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62.へのへのもへじ
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梅雨時期は憂鬱だ。梅雨の終わりに差し掛かった頃息を吹き返したようにしつこい雨が降り続いた。天洋はビルのそばに車を停めると激しく打ち付ける雨の波紋を見て溜息が漏れた。
『最悪だよな。この時期は』
天洋が駆け足で会社に戻るとエントランスで屈んだまま両手で布を押し付けている清掃員の姿が目に留まった。人の波を邪魔せぬように気を配りながら同じ作業を繰り返している。天洋は横を通り過ぎると振り返り様子を見た。
機械を使って磨きそうなものだが何をしているんだ? まさかあの広い大理石のエントランスを手で拭く気じゃ……。
淡いブルーのエプロンを付けた清掃員は壁際にあったワゴンを引き寄せた。バケツの中でタオルを絞ると再び床に布を押し当てた。そのタオルはプールで使う吸水性の良い素材のものだった。持っていた傘の先から雨の滴が床に落ちて水たまりを作っているのを見て天洋は合点がいった。
あぁ、そうか。皆が滑らないようにしているのか……確かにあんなに雨が降っているのにフロアが水浸しになっていないな。
豪雨の中で傘を閉じ、駆け込んでくる社員たちは決まったようにエレベーター前で立ち止まる。その間に傘先から雨水が滴り落ちている。
天洋が感心しているとエントランスに杖を持った高齢者がやって来た。女がすぐにその高齢者に声を掛けた。一言二言話すとさり気なく腕を取るとエレベーターまで案内していた。
天洋はその清掃員の優しさに目が離せなかった。その日から出社する度にその清掃員がいないか探すようになった。あの時に見た柔らかな微笑みを思い出した……雨が降るとエントランスで一人作業をしているのかと期待してしまう自分が笑えた。終わる梅雨を惜しんだ。少し前まで雨に恨みを抱いていたのに──。
女を思って、期待するなんて……。はっ、ガキじゃあるまいし……。
元々日本全国の視察が多いせいもあるが、雫には月に一度程度しか会えなかった。見かければ嬉しくてわざとそのそばを通り過ぎた。神石が様子のおかしい天洋に声をかけるがそのたびに誤魔化し続けた。
雫は真面目に仕事に取り組んでいるのか、天洋を見もしなかった。すれ違う時にすら興味が無いように軽く会釈するだけだった。自分に興味がない女など初めてだった。より雫に好感が湧いた。
『何なの、私の事遊びなんでしょ!?』
そんなある日──当時遊んでいた女の一人が社長室に押しかけてきた。外出前だった天洋に突然花束を叩きつけた。胸元の衝撃と共に視界に淡い菫のような色彩が弾け飛んだ。誕生日が近いと何度も言うので今日送った花束だった。金目の物を貰えるとばかり思っていたのだろう。更に花束を壁に投げつけた。
目を釣り上げた女は気が済んだのかさっさと部屋を出て行った。
やれやれ……女はどうして金目のものばかり期待するんだか。転売目的か? 着飾るためか?……くだらないな。
嵐が去ると社長室から廊下にかけて淡い紫の花弁が落ちていた。神石が困ったように花束を抱えると「趣味は悪くないはずなのにな」とボヤいた。その花束は神石が手配したものだった。遊びの女に送る花は大抵神石が選んでいた。
『神石、時間がない。急ぐぞ』
神石は通りがかった清掃員のワゴンの中にあったゴミ箱に無残な姿の花束を放り投げた。清掃員は顔を上げるとゴミ箱の中を覗いた。
『悪いがついでに床に落ちた花弁の掃除も頼む。これも捨てておいてくれ、すまないね』
『え? あ、はい……』
神石は掌を合わせると清掃員にその場の清掃を託した。社長室から出てきた天洋は腕時計で時間を確認すると渋い顔をした。エレベータの前に立ちコートを羽織ると神石から資料を受け取り面倒臭そうに息を吐いた。
つまらない事で時間を無駄にしてしまった。時間と金の無駄だったな。
天洋にさっきの修羅場を気に留める様子はない。天洋は女好きだがワーカホリックでもある。仕事のストレス解消に女と遊んでばかりいたが最近距離を置き始めた。分かっていたつもりでいたが欲だらけの人間と接して胸焼けがしていた。エレベータの現在位置を知らせるランプを確認しながら資料の束の頁を捲る。
『あーあの……すみません……』
『え、まだいたの? どうしたの?』
神石が振り返ると清掃員の女が捨てたはずの花束を持って立っていた。その中の無事だった一本を取り出すと優しく花弁を撫でた。
『花を……貰って帰ってもよろしいですか? 少しでも飾ってあげたくて』
『……え?』
天洋が振り返ると、雫が神妙な顔をして立っていた。その手元にある花束を見て天洋は動揺した。ほとんどの花が傷み、茎や葉の緑だけになったのに、白い肌の彼女に抱かれて花が輝いて見えた。名札を見ると春日雫と書かれていた。神石が「お好きにどうぞ」と訝しげに言うと雫は本当に嬉しそうだった。
『ありがとうございます……良かった。一輪挿しがあるので飾って楽しみます』
愛おしそうに薔薇を抱えて微笑む姿は聖女のようだった。花の命を軽んじていた自分を恥じた。
『すまない……』
天洋がやっとの思いで声を出すと雫は全てを赦すように微笑んでいた。薔薇も雫も最高に美しかった……自分の心の不純さが存在を増した。天洋が雫に声を掛けようとするとタイミング悪くエレベーターが到着し、神石に促されるように押し込まれた。ドアが閉まる瞬間……雫は深々とお辞儀して微笑んだ。
『春日……雫……春日雫か』
『どうされました?』
『いや、なんでもない……急ごう』
扉が閉まりエレベーターが動き出すと天洋は笑みを抑えきれなかった。雫が自分の存在を知ってくれた。きっと明日からはもっと雫のことが知れる、新しい日が始まると信じていた。
それなのにあれから雫は消えた。最後のあの微笑みが忘れられなかった……。
すぐに委託していた清掃会社の社長を呼び出した。しどろもどろになりながら雫は退職したと話す。顔を青ざめながら話す男に不信感を抱いた。
『彼女がいなくなってから各部署からクレームが出ている。改善しなければ契約を解除する。彼女はどこにいる!』
『いや、その……それが……分からなくて……。善処致しますのでもう暫く──』
淳は天洋のあまりの剣幕に体を震わせた。自分が酷く傷つけ、勢いのままに追い出し行方知れずとは言えなかった。天洋は悔しさのあまり拳を握りしめた。やっと見つけた尊い存在が消えた……。
きっと俺のことなんか知らない。俺の顔も、名前も、何もかも知らない……あの子の記憶の中に存在すらしていないのに。
天洋は恋をしていた。
大した話もしていないのに、数回会っただけなのに、名前しか知らないのに……雫に恋をしていた。
恋をする事を忘れてしまった天洋は適当に女と遊んで、変えてを繰り返していた。女に執着なんかした事なかった。自分でもどうしてこんな気持ちが湧いたのか分からなかった。簡単に諦めたくなかった。直感だった……。
興信所に依頼をした矢先……意外な場所で探し求めていた人物を見つけた。もっとも毛嫌いし、もっとも屈したくもない男のそばに彼女はいた。東郷の名も財産も独り占めしようとする男に、探していた女を略奪された。許しがたい事に我を忘れた。
恒例の晩餐会の夜、酒を浴びるように飲み、部屋に戻ると彼女がいた。幻だと思った……可哀想な出遅れた男に甘い夢を見せてくれたのだと思った。夢じゃないと気づいたのは口付けた後だった。噛まれた唇の痛みで一気に酔いが消えた。恐怖で震える彼女に触れて本物だと気付いた。怖かった……傷つけるつもりなんてなかった……もう微笑んでくれないかもしれない。
『天洋、さま……』
呼ばれると胸が震えた。自分の名前を覚えてくれていたのが嬉しくて、悔しかった。再会し……雫のために花を買い、和かに自己紹介するはずだったのに。天洋は運命を呪うしかなかった。
『最悪だよな。この時期は』
天洋が駆け足で会社に戻るとエントランスで屈んだまま両手で布を押し付けている清掃員の姿が目に留まった。人の波を邪魔せぬように気を配りながら同じ作業を繰り返している。天洋は横を通り過ぎると振り返り様子を見た。
機械を使って磨きそうなものだが何をしているんだ? まさかあの広い大理石のエントランスを手で拭く気じゃ……。
淡いブルーのエプロンを付けた清掃員は壁際にあったワゴンを引き寄せた。バケツの中でタオルを絞ると再び床に布を押し当てた。そのタオルはプールで使う吸水性の良い素材のものだった。持っていた傘の先から雨の滴が床に落ちて水たまりを作っているのを見て天洋は合点がいった。
あぁ、そうか。皆が滑らないようにしているのか……確かにあんなに雨が降っているのにフロアが水浸しになっていないな。
豪雨の中で傘を閉じ、駆け込んでくる社員たちは決まったようにエレベーター前で立ち止まる。その間に傘先から雨水が滴り落ちている。
天洋が感心しているとエントランスに杖を持った高齢者がやって来た。女がすぐにその高齢者に声を掛けた。一言二言話すとさり気なく腕を取るとエレベーターまで案内していた。
天洋はその清掃員の優しさに目が離せなかった。その日から出社する度にその清掃員がいないか探すようになった。あの時に見た柔らかな微笑みを思い出した……雨が降るとエントランスで一人作業をしているのかと期待してしまう自分が笑えた。終わる梅雨を惜しんだ。少し前まで雨に恨みを抱いていたのに──。
女を思って、期待するなんて……。はっ、ガキじゃあるまいし……。
元々日本全国の視察が多いせいもあるが、雫には月に一度程度しか会えなかった。見かければ嬉しくてわざとそのそばを通り過ぎた。神石が様子のおかしい天洋に声をかけるがそのたびに誤魔化し続けた。
雫は真面目に仕事に取り組んでいるのか、天洋を見もしなかった。すれ違う時にすら興味が無いように軽く会釈するだけだった。自分に興味がない女など初めてだった。より雫に好感が湧いた。
『何なの、私の事遊びなんでしょ!?』
そんなある日──当時遊んでいた女の一人が社長室に押しかけてきた。外出前だった天洋に突然花束を叩きつけた。胸元の衝撃と共に視界に淡い菫のような色彩が弾け飛んだ。誕生日が近いと何度も言うので今日送った花束だった。金目の物を貰えるとばかり思っていたのだろう。更に花束を壁に投げつけた。
目を釣り上げた女は気が済んだのかさっさと部屋を出て行った。
やれやれ……女はどうして金目のものばかり期待するんだか。転売目的か? 着飾るためか?……くだらないな。
嵐が去ると社長室から廊下にかけて淡い紫の花弁が落ちていた。神石が困ったように花束を抱えると「趣味は悪くないはずなのにな」とボヤいた。その花束は神石が手配したものだった。遊びの女に送る花は大抵神石が選んでいた。
『神石、時間がない。急ぐぞ』
神石は通りがかった清掃員のワゴンの中にあったゴミ箱に無残な姿の花束を放り投げた。清掃員は顔を上げるとゴミ箱の中を覗いた。
『悪いがついでに床に落ちた花弁の掃除も頼む。これも捨てておいてくれ、すまないね』
『え? あ、はい……』
神石は掌を合わせると清掃員にその場の清掃を託した。社長室から出てきた天洋は腕時計で時間を確認すると渋い顔をした。エレベータの前に立ちコートを羽織ると神石から資料を受け取り面倒臭そうに息を吐いた。
つまらない事で時間を無駄にしてしまった。時間と金の無駄だったな。
天洋にさっきの修羅場を気に留める様子はない。天洋は女好きだがワーカホリックでもある。仕事のストレス解消に女と遊んでばかりいたが最近距離を置き始めた。分かっていたつもりでいたが欲だらけの人間と接して胸焼けがしていた。エレベータの現在位置を知らせるランプを確認しながら資料の束の頁を捲る。
『あーあの……すみません……』
『え、まだいたの? どうしたの?』
神石が振り返ると清掃員の女が捨てたはずの花束を持って立っていた。その中の無事だった一本を取り出すと優しく花弁を撫でた。
『花を……貰って帰ってもよろしいですか? 少しでも飾ってあげたくて』
『……え?』
天洋が振り返ると、雫が神妙な顔をして立っていた。その手元にある花束を見て天洋は動揺した。ほとんどの花が傷み、茎や葉の緑だけになったのに、白い肌の彼女に抱かれて花が輝いて見えた。名札を見ると春日雫と書かれていた。神石が「お好きにどうぞ」と訝しげに言うと雫は本当に嬉しそうだった。
『ありがとうございます……良かった。一輪挿しがあるので飾って楽しみます』
愛おしそうに薔薇を抱えて微笑む姿は聖女のようだった。花の命を軽んじていた自分を恥じた。
『すまない……』
天洋がやっとの思いで声を出すと雫は全てを赦すように微笑んでいた。薔薇も雫も最高に美しかった……自分の心の不純さが存在を増した。天洋が雫に声を掛けようとするとタイミング悪くエレベーターが到着し、神石に促されるように押し込まれた。ドアが閉まる瞬間……雫は深々とお辞儀して微笑んだ。
『春日……雫……春日雫か』
『どうされました?』
『いや、なんでもない……急ごう』
扉が閉まりエレベーターが動き出すと天洋は笑みを抑えきれなかった。雫が自分の存在を知ってくれた。きっと明日からはもっと雫のことが知れる、新しい日が始まると信じていた。
それなのにあれから雫は消えた。最後のあの微笑みが忘れられなかった……。
すぐに委託していた清掃会社の社長を呼び出した。しどろもどろになりながら雫は退職したと話す。顔を青ざめながら話す男に不信感を抱いた。
『彼女がいなくなってから各部署からクレームが出ている。改善しなければ契約を解除する。彼女はどこにいる!』
『いや、その……それが……分からなくて……。善処致しますのでもう暫く──』
淳は天洋のあまりの剣幕に体を震わせた。自分が酷く傷つけ、勢いのままに追い出し行方知れずとは言えなかった。天洋は悔しさのあまり拳を握りしめた。やっと見つけた尊い存在が消えた……。
きっと俺のことなんか知らない。俺の顔も、名前も、何もかも知らない……あの子の記憶の中に存在すらしていないのに。
天洋は恋をしていた。
大した話もしていないのに、数回会っただけなのに、名前しか知らないのに……雫に恋をしていた。
恋をする事を忘れてしまった天洋は適当に女と遊んで、変えてを繰り返していた。女に執着なんかした事なかった。自分でもどうしてこんな気持ちが湧いたのか分からなかった。簡単に諦めたくなかった。直感だった……。
興信所に依頼をした矢先……意外な場所で探し求めていた人物を見つけた。もっとも毛嫌いし、もっとも屈したくもない男のそばに彼女はいた。東郷の名も財産も独り占めしようとする男に、探していた女を略奪された。許しがたい事に我を忘れた。
恒例の晩餐会の夜、酒を浴びるように飲み、部屋に戻ると彼女がいた。幻だと思った……可哀想な出遅れた男に甘い夢を見せてくれたのだと思った。夢じゃないと気づいたのは口付けた後だった。噛まれた唇の痛みで一気に酔いが消えた。恐怖で震える彼女に触れて本物だと気付いた。怖かった……傷つけるつもりなんてなかった……もう微笑んでくれないかもしれない。
『天洋、さま……』
呼ばれると胸が震えた。自分の名前を覚えてくれていたのが嬉しくて、悔しかった。再会し……雫のために花を買い、和かに自己紹介するはずだったのに。天洋は運命を呪うしかなかった。
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