わたしとおばあちゃんのあやかし語り

佐木 呉羽

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菊湯と御池

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 菊の節句には、菊湯に入る。
 菊酒や菊茶、栗ご飯と共に、祖母が率先して行っている菊の節句にする行事のひとつだ。
 縁側に座り、菊酒と菊茶をお供にして、花瓶に飾った菊の観賞を終えた陽菜は、兄が入ったあとに入浴することになっていた。
 陽菜が替えの下着やパジャマを用意している間に、祖母が湯船に干し菊を入れてくれる手筈になっている。
 脱衣場で髪を結んでいたゴムを外し、着ている物を全部脱いで浴室に続くドアを開けた。
 冬至の柚を入れた浴室みたいに、お湯で蒸された菊の香りが仄(ほの)かに充満している。
 昔から、菊の香りには、邪気を払う効果があると信じられてきたらしい。
 大晦日には除夜の鐘で煩悩という名の穢れを祓い、桃の節句では桃が邪気を祓う。端午の節句では菖蒲が邪気を祓い、夏越しの祓では半年間の穢れを祓って、菊の節句でも邪気を祓う。
 日本は一年中、邪気や穢れを祓ってばかりだ。

(邪気と一緒に、私の憂さも一緒に祓ってくれたらいいのにな……)

 陽菜の日常で、憂さ晴らしになっているのは、いったいどれだろう。
 朝起きて、学校に行って勉強し、家に帰ったら夕方で、宿題を終わらせたらもう夜ご飯。学校から家までが遠いから、友達と遊ぶために、一度帰宅してから外に出るのは難しい。
 テレビを見るか、読書をするか、イラストを描くか頭脳系のゲームをするか。陽菜ができる娯楽は、この中のどれかだ。
 つまらない。
 代わり映えのない、平凡な一日のルーティンに飽きている。飽き飽きしていて、退屈だ。
 髪の毛と体を洗い、ゆっくりと足先から湯船に浸かる。鼻の下スレスレまで湯船に浸かり、ゆっくりタップリ菊の匂いを吸い込んだ。

(いい香り~)

 アロマのようにリラックス効果が得られているのか、落ち込んで鬱々としていた気持ちが、少しだけ緩和されたような気持ちになる。
 だけど、まだ、完璧に気鬱が消えたわけではない。
 大きく息を吸い込み、チャプンと、頭の先まで湯船に浸かる。両膝を抱えて、玉子みたいに丸くなった。
 ちょうどいい温度のお湯に全身を包まれ、プカプカと浮かぶ心地よさ。
 とても落ち着く感覚だ。
 手足を折り曲げ、羊水に浸かっていた胎児の頃は、こんな感じだったのかもしれない。
 十秒、十五秒と時が経つ。だんだん、息が苦しくなってきた。
 鼻の穴からコポコポと、小さな空気の泡が水面に向かって上昇していく。

(苦しい……でも、まだいけそう)

 限界に挑戦してみよう、というくだらない考えが頭をよぎる。
 ただ潜っている時間を伸ばすことだけに集中し、邪念を一切捨て去るべく、思考を遮断しようとした。
 それでも、脳は働くことをやめない。次々と課題を出す教師みたいに、心に引っかかる出来事を勝手に思い浮かばせてくる。
 満点が取れないテスト、兄との不仲、イジワルしてくるクラスの男子、また会いたいツクヨミノミコト。
 これら一つひとつにジックリ向き合い、考えていくのは面倒だ。
 だから陽菜は、放棄した。
 頭の中に浮かんでくる全てを……なにもかも拾い上げて考えることをせず、ただ流していく。内容を確認せず、残量を確認するために、パラパラとめくる課題集のページを眺めているように。
 あるのに、無い。座禅で体感できる無の境地とは、こんな感じなのだろうか。

(ぐっ……)

 息が苦しい。何秒まで数えていたか、分からなくなってしまった。

(もう限界……!)

 ゴボゴボッと、口から大量に空気の泡が出ていく。

「ぷはぁッ!」

 勢いよく、ザパン! と湯船から顔を出した。
 頬を冷たい風がヒヤリと撫る。
 ハァッハァッと肩を上下させ、肺に空気を送り込みながら、陽菜は目を疑った。

「……あれっ?」

 天井が無い。壁も、無い。
 目の中に飛び込んできたのは、見覚えのある建物。頭上に広がるのは、満天の星。
 遮る物がなにも無い広大な夜空には、ポッカリと浮かんでいる月……ではなく、地球。

「えっ……なんで? ってか寒っ! 冷たっ!」

 風呂の湯が、いつの間にか水に変わっている。と、思ったけれど、陽菜が浸かっているのは浴槽に満たされた風呂の湯じゃない。
 外だということは分かる。でも、今……陽菜が浸かっているのは池か、沼か、湖か。
 足裏の感触は、裸足で側溝の中に入ったときと似ている。
 ズルッと足場が滑り、混乱していた陽菜は呆気なくバランスを崩した。
 ドボンッと、盛大に水柱が上がる。

(ヤダッ! どうしよう、溺れちゃう!)

 手足をばたつかせて、必死にもがく。水がまとわりつくようで、手足が重たい。
 パニックに陥った陽菜の右手首を誰かが掴んだ。

「大丈夫、大丈夫だよぉ! 浅いから、ちゃんと足がつくよ」

 必死に叫んでくれている声が、陽菜の耳に届く。
 勇気を出してピタリと動きを止めれば、沈んでいくお尻が底についた。

「あぁ、よかったよぉ」

 聞き覚えのある声と、独特な喋り方。
 耳を疑いながらも、目に飛び込んできた建物の造形を思い出す。

(見間違えじゃなかった、ってことだよね……)

 掴まれた右手首に伸びる腕を目で辿り、声の主を見上げると、陽菜の顔がクシャッと歪む。泣くのを堪える唇が、ワナワナと震えた。
 頭にピョコンと生えるウサギの耳。赤い瞳に、真っ裸の陽菜が映っている。

「なんで?」
「なんで、は……セツのセリフだよぅ」

 陽菜ちゃん、と、セツはプックリ頬を膨らませた。

「ホントに、セツちゃんだ……」

 目の前に、セツが居る。ウサギの精である、ウサ耳のセツが。
 驚きのせいか、酸素が頭に回っていないのが原因か、陽菜は頭の中が真っ白だ。
 また会えた喜びと、再びセツ達の居る世界に来てしまった戸惑いが押し寄せてきた。
 もう大丈夫だと判断されたようで、掴まれていた右手首から白い手が離れる。

「陽菜ちゃんは、なんで池に入ってるの? この池では、水浴びしちゃダメなんだよぅ」

 分からない……と、陽菜は呟く。
 なんで、池の中に居るのか。どうして、またコッチの世界に来てしまったのか。
 まさか、ほんの少し、たったあれだけ想いを馳せたのがダメだったのだろうか。
 嬉しいのに、落ち込んでしまう。

「どうして、また来ちゃったんだろう……」

 俯くと、戸惑いに表情を固くする自分が水面に映る。
 緊張で強ばってしまっているのか、上手に顔の筋肉が動かせない。

(こんな顔……セツちゃんに見せたくないよ)

 顔が上げられないでいると、水の中を進んでくるザブザブという音が耳に届く。
 陽菜は、ギュッと抱き締められた。

「……セツちゃん?」

 陽菜が名を呼ぶと、セツは陽菜を抱き締める腕に力を込める。

「よかったよぅ。たまたま見つけられて」
「たまたま?」
「そうだよぉ。今日は偶然、ツクヨミ様のお屋敷に来てたんだぁ」

 セツは雫が滴り落ちる陽菜の前髪を撫で上げ、久しぶりだねぇと、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。
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