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■2/むーこ先輩、目撃される。(下)
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●
放課後の部活はトレーニングもそこそこに、みんなで試合のビデオを見た。
高校野球と言えば甲子園だが、うちの野球部は大して強くもない。激戦区である神奈川県予選を突破できるはずもなく、一回戦で早々に脱落した。だからこうして冷房の効いた視聴覚室で予選決勝のビデオを見るのも毎年のことらしい。暑い中動き回るよりは全然楽なのだが、いかんせん野球部のくせに野球に疎い僕にとって、その時間はなかなかの苦痛だった。
「ふあ」
その苦痛からの開放感で、視聴覚室を出た途端に欠伸が漏れた。時刻は六時半。この季節ではこの時間はまだ青空が残っている。
今日の部活はこれで終わり。
監督はイメージトレーニングを怠るな、と最後に締めくくったけれど。所詮、試合と縁のない僕には関係のない話だ。イメージするよりもまずは自主練で基礎をなんとかしないと。僕の部活はみんなが帰ってからが本番だ。
そうだ、自主練が終わったらスーパーに寄って夕飯を調達していこう。買い置きのインスタント食品が底を突いていることを思い出す。
「……っと」
そんな風にこの後の予定を適当に組んでいると、背後から衝撃が来た。また始まったよ、と半ば呆れながら振り返る。
「ああ、スンマセン。先輩いたんすね」
想像通りの顔がそこにいた。角刈り細マッチョ。身長一八〇センチの体躯で僕を見下ろすその糸目は端が吊り上がっていて、ニタニタと不快な笑顔を浮かべている。
「いたよ。やっぱり方邊くん、もうちょっとしっかり目を開けたほうがいいんじゃないの」
実際、彼の細い目は端から見るとどこを見ているのかよくわからない。だから僕はこのいけすかない後輩に親切でアドバイスをしてあげたのだが、どうやら彼はお気に召さなかったようだ。
簡単に薄っぺらい笑いが剥がれて、僕を睨んでくる。
「……嫌味っすか、それ」
「お互い様でしょうに」
方邊潔、定道高校一年生。現状、野球部の正ライト。一年生でレギュラーになるくらいだから当たり前だが、方邊くんは僕より野球が上手い。
ちなみに僕も一応ポジションはライトということになっている。だからなのかは知らないけど、彼は年上で球拾いしかしていない同じポジションの僕のことを馬鹿にしている節がある。節があるというか、馬鹿にされている。間違いない。
「喧嘩なら買いますけど」
売ってきたのはどっちだよ、という野暮なつっこみはしない。いつも通り適当にあしらうことに決めた僕は「知ってるだろ」と前置きして続ける。
「レギュラーに喧嘩売るほど僕は熱くない。イメージトレーニング、頑張りなよ」
こうやって適当に煙に巻いておけば、彼は何も言い返すことなく引き下がる。いつもだったら。だけど今日の方邊くんの様子は違かった。
「アンタは頑張らねえのかよ」
彼に背を向けた僕に、浴びせるように言葉を重ねてきた。苛立っていると、いまの声を聞けば誰にだって分かる。
「……万年球拾いだし。キミがいるから僕に出番はないでしょ」
「っは!」
「……笑うとこ?」
「そりゃ笑いますよ、どうしてアンタそんなに腐ってんだ。それでも野球部か?」
「挑発されても……」
僕だって入りたくて入ったわけじゃない。
「ならもう練習来なくていいよ先輩。アンタ、目障りなんだけど」
目障りか。練習に来るなとは随分と嫌われてるなぁ、僕。どうしたもんかと頭を悩ませていると、身長一八〇センチの方邊くんの背後から、ぬっと更に大きい影が現れて彼の肩を掴んだ。
「言い過ぎだ、方邊」
刹樹だった。方邊くんは途端に背筋をぴんと伸ばして、刹樹に向き直る。
「さ、刹樹先輩!」
刹樹は四番バッターだし当然ではあるものの、僕と刹樹で随分と方邊くんの態度が違う。別に気にしてないけど、世渡りが達者だなぁ方邊くん。高校一年生なのに。
「校門で待ってろ、ラーメン食おう。奢ってやる」
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
言われた方邊くんは僕と会話していたことも忘れたのか、さっさと廊下を走って視聴覚室の前から姿を消した。どうでもいいけど廊下は走るなよー。
「気にするなよ、空見」
「大丈夫だって。慣れてるし」
正直、今日みたいなヒートアップの仕方は初めて見たのだが、あれも結局いつもの延長線上でしかない。あの程度で気にしていたら図々しく野球部なんて続けられないし。
「そうか……」
頷いた刹樹の表情は言葉とは裏腹に納得していない様子だ。
「気にしてるのは僕より刹樹に見えるんだけど。言われたの僕だぜ」
「空見が気にしなさすぎだ。普通、年下にあんなに言われたら怒るかへこむ」
「そんなもんですかね」
「……」
僕の適当な返事に言葉のキャッチボールを諦めたらしい刹樹は、方邊くんが消えた廊下の向こう側を見て独り言のように呟いた。
「……方邊は先輩に対して遠慮がなさすぎる。ありゃ社会に出たら苦労しそうだ」
刹樹が方邊くんに対して抱いた感想は僕と真逆だな。あれは世渡り上手だと思うんだけど……まぁ、僕らもまだ高校生だし、なんとも言えない。
「明日は終業式だな」
「うん。そうだね」
「明日は練習ないけど、なんだったら空見。俺と一緒に——」
「夕飯準備しなきゃならないんだ。そろそろ買い物にいかなきゃ。ラーメン楽しんで来なよ」
こりゃもうダメだ。とてもじゃないが自主練に向かえるような状況じゃない。早々に話を切り上げて、僕は歩き出す。
バットを振るのは夕飯を食べた後にしようと、ぼんやり心に決めた。
●
午後九時半、家から程近い公共のグラウンド。すれ違う形で帰ってきた叔父さんは、こんな時間に出かける僕に何も声をかけなかった。
このグラウンドにナイター設備はないから、今日の練習はボールを使えない。ストレッチを終え、三〇分ほどぐるぐると外周を走る。あとは素振りだ。身体が程よく温まって来たところで、持ってきた金属バットをケースから取り出した。
ぶぅん。勢いよく金属の棒が風を切る音が響く。下部を持つ左手の親指、薬指、小指に目一杯の力を込めて、仮想投手が投げる仮想ボールに向かって振り抜く。振り抜く。振り抜く。
ぶぅん。ぶぅん。
「今日は学校じゃないんだね」
脇を締めて、腰から膝、そしてつま先に重心を移動するように、振り抜く。
「……まぁ」
嫌な後輩に目をつけられて面倒くさかったし。
「いつも頑張ってるのに、どうして試合に出られないの?」
振り抜く。
「そりゃ、僕が下手だから」
ただでさえ正規の練習にはほとんど参加させてもらえない。人一倍頑張らなければ、誰かに認めてもらえる日なんて永遠にやってこないんだ。下手なら頑張るしかない。
「そっか。厳しいんだね、野球部」
振り抜く。
「合理的なんだと思う」
うちの野球部は弱い。だからこそ、強者の才能を伸ばすためにストイックな練習が組まれている。選手層が厚いとか薄いとかそういう以前に、まずはまともに戦える戦力を手に入れなければならない。だから、うちの野球部は合理的だ。少なくとも僕はそう思う。
「捻くれてるなぁ」
振り抜く。
「ほっといてくれないかな……」
って。さっきから隣で話しかけてくる声は誰なんだ。素振り中に近くに立つなんて危なっかしくて集中できない。バットを降ろして声の主を確認する。
今更だが文句というか、注意しないと。
「やほ」
半透明の女の子がそこにいた。
「……」
「あれ? 見えてるよね、私のこと」
そりゃ見えてる。ばっちりだ。
「…………えー、と」
白いシュシュでまとめられている赤毛のショートポニーテールにまず目が行った。次に、透き通るような——実際透けているのだけれど——白い肌。くりっとした大きな瞳はリス科の動物を思わせる。小動物的だと思うのは、なにも顔だけじゃない。見たところ、彼女は僕の身長より頭一つ分かそれよりも低い。目測、身長一五〇センチ前後だろうか。定道高校のセーラー服から伸びる手足は、一言で表すなら華奢。触れたら壊してしまいそうな、そんな危うさがある。
端的に表現して、可愛らしい普通の女の子だった。透けていることを除けば。
そこで僕はようやくながら思い至る。この人、昨日会った人だよな。確か、球拾い中に靄がかかって——。
「——あ、白いパンツ」
「ば……っ!? 女の子の代名詞に下着を使わないでよしかも色つきで! っていうかやっぱり見たの!? その、私のパパパぱぱん、」
「まぁ、真下から」
いま思えば、しゃがんでいた僕の頭はこの子の足につっこんでいたのだろう。だから視界に靄がかかったし、上を見れば下着が見えた。
「————ああ」
ふらり。彼女は貧血でも起こしたかのように、額に手を当てて身体を揺らした。
わざとらしい。
「白昼夢じゃなかったんですね、昨日の」
半透明の女の子に出逢うなんて幻以外のなにものでもないと思っていたのだけれど。どうやらその考えは改めなければいけないようだ。
「やっぱり、幽霊なんですか」
「えっ! え、あ、うん、まぁ、うん。そうだけど……」
ああ、そうなんだ。幽霊。へぇ、幽霊……。
「にしても、歯切れが悪いですね」
顔を真っ赤にしている彼女はひどく遠慮がちである。
幽霊ってもっと堂々としているのだとばかり思っていた。怖がるものないだろうし。
「いや、うん。だって、ほら、その。驚かないのかなー……とか?」
「これでも驚いてます」
正直、幽霊だとかそういったオカルトは信じていなかった。だけど——だからこそ、半透明なんていう特殊すぎるパーソナリティを持った実物を目の前にしてしまうと、戸惑いは隠せない。人間の僕がオカルトなんてありえないとかそうじゃないとか好き勝手言っても、半透明人間が自分を幽霊だと言うのだ。
そんなの、本物だと信じるしかないじゃないか。
ゆえに、自称だろうがなんだろうがこうして本物っぽい幽霊に出逢ったことを再確認すると、僕はあっけなく動けなくなってしまった。これが金縛りとかいう奴か。
本当ならいますぐ逃げ出したいくらいだ。
「怖い」
「全っ然、怖がって見えないよ……」
「僕は死ぬんでしょうか」
「えっ!」
「だって幽霊なんでしょう。取り憑いて殺されるイメージしかないんですが」
「いやいやいや! そんなことしないよ!」
彼女がぶんぶんと両手と首を勢いよく左右に振る。幽霊のくせに元気な人だなぁ。
「じゃあどうして僕に憑きまとうんですか」
昨日といい、今日といい。
「あー、それはね。うーん……」
幽霊さんは考え込むように腕を組んで首を傾げる。
「……どうしてだろ? 多分、興味があったからじゃないかな」
野球に興味、か。まぁそれなら練習している僕のまわりをうろついていても不思議はない……のかな。
「にしても、また歯切れが悪い」
「し、仕方ないでしょ! えっと、それは、うん、あの……」
なぜだか恥ずかしそうに顔を赤らめて、彼女は言った。
「——私、なにも覚えてないんだから」
「……えーと。それはつまり、記憶喪失ってことでしょうか」
「そ、そういうこと……」
記憶喪失の幽霊。幽霊が記憶をなくすのか。聞いたことないぞ、そんなの。幽霊自体初めて見たのだから当たり前なのかも知れないけれど。へぇ、面白い。
「名前もわからないんですか」
「あ、名前はわかるよ。ちょっと待っててね」
彼女がスカートのポケットから何かを取り出して、こちらに差し出してくる。もちろん受け取ることは出来ないから、彼女の手にある物に目線だけを落とす。どうやら定道高校の生徒手帳のようだ。僕も持っている。にしても幽霊にも持ち物があるんだ。新発見の連続。
しかし陽が落ちていることに加えて、生徒手帳まで透けているから非常に読みづらい。
なんとか文字を認識すると、生徒名の欄に『芙葉夢子』と書いてあるのがわかった。隣には彼女の顔写真が備えられている。
「私の名前、はすばゆめこ……って読むのかなぁ。ムコ、かも知れないけど」
「じゃ、むーこ先輩で」
「はい?」
「だって、生徒手帳見る限りじゃ僕より先に定道高校に入学してますよ。だから先輩です」
「そ、そっちじゃなくて! むーこってなんかペットっぽくて……」
「ああ」そっちか。
「読み方がわからないなら呼びやすい方がいいと思っただけです。他意はないです」
「そ、そう……」
「はい。僕は空見尚理といいます。よろしくお願いします」
言いながら、僕は地面に放っておいた金属バットを持ち上げて、砂をはたき落とす。
「あ、うん。どうもご丁寧に……って何を始めるの?」
「何って……素振りですよ。練習中なので。見物するのは構いませんが、危ないので近付かないでください」
「……うん、わかった」
彼女は納得してくれたのか、数歩後ずさって後ろで手を組んでいる。僕もどうやらむーこ先輩が無害だとわかって安心したのか、幽霊に見られているということも気にならなくなっていた。
だから後の練習には集中できた。素振りを五〇〇回終えて、クールダウンのストレッチも済ませると、僕はむーこ先輩に軽く会釈をしてそのまま帰った。
むーこ先輩は、グラウンドから黙って僕を見送っていた。
●
家に帰ると、叔父はもう寝ていた。明日も早いのだろう。僕も終業式に遅刻するわけにもいかないので、風呂に入った後はそのまま布団に潜った。
叔父との会話は今日もなかったな、となんとなく目を瞑りながら考えた。
●
夢を見ている。夢だと分かる理由は、なんてことない。三年前に死んだ僕の両親がいたからだ。
家族旅行で両親が運転する車は、高速道路を逆走する軽トラックと正面衝突した。同乗していたものの、後部座席に乗っていた僕は奇跡的に一命を取り留めたのだけど、両親は即死だった。保護者を失った僕のことは、父の弟である叔父が引き取った。
そんな両親が。優しかった父さんと母さんが、僕を正面から見つめている夢だった。
どちらも柔らかに微笑んでいた。場所はどこだかわからないけど、久しぶりに見た二人の顔ばかりが目に入って、風景なんてよく分からなかった。
でも。
僕がそこに近付こうとすると、父さんも母さんも拒むように哀しそうな顔をする。
どうして。また三人で会えたのに、どうして僕は仲間はずれなの。
やがて両親は僕に背を向けて、遠くへ消えてしまう。二人の影が見えなくなるまで、僕はその場所から一歩も動けなかった。
——朝目覚めると、僕のほっぺたが濡れていた。
放課後の部活はトレーニングもそこそこに、みんなで試合のビデオを見た。
高校野球と言えば甲子園だが、うちの野球部は大して強くもない。激戦区である神奈川県予選を突破できるはずもなく、一回戦で早々に脱落した。だからこうして冷房の効いた視聴覚室で予選決勝のビデオを見るのも毎年のことらしい。暑い中動き回るよりは全然楽なのだが、いかんせん野球部のくせに野球に疎い僕にとって、その時間はなかなかの苦痛だった。
「ふあ」
その苦痛からの開放感で、視聴覚室を出た途端に欠伸が漏れた。時刻は六時半。この季節ではこの時間はまだ青空が残っている。
今日の部活はこれで終わり。
監督はイメージトレーニングを怠るな、と最後に締めくくったけれど。所詮、試合と縁のない僕には関係のない話だ。イメージするよりもまずは自主練で基礎をなんとかしないと。僕の部活はみんなが帰ってからが本番だ。
そうだ、自主練が終わったらスーパーに寄って夕飯を調達していこう。買い置きのインスタント食品が底を突いていることを思い出す。
「……っと」
そんな風にこの後の予定を適当に組んでいると、背後から衝撃が来た。また始まったよ、と半ば呆れながら振り返る。
「ああ、スンマセン。先輩いたんすね」
想像通りの顔がそこにいた。角刈り細マッチョ。身長一八〇センチの体躯で僕を見下ろすその糸目は端が吊り上がっていて、ニタニタと不快な笑顔を浮かべている。
「いたよ。やっぱり方邊くん、もうちょっとしっかり目を開けたほうがいいんじゃないの」
実際、彼の細い目は端から見るとどこを見ているのかよくわからない。だから僕はこのいけすかない後輩に親切でアドバイスをしてあげたのだが、どうやら彼はお気に召さなかったようだ。
簡単に薄っぺらい笑いが剥がれて、僕を睨んでくる。
「……嫌味っすか、それ」
「お互い様でしょうに」
方邊潔、定道高校一年生。現状、野球部の正ライト。一年生でレギュラーになるくらいだから当たり前だが、方邊くんは僕より野球が上手い。
ちなみに僕も一応ポジションはライトということになっている。だからなのかは知らないけど、彼は年上で球拾いしかしていない同じポジションの僕のことを馬鹿にしている節がある。節があるというか、馬鹿にされている。間違いない。
「喧嘩なら買いますけど」
売ってきたのはどっちだよ、という野暮なつっこみはしない。いつも通り適当にあしらうことに決めた僕は「知ってるだろ」と前置きして続ける。
「レギュラーに喧嘩売るほど僕は熱くない。イメージトレーニング、頑張りなよ」
こうやって適当に煙に巻いておけば、彼は何も言い返すことなく引き下がる。いつもだったら。だけど今日の方邊くんの様子は違かった。
「アンタは頑張らねえのかよ」
彼に背を向けた僕に、浴びせるように言葉を重ねてきた。苛立っていると、いまの声を聞けば誰にだって分かる。
「……万年球拾いだし。キミがいるから僕に出番はないでしょ」
「っは!」
「……笑うとこ?」
「そりゃ笑いますよ、どうしてアンタそんなに腐ってんだ。それでも野球部か?」
「挑発されても……」
僕だって入りたくて入ったわけじゃない。
「ならもう練習来なくていいよ先輩。アンタ、目障りなんだけど」
目障りか。練習に来るなとは随分と嫌われてるなぁ、僕。どうしたもんかと頭を悩ませていると、身長一八〇センチの方邊くんの背後から、ぬっと更に大きい影が現れて彼の肩を掴んだ。
「言い過ぎだ、方邊」
刹樹だった。方邊くんは途端に背筋をぴんと伸ばして、刹樹に向き直る。
「さ、刹樹先輩!」
刹樹は四番バッターだし当然ではあるものの、僕と刹樹で随分と方邊くんの態度が違う。別に気にしてないけど、世渡りが達者だなぁ方邊くん。高校一年生なのに。
「校門で待ってろ、ラーメン食おう。奢ってやる」
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
言われた方邊くんは僕と会話していたことも忘れたのか、さっさと廊下を走って視聴覚室の前から姿を消した。どうでもいいけど廊下は走るなよー。
「気にするなよ、空見」
「大丈夫だって。慣れてるし」
正直、今日みたいなヒートアップの仕方は初めて見たのだが、あれも結局いつもの延長線上でしかない。あの程度で気にしていたら図々しく野球部なんて続けられないし。
「そうか……」
頷いた刹樹の表情は言葉とは裏腹に納得していない様子だ。
「気にしてるのは僕より刹樹に見えるんだけど。言われたの僕だぜ」
「空見が気にしなさすぎだ。普通、年下にあんなに言われたら怒るかへこむ」
「そんなもんですかね」
「……」
僕の適当な返事に言葉のキャッチボールを諦めたらしい刹樹は、方邊くんが消えた廊下の向こう側を見て独り言のように呟いた。
「……方邊は先輩に対して遠慮がなさすぎる。ありゃ社会に出たら苦労しそうだ」
刹樹が方邊くんに対して抱いた感想は僕と真逆だな。あれは世渡り上手だと思うんだけど……まぁ、僕らもまだ高校生だし、なんとも言えない。
「明日は終業式だな」
「うん。そうだね」
「明日は練習ないけど、なんだったら空見。俺と一緒に——」
「夕飯準備しなきゃならないんだ。そろそろ買い物にいかなきゃ。ラーメン楽しんで来なよ」
こりゃもうダメだ。とてもじゃないが自主練に向かえるような状況じゃない。早々に話を切り上げて、僕は歩き出す。
バットを振るのは夕飯を食べた後にしようと、ぼんやり心に決めた。
●
午後九時半、家から程近い公共のグラウンド。すれ違う形で帰ってきた叔父さんは、こんな時間に出かける僕に何も声をかけなかった。
このグラウンドにナイター設備はないから、今日の練習はボールを使えない。ストレッチを終え、三〇分ほどぐるぐると外周を走る。あとは素振りだ。身体が程よく温まって来たところで、持ってきた金属バットをケースから取り出した。
ぶぅん。勢いよく金属の棒が風を切る音が響く。下部を持つ左手の親指、薬指、小指に目一杯の力を込めて、仮想投手が投げる仮想ボールに向かって振り抜く。振り抜く。振り抜く。
ぶぅん。ぶぅん。
「今日は学校じゃないんだね」
脇を締めて、腰から膝、そしてつま先に重心を移動するように、振り抜く。
「……まぁ」
嫌な後輩に目をつけられて面倒くさかったし。
「いつも頑張ってるのに、どうして試合に出られないの?」
振り抜く。
「そりゃ、僕が下手だから」
ただでさえ正規の練習にはほとんど参加させてもらえない。人一倍頑張らなければ、誰かに認めてもらえる日なんて永遠にやってこないんだ。下手なら頑張るしかない。
「そっか。厳しいんだね、野球部」
振り抜く。
「合理的なんだと思う」
うちの野球部は弱い。だからこそ、強者の才能を伸ばすためにストイックな練習が組まれている。選手層が厚いとか薄いとかそういう以前に、まずはまともに戦える戦力を手に入れなければならない。だから、うちの野球部は合理的だ。少なくとも僕はそう思う。
「捻くれてるなぁ」
振り抜く。
「ほっといてくれないかな……」
って。さっきから隣で話しかけてくる声は誰なんだ。素振り中に近くに立つなんて危なっかしくて集中できない。バットを降ろして声の主を確認する。
今更だが文句というか、注意しないと。
「やほ」
半透明の女の子がそこにいた。
「……」
「あれ? 見えてるよね、私のこと」
そりゃ見えてる。ばっちりだ。
「…………えー、と」
白いシュシュでまとめられている赤毛のショートポニーテールにまず目が行った。次に、透き通るような——実際透けているのだけれど——白い肌。くりっとした大きな瞳はリス科の動物を思わせる。小動物的だと思うのは、なにも顔だけじゃない。見たところ、彼女は僕の身長より頭一つ分かそれよりも低い。目測、身長一五〇センチ前後だろうか。定道高校のセーラー服から伸びる手足は、一言で表すなら華奢。触れたら壊してしまいそうな、そんな危うさがある。
端的に表現して、可愛らしい普通の女の子だった。透けていることを除けば。
そこで僕はようやくながら思い至る。この人、昨日会った人だよな。確か、球拾い中に靄がかかって——。
「——あ、白いパンツ」
「ば……っ!? 女の子の代名詞に下着を使わないでよしかも色つきで! っていうかやっぱり見たの!? その、私のパパパぱぱん、」
「まぁ、真下から」
いま思えば、しゃがんでいた僕の頭はこの子の足につっこんでいたのだろう。だから視界に靄がかかったし、上を見れば下着が見えた。
「————ああ」
ふらり。彼女は貧血でも起こしたかのように、額に手を当てて身体を揺らした。
わざとらしい。
「白昼夢じゃなかったんですね、昨日の」
半透明の女の子に出逢うなんて幻以外のなにものでもないと思っていたのだけれど。どうやらその考えは改めなければいけないようだ。
「やっぱり、幽霊なんですか」
「えっ! え、あ、うん、まぁ、うん。そうだけど……」
ああ、そうなんだ。幽霊。へぇ、幽霊……。
「にしても、歯切れが悪いですね」
顔を真っ赤にしている彼女はひどく遠慮がちである。
幽霊ってもっと堂々としているのだとばかり思っていた。怖がるものないだろうし。
「いや、うん。だって、ほら、その。驚かないのかなー……とか?」
「これでも驚いてます」
正直、幽霊だとかそういったオカルトは信じていなかった。だけど——だからこそ、半透明なんていう特殊すぎるパーソナリティを持った実物を目の前にしてしまうと、戸惑いは隠せない。人間の僕がオカルトなんてありえないとかそうじゃないとか好き勝手言っても、半透明人間が自分を幽霊だと言うのだ。
そんなの、本物だと信じるしかないじゃないか。
ゆえに、自称だろうがなんだろうがこうして本物っぽい幽霊に出逢ったことを再確認すると、僕はあっけなく動けなくなってしまった。これが金縛りとかいう奴か。
本当ならいますぐ逃げ出したいくらいだ。
「怖い」
「全っ然、怖がって見えないよ……」
「僕は死ぬんでしょうか」
「えっ!」
「だって幽霊なんでしょう。取り憑いて殺されるイメージしかないんですが」
「いやいやいや! そんなことしないよ!」
彼女がぶんぶんと両手と首を勢いよく左右に振る。幽霊のくせに元気な人だなぁ。
「じゃあどうして僕に憑きまとうんですか」
昨日といい、今日といい。
「あー、それはね。うーん……」
幽霊さんは考え込むように腕を組んで首を傾げる。
「……どうしてだろ? 多分、興味があったからじゃないかな」
野球に興味、か。まぁそれなら練習している僕のまわりをうろついていても不思議はない……のかな。
「にしても、また歯切れが悪い」
「し、仕方ないでしょ! えっと、それは、うん、あの……」
なぜだか恥ずかしそうに顔を赤らめて、彼女は言った。
「——私、なにも覚えてないんだから」
「……えーと。それはつまり、記憶喪失ってことでしょうか」
「そ、そういうこと……」
記憶喪失の幽霊。幽霊が記憶をなくすのか。聞いたことないぞ、そんなの。幽霊自体初めて見たのだから当たり前なのかも知れないけれど。へぇ、面白い。
「名前もわからないんですか」
「あ、名前はわかるよ。ちょっと待っててね」
彼女がスカートのポケットから何かを取り出して、こちらに差し出してくる。もちろん受け取ることは出来ないから、彼女の手にある物に目線だけを落とす。どうやら定道高校の生徒手帳のようだ。僕も持っている。にしても幽霊にも持ち物があるんだ。新発見の連続。
しかし陽が落ちていることに加えて、生徒手帳まで透けているから非常に読みづらい。
なんとか文字を認識すると、生徒名の欄に『芙葉夢子』と書いてあるのがわかった。隣には彼女の顔写真が備えられている。
「私の名前、はすばゆめこ……って読むのかなぁ。ムコ、かも知れないけど」
「じゃ、むーこ先輩で」
「はい?」
「だって、生徒手帳見る限りじゃ僕より先に定道高校に入学してますよ。だから先輩です」
「そ、そっちじゃなくて! むーこってなんかペットっぽくて……」
「ああ」そっちか。
「読み方がわからないなら呼びやすい方がいいと思っただけです。他意はないです」
「そ、そう……」
「はい。僕は空見尚理といいます。よろしくお願いします」
言いながら、僕は地面に放っておいた金属バットを持ち上げて、砂をはたき落とす。
「あ、うん。どうもご丁寧に……って何を始めるの?」
「何って……素振りですよ。練習中なので。見物するのは構いませんが、危ないので近付かないでください」
「……うん、わかった」
彼女は納得してくれたのか、数歩後ずさって後ろで手を組んでいる。僕もどうやらむーこ先輩が無害だとわかって安心したのか、幽霊に見られているということも気にならなくなっていた。
だから後の練習には集中できた。素振りを五〇〇回終えて、クールダウンのストレッチも済ませると、僕はむーこ先輩に軽く会釈をしてそのまま帰った。
むーこ先輩は、グラウンドから黙って僕を見送っていた。
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家に帰ると、叔父はもう寝ていた。明日も早いのだろう。僕も終業式に遅刻するわけにもいかないので、風呂に入った後はそのまま布団に潜った。
叔父との会話は今日もなかったな、となんとなく目を瞑りながら考えた。
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夢を見ている。夢だと分かる理由は、なんてことない。三年前に死んだ僕の両親がいたからだ。
家族旅行で両親が運転する車は、高速道路を逆走する軽トラックと正面衝突した。同乗していたものの、後部座席に乗っていた僕は奇跡的に一命を取り留めたのだけど、両親は即死だった。保護者を失った僕のことは、父の弟である叔父が引き取った。
そんな両親が。優しかった父さんと母さんが、僕を正面から見つめている夢だった。
どちらも柔らかに微笑んでいた。場所はどこだかわからないけど、久しぶりに見た二人の顔ばかりが目に入って、風景なんてよく分からなかった。
でも。
僕がそこに近付こうとすると、父さんも母さんも拒むように哀しそうな顔をする。
どうして。また三人で会えたのに、どうして僕は仲間はずれなの。
やがて両親は僕に背を向けて、遠くへ消えてしまう。二人の影が見えなくなるまで、僕はその場所から一歩も動けなかった。
——朝目覚めると、僕のほっぺたが濡れていた。
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唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
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