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縁の決戦編
海の都――ミスティリア
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荒野を裂くように、ひとりの少年が駆けていた。
肺が焼けるほど息を絞り出し、全身を血と泥で汚しながら――ただ逃げる。
追われているわけではなかった。
それでも、逃げなければならなかった。
恐怖そのものから。
少年の額には――黒い角が二本、鋭く伸びていた。
鬼人族の証。
だが、それは誇りではなく、呪いの烙印のように思えた。
「はっ……はぁ……っ」
足がもつれ、少年は荒野の石に躓いて、転がるように倒れ込んだ。
砂利が肌を裂き、体が重くてすぐには起き上がれない。
その瞬間――脳裏が焼け付くようにあの光景が蘇る。
──そいつは、突然現れた。
夜の帳を裂くように。
獣のような息をしていた鬼人たちが一斉に動きを止める。
「貴様ら、俺に従え」
ただひとりの男が現れた。
黒の鎧を纏い、冷たい瞳をし、黒の勇者と名乗る存在。
その傲慢な態度に怒り狂う鬼人たちが飛びかかる。
しかし次の瞬間、血飛沫が舞い、肉片が散った。
圧倒的だった。
強すぎるほどに。
少年の胸に焼き付いている。
そして――。
「俺が相手だ」
鬼人族最強の戦士である兄が、たった一人でその男に挑んだ。
大剣と大槍がぶつかり合い、荒野が震えた。
互いに体を削り合い、限界を越え――兄は倒れた。
その亡骸に手を伸ばす間もない。
男は兄の角をもぎ取った。
そして、ためらいもなく喰らった。
その瞬間、男の額に黒き一本角が生える。
そしてその瞳は冷たく、底なしの狂気を宿していた。
「従わない鬼は皆殺しだ」
鬼人族は蹂躙された。
忠誠を誓った者だけを引き連れて、黒き勇者は去っていった。
少年はただ、死体の山に埋もれるように隠れることしかできなかった。
だから今、走っている。
生きるために、兄の仇から逃げるために。
「兄ちゃん……!」
少年は地面に手をついて、ようやく体を起こした。
荒野の果てでひとり、その瞳には溢れる涙。
その涙には――恐怖と、悔しさと、燃え残る誇りがあった。
少年の足は、まだ止まらなかった。
乾いた風が頬を打ち、砂が舞う。
目指す先は――人間の国、王都。
そこしかなかった。
以前、王都の使者が集落へ訪れたことがある。
その時は、鬼人族の大人たちは声を上げて笑い飛ばした。
「人間が、我らに協力を求めるとは。愚かしい……」
だが、使者は確かに言っていた。
世界は徐々に滅び始めている。
各種族に協力を求めたい―― と。
あの時は誰も信じなかった。
鬼人族は誇り高く、他種族の力を借りるなどあり得ぬと信じていた。
――だが。
喉が焼ける。胸が締め付けられる。
誇り高かった一族は、たったひとりの男に蹂躙された。
抵抗した者は皆殺され、忠誠を誓った者は奴隷のように従わされた。
残されたのは、逃げた自分だけ。
もう、誇りなんてどうでもいい。
生きるために。 そして――黒き勇者へ報せるためにも。
(王都なら……助けてくれるかもしれない)
淡く脆すぎる希望だった。
それでも、少年の足を動かすには十分だった。
太陽の下、ひび割れた荒野を、黒角の少年はただひたむきに走る。
荒れ果てた世界に、たったひとつの願いを抱きながら。
いつの日か必ず――兄ちゃんの仇を討つ。
その想いだけが、少年を王都へと駆り立てていた。
何日走り続けただろうか。
少年の足は、とうに限界を迎えていた。
荒野を駆け抜けてきた爪先は割れ、足裏の皮は剥がれ、血が乾いた茶色の筋となって残っている。
それでも前へ進もうとした――もう走る余力など残っていないのに。
虚ろな目で、ただ歩く。
「……っ」
朦朧とした視界の中で、足元の地面が揺らいだように見えた。
次の瞬間、彼の身体はふわりと宙へ投げ出される。
地面ではない――崖だ。
叫ぶ暇もなかった。
砂埃と共に転げ落ち、硬い岩肌に幾度も叩きつけられながら、底へ――そして少年の身体は、轟々と流れる激流へ飲まれた。
冷たい水が肺に入り込む。
乱暴な流れに翻弄され、息を吸う暇もなく、少年は水中へ沈んでいく。
(……ああ)
これ以上、逃げられない。
兄の仇も――取れなかった。
水の底で、少年の意識は闇へ落ちていく。
その時だった。
水を裂く影があった。
川の激流など存在しないかのように逆らい、一直線に少年へ向かって泳ぐ。
その影は少年の腕を掴むと、迷いなく水中へ消えていった。
少年は夢を見ていた。
幼い頃の記憶――鬼人族で最強と謳われた兄。
家族も、仲間も、誰もが尊敬した男。
その弟でありながら、少年は弱く、臆病だった。
同じ世代の鬼人たちにからかわれ、殴られ、泣いてばかり。
「泣くな」
その度に兄は来てくれた。
頭を撫で、優しい声で励ましてくれた。
「お前は弱くない。ただ、誰よりも優しいだけだ。誇れ、それは強さだ」
少年は兄が大好きだった。
憧れていた。
いつか兄のように強くなれると信じていた。
――そんな兄の仇も取れず。
逃げることしかできない自分。
そして今、ここで死ぬのか。
(俺は……弱いままだ……兄ちゃん)
少年は嘆いた。
誰にも気づかれず、闇に沈んでいくかのように――。
暗闇の中。
死んだはずの世界とは違う――遠く、遠くから微かに響くものがある。
歌だ。
澄んでいて、清らかで、どこか懐かしい。
気を許せば、魂まで掬われそうな、透き通った旋律。
少年の意識は、そこでようやく浮上してきた。
「……がはっ、げほっ……はぁっ!」
肺に残っていた水を、激しく吐き出す。
喉を焼くような苦しさにむせ返りながら、重たい瞼を持ち上げた。
視界に映るのは――岩肌の天井。
どうやら洞窟の中らしい。
濡れた衣服が体温を奪い、地面も冷たい。
それでも耳には、途切れることなく歌が流れ続けている。
(……歌?)
死の淵にあったはずの自分を呼び戻したその音色に、導かれるように頭を向ける。
そこにいたのは――水の精を思わせる美しい少女だった。
淡く青く透き通るような髪。
白磁のような肌には、幾つかの場所に鱗が浮かんでいる。
耳には貝殻のピアス、頭には珊瑚の髪飾り。
そして何より――歌声。
洞窟の水面が、まるで呼応するように揺れる。
その声は、川の流れよりも澄んでいて、静かで、あまりに清らかだった。
少年は、ただ呆然と見つめた。
目覚めたばかりの身では、驚くことすら追いつかない。
少女は少年が目を覚ましたことに気づくと、そっと歌を止めた。
洞窟の静寂が戻り、滴り落ちる水音だけが響く。
振り向いた少女は――迷わず歩み寄ってきた。
動きは流れるように滑らかで、まるで水が人の形を取ったようだ。
しゃがみ込んだ彼女の指先が、少年の頬に触れる。
「……っ」
冷たい。
岩に触れたような凍える冷たさなのに、不思議と拒絶感はない。
それどころか――手を振り払うことも忘れるほど、少年の視線は離れなかった。
その美しい容姿と深き海の底のような澄んだ瞳。
息が詰まり、心が奪われる。
「き、君は……誰?」
掠れる声で問う。
だが、少女は何も言わなかった。
代わりに、懐から小さな瓶を取り出す。
指先をひと振りすると、瓶の蓋が水面に溶けるように開いた。
淡く光る透明の液体。
少女はそれを――自らの口に含んだ。
その動作も水流のように滑らか。
そして彼女は迷いなく少年へ顔を寄せる。
唇が触れる、その瞬間。
ほんの一滴の液体が、少年の口元へ――スッ……と流し込まれた。
「……!」
温かい液体が喉を通ると、氷のように冷え切っていた体に熱が広がっていく。
少女は何一つ言葉を発さず、ただ救うように液体を飲ませた。
唇が離れた後も、少年の胸は熱く脈打ち続けた。
液体が喉を通り落ちた瞬間だった。
少年の体が――ぽうっと温かな光に包まれた。
「……な、なんだ……?」
光は柔らかく、炎のように揺らめきながら全身を巡り、裂けた皮膚を縫い合わせ、血の滲んだ傷を塞ぎ、冷え切った体へ再び命を吹き込む。
痛みが、消える。
息が、楽になる。
少年はただ呆然と少女を見た。
何が起きているのか理解できない。
ただ――救われているのだけは分かった。
「き、君が……?」
口にした言葉は掠れるように震えていた。
少女は答えない。
ただ、透明な微笑みを浮かべる。
光に照らされたその顔は、まるで海の底から昇る月。
少女はゆっくりと立ち上がり、洞窟の奥――泉のように澄んだ水辺へ向かう。
少年は思わず手を伸ばした。
「ま、待って……!」
だが身体は重い。
傷は治っても、疲労と寒さが体を支配し、思うように動けない。
地面に手をつき、這うように、必死に。
諦めればまた取り残される。
兄が死んだ時のように――ただ逃げ出すだけの自分に戻ってしまう。
「っ、はぁ……はぁ……!」
呼吸が荒くなる。
少女は泉の縁に立ち、ふいに振り返った。
青い水の光を受け、彼女の身体がほのかに輝く。
伸ばされた細い手は少年を待つように、優しく差し伸べられる。
少年は手を伸ばす――いや、引き寄せられた。
自分の意思などないかのように、吸い込まれるようにその手へ。
「……っ!」
震える指が少女の手を掴んだ。
少女は少年の手を強く握りしめると、そのまま――勢いよく泉へ飛び込んだ。
「うわっ――!」
ドボン、と豪快な水しぶきをあげ、冷たい水が全身を包み、少年は反射的に目を閉じる。
しかし――目を開いた瞬間、息が止まった。
「……え?」
水の中なのに、重さも痛みもない。
まるで空気の中を歩くように、少女は少年の手を引き、滑るように進んでいく。
そして――気づく。
「息が……できる……?」
肺が苦しくない、水が喉に入ってこない。
呼吸すら普通にできている。
水中のトンネルを抜けた瞬間、鮮烈な光景が広がった。
サンゴの森。
光をまとった魚の群れが海底に咲いた花のように色彩豊かで、ゆらゆらと水の中を舞っている。
まるで――海の底が楽園になったような光。
少女は迷いなく進んだ。
少年は手を引かれるままについていく。
やがて、巨大な門が現れる。
岩と貝殻と宝石が複雑に組まれた、海底神殿の門――その圧倒的な威容、ふたりはその門をくぐり抜けた。
次の瞬間、少女は少年を引いて――一気に上昇する。
ざばぁっ!
「ぷはっ!」
海面から顔を出した少年は、呼吸を荒げながら視界を上げる。
そして――息を呑んだ。
水と街が一体となった青い都。
海面を走る透明な水路、珊瑚の塔と水晶の街路、水を纏う光そのものが建物になったような幻想的な建築群。
空気から光が漏れ、水面に反射して揺らめき、街全体が輝いている。
「……なんだ……ここは」
少年の声は震えていた。
少女が静かに、淡く波の音のような声で答える。
「海の都――ミスティリア」
海人族が住まう、神秘と栄華の大都市。
少年の運命の歯車は、ここから大きく回り始めるのだった。
肺が焼けるほど息を絞り出し、全身を血と泥で汚しながら――ただ逃げる。
追われているわけではなかった。
それでも、逃げなければならなかった。
恐怖そのものから。
少年の額には――黒い角が二本、鋭く伸びていた。
鬼人族の証。
だが、それは誇りではなく、呪いの烙印のように思えた。
「はっ……はぁ……っ」
足がもつれ、少年は荒野の石に躓いて、転がるように倒れ込んだ。
砂利が肌を裂き、体が重くてすぐには起き上がれない。
その瞬間――脳裏が焼け付くようにあの光景が蘇る。
──そいつは、突然現れた。
夜の帳を裂くように。
獣のような息をしていた鬼人たちが一斉に動きを止める。
「貴様ら、俺に従え」
ただひとりの男が現れた。
黒の鎧を纏い、冷たい瞳をし、黒の勇者と名乗る存在。
その傲慢な態度に怒り狂う鬼人たちが飛びかかる。
しかし次の瞬間、血飛沫が舞い、肉片が散った。
圧倒的だった。
強すぎるほどに。
少年の胸に焼き付いている。
そして――。
「俺が相手だ」
鬼人族最強の戦士である兄が、たった一人でその男に挑んだ。
大剣と大槍がぶつかり合い、荒野が震えた。
互いに体を削り合い、限界を越え――兄は倒れた。
その亡骸に手を伸ばす間もない。
男は兄の角をもぎ取った。
そして、ためらいもなく喰らった。
その瞬間、男の額に黒き一本角が生える。
そしてその瞳は冷たく、底なしの狂気を宿していた。
「従わない鬼は皆殺しだ」
鬼人族は蹂躙された。
忠誠を誓った者だけを引き連れて、黒き勇者は去っていった。
少年はただ、死体の山に埋もれるように隠れることしかできなかった。
だから今、走っている。
生きるために、兄の仇から逃げるために。
「兄ちゃん……!」
少年は地面に手をついて、ようやく体を起こした。
荒野の果てでひとり、その瞳には溢れる涙。
その涙には――恐怖と、悔しさと、燃え残る誇りがあった。
少年の足は、まだ止まらなかった。
乾いた風が頬を打ち、砂が舞う。
目指す先は――人間の国、王都。
そこしかなかった。
以前、王都の使者が集落へ訪れたことがある。
その時は、鬼人族の大人たちは声を上げて笑い飛ばした。
「人間が、我らに協力を求めるとは。愚かしい……」
だが、使者は確かに言っていた。
世界は徐々に滅び始めている。
各種族に協力を求めたい―― と。
あの時は誰も信じなかった。
鬼人族は誇り高く、他種族の力を借りるなどあり得ぬと信じていた。
――だが。
喉が焼ける。胸が締め付けられる。
誇り高かった一族は、たったひとりの男に蹂躙された。
抵抗した者は皆殺され、忠誠を誓った者は奴隷のように従わされた。
残されたのは、逃げた自分だけ。
もう、誇りなんてどうでもいい。
生きるために。 そして――黒き勇者へ報せるためにも。
(王都なら……助けてくれるかもしれない)
淡く脆すぎる希望だった。
それでも、少年の足を動かすには十分だった。
太陽の下、ひび割れた荒野を、黒角の少年はただひたむきに走る。
荒れ果てた世界に、たったひとつの願いを抱きながら。
いつの日か必ず――兄ちゃんの仇を討つ。
その想いだけが、少年を王都へと駆り立てていた。
何日走り続けただろうか。
少年の足は、とうに限界を迎えていた。
荒野を駆け抜けてきた爪先は割れ、足裏の皮は剥がれ、血が乾いた茶色の筋となって残っている。
それでも前へ進もうとした――もう走る余力など残っていないのに。
虚ろな目で、ただ歩く。
「……っ」
朦朧とした視界の中で、足元の地面が揺らいだように見えた。
次の瞬間、彼の身体はふわりと宙へ投げ出される。
地面ではない――崖だ。
叫ぶ暇もなかった。
砂埃と共に転げ落ち、硬い岩肌に幾度も叩きつけられながら、底へ――そして少年の身体は、轟々と流れる激流へ飲まれた。
冷たい水が肺に入り込む。
乱暴な流れに翻弄され、息を吸う暇もなく、少年は水中へ沈んでいく。
(……ああ)
これ以上、逃げられない。
兄の仇も――取れなかった。
水の底で、少年の意識は闇へ落ちていく。
その時だった。
水を裂く影があった。
川の激流など存在しないかのように逆らい、一直線に少年へ向かって泳ぐ。
その影は少年の腕を掴むと、迷いなく水中へ消えていった。
少年は夢を見ていた。
幼い頃の記憶――鬼人族で最強と謳われた兄。
家族も、仲間も、誰もが尊敬した男。
その弟でありながら、少年は弱く、臆病だった。
同じ世代の鬼人たちにからかわれ、殴られ、泣いてばかり。
「泣くな」
その度に兄は来てくれた。
頭を撫で、優しい声で励ましてくれた。
「お前は弱くない。ただ、誰よりも優しいだけだ。誇れ、それは強さだ」
少年は兄が大好きだった。
憧れていた。
いつか兄のように強くなれると信じていた。
――そんな兄の仇も取れず。
逃げることしかできない自分。
そして今、ここで死ぬのか。
(俺は……弱いままだ……兄ちゃん)
少年は嘆いた。
誰にも気づかれず、闇に沈んでいくかのように――。
暗闇の中。
死んだはずの世界とは違う――遠く、遠くから微かに響くものがある。
歌だ。
澄んでいて、清らかで、どこか懐かしい。
気を許せば、魂まで掬われそうな、透き通った旋律。
少年の意識は、そこでようやく浮上してきた。
「……がはっ、げほっ……はぁっ!」
肺に残っていた水を、激しく吐き出す。
喉を焼くような苦しさにむせ返りながら、重たい瞼を持ち上げた。
視界に映るのは――岩肌の天井。
どうやら洞窟の中らしい。
濡れた衣服が体温を奪い、地面も冷たい。
それでも耳には、途切れることなく歌が流れ続けている。
(……歌?)
死の淵にあったはずの自分を呼び戻したその音色に、導かれるように頭を向ける。
そこにいたのは――水の精を思わせる美しい少女だった。
淡く青く透き通るような髪。
白磁のような肌には、幾つかの場所に鱗が浮かんでいる。
耳には貝殻のピアス、頭には珊瑚の髪飾り。
そして何より――歌声。
洞窟の水面が、まるで呼応するように揺れる。
その声は、川の流れよりも澄んでいて、静かで、あまりに清らかだった。
少年は、ただ呆然と見つめた。
目覚めたばかりの身では、驚くことすら追いつかない。
少女は少年が目を覚ましたことに気づくと、そっと歌を止めた。
洞窟の静寂が戻り、滴り落ちる水音だけが響く。
振り向いた少女は――迷わず歩み寄ってきた。
動きは流れるように滑らかで、まるで水が人の形を取ったようだ。
しゃがみ込んだ彼女の指先が、少年の頬に触れる。
「……っ」
冷たい。
岩に触れたような凍える冷たさなのに、不思議と拒絶感はない。
それどころか――手を振り払うことも忘れるほど、少年の視線は離れなかった。
その美しい容姿と深き海の底のような澄んだ瞳。
息が詰まり、心が奪われる。
「き、君は……誰?」
掠れる声で問う。
だが、少女は何も言わなかった。
代わりに、懐から小さな瓶を取り出す。
指先をひと振りすると、瓶の蓋が水面に溶けるように開いた。
淡く光る透明の液体。
少女はそれを――自らの口に含んだ。
その動作も水流のように滑らか。
そして彼女は迷いなく少年へ顔を寄せる。
唇が触れる、その瞬間。
ほんの一滴の液体が、少年の口元へ――スッ……と流し込まれた。
「……!」
温かい液体が喉を通ると、氷のように冷え切っていた体に熱が広がっていく。
少女は何一つ言葉を発さず、ただ救うように液体を飲ませた。
唇が離れた後も、少年の胸は熱く脈打ち続けた。
液体が喉を通り落ちた瞬間だった。
少年の体が――ぽうっと温かな光に包まれた。
「……な、なんだ……?」
光は柔らかく、炎のように揺らめきながら全身を巡り、裂けた皮膚を縫い合わせ、血の滲んだ傷を塞ぎ、冷え切った体へ再び命を吹き込む。
痛みが、消える。
息が、楽になる。
少年はただ呆然と少女を見た。
何が起きているのか理解できない。
ただ――救われているのだけは分かった。
「き、君が……?」
口にした言葉は掠れるように震えていた。
少女は答えない。
ただ、透明な微笑みを浮かべる。
光に照らされたその顔は、まるで海の底から昇る月。
少女はゆっくりと立ち上がり、洞窟の奥――泉のように澄んだ水辺へ向かう。
少年は思わず手を伸ばした。
「ま、待って……!」
だが身体は重い。
傷は治っても、疲労と寒さが体を支配し、思うように動けない。
地面に手をつき、這うように、必死に。
諦めればまた取り残される。
兄が死んだ時のように――ただ逃げ出すだけの自分に戻ってしまう。
「っ、はぁ……はぁ……!」
呼吸が荒くなる。
少女は泉の縁に立ち、ふいに振り返った。
青い水の光を受け、彼女の身体がほのかに輝く。
伸ばされた細い手は少年を待つように、優しく差し伸べられる。
少年は手を伸ばす――いや、引き寄せられた。
自分の意思などないかのように、吸い込まれるようにその手へ。
「……っ!」
震える指が少女の手を掴んだ。
少女は少年の手を強く握りしめると、そのまま――勢いよく泉へ飛び込んだ。
「うわっ――!」
ドボン、と豪快な水しぶきをあげ、冷たい水が全身を包み、少年は反射的に目を閉じる。
しかし――目を開いた瞬間、息が止まった。
「……え?」
水の中なのに、重さも痛みもない。
まるで空気の中を歩くように、少女は少年の手を引き、滑るように進んでいく。
そして――気づく。
「息が……できる……?」
肺が苦しくない、水が喉に入ってこない。
呼吸すら普通にできている。
水中のトンネルを抜けた瞬間、鮮烈な光景が広がった。
サンゴの森。
光をまとった魚の群れが海底に咲いた花のように色彩豊かで、ゆらゆらと水の中を舞っている。
まるで――海の底が楽園になったような光。
少女は迷いなく進んだ。
少年は手を引かれるままについていく。
やがて、巨大な門が現れる。
岩と貝殻と宝石が複雑に組まれた、海底神殿の門――その圧倒的な威容、ふたりはその門をくぐり抜けた。
次の瞬間、少女は少年を引いて――一気に上昇する。
ざばぁっ!
「ぷはっ!」
海面から顔を出した少年は、呼吸を荒げながら視界を上げる。
そして――息を呑んだ。
水と街が一体となった青い都。
海面を走る透明な水路、珊瑚の塔と水晶の街路、水を纏う光そのものが建物になったような幻想的な建築群。
空気から光が漏れ、水面に反射して揺らめき、街全体が輝いている。
「……なんだ……ここは」
少年の声は震えていた。
少女が静かに、淡く波の音のような声で答える。
「海の都――ミスティリア」
海人族が住まう、神秘と栄華の大都市。
少年の運命の歯車は、ここから大きく回り始めるのだった。
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※表紙のイラストはAIによるイメージです
スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~
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異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!
スキルで最強神を召喚して、無双してしまうんだが〜パーティーを追放された勇者は、召喚した神達と共に無双する。神達が強すぎて困ってます〜
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勇者に選ばれたライ・サーベルズは、他にも選ばれた五人の勇者とパーティーを組んでいた。
ところが、勇者達の実略は凄まじく、ライでは到底敵う相手ではなかった。
「おい雑魚、これを持っていけ」
ライがそう言われるのは日常茶飯事であり、荷物持ちや雑用などをさせられる始末だ。
ある日、洞窟に六人でいると、ライがきっかけで他の勇者の怒りを買ってしまう。
怒りが頂点に達した他の勇者は、胸ぐらを掴まれた後壁に投げつけた。
いつものことだと、流して終わりにしようと思っていた。
だがなんと、邪魔なライを始末してしまおうと話が進んでしまい、次々に攻撃を仕掛けられることとなった。
ハーシュはライを守ろうとするが、他の勇者に気絶させられてしまう。
勇者達は、ただ痛ぶるように攻撃を加えていき、瀕死の状態で洞窟に置いていってしまった。
自分の弱さを呪い、本当に死を覚悟した瞬間、視界に突如文字が現れてスキル《神族召喚》と書かれていた。
今頃そんなスキル手を入れてどうするんだと、心の中でつぶやくライ。
だが、死ぬ記念に使ってやろうじゃないかと考え、スキルを発動した。
その時だった。
目の前が眩く光り出し、気付けば一人の女が立っていた。
その女は、瀕死状態のライを最も簡単に回復させ、ライの命を救って。
ライはそのあと、その女が神達を統一する三大神の一人であることを知った。
そして、このスキルを発動すれば神を自由に召喚出来るらしく、他の三大神も召喚するがうまく進むわけもなく......。
これは、雑魚と呼ばれ続けた勇者が、強き勇者へとなる物語である。
※小説家になろうにて掲載中
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