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第八章 それぞれの想い

145,彼女を傷つけた女

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「ヒルス先生、本日もありがとうございました」
「ああ、お疲れ。来週の大会が楽しみだな、ロイ」

 みっちり四時間、マンツーマンで俺のレッスンを受けていたロイは、全身汗でびっしょりだった。練習場内は熱気で溢れ返っている。
 タオルで体を拭くロイの表情は満足気だ。

「ロイが十五歳以下の大会に出られるのは今年で最後になるな」
「そうですね、せっかくだから良い結果を残せるようにしたいです」

 キリッとした笑顔で、ロイは言うんだ。

 更衣室にも行かずに、俺たちはその場で着替え始める。いちいち移動するのが面倒なので二人の時はいつもそうだ。ロイと会話をする機会も多くなる。

「ヒルス先生。レイさんが十八歳になったら、プロデビューするんですよね。凄く楽しみですね」

 ロイの何気ない一言に、俺はハッとした。
「そうだな」と堅くなって返事をするが、今の俺はきっと苦い笑いを浮かべている。

「モラレスさんの新曲に、ヒルス先生もバックダンサーとして出演するんですよね! 本当におめでとうございます」

 目を輝かせるロイを前にして、俺の視界は霞んでいく。

 ──結局あの日俺たちは断りきれず、勢いに負けて半強制的にモラレスのバックダンサーとして踊ることになってしまった。
 俺はイントラの仕事があるのを理由に次の新曲のみ踊る契約となったが、レイはこれから何年も専属ダンサーとして活動する。不安や心配事は残ったままだ。

「まあ、断れなかったのが本音なんだけどな」
「えっ、乗り気ではなかったのですか?」

 ロイが目を見開くのをよそに、俺は静かに頷いた。

「ロイも知っているんだろう。レイには複雑な事情があるんだ。有名になった後を考えると、あまり前向きになれなくてな」
「……そうですか」

 ロイの表情が少しばかり曇っていく。それでも、すぐにパッと顔をあげてにこやかに俺の顔を見るんだ。

「あの。ヒルス先生」
「ん?」
「ボクが言うのも失礼かもしれないんですけど……」
「どうした?」

 白のTシャツに着替えてからロイは急に真顔になり、背筋を伸ばして続きを口にする。

「ヒルス先生は心からレイさん想っているんですよね」
「えっ」

 俺は言葉に詰まってしまう。そんな台詞をロイに言われるなんて思いもしなかった。
 ロイは俯き加減になり、小さく拳を握りしめた。

「すみません、ヒルス先生。以前、ボクはあんなことを……。レイさんが好きだなんて先生に言ってしまって。とても失礼でしたよね」
「いや、それは」
「本当に生意気でした。レイさんはいつだってヒルス先生しか見ていません。先生の隣りにいる時のレイさんは、他の誰にも見せない優しい笑顔を浮かべています。もちろん、ヒルス先生も同じです」

 俺の顔は、どんどん熱くなっていく。頬もきっと赤くなっているだろう。

「あんな風に言いましたけど、ボクはレイさんとどうこうなりたいとか、そんなことは一切考えていません。ヒルス先生を心から尊敬していますし、レイさんの笑顔も大好きです。だからこそお二人にはこれからも仲良くしていてほしいし、幸せになってもらいたいんです」

 真っ直ぐに俺の瞳を見るロイの顔は至って真剣だ。

「……と言っても、ボクがレイさんに対する『好き』の感情は、恋とは違う全く別の意味もあるかもしれません」
「えっ?」
「レイさんはボクと同じ孤児院出身です。同じような境遇で、なんとなく親近感があるような気がして。レイさん自身は、孤児院にいた頃の記憶はないのに……」

 ロイは少し眉を八の字にしながら「笑っちゃいますよね」と口角を緩める。
 俺はそんなロイに対して首を横に振り、「そんなことはない」ときっぱり否定した。

「レイ自身は覚えていなくても、事実を知っている。それに心の奥底では大きく傷ついているからな……」

 ロイにも聞こえないほどの声量で、俺はポツリと呟いた。

 ──レイが幼かった頃、彼女は「怖い夢を見た」と夜な夜な怯えていることが幾度となくあった。夢の内容を聞く限り、彼女が赤子の頃生みの親に酷い仕打ちをされていた出来事だと俺は今になっても思う。
 覚えていないだけで、レイの記憶の奥底ではしっかりとトラウマとして残ってしまっているんだ。
 現在は夜中に魘されることはなくなったが、いつ彼女の心が再びあのトラウマを呼び起こしてしまうのか分からない。だから俺は、その時は彼女の支えになってやりたいと強く思っている。

「それにしても、ロイはどうしてレイの事情を知っていたんだ? シスターから聞いたのか」

 素朴な疑問を俺が投げ掛けると、ロイは首を大きく横に振った。それから、声を暗くして答えるんだ。

「いえ。あの人から……。メイリーさんから聞かされました」
「メイリー……だと?」
「はい。実はボク、ジャスティン先生の弟子になる前、ダンススクールに通っていたんですよ」
「そうか……」

 あの女の名を聞き、俺の心臓はドクッと唸り声を上げる。顔を思い出しただけで反吐が出そうだ。
 ロイの瞳の色が、今までにないほどに抜けていく。

「あの人はレイさんを執拗なほどに敵視していたみたいですね。ニヤニヤしながら、メイリーさんはある日突然ぼくにこんなことを言ってきたんです」

『レイって元孤児で、親ともヒルスとも血が繋がってないらしいわよ。家族だと思っていた人たちが、ただの赤の他人だったなんて可哀想よね。本当に不幸な子だよ』

「馬鹿にしたような言い草で話すメイリーさんに、ボクは心底ムカつきましたね。思わず反論してしまいましたよ」

『何が可哀想なんですか? 血が繋がっていないから本物の家族でないという理論でもあるんですか? それに、元孤児だからって不幸なわけでもないですよね。そうやって偏見でしか物事を考えられない人がよっぽど可哀想です』

「ボクがそう言うとメイリーさんは機嫌が悪くなってしまい、数日間まともに口を聞いてくれなくなりましたよ。まあ、ボクはああいう人あまり好きじゃないんで、どうでもよかったんですけど」

 淡々と話すロイの表情までも、完全に輝きが失われていた。普段は爽やかなロイが、こんなにも厳しい口調になるのは珍しい。

「あの人、怒るとすぐ態度に出すし何をしでかすか分かりません。特にレイさんのことに関してはいつも嫌味ばかり言っていて、ボクも他の仲間たちもうんざりしていました。だからヒルス先生、あの人には気をつけてくださいね」
「……ああ、そうだな」

 気をつけなければいけないのは分かっている。だけどもう、手遅れだ。
 レイには事実が伝えられてしまったのだから。

 ──新スクールを見学したあの日の帰り道、元気のないレイに俺はちゃんと話をしたんだ。

「もうメイリーとはこの先ずっと関わるな。連絡も取らなくていいし、二人で会うことも絶対にしないで」

 するとレイは、しっかり俺の目を見て大きく頷いていた。

「大丈夫だよ、ヒルス。私もそのつもりではいるから。自分を傷つけてくる人なんかと仲良くしたくないし、これから先二度と会うこともしない」

 レイがそんな風に言うのは、正直俺も意外だった。
 いつも誰とでも良い人間関係を築こうとするレイが、初めて誰かを拒絶する言葉を口にしたのだから。

 だけどレイの言うことは正しいと思う。

 どうして自分を傷つけてくる人間にまで優しくする必要がある? 相手が自分を否定してくるなら、その時点でその人との関係はこの先も上手くいく可能性は低い。そんな人間には、深く関わる意味なんて何もない。
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