誰よりも優しく抱いたのに、その優しさが君を傷つけた

氷月

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Lesson10 君が泣いた夜のあとで

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──朝。

まぶたの裏に、白い光が滲んでいた。

天井を見上げる。

俺ん家じゃない。

白を基調とした天井、壁。

やわらかい寝具の匂い。

隣に気配を感じて、そっと首を向けた。

……来栖が眠っていた。

穏やかな寝息。

乱れた前髪の隙間から覗く長い睫毛。

薄い唇に、朝の光が落ちる。

(……まぶしい。イケメンすぎる。泊まったのか、俺……?)

ゆっくりと息を吸い込んだ瞬間、来栖のまぶたが開く。

「おはよう、リツ。」

低く掠れた声。

寝起きなのに、艶っぽい。

「……お、おはようございます。」

視線を逸らすと、胸の鼓動が妙にうるさく響いた。

来栖が軽く笑う。

「昨日さ、泣きながら俺に懐いてきたの、覚えてる?」

「お、覚えてません……」

嘘だった。

あのときの温度、まだ腕の奥に残っている。

「腕枕して寝たんだよ? 寂しいって言うからさ。」

「……っ、すみません。恥ずかしい俺……」

頬が熱い。

来栖は少し体を起こし、リツの髪を梳いた。

「恥ずかしがることないよ。人は誰だって、誰かに寄りかかって生きてる。」

その声がやさしくて、また胸がぎゅっと締めつけられる。

「ご飯、作るけど。手伝ってくれる?」

「はい……もちろん。」

布団から出ると、床の冷たさが現実を連れ戻した。

けれど、心のどこかが不思議と軽い。

昨夜、抱きしめてもらった瞬間、

張り詰めていた何かが、音もなくほどけていった。

(……誰かに甘えるって、こんなにも心地いいんだ。)

来栖の背中越しに見える朝の光は、

まるで新しい始まりを告げるように、

静かに部屋を染めていた。

朝食ー

湯気の立つコーヒーの香りが、まだ冷たい空気に溶けていく。

トマトを添えたオムレツ。マッシュポテト、カリカリに焼いたベーコン。サーモンのカルパッチョ。こんがり色づいたトーストの上で、バターがゆっくりと溶けていく。

リツが向かいに座り、手を合わせた。

「……いただきます」

その声がやけに素直で、胸の奥が静かに揺れた。

「美味しいだろ?」

コーヒーを一口含みながら、軽く髪をかきあげる。

「はい……ずっとウーバーとか、外食ばっかだったんで……

めちゃくちゃ美味しいです。」

「なんだよ、それ。ちゃんと食べなきゃダメだろ?」

自然に笑うと、リツも小さく笑った。

その笑顔が――やけに眩しい。

沈黙が少しだけ続いた。

フォークの音が、ゆっくりと皿を叩く。

「来栖さんって……恋人いないんすか?」

コーヒーを飲もうとした手が、わずかに止まった。

リツの瞳が真っ直ぐで、冗談でもなく、ただ純粋にそう尋ねてくる。

「……いたけど、もういない。」

低い声で答える。

(恋なんて、とうに終わったと思ってたのに――)

だけど、目の前のリツが、無防備な笑顔で「そうなんすね」と微笑むたび、

その“終わったはず”の感情が、胸の奥で静かに息を吹き返す。

「でもな……」

来栖はコーヒーカップを飲みながら、

少しだけ視線を落とした。

「誰かに“美味しい”って言われるの、久しぶりだ。」

その言葉に、リツが照れたように目を逸らした。

頬に赤が差す。

(……ああ、やばいな。こんな朝、久しくなかった。)

ほんの一瞬、リツの手に自分の指先が触れた。

その微かな体温に――心臓が、わずかに跳ねた。

(寂しくなったら、いつでも俺んとこに来い。)

昨日の言葉が、まだ唇に残っていた。

リツはフォークを置き、

少し迷ったあとで、真っ直ぐに顔を上げた。

「……来栖さん。」

「ん?」

「また……来ていいですか?」

「……え?」

「なんか、安心するんです。ここ。」

リツの声は小さくて、

でも確かに心の奥から出た言葉だった。

その瞬間、

来栖の胸の奥で、何かが静かに弾けた。

(……可愛い子だな、ほんと。)

来栖は笑って、

ゆっくりとコーヒーを置いた。

「当たり前だろ。

……寂しくなったら、いつでも来い。」

リツは照れたように目を伏せ、

「はい」とだけ答えた。

カーテン越しの朝日が、

テーブルの上のコーヒーを金色に照らしていた。

来栖はその光の中で、

静かに心の中で呟いた。

(あぁ、俺……たぶん、もう逃げられねぇな。)

朝食を終えたあと――

リツが「ごちそうさまでした」と笑って玄関を出る。

ドアが閉まる音がして、

来栖はしばらくその場に立ち尽くしていた。

テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、

リツが座っていた椅子のぬくもり。

(……やれやれ。何歳になっても、心ってやつは勝手だな。)

来栖はスマホを手に取り、

無意識にリュウの名前をタップした。

『リツ… 僕が面倒見ていいかしら?

なんかね……目が離せなくなったわ。』

直ぐに既読…

『任せる。

……惚れたか?……あいつ、根は優しいからな。

来栖なら安心だ。』

(やっぱり見抜かれてるか……ほんと、あの子の周りは厄介ね。)

それでも――

胸の奥に残るあの笑顔と、

「また来ていいですか?」の声が、

何度も何度も、リフレインしていた。

来栖はそのメッセージを見て、

ふっと笑いながらコーヒーを一口。

「やっぱり、いい男ね。……ほんとに、リュウは。」

画面の明かりが静かに消える。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、

空になったカップを照らしていた。


次へ続く
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