想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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3.tre ー薫sideー

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(ここを訪れるのも久しぶりだな)

 五月下旬の明るい日差しを浴びる庭の、砂利道を歩きながら思い出す。
 穂積家の菩提寺。この辺りでは一番大きな由緒ある寺。一般にも公開しているその風光明媚な庭は広く、ゆっくりと散策するものの姿も見えた。そして、今から行われる法要に向かうものの姿も。
 現当主である祖父の、弟の息子。私から見れば従叔父じゅうしゅくふにあたる人の三十三回忌。
 三十を迎える前に亡くなったその人に会った記憶はない。結婚はしていたものの子はなく、妻だった人とは死後に婚姻関係を解消したと聞く。
 跡継ぎがいなくなった大叔父はたいそう嘆いたようだが、その後娘に養子を取らせて跡を継がせたようだ。それを耳にしたのはずいぶんと昔のこと。そこまでして家が、名前が大事なのかと虚しさを覚えたことを思い出した。
 今回はその人の弔い上げ。最後に盛大に行われる法要に、顔を出さないという選択肢はなかった。
 懐かしい池のほとりに立ち、悠々と泳ぐ鯉の群れを眺める。そこに人が立つと、鯉たちは口を開け天を仰ぐように寄せ集まった。

(私は……この鯉と同じだ)

 求めるだけで、この池から出ることはできず、ただ与えられるのを待つだけの存在。与えられるものが本当に欲しいものとは限らないのに。

「おや。薫か」

 地面に埋め込まれた岩にカツンと杖が当たる音がして振り返る。黒羽二重くろはぶたえ五つ紋付きを颯爽と着こなし立っているのは、日本有数の企業グループを実質的に束ねる男。数年前一線から退き名目上は会長だが、いまだ多大な影響を及ぼしている。

「お祖父じい様。久しくご無沙汰しておりました。お変わりございませんでしょうか」
「ああ。変わらぬ」

 杖を突いているものの、しっかりした足取りで私のそばまで来ると、祖父は池のほとりに並んで立った。

「どうだ、事業は。なかなかに順調だと聞き及んでおるが」
「おかげさまで。なんとか軌道に乗り、ようやく余裕も出てまいりました」

 まだ水面に群がる鯉に視線を落とし抑揚なく答える。そんな自分に高らかな笑い声を上げたかと思うと、祖父は嬉々とした様子で続けた。

「ではお前さんも、そろそろ身を固めなければならぬな。もう忙しいと言い逃れはできぬぞ」

 水面に顔を出していた鯉も、何も与えられないと悟ったのか、また散らばり何事もなかったように泳ぎ始めていた。それを無感情に見つめながら静かに答えた。

「……はい。またいいご縁があれば」
「なに。すぐに見つかるだろう」

 祖父は満足気にそれだけ言うと、その場をあとにしていった。

(何を言ったところで、返る答えは一つ、か……)

 私は先週三十五才の誕生日を迎えた。兄はもうこの年齢にはとうに結婚し、子どもも小学生になっていたころだ。もちろん、恋愛結婚などではない。相手はどこかの社長令嬢だったはずだ。
 結婚するには遅いくらいの年齢になった自分も、同じように祖父の言葉に従うのみだ。

 (これで……いい……)

 誰もいない池のほとりで、小さく息を吐く。そう自分を慰めでもしないと、虚しさだけが込み上げてくる。

 祖父の決めた、乃々花さんとの婚約を解消したのはもう一年以上前のこと。それは彼女の意思。彼女の父である、市倉の当主自らが祖父に頭を下げ、こののような婚約は終わりを告げた。
 祖父はすぐに次を探そうとした。だが、それに理由を付けて止めたのだ。

『今婚約したところで、二の舞を演じることになってしまいます。せめてホテルラウンジの件が落ち着くまでお待ちくださいませんか』

 乃々花さんは、婚約解消の理由の一つとして、『薫さまがお忙しすぎたので』と祖父に伝えていた。私がそう言うよう進言しておいたからだ。彼女を放置していたのは事実で、私にも否がある。それに、本当の解消理由を知ったうえで、余計な波風など立てたくなかった。

 その彼女とは、今では円満な関係を築いている。

 『薫さまは、本当のお兄さまみたいですね』

 心から愛する人の隣で屈託のない笑顔を見せる彼女に、心が救われた気持ちになるくらいには。

(亜夜は……どうしているだろうか)

 偶然彼女に会ったのは、もう一月以上前。間違うはずなく、あれは亜夜だった。
 けれど、ずっと会いたいと願っていたのは自分だけで、彼女はそうではなかったのだろう。それは当然だ。体の関係を結んで、そのあと連絡一つも寄こさなかったのは自分なのだから。
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