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第三章 父の異変

69,衝撃

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 レイが俺の方を眺めている様子が横目に映る。真剣な声で、話を続けた。

「一つだけ、聞いてほしいの」
「なんだ?」
「ヒルスも、  自分のことを大事にしてほしい」
「えっ。どういう意味だ?」
「言ってる通りだよ。辛かったら、私にも頼ってほしいの。私はいつもヒルスに支えてもらっているから」

 思いがけない話だった。もう一度彼女に目線を戻すと、レイはこの上なく柔らかい表情を浮かべているんだ。
 内心、舞い上がっていた。レイからの優しい言葉を受け取っただけで、こんなにも心が躍るなんて。

 だが──レイはまだ十五歳だ。七歳年下の妹を支えていくのは当然のこと。俺がレイに心配してもらう必要なんてない。
 俺は自分の中に気持ちを閉じ込めてしまう。

「俺は平気だよ」
「でも……」
「お前と違って、もう大人だからな? それよりも冷えるな。そろそろ戻ろうか」
「うん……」

 レイはぎこちなく頷いた。
 家に向かって歩き始めると、レイの握る手の力が若干強くなる。

「ねえ、ヒルス」
「ん?」
「寒いから手繋いだままでもいい?」

 甘えたような声色だった。そんな風にレイに言われてしまうと、俺はなぜだか急に恥ずかしくなる。

「な、なんでだよ」
「だってね、小さい頃お父さんと一緒に外を歩いたときはいつもこうやって手を繋いでもらったよ」

 レイは嬉しそうに話すんだ。
 幼い頃、父と近所などを散歩した思い出が甦る。レイと出会う前のことだ。辛い出来事があっても、父は俺にいつも優しく接してくれた。
 意図せず、目尻が熱くなる。

「俺も、覚えてる。懐かしいな」
「でしょ? ヒルスの手もお父さんみたいにあったかいよね。どんなに寒くたって、全然平気」 
「ああ……父さんの手はいつもあったかかったな……」

 彼女が笑っている。俺の手を強く握ってきて、嬉しいはずなのに──なんだか虚しくなった。

(俺は父さんの代わりにすぎないのか?)

 なぜかモヤモヤした。いや、ついさっきも自分の中で整理したはずだ。俺は義理でもレイの兄で、家族なんだ。こんなことで落ち込むのはおかしい。
 どうにか気持ちを抑え込む。

「仕方ない、少しだけだぞ……」

 ツンとした言いかたをしてしまったが、実際は心臓がバクバクして煩わしかった。なんだかんだでレイに甘えられると嬉しくなってしまう。
 本当に俺の感情は意味不明だ。あざとい妹に翻弄され、いちいち胸を高鳴らせる。兄として接していかなければいけないのに。

 手を繋いだまま、ゆったりした気分でレイと共に家に帰る。
 あれこれ考え込んでいるが、結局のところ俺は彼女と過ごす時間が好きだ。幸せ気分で自宅に戻り、玄関ドアを開けると──晴れやかな心が一気にどんより雲に変わってしまう事態が起きていた。

「何だこれは!」「どうしてベッドが濡れているんだ!」「ズボンもこんなにびしょびしょだぞ」

 父の叫び声が両親の寝室から連続して聞こえてきた。普段あまり大声を出さない父が珍しい。
 俺とレイは急いで寝室へと向かう。

 そこで目にしたものは──父が部屋の中を右往左往しながら狼狽える姿だった。なぜだか下半身をほぼ露出させ、足元やベッドが濡れてしまっているのだ。
 一瞬、息をするのを忘れる。だがこのショッキングな光景から目隠しさせるように、俺はさりげなく彼女の前に立った。  
 レイは口に手を当て、絶句している。

 叫び続ける父の横で、母は汚れてしまった床を雑巾で必死に拭こうとしているところだった。

「あなた、落ち着いて。大丈夫だから。濡れたところは拭いて乾かせば大丈夫よ」

 母は優しく父に声をかけるが、悲しみと戸惑いを隠せない様子だ。  
 しかしレイはすぐに母のそばへ駆け寄り、シーツを剥がしてベッドの濡れた部分を雑巾で拭き始める。
 父をなだめ、俺は替えの下着とズボンを取り出した。

「向こうで着替えようか」

 別室へ行き、父の着替えを手伝ってやった。
 だけど父はずっとぼんやりしている。自分のしたことが最後まで理解していないようだ。

 ──のちに聞いた話によると「トイレがない」「ここはどこだ」「トイレがなくなった!」と騒ぐ声で母が目を覚まし、急いでトイレまで連れて行こうと手を引いたが、父はベッドに座り込んで動かなくなり、そのまま粗相をしてしまったという。
 母の瞳が悲嘆にくれている。
 俺もレイも、この事態に相当な衝撃を受けた。
 
 本当はその場にいた全員が分かっていた。今、父の身に何が起こっているのかを。けれど、誰も何も口に出して話そうとはしなかった。

 その日はできる限り笑顔で過ごした。どれだけ不安を抱えても、原因が明白になるまでは希望を捨てきれなかったんだと思う。
 虚しい現実逃避だ。



 それから数日が経った。
 俺は意を決した。父に「健康診断へ行こう」 とそれとなく誘う。
 最初は嫌がられたが、すぐに終わるからと俺がしつこく言い続けると渋々承諾してくれた。

 ──担当医は淡々とした人だった。
 問診から始まり、血圧測定や発語、聴力、更には歩行状態なども詳しく診られた。父は不服そうな顔をして「どうしてこんなことをするんだ」と文句を言い続ける。
 どうにか俺は父を落ち着かせながら、MRIなどのさまざまな検査も受けさせた。

 全てのチェックが終わり、結果が出ると──俺は、俺たちは唖然としてしまった。父は案の定「アルツハイマー病」と診断されたからだ。  

 結果なんて言われる前から分かっていたはずだ。それなのに、改めて診断結果を知ってしまうと、どうしようもないくらいショックだった。これからの未来がどうなってしまうのかと考えると、不安で不安でたまらない。グリマルディ家の生活が大きく変わるきっかけとなってしまったのだから。
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