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第七章 彼女を想うヒルスの物語

122,ロイの過去①

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 ──ロイとシスターが出会ったのは、今から十年ほど前の話。

 ある日商店街へ買い物に出かけていたシスターは、小さな男の子──当時四歳のロイが果物屋で店主に怒鳴られている現場を目撃した。
 よくよく見てみると、ロイの小さな手の中にはりんごが一つ。それを指差して「金がないのにどういうつもりだ」と目くじらを立てて叫ぶ店主の姿があった。

 どうやらこの子は万引きをしようとしてしまったのだろう、とシスターはすぐさま察する。

 涙目になって何も言えないでいるロイに近づき、シスターは優しく声を掛けたのだ。

「君、悪いことだって分かる?」
「……うん」

 ロイは小さく頷いたが、とても元気のない暗い声だった。

「りんごのお代はわたしが支払います。どうかお許しを……」

 その場は何とか店主の怒りを鎮めたが、ロイの様子を見てシスターは心配になった。

「お腹が空いているの?」
「……うん」
「お父さんとお母さんはどこ?」
「ぼくにおとうさんはいないよ」
「……そうなの。それじゃあお母さんは?」
「おかあさんは、わからない」
「分からないって?」

 シスターは首を捻るが、ロイはそれ以上の話はしてくれない。りんごを大切そうに握りしめ、ロイは逃げるようにその場を立ち去ってしまったのだ。
 あんなに小さな男の子が一人で外を歩いているのはおかしいし危険だ。シスターは必死になってロイの姿を追うが、結局彼の姿を見失ってしまう。

 ──数日後。同じ商店街でシスターはロイとの再会を果たす。だが、全く喜ばしい話ではなかった。
 なんとロイは、今度はパンを盗もうとしていたのである。しかも、この時も母親の姿はどこにもない。
 ロイが着ていた服は、以前彼に会った時と全く同じもので匂いや汚れが酷いもの。

 パン屋の店員に怒鳴られるロイに近づき、シスターは頭を下げた。

「わたしがお代を払います。どうか許してください」
「なんだ、あんた。こいつの母親か」
「いえ、そうではありませんが。放っておけなくて……」
「関わらないほうがいいぜ、こんなガキ。こいつはここらの店をウロウロしていつも何かを盗むんだ。社会のゴミだ、このクソガキは!」

 店員が言い放ったその一言を聞いた時、シスターの中で何かの太い糸がぶち切れた。

「それは言いすぎです。大人なら言葉に気をつけて下さい。たしかにこの子はお店の物を盗もうとしました。しかし何か事情があるのかもしれません」
「事情があっても許されねえ!」
「分かっています。あなたの言う通り。だから、この子にはもう盗みをしないとわたしが約束させます。なのでゴミなどいう言葉、二度とこの子に向かって言わないでもらえますか」

 シスターは圧のかかった口調で店員にそう言うと、代金を支払ってその場をあとにした。

 近くの公園にロイを連れて行き、ベンチに座らせてパンを手渡すと、彼はものすごい勢いで食らいついていた。
 ロイがパンを完食した後、シスターは彼に目線を合わせ、優しい声で話しかける。

「どうしてあなたは、ものを盗もうとするの?」
「……」

 顔を逸らし、何も話さないロイの目はどこか怯えているようにも見えた。

「今日もお母さんはいないの?」
「……わからない」
「どうして分からないの?」
「……おかあさんは、いつもしらないおとこのひとといっしょに、どこかへいっちゃうから」

 寂しさに染められたロイの瞳の色を、シスターは今でも忘れられないでいる。

 その日ロイを家に送ろうとしたが、彼の家の状況を見てシスターは驚愕させられた。家の中は荒れ放題で大量のゴミが放置されており、部屋中が不衛生な状態。冷蔵庫の中もほぼ空っぽの状態で、そんな場所でロイが一人ぼっちで過ごしているなど信じられない。
 このような家にロイを置いてはいけないと判断したシスターは、その日孤児院に彼を連れて帰ることにしたのだ。その時のロイの様子は、どことなく安堵したような、緊張が解れたような、少しだけ表情が柔らかくなっていた。

 後日ロイの母親となんとか連絡を取ったシスターは、孤児院で面談の約束を取り付けた。
 母親は孤児院に来るなり「面倒だから早く終わらせて」「ボーイフレンドを待たせているから」 などと言って、温厚なシスターでさえも苛々してしまうような酷い態度であったという。
 それでもシスターは自らの心情を表に出さずに、丁寧に母親と話をした。

「ロイ君のことでお話があります」
「うん、何か問題あった?」
「彼はいつもお腹を空かせています。商店街で食べ物を盗もうとしているところを何度も見掛けました。お母様はその件について、どう思われますか?」
「どうって……知らないわよ。あいつが勝手にしたんでしょ?」
「ロイ君はあなたが帰ってきてくれないと言っています。普段、ロイ君の食事はどうされているのでしょうか」
「適当にパンとか置いていってるわよ。足りなくなったらまた家に寄ってテーブルに置いていくし」
「……お母様は随分お忙しいのですね? お仕事が大変なのですか?」
「仕事? 仕事はしたりしなかったりかな。彼が全部お金出してくれるし」
「……それではなぜ、ロイ君のそばにいてあげないのですか」
「いや、彼があたしに会いたいって言うからさ。あの人、ガキが嫌いだし。だからロイに留守番してもらってるの。大丈夫よ、ロイはいい子だから一人で留守番出来るし、文句も言わないしね」
「そういう問題ではないんですよ、お母さん。ロイ君はまだ四歳です。彼にはあなたが必要なのですよ」
「はあ。もう、しつこいなあ。そんなこと、ロイが言ったわけ? 関係ない人があたしたち親子のことに首突っ込まないでくれる? とにかくロイが腹減ってるなら、もう少し多めにご飯のストック置いていくから。そうすればあとは自分で何とかするでしょう? 彼を待たせてるの。もう行っていいですか?」
「……そうですか。分かりました」

 その時、シスターはこう思った。

 ──この母親は、自分が親という自覚がまるでない。

 これは立派なネグレクトだ。母親が今の生活態度を正さないのなら、ロイを孤児院に引き取ることも視野に入れるしかない、と。

 そして、その後もシスターは幾度となく母親と面会を重ねたが、一切聞く耳を持たずに終わる。
 男に取り憑かれた、親になりきれない女だったのだ。
 だから正式にロイを孤児院に引き取られることが決定しても、女はすんなりと受け入れ、二度とロイの前に姿を現すこともしなかった。

 ロイ本人は、母親と絶縁することになったのを知った時、初めは戸惑うように泣き喚いていた。しかし、幼いながらも母親に自分が必要とされていないことに薄々気づいていたのだろう。シスターが優しくロイを抱きしめると彼は小さな声で、

「こうやってだれかにギュッとしてもらうの、ぼくはじめてだよ。すごくやさしいきもちになれるんだね」

 この言葉を、シスターは今でも忘れることなく心にしまっている。
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