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第二章 冬のグリンウッド
ハーブ男爵家の地下室(2)
しおりを挟むミシミシと音の鳴る階段を下りたイアンは、周りを見回しながらつぶやいた。
「――なんだここは……」
明かり取りの小さな窓の他にはランプがひとつあるだけの、狭い地下室。むき出しの石壁は、全体的に黒く煤けている。
部屋の隅に目をやると、通気口と二つの鍋が置かれたコンロ台。足元に並べられているのは木炭の箱か。
中央にあるのは、小さなテーブルと椅子。二つ並んだ大きな箱はベッドの代わりなのだろう、人の形に凹んでいる。
その他には薬棚と水がめがあるだけの、狭い部屋。
いや、部屋というよりは、牢獄、と呼ぶほうがしっくりくる――。
「イアン様、ここを見てください」
モーリスがテーブルと椅子を指さした。
暗くてわかりにくいが、無数の傷がついているのが見て取れた。
椅子の背もたれのところが特にひどく、血痕と思われる赤黒いものまでこびりついている。
「これは?」
聞きたくない答えを半ば予想しながら訊ねたイアンに、モーリスが静かに告げた。
「鞭の痕です。おそらく馬に用いる革製の鞭でしょう。人間の皮膚なら、何度か叩けば皮が破けます」
やはりそうか。
イアンは、ぐっと唇を噛み締める。
王国で随一の品質、と言われるハーブ家の薬。あれはこんな劣悪な環境で、少女が鞭打たれながら作っていたのだ。
グリンウッド家の屋敷で見た、深緑色の髪にボロボロの肌を化粧で隠した顔が脳裏に浮かぶ。
彼女は、こんな目に遭っていたことなどおくびにも出さず、オスカーにどんなに否定されても、前を向こうと頑張っていた。
――なんて強いんだろう。
ああいう子は、とびきりの笑顔にしてやりたい。
「それと、これは帳簿を見てわかったんですがね……。彼女、一度も薬を与えられた形跡がないんですよ」
モーリスが言いにくそうに告げた。
「一度もか?」
「はい。材料の薬草も完成した薬も、詳細に管理されていました。驚くほど大量の薬が作られていましたが、全て販売に回されていたようです。まあ、美容薬と育毛薬だけは、あの一家が湯水のように使っていましたが」
つまり、彼女は病気になろうが鞭で打たれて怪我をしようが、ずっと放置されていたわけだ。
作った薬を全て取り上げられて。
「――許せないな」
こんな理不尽が許されていいはずがない。
陶器のように美しい肌を持ち、豪奢なドレスと宝石で着飾ったディアナとその両親を思い浮かべ、イアンは憤りの言葉を口にする。
そう――悪は罰せられなければならない。
この気持ちは、決して私怨ではないはずだ。
しかし、貴族の家庭に、司法は立ち入れない。
貴族家への司法の不介入、というやつだ。
どんなにひどい虐待があったとしても、それが貴族の家庭内のことである限り、国の法は及ばない。
「これからどうしますかい?」
モーリスが訊ねた。
イアンは目の前に意識を戻す。
「どうするって、もちろん奴らの罪を追求するさ。でっちあげじゃなくて、本当の罪をな。――で、お前は何をしてるんだ?」
答えながらモーリスに目を向けると、彼は棚に置かれた瓶をいくつか手に取り、背負い袋の中に入れていた。
「いえね。ここを見つけた時に薬が並んでいるのを見つけたんですけど、袋を忘れておりましてね」
「なんだ、最初から戻ってくるつもりだったのか」
イアンの言葉に、モーリスが頭を掻いた。
「そうなんすよ。でも、イアン様も来てよかったでしょ?」
「まあ、そうだな。――で、こいつらは売り物じゃないのか?」
「帳簿を調べたら、最後の十日間は凄まじい量が作られてましてね、材料が多めに渡されてました。指示されたよりも多く作れたんで、お嬢さんはここに置いといたんでしょうな」
「そうか。まじめな子なんだな」
「この家の連中より先に見つけられてよかったですよ。美容薬と育毛薬と回復薬……。これでよしと。さあ、そろそろ出ましょうか」
用を終えた二人が裏口から出ようとした時、屋敷のほうから騒がしい声が聞こえてきた。
「ディアナ! どこにいる! イアン様は帰られたのか?」
どうやらハーブ夫妻が戻って来たらしい。イアンとモーリスは息を殺し、親娘の会話に耳をそばだてた。
「どうしましたの、お父様?」
「どうもこうもない! 司法省がうちの薬を捜査するらしい。やめていただくように、イアン様に頼んでくれないか?」
「そんな恥ずかしいこと、絶対にイヤですわ! わたくしとは無関係ですもの」
「そう言わずに。家の一大事なのだ」
「知りませんわ。薬のことなら、全てあれがやったことではありませんの?」
ディアナの冷ややかな声が聞こえた、と思った瞬間、大きな笑い声が響き渡った。
「なるほど! 確かにそうだな! うむ、ディアナはやはり頭がいい。薬を作っていたのは、あれ一人だ。わしらは何も知らずに売っていただけ。そうだな、エヴィル?」
「ええ、その通りですとも。あっ、それなら帳簿も正しく作り直さなくては」
「うむ。あの小屋ごと焼いて埋めてしまおう。でかしたぞ、ディアナ」
「あら、何のことですの? わたくし、薬のことなんて何も知りませんわ」
「ぐわっはっはっ、確かにそうだ。我々は何も知らない。おかしな薬を知らずに売っていたのだ。よし、善は急げだ。すぐに手を打とう」
庭に出てくる気配を感じ、イアンとモーリスは裏口からそっと外に出た。
捜査令状もなく貴族の家にいたとなれば、こちらが不法侵入で訴えられかねない。
「間一髪でしたなぁ。明日にはあの小屋、無くなりますぜ」
「ああ、そうだな」
馬車に揺られながら、イアンは遠くの友人に想いを馳せた。
最近受け取った手紙には、彼のリリア嬢――つまりはディアナへの想いが切々と書かれていた。
(お前こそあの地下室を見るべきだったぞ、オスカー)
しかし、その機会は永遠に失われそうだ。
どうすれば友人の目を覚まさせてやれるだろうか――そう思いながら、イアンは遠ざかるハーブ家の屋敷を眺めていた。
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