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百章 パラレルワールド
4-18 火の粉が爆ぜて
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長老と薬師は部屋を出ていた。
炎辰は急変することもなく、4人の空間には静かな時間が流れている。
火がくすぶる音、呼吸音、衣擦れ音――
誰も、何も、ものを言わない。
あまりに静かで、ぴんと張った細い糸の上を鋭利な靴で渡っているよう。
翠蓮にできることは、その糸が途切れていないか確認することだけ。
温もりが失われていないか手を当て、胸の上下を確認しては、ほっとする。
毛布を何度もかけ直し、減ってもいない火鉢の炭を変える。
何かしていないと、どうにかなりそうだった。
劉剣は忙しなく動く翠蓮と炎辰をぼうっと見ていたが、耐えられなくなったのか声をかけた。
「そんなに動くと傷に障るだろう」
翠蓮は動きを止めて左肩に目をやる。
そういえばすっかり忘れていた。
「利き腕と逆なので……」
言いかけたが、劉剣は珍しく怒っていた。
「そういう問題じゃないって……とにかく、見てるこっちが痛くなってくる。
眠れとは言わないから、とにかくじっとしててくれ」
軍医が釘を刺す。
「朝方再度処置しましょう。その時傷口が開いていると、気絶するほど痛みますよ」
「……」
再び部屋に静寂が戻る。
仕方がないので、翠蓮は火鉢の横に座ってじっと火の粉を見たり、火箸で炭を崩して時間が過ぎるのを待った。
軍医は脈をとっては紙に書き付けていたが、不意にぴくっと筆を揺らした。
緊張が走る。
軍医は素早く炎辰の額、続いて首筋に手を置く。
「熱が上がっています」
翠蓮が思わず炎辰のそばに寄り確かめると、その肌は燃えるように熱い。
表情も眉を寄せ、息が荒い。
それを見ているだけで、翠蓮は胸が苦しくなる。
「感染症かもしれません……ですが、今は少しずつ冷やすくらいしかできませぬ」
翠蓮はスッと立ち上がる。
「水を汲んできます」
「おい、その肩で無茶言うなよ。俺が行く」
翠蓮は本当は、ここで炎辰と向き合うことのほうが怖かった。
もしかしたらこのまま――
「炎辰に付いてやってくれよ」
劉剣は、震える翠蓮を宥め部屋を出て行く。閉まった扉を見つめていると、背後からごほっと咳き込む音がした。
振り向くと赤いものが炎辰の口元を汚している。
一瞬何が起きたか分からずただ見つめる。
呼吸を邪魔しないよう、軍医は急いで炎辰を横向きにする。
血――
やっと理解が追いついてくる。
なにか出来ることは、と思うのに頭が働かない。震える袖元で炎辰の口元を拭うのが精一杯だった。
そこへ扉を軋ませ、劉剣が飛び込んできた。状況を察すると、劉剣は桶から手を離し扉を閉めるのも忘れ炎辰に寄る。
「おい! 炎辰!」
「だめです、動かさないでください」
軍医は、炎辰を揺さぶる劉剣を後ろから必死に取り押さえる。
翠蓮にはその光景の全てが、現実のものと信じられなかった。
どんな時も周りに気遣いを忘れぬ劉剣が、半狂乱になり炎辰を呼び止めている。
湿った咳が聞こえ、炎辰は再び血を吐いた。
翠蓮は完全に自分を見失い、気づけば炎辰の手を握り、覆いかぶさるように身を寄せていた。
「起きてください! お願い……」
翠蓮の必死の声に、炎辰はぴくっとまぶたを動かす。
軍医ははっと口を開く。
「翠蓮殿の声に反応しています! 何でもいい……歌ってください」
「そんな、こんな時に……」
「こんな時だからです! もう医でできる範疇は超えました!」
翠蓮の中で何かが砕け散る――
これは、歌で兵を前線に送り出した罰だとでも言うのだろうか。
それなら、敵の刀に天命を任せたかった。そうすれば炎辰をこんなに苦しめることもなかった。
不意に炎辰の声が聞こえた。
「いい……」
固まる翠蓮に、静かな声が再び届く。
「歌うな……もう、いい」
彼の視線は、劉剣でも軍医でもなく、泣き崩れかけている翠蓮だけを捉えていた。
その目もそっと閉じていく。呼吸も表情も穏やかに変わっていく。
良くなっているわけではないと、翠蓮は直感した。炎辰は最期に向かっているのだ。
翠蓮は強く首を振る。
「……置いていかないで」
炎辰は、翠蓮に歌を強いた。
その上で"共犯だ"と、罪を"理解してやれる"と言った。
なのに今になって、歌うなと言い、一人で逝こうとしている。
――まるで翠蓮の罪を引き受けるかのように
冷たい胸の奥に、怒りの炎が静かに揺らめく。
「許さない……」
何かが砕け散ったのではない。
翠蓮は、明確な意志を持って、迷い、恐れ、嘆きの全てを叩き壊した。
翠蓮の目には涙だけではない、強い意志が宿っていた。
炎辰は急変することもなく、4人の空間には静かな時間が流れている。
火がくすぶる音、呼吸音、衣擦れ音――
誰も、何も、ものを言わない。
あまりに静かで、ぴんと張った細い糸の上を鋭利な靴で渡っているよう。
翠蓮にできることは、その糸が途切れていないか確認することだけ。
温もりが失われていないか手を当て、胸の上下を確認しては、ほっとする。
毛布を何度もかけ直し、減ってもいない火鉢の炭を変える。
何かしていないと、どうにかなりそうだった。
劉剣は忙しなく動く翠蓮と炎辰をぼうっと見ていたが、耐えられなくなったのか声をかけた。
「そんなに動くと傷に障るだろう」
翠蓮は動きを止めて左肩に目をやる。
そういえばすっかり忘れていた。
「利き腕と逆なので……」
言いかけたが、劉剣は珍しく怒っていた。
「そういう問題じゃないって……とにかく、見てるこっちが痛くなってくる。
眠れとは言わないから、とにかくじっとしててくれ」
軍医が釘を刺す。
「朝方再度処置しましょう。その時傷口が開いていると、気絶するほど痛みますよ」
「……」
再び部屋に静寂が戻る。
仕方がないので、翠蓮は火鉢の横に座ってじっと火の粉を見たり、火箸で炭を崩して時間が過ぎるのを待った。
軍医は脈をとっては紙に書き付けていたが、不意にぴくっと筆を揺らした。
緊張が走る。
軍医は素早く炎辰の額、続いて首筋に手を置く。
「熱が上がっています」
翠蓮が思わず炎辰のそばに寄り確かめると、その肌は燃えるように熱い。
表情も眉を寄せ、息が荒い。
それを見ているだけで、翠蓮は胸が苦しくなる。
「感染症かもしれません……ですが、今は少しずつ冷やすくらいしかできませぬ」
翠蓮はスッと立ち上がる。
「水を汲んできます」
「おい、その肩で無茶言うなよ。俺が行く」
翠蓮は本当は、ここで炎辰と向き合うことのほうが怖かった。
もしかしたらこのまま――
「炎辰に付いてやってくれよ」
劉剣は、震える翠蓮を宥め部屋を出て行く。閉まった扉を見つめていると、背後からごほっと咳き込む音がした。
振り向くと赤いものが炎辰の口元を汚している。
一瞬何が起きたか分からずただ見つめる。
呼吸を邪魔しないよう、軍医は急いで炎辰を横向きにする。
血――
やっと理解が追いついてくる。
なにか出来ることは、と思うのに頭が働かない。震える袖元で炎辰の口元を拭うのが精一杯だった。
そこへ扉を軋ませ、劉剣が飛び込んできた。状況を察すると、劉剣は桶から手を離し扉を閉めるのも忘れ炎辰に寄る。
「おい! 炎辰!」
「だめです、動かさないでください」
軍医は、炎辰を揺さぶる劉剣を後ろから必死に取り押さえる。
翠蓮にはその光景の全てが、現実のものと信じられなかった。
どんな時も周りに気遣いを忘れぬ劉剣が、半狂乱になり炎辰を呼び止めている。
湿った咳が聞こえ、炎辰は再び血を吐いた。
翠蓮は完全に自分を見失い、気づけば炎辰の手を握り、覆いかぶさるように身を寄せていた。
「起きてください! お願い……」
翠蓮の必死の声に、炎辰はぴくっとまぶたを動かす。
軍医ははっと口を開く。
「翠蓮殿の声に反応しています! 何でもいい……歌ってください」
「そんな、こんな時に……」
「こんな時だからです! もう医でできる範疇は超えました!」
翠蓮の中で何かが砕け散る――
これは、歌で兵を前線に送り出した罰だとでも言うのだろうか。
それなら、敵の刀に天命を任せたかった。そうすれば炎辰をこんなに苦しめることもなかった。
不意に炎辰の声が聞こえた。
「いい……」
固まる翠蓮に、静かな声が再び届く。
「歌うな……もう、いい」
彼の視線は、劉剣でも軍医でもなく、泣き崩れかけている翠蓮だけを捉えていた。
その目もそっと閉じていく。呼吸も表情も穏やかに変わっていく。
良くなっているわけではないと、翠蓮は直感した。炎辰は最期に向かっているのだ。
翠蓮は強く首を振る。
「……置いていかないで」
炎辰は、翠蓮に歌を強いた。
その上で"共犯だ"と、罪を"理解してやれる"と言った。
なのに今になって、歌うなと言い、一人で逝こうとしている。
――まるで翠蓮の罪を引き受けるかのように
冷たい胸の奥に、怒りの炎が静かに揺らめく。
「許さない……」
何かが砕け散ったのではない。
翠蓮は、明確な意志を持って、迷い、恐れ、嘆きの全てを叩き壊した。
翠蓮の目には涙だけではない、強い意志が宿っていた。
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