5 / 55
出会いはシンガポール
傷心旅行の理由②
しおりを挟む春。
私たちは新社会人となった。
語学堪能で秘書検定も持っているとはいえ、新入社員となれば覚えることは山ほどある。
毎日のように先輩に叱られたり失敗して落ち込んだりで、一日一日を過ごすのが精一杯。
正直言って蓮斗と会う余裕がなくなった。
それなのに、蓮斗の生活はまったく変わらない。
毎日のように「飲みに行こう」「泊りに来い」と誘われ、仕事で断ることが増えた私との間で喧嘩が絶えなかった。
それでも、四月、五月は何とかごまかし、日々かかってくる電話に「ごめんね」と言いながら週末を2人で過ごした。
そんな蓮斗の様子がおかしくなったのは六月に入った頃。
それまで頻繁にあった電話やメールがこなくなった。
初めは蓮斗も仕事が忙しくなったのかなって気に留めていなかったけれど、そのうちに周囲から嫌なうわさが聞こえてきた。
「蓮斗って大会社の社長の息子らしいわよ。いいわよねえ、遊んでいていいところに就職して、将来だって保証されているんだから」
「だからって、あいつはサイテー。親の金で遊び歩いて、彼女がいるのに何人ものガールフレンドがいるって噂よ。本当に女の敵だわ」
「でも、蓮斗と同じところに就職した子の話では全然仕事をしないんですって。二、三年したら親の会社に帰るんだからってやる気がなくて、使い物にならないって言われているらしいわ」
どれもこれも初めて聞く話で驚いた半面、なんとなく納得もできた。
今まで不思議に思いながら自分で蓋をしてきたことが腑に落ちた。
六月末のある日、私は蓮斗のマンションを訪れた。
その頃にはお互いの連絡も途絶えがちで付き合いも事実上消滅したような状態だったため、いい加減整理をしなくてはと思い立っての行動だった。
連絡もせずに向かったから蓮斗がいないかもとは思ったけれど、もしそうなら預かっていたキーを置いて自分の私物を持って帰るつもりだった。
マンションの外から見て部屋の明かりはついていた。
蓮斗がいるのだろうと部屋の前まで行き、チャイムを鳴らした。
何度もしつこく鳴らすうちに、
ガチャッ。
玄関の鍵が開いた。
「蓮斗、私」
「め、芽衣?」
慌てたような声のあと少しだけ開いたドア。
その隙間から見えた玄関に女性もののハイヒールがあった。
もちろん、それは私のものじゃない。
「ごめん、鍵を返しに来ただけだから」
私は蓮斗の手に預かっていたスペアキーを乗せ、駆け出した。
いきなり来た私が悪いのかもしれない。
仕事が忙しくてなかなか会えないから、蓮斗の気持ちが覚めてしまったのかもしれない。
それでも、見たくなかった。
大通りまでの道を走って行って、タクシーを拾った。
その間も蓮斗が追いかけてくることはなかった。
数日後、いつもと変わらず食事をしようとメールが来た。
先日のことには一切触れず何もなかったかのような内容に少し困惑した。
それでも、四年も付き合った人だから最後くらいはちゃんと話をしようと会うことにした。
蓮斗の部屋で会うのは気が引けて、待ち合わせたのは駅前のカフェ。
「もう終わりにしましょう」
きっと蓮斗も同じ気持ちだろうと私の方から切り出した。
しかし、
「嫌だよ」
「え?」
「俺は分かれないよ」
「だって・・・新しい彼女がいるよね?」
この間マンションに入れていたじゃない。
「あれはただの友達」
「そんな馬鹿な・・・」
「俺は芽衣と別れないよ」
いくら話してもらちが明かず、「とにかく私は分かれます」と言い切ってカフェを出た。
それからしばらくはメールも電話もなかったから納得してもらったと思っていたのに、七月に入っていたずら電話や迷惑メール、会社のホームページにまで私を誹謗する書き込みが始まった。
初めのうちは私も我慢していた。
けれど、内容も頻度もどんどんエスカレートしていって次第に会社にも居づらくなり、8月末には会社を退職した。
もともと蓮斗の口利きで縁故入社したところだったから近いうちにやめなくてはと思っていたけれど、負けて辞めるようなやり方には悔しさが残った。
でも、仕方がない。今は蓮斗と縁を切ることだけ考えようと、アパートも1kの狭いところに引っ越しをした。
これで心機一転。
臨時採用だけれど新しい仕事も決まって来月から働きだす。
その前に、自分への気持ちにけじめをつける意味で私はシンガポールにやってきた。
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
54
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる