の状態が良くないらしく……
夜明けを待たずに、我々の軍から兵が出た」
「それって……」
玲玲は安心させるように笑顔を作った。
「なに、もともと兵の補給はする予定だったんだ。少し早まっただけと思えばいい」
そう言うと、翠蓮の頭を撫でてくれた。
(すごいな……落ち着いていらっしゃる)
ちょうど楊秋が起き出してきた。彼は玲玲と対照的に、眉を寄せ、泣き出しそうな表情だ。
「玲玲隊長……僕たちも、そ、その……出陣したりするんですかね?」
「まぁ、無いとは言い切れないが……戦前に出るのは前衛からが定石だからな」
その言葉に、楊秋はほっと一息ついた。
玲玲は髪を高い位置で結い直す。長い髪が揺れて凛々しい。そろそろ後衛も動き出すころだ。
しかし、医療班の方が騒がしい。
奥から出てきた軍医が、指揮官と何やら相談している。しばらくやりとりすると、指揮官がこちらに向かってきた。
「負傷者多数につき、本日は要塞に留まる。手の空いている者は医班に従事するように」
周囲の者は息を飲み、場には重々しい空気が垂れ込める。行軍が初めての翠蓮にも、良くない状況であることが伝わってきた。
翠蓮は小柚と共に、医療班の元へ向かった。入口で女医が近づいてきてテキパキと二人に指示する。
「あなた達は、手当補助と雑務をお願いね」
足を踏み入れると、そこには思った以上に負傷者が詰め込まれていた。血の臭いと薬の香りが混じり、あちこちで唸るような声が響く。
驚く翠蓮を横目に女医は言う。
「この程度で驚いてられないわよ。これからどんどん増えて、そのうち入り切らなくなるかも」
(そんなに……)
翠蓮たちは主に、軽傷兵の手当を担当することになった。
軽傷とは言え、流血は当たり前。
綿に薬草の煮汁を染み込ませ、傷口の血や汚れをそっと拭き取る。 その上から包帯を巻き、軽く固定する。翠蓮の手は震えていた。
(痛いよね……ごめんなさい)
思わず心の中で謝ってしまう。兵士の方は、顔はしかめるが、どの者も弱音は吐かない。気づけば翠蓮は冷や汗が止まらなくなっていた。
負傷者の一人に声をかけられる。
「おい、大丈夫かよ……」
「す、すみません手際が悪くて……」
「いや、すぐ慣れるさ」
(慣れる――)
兵の方も、怪我に慣れているのだろう。大したことはないんだという口調で言ってくれた。だが、この状況に慣れるというのは良いことなのだろうか。
(いや、ちゃんと集中しないと。心配かけてどうするの……!)
翠蓮は、ぐっと唇を結び手当てに集中した。湿った汗が額から頬に伝い、手先が少しかすれる。翠蓮はそれでも手を止めなかった。
手当てが一段落したのは、昼を大分回った頃だった。
小柚が雑穀粥を片手にやって来る。
「はい、これ。翠蓮姐、大丈夫だった?」
二人は部屋の片隅に腰を下ろし、手早く粥をかきこむ。
「うん、なんとか……」
小柚は、思いついたように手を打つ。
「そうだ、翠蓮姐なら歌があるじゃない?故郷の歌とか、皆喜ぶよ!」
翠蓮は胸がすっと冷たくなった。
「うん、でも……今日から軍歌だけを歌うことになっているんだ……」
その時、指揮官が炎辰と劉剣を連れて入ってきた。
場の空気が引き締まり、皆黙って将軍たちの様子を観察している。
指揮官は軍医に尋ねる。
「どんな様子かな。軽傷兵は」
「ひとまず手当は終えております」
「では、問題なさそうだな?」
軍医が頷くと、指揮官は周りを見回す。翠蓮を見つけると声をかけてきた。
「ここにいたのか。すまないが……歌ってもらえるかな?」
「ここでですか?」
「あぁ、軽傷兵はまた前線に戻るんだよ。ぜひ軍歌で鼓舞してもらえたらと思ってね」
「前線に……戻る……」
翠蓮は言葉を失った。
軽傷とは言え、日常ではあり得ないような怪我だ。転んだ擦り傷とはわけが違う。
その負傷兵を戦の最中に戻す――
彼らのなかには、今度こそ生きて帰らない者もいるだろう。
(その背中を、私が押すの……?)
視線を感じる。その先には炎辰がいた。
命令だ――
彼の冷たい目は、そう言ったように聞こえた。
翠蓮は冷静に自分の役割を思い出す。
やはり、歌わないわけにはいかない。
(命令されたからじゃない……)
翠蓮は国のため軍のために、自分の意志でここにいるのだから。
思い切り息を吸い、声が枯れるのではないかと思うほど、力の限り歌う。
前へ進め、恐れるな、敵を射よ
そんな詞を口に出す度に、胸を刺されるようだ。
(だけど、本当に痛いのは私じゃない……)
安全な場所で、こんな歌を歌っている自分は、一体何者なのか。
刃――
それも自分は傷つかず傷つけず、綺麗なままの研がれた刃。
気づきたくなかった。知らぬふりをしたかった。だけど、もう何も知らずに歌っていた頃には戻れなかった。
兵士たちは誰もが黙りこくって翠蓮の歌を聞いていた。彼らは何を思うのだろうか。
歌い終わっても拍手はなかった。
翠蓮も動けなかった。
劉剣が足を踏み出しかける。
炎辰はそれを制し、自らが翠蓮に歩み寄った。
彼は翠蓮の肩に手を置き、低い声を落とす。
「よくやった」
褒められはしたが、翠蓮はなんの感情も動かなかった。むしろ炎辰の手が、自分の罪を暴くかのように、重く重くのしかかった。
部屋は、野営とはやはり違った。冷えも、地面の硬さも、周りの喧騒もない。
それなのに眠った気がしないのはなぜなのか。
休めと言ってくれた。だけど、それは刃としてだ。
軍歌に限れ――
炎辰の冷たい声が耳に蘇る。
翠蓮は自分の喉に手を当てる。
「私の歌って……」
不意に蒼瑛のことが胸によぎる。守られたくない、強くありたいと思うのに、結局離れても、彼の存在そのものが自分の救いになっていた。
ふと外を見ると、いつもより活動している兵が多いように思えた。胸騒ぎがして、そっと外に出た。
玲玲が、どこか緊張した顔で火の傍に座っている。
「玲玲隊長、何かあったんですか?」
「ああ、前線軍の状態が良くないらしく……
夜明けを待たずに、我々の軍から兵が出た」
「それって……」
玲玲は安心させるように笑顔を作った。
「なに、もともと兵の補給はする予定だったんだ。少し早まっただけと思えばいい」
そう言うと、翠蓮の頭を撫でてくれた。
(すごいな……落ち着いていらっしゃる)
ちょうど楊秋が起き出してきた。彼は玲玲と対照的に、眉を寄せ、泣き出しそうな表情だ。
「玲玲隊長……僕たちも、そ、その……出陣したりするんですかね?」
「まぁ、無いとは言い切れないが……戦前に出るのは前衛からが定石だからな」
その言葉に、楊秋はほっと一息ついた。
玲玲は髪を高い位置で結い直す。長い髪が揺れて凛々しい。そろそろ後衛も動き出すころだ。
しかし、医療班の方が騒がしい。
奥から出てきた軍医が、指揮官と何やら相談している。しばらくやりとりすると、指揮官がこちらに向かってきた。
「負傷者多数につき、本日は要塞に留まる。手の空いている者は医班に従事するように」
周囲の者は息を飲み、場には重々しい空気が垂れ込める。行軍が初めての翠蓮にも、良くない状況であることが伝わってきた。
翠蓮は小柚と共に、医療班の元へ向かった。入口で女医が近づいてきてテキパキと二人に指示する。
「あなた達は、手当補助と雑務をお願いね」
足を踏み入れると、そこには思った以上に負傷者が詰め込まれていた。血の臭いと薬の香りが混じり、あちこちで唸るような声が響く。
驚く翠蓮を横目に女医は言う。
「この程度で驚いてられないわよ。これからどんどん増えて、そのうち入り切らなくなるかも」
(そんなに……)
翠蓮たちは主に、軽傷兵の手当を担当することになった。
軽傷とは言え、流血は当たり前。
綿に薬草の煮汁を染み込ませ、傷口の血や汚れをそっと拭き取る。 その上から包帯を巻き、軽く固定する。翠蓮の手は震えていた。
(痛いよね……ごめんなさい)
思わず心の中で謝ってしまう。兵士の方は、顔はしかめるが、どの者も弱音は吐かない。気づけば翠蓮は冷や汗が止まらなくなっていた。
負傷者の一人に声をかけられる。
「おい、大丈夫かよ……」
「す、すみません手際が悪くて……」
「いや、すぐ慣れるさ」
(慣れる――)
兵の方も、怪我に慣れているのだろう。大したことはないんだという口調で言ってくれた。だが、この状況に慣れるというのは良いことなのだろうか。
(いや、ちゃんと集中しないと。心配かけてどうするの……!)
翠蓮は、ぐっと唇を結び手当てに集中した。湿った汗が額から頬に伝い、手先が少しかすれる。翠蓮はそれでも手を止めなかった。
手当てが一段落したのは、昼を大分回った頃だった。
小柚が雑穀粥を片手にやって来る。
「はい、これ。翠蓮姐、大丈夫だった?」
二人は部屋の片隅に腰を下ろし、手早く粥をかきこむ。
「うん、なんとか……」
小柚は、思いついたように手を打つ。
「そうだ、翠蓮姐なら歌があるじゃない?故郷の歌とか、皆喜ぶよ!」
翠蓮は胸がすっと冷たくなった。
「うん、でも……今日から軍歌だけを歌うことになっているんだ……」
その時、指揮官が炎辰と劉剣を連れて入ってきた。
場の空気が引き締まり、皆黙って将軍たちの様子を観察している。
指揮官は軍医に尋ねる。
「どんな様子かな。軽傷兵は」
「ひとまず手当は終えております」
「では、問題なさそうだな?」
軍医が頷くと、指揮官は周りを見回す。翠蓮を見つけると声をかけてきた。
「ここにいたのか。すまないが……歌ってもらえるかな?」
「ここでですか?」
「あぁ、軽傷兵はまた前線に戻るんだよ。ぜひ軍歌で鼓舞してもらえたらと思ってね」
「前線に……戻る……」
翠蓮は言葉を失った。
軽傷とは言え、日常ではあり得ないような怪我だ。転んだ擦り傷とはわけが違う。
その負傷兵を戦の最中に戻す――
彼らのなかには、今度こそ生きて帰らない者もいるだろう。
(その背中を、私が押すの……?)
視線を感じる。その先には炎辰がいた。
命令だ――
彼の冷たい目は、そう言ったように聞こえた。
翠蓮は冷静に自分の役割を思い出す。
やはり、歌わないわけにはいかない。
(命令されたからじゃない……)
翠蓮は国のため軍のために、自分の意志でここにいるのだから。
思い切り息を吸い、声が枯れるのではないかと思うほど、力の限り歌う。
前へ進め、恐れるな、敵を射よ
そんな詞を口に出す度に、胸を刺されるようだ。
(だけど、本当に痛いのは私じゃない……)
安全な場所で、こんな歌を歌っている自分は、一体何者なのか。
刃――
それも自分は傷つかず傷つけず、綺麗なままの研がれた刃。
気づきたくなかった。知らぬふりをしたかった。だけど、もう何も知らずに歌っていた頃には戻れなかった。
兵士たちは誰もが黙りこくって翠蓮の歌を聞いていた。彼らは何を思うのだろうか。
歌い終わっても拍手はなかった。
翠蓮も動けなかった。
劉剣が足を踏み出しかける。
炎辰はそれを制し、自らが翠蓮に歩み寄った。
彼は翠蓮の肩に手を置き、低い声を落とす。
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