勇者パーティーを追放されたので、張り切ってスローライフをしたら魔王に世界が滅ぼされてました

まりあんぬさま

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縁の決戦編

海の都――ミスティリア

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 荒野を裂くように、ひとりの少年が駆けていた。
 肺が焼けるほど息を絞り出し、全身を血と泥で汚しながら――ただ逃げる。 

 追われているわけではなかった。
 それでも、逃げなければならなかった。
 恐怖そのものから。

 少年の額には――黒い角が二本、鋭く伸びていた。
 鬼人族の証。
 だが、それは誇りではなく、呪いの烙印のように思えた。

「はっ……はぁ……っ」

 足がもつれ、少年は荒野の石に躓いて、転がるように倒れ込んだ。
 砂利が肌を裂き、体が重くてすぐには起き上がれない。
 その瞬間――脳裏が焼け付くようにあの光景が蘇る。

 ──そいつは、突然現れた。
 夜の帳を裂くように。
 獣のような息をしていた鬼人たちが一斉に動きを止める。

「貴様ら、俺に従え」

 ただひとりの男が現れた。
 黒の鎧を纏い、冷たい瞳をし、黒の勇者と名乗る存在。

 その傲慢な態度に怒り狂う鬼人たちが飛びかかる。
 しかし次の瞬間、血飛沫が舞い、肉片が散った。

 圧倒的だった。
 強すぎるほどに。

 少年の胸に焼き付いている。
 そして――。

「俺が相手だ」

 鬼人族最強の戦士である兄が、たった一人でその男に挑んだ。

 大剣と大槍がぶつかり合い、荒野が震えた。
 互いに体を削り合い、限界を越え――兄は倒れた。
 その亡骸に手を伸ばす間もない。

 男は兄の角をもぎ取った。
 そして、ためらいもなく喰らった。
 その瞬間、男の額に黒き一本角が生える。
 そしてその瞳は冷たく、底なしの狂気を宿していた。

「従わない鬼は皆殺しだ」

 鬼人族は蹂躙された。
 忠誠を誓った者だけを引き連れて、黒き勇者は去っていった。
 少年はただ、死体の山に埋もれるように隠れることしかできなかった。

 だから今、走っている。
 生きるために、兄の仇から逃げるために。

「兄ちゃん……!」

 少年は地面に手をついて、ようやく体を起こした。
 荒野の果てでひとり、その瞳には溢れる涙。
 その涙には――恐怖と、悔しさと、燃え残る誇りがあった。

 少年の足は、まだ止まらなかった。
 乾いた風が頬を打ち、砂が舞う。

 目指す先は――人間の国、王都。
 そこしかなかった。
 以前、王都の使者が集落へ訪れたことがある。
 その時は、鬼人族の大人たちは声を上げて笑い飛ばした。

「人間が、我らに協力を求めるとは。愚かしい……」

 だが、使者は確かに言っていた。

 世界は徐々に滅び始めている。
 各種族に協力を求めたい―― と。

 あの時は誰も信じなかった。
 鬼人族は誇り高く、他種族の力を借りるなどあり得ぬと信じていた。

 ――だが。
 喉が焼ける。胸が締め付けられる。
 誇り高かった一族は、たったひとりの男に蹂躙された。
 抵抗した者は皆殺され、忠誠を誓った者は奴隷のように従わされた。

 残されたのは、逃げた自分だけ。
 もう、誇りなんてどうでもいい。
 生きるために。 そして――黒き勇者へ報せるためにも。

(王都なら……助けてくれるかもしれない)

 淡く脆すぎる希望だった。
 それでも、少年の足を動かすには十分だった。
 太陽の下、ひび割れた荒野を、黒角の少年はただひたむきに走る。
 荒れ果てた世界に、たったひとつの願いを抱きながら。

 いつの日か必ず――兄ちゃんの仇を討つ。

 その想いだけが、少年を王都へと駆り立てていた。

 何日走り続けただろうか。
 少年の足は、とうに限界を迎えていた。

 荒野を駆け抜けてきた爪先は割れ、足裏の皮は剥がれ、血が乾いた茶色の筋となって残っている。
 それでも前へ進もうとした――もう走る余力など残っていないのに。
 虚ろな目で、ただ歩く。

「……っ」

 朦朧とした視界の中で、足元の地面が揺らいだように見えた。
 次の瞬間、彼の身体はふわりと宙へ投げ出される。

 地面ではない――崖だ。
 叫ぶ暇もなかった。

 砂埃と共に転げ落ち、硬い岩肌に幾度も叩きつけられながら、底へ――そして少年の身体は、轟々と流れる激流へ飲まれた。
 冷たい水が肺に入り込む。
 乱暴な流れに翻弄され、息を吸う暇もなく、少年は水中へ沈んでいく。

(……ああ)

 これ以上、逃げられない。
 兄の仇も――取れなかった。
 水の底で、少年の意識は闇へ落ちていく。

 その時だった。
 水を裂く影があった。
 川の激流など存在しないかのように逆らい、一直線に少年へ向かって泳ぐ。
 その影は少年の腕を掴むと、迷いなく水中へ消えていった。

 

 少年は夢を見ていた。
 幼い頃の記憶――鬼人族で最強と謳われた兄。
 家族も、仲間も、誰もが尊敬した男。
 その弟でありながら、少年は弱く、臆病だった。
 同じ世代の鬼人たちにからかわれ、殴られ、泣いてばかり。

「泣くな」

 その度に兄は来てくれた。
 頭を撫で、優しい声で励ましてくれた。

「お前は弱くない。ただ、誰よりも優しいだけだ。誇れ、それは強さだ」

 少年は兄が大好きだった。
 憧れていた。
 いつか兄のように強くなれると信じていた。

 ――そんな兄の仇も取れず。
 逃げることしかできない自分。
 そして今、ここで死ぬのか。

(俺は……弱いままだ……兄ちゃん)

 少年は嘆いた。
 誰にも気づかれず、闇に沈んでいくかのように――。

 暗闇の中。
 死んだはずの世界とは違う――遠く、遠くから微かに響くものがある。

 歌だ。
 澄んでいて、清らかで、どこか懐かしい。
 気を許せば、魂まで掬われそうな、透き通った旋律。
 少年の意識は、そこでようやく浮上してきた。

「……がはっ、げほっ……はぁっ!」

 肺に残っていた水を、激しく吐き出す。
 喉を焼くような苦しさにむせ返りながら、重たい瞼を持ち上げた。
 視界に映るのは――岩肌の天井。
 どうやら洞窟の中らしい。
 濡れた衣服が体温を奪い、地面も冷たい。
 それでも耳には、途切れることなく歌が流れ続けている。

(……歌?)

 死の淵にあったはずの自分を呼び戻したその音色に、導かれるように頭を向ける。
 そこにいたのは――水の精を思わせる美しい少女だった。
 淡く青く透き通るような髪。
 白磁のような肌には、幾つかの場所に鱗が浮かんでいる。
 耳には貝殻のピアス、頭には珊瑚の髪飾り。

 そして何より――歌声。
 洞窟の水面が、まるで呼応するように揺れる。
 その声は、川の流れよりも澄んでいて、静かで、あまりに清らかだった。

 少年は、ただ呆然と見つめた。
 目覚めたばかりの身では、驚くことすら追いつかない。

 少女は少年が目を覚ましたことに気づくと、そっと歌を止めた。
 洞窟の静寂が戻り、滴り落ちる水音だけが響く。

 振り向いた少女は――迷わず歩み寄ってきた。
 動きは流れるように滑らかで、まるで水が人の形を取ったようだ。
 しゃがみ込んだ彼女の指先が、少年の頬に触れる。

「……っ」

 冷たい。
 岩に触れたような凍える冷たさなのに、不思議と拒絶感はない。
 それどころか――手を振り払うことも忘れるほど、少年の視線は離れなかった。

 その美しい容姿と深き海の底のような澄んだ瞳。
 息が詰まり、心が奪われる。

「き、君は……誰?」

 掠れる声で問う。
 だが、少女は何も言わなかった。

 代わりに、懐から小さな瓶を取り出す。
 指先をひと振りすると、瓶の蓋が水面に溶けるように開いた。

 淡く光る透明の液体。
 少女はそれを――自らの口に含んだ。
 その動作も水流のように滑らか。

 そして彼女は迷いなく少年へ顔を寄せる。
 唇が触れる、その瞬間。
 ほんの一滴の液体が、少年の口元へ――スッ……と流し込まれた。

「……!」

 温かい液体が喉を通ると、氷のように冷え切っていた体に熱が広がっていく。
 少女は何一つ言葉を発さず、ただ救うように液体を飲ませた。
 唇が離れた後も、少年の胸は熱く脈打ち続けた。

 液体が喉を通り落ちた瞬間だった。
 少年の体が――ぽうっと温かな光に包まれた。

「……な、なんだ……?」

 光は柔らかく、炎のように揺らめきながら全身を巡り、裂けた皮膚を縫い合わせ、血の滲んだ傷を塞ぎ、冷え切った体へ再び命を吹き込む。

 痛みが、消える。
 息が、楽になる。
 少年はただ呆然と少女を見た。

 何が起きているのか理解できない。
 ただ――救われているのだけは分かった。

「き、君が……?」

 口にした言葉は掠れるように震えていた。
 少女は答えない。
 ただ、透明な微笑みを浮かべる。

 光に照らされたその顔は、まるで海の底から昇る月。
 少女はゆっくりと立ち上がり、洞窟の奥――泉のように澄んだ水辺へ向かう。
 少年は思わず手を伸ばした。

「ま、待って……!」

 だが身体は重い。
 傷は治っても、疲労と寒さが体を支配し、思うように動けない。
 地面に手をつき、這うように、必死に。
 諦めればまた取り残される。
 兄が死んだ時のように――ただ逃げ出すだけの自分に戻ってしまう。

「っ、はぁ……はぁ……!」

 呼吸が荒くなる。
 少女は泉の縁に立ち、ふいに振り返った。
 青い水の光を受け、彼女の身体がほのかに輝く。

 伸ばされた細い手は少年を待つように、優しく差し伸べられる。
 少年は手を伸ばす――いや、引き寄せられた。
 自分の意思などないかのように、吸い込まれるようにその手へ。

「……っ!」

 震える指が少女の手を掴んだ。

 少女は少年の手を強く握りしめると、そのまま――勢いよく泉へ飛び込んだ。

「うわっ――!」

 ドボン、と豪快な水しぶきをあげ、冷たい水が全身を包み、少年は反射的に目を閉じる。
 しかし――目を開いた瞬間、息が止まった。

「……え?」

 水の中なのに、重さも痛みもない。
 まるで空気の中を歩くように、少女は少年の手を引き、滑るように進んでいく。
 そして――気づく。

「息が……できる……?」

 肺が苦しくない、水が喉に入ってこない。
 呼吸すら普通にできている。

 水中のトンネルを抜けた瞬間、鮮烈な光景が広がった。

 サンゴの森。
 光をまとった魚の群れが海底に咲いた花のように色彩豊かで、ゆらゆらと水の中を舞っている。
 まるで――海の底が楽園になったような光。

 少女は迷いなく進んだ。
 少年は手を引かれるままについていく。

 やがて、巨大な門が現れる。
 岩と貝殻と宝石が複雑に組まれた、海底神殿の門――その圧倒的な威容、ふたりはその門をくぐり抜けた。
 次の瞬間、少女は少年を引いて――一気に上昇する。

 ざばぁっ!

「ぷはっ!」

 海面から顔を出した少年は、呼吸を荒げながら視界を上げる。
 そして――息を呑んだ。

 水と街が一体となった青い都。
 海面を走る透明な水路、珊瑚の塔と水晶の街路、水を纏う光そのものが建物になったような幻想的な建築群。
 空気から光が漏れ、水面に反射して揺らめき、街全体が輝いている。

「……なんだ……ここは」

 少年の声は震えていた。
 少女が静かに、淡く波の音のような声で答える。

「海の都――ミスティリア」

 海人族が住まう、神秘と栄華の大都市。
 少年の運命の歯車は、ここから大きく回り始めるのだった。
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