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■14/夢子さん、信じる。(上)
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あれから、僕とむーこ先輩はずっと一緒にいる。比喩でもなんでもなく、本当に四六時中一緒にいた。家には着替えるために一度帰ったきりで、あとはホームレス高校生。ホテルに泊まるお金なんて持ち合わせていないので、適当にそこら辺で野宿する毎日だ。時々、シャワーを浴びたくなったり、布団が恋しくなったりしてネットカフェを使うこともあった。けど、基本は外で夜を明かした。そうして先輩が教えてくれる、人目につかない場所を転々として過ごす日々は充実していた。
いろんな話を彼女とした。
先輩が苦手な物。犬と、わさび。
先輩が好きな物。猫と、お刺身。
他にも、方邊毅さんが先輩の担任だったこと。
数学が得意で、お見舞いに来る毅さんがよく褒めてくれたこと。
先輩が亡くなったときに、両親が学校の制服を着せてくれたこと。
彼女の九年間の孤独を埋めるように、僕と先輩は飽きもせずに話し続けた。
それが本当に楽しくて。先輩と話せば話すほど、僕は彼女に惹かれていった。
時々、先輩は「本当に帰らなくて良いの?」なんて聞いてきたけど、あんな家に帰るつもりなんて最初からなかった。
家を出るにあたって、同居人の叔父には置き手紙で挨拶を済ませた。面と向かって話す勇気はなかったから。大体、直接話したところで「僕はこれから幽霊になります」なんて信じて貰えそうにないし、自殺を疑われそうで嫌だった。
実際、僕のやろうとしていることは、ゆるやかな自死と指摘されれば否定しようがない。
僕は、幽霊になると決めた。
むーこ先輩と一緒にいると決めた。
生きたままシームレスに幽霊になるなんて経験、他の人にはできないだろうな。そう考えると、なんとなく優越感に浸れもする。
そうして彼女と共に過ごし始めてから暫く経った頃、僕は半分幽霊から、ほとんど幽霊にクラスチェンジした。
その異変に気が付いたのは三日前の朝。ご飯を調達しようとコンビニに入ろうとしたら、自動ドアが反応しなかったのだ。他の人がドアを開けたタイミングで一緒に入ったけれど、商品カゴを持ち上げたところで店内の客が全員逃げ出した。
店員も店員で、僕の顔ではなくカゴばかり見ていて、レジに向かっても引きつった顔で立ち尽くすばかりだ。
その後、試しに学校に行ってみて分かった。夏休み中とはいえ運動部は活動中で、僕は野球部に顔を出した。だけど、誰も僕を見ようとしない。いや、見えていない。刹樹や方邊くんの前で手を振っても、彼らは気にも留めなかった。
八月十二日。僕の姿は、誰にも認識されなくなった。
○
「ねぇ、大丈夫?」
それから三日後。むーこ先輩は定期的に心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「全然。むしろ気が楽ですよ」
「……そっか、それならいいんだけど」
人に認識されないというのは、案外心地のいい感覚だった。最初はもっと恐怖するかと思ったけれど、そもそも日陰者の僕は普段から他人との関わりが希薄だ。
一日経てばすぐに慣れた。お腹も空かないし、トイレにも行きたくならないし。本当に気が楽だ。
「とにかく、人目を気にせず歩けるようになったんですから、それを喜びましょうよ」
「うん、そうだね……」
彼女の顔が綻ぶ。柔らかそうな笑顔に、僕も嬉しくなる。
「そうだ、今日は十方院さんのお寺でお盆法要があるらしいですよ」
「そうなの?」
「十五日ですからね。昨日調べたんですけど、法要の後には盆踊りがあって、花火も上がるんですって。出店とかもあって毎年賑やかみたいですよ。夜になったら行ってみませんか」
「——うん、楽しそう!」
そうと決まれば今夜は央泉寺だ。いままで十方院さんに見つかるのが後ろめたくて避けてきたけど、今の僕は昨日の僕とは違う。もう彼女に見つからないと思えば気が楽だ。タイミングが良い。
「誰かと一緒に花火なんて見たことなかったから、嬉しいな」
「奇遇ですね、僕もですよ」
それどころか、女の子と二人で出かけること自体、先輩が初めてだ。彼女もそうだったらいいなと思う。でも、それは怖くて聞けなかった。知らない誰かに嫉妬してしまいそうな自分が嫌になる。
「さぁ、ならそれまでどこに行きましょうか」
だから、僕はその仄暗い感情を抑えこむように彼女の左手を取って、握る。すると、むーこ先輩が顔を紅潮させてニヤついた。
「なにがおかしいんですか」
「いっ、いやいや! おかしくなんかないよ!」
「じゃあどうして」
「……ただ、なんか何度やっても恥ずかしいね、これ……なんて」
「これって、手を繋ぐのが?」
彼女の左手を繋いだまま持ち上げる。先輩の頬が膨らんだ。
「いちいち聞かないの! デリカシーないんだから、もう」
「あはは、すみません。なんか」
「なんか?」
「……いえ、なんでもないです」
「えー! ずるい、私はちゃんと答えたのに!」
「ずるくて結構」
先輩が可愛いから意地悪したくなりました、なんて。
「むー、気になるなぁ……」
絶対に言えるはずないでしょ、そんなこと。
「それで、どこか行きたいところは」
先輩がどうしても追求しようとするから、誤魔化すために話題を軌道修正する。
彼女のペースに巻き込まれたら、うっかり口走ってしまいそうだった。
「んー、とね」
それで先輩もあきらめがついたのか、話題に乗ってくれる。よしよし。
彼女は暫く考えて、遠慮がちにぽつりと吐露した。
「——海に行きたいな、って。ベタかな……」
迷わずに僕は彼女の提案を受け入れる。
「行きましょう」
話題はまだまだ尽きない。今日はなにを話そうかなんて考えながら、僕と先輩は手を繋いだまま歩き出した。
○
地元に砂浜がある遊泳可能な海なんて上等な場所はないけれど、幸いにしてここらは港町だ。少し歩けば、停泊する大きな客船が望める公園がある。噴水もあったりして、いかにもな雰囲気で有名なデートスポットだった。
昼下がりでまだ陽も高いのに、公園には何組もカップルがいた。
「緊張、するね」
「大丈夫です、誰も僕らを見てないですよ。見えないんだから」
「……そっか、それもそうだね。あ、見て見て! おっきいよ!」
海に来たい、と言ったのは先輩だったけれど、彼女の興味は早速別方向に移った。
海でも船でもなく、公園の後ろに建っているタワーを指さして、むーこ先輩は笑っていた。「ね、尚理くん! 私あそこ行きたい!」
白を基調としたタワーの上には、ボールを潰したような楕円形の展望台がある。登ったことはないが、随分と昔からあるのは知っていた。
「行こ! ねっ?」
これもなにかの縁だ。人に見られないなら入場料もかからないし、海も良く見渡せるだろう。悪くない提案だと思った。
「ねーってばー!」
「慌てなくても、展望台は逃げないですって」
急かすように足踏みするむーこ先輩を落ち着かせながら、ゆっくり歩いてタワーに向かうことにした。
○
「すごい! おっきい! 広い!」
大はしゃぎだった。世の中にはもっと大きな展望台もあるのだが、彼女はこういう施設に入るのが初めてだったのだろう。僕は小学生の頃、遠足でランドマークタワーに登ったことがある——なんと地上二七二メートルの高さがある——から、この展望台が思ったよりも小さいことに驚いていた。
まぁあっちは海じゃなくて空を楽しむ物だし、そもそも言ったところで雰囲気台無しだから黙っておくけれど。いずれ先輩を連れて行こうと思った。きっといまよりももっとテンションがあがるに違いない。
「……でも、誰もいないね」
「確かに」
もちろん受付に人はいた。だけど、展望台に僕ら以外の客はいなかった。小さなタワーだし、観光地としての賞味期限は切れているのかも知れない。
「もったいないね」
「けど貸し切りですよ」
「おおー……貸し切りかぁ……」
「っていうか、来たことなかったんですか」
九年もあったのに、とは言わなかった。
「人が多いところ、苦手だったから」
「僕も苦手だ」
「尚理くんがいるならどこにでも行けるけどね」
「……よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく言えますね」
「本当は男の子が言うんだよ、こういうこと」
「どうしてそう思うんですか」
「なんとなく!」
やたらと自信満々に断言されると、こちらとしては頷くしかない。確かに男の方が言うイメージあるし。反論のしようがなかった。
「情けない男ですみませんね」
「拗ねないの」
「はい」
「素直だなぁ……」
苦笑いを浮かべて先輩が窓辺まで歩く。後ろで手を組んで、乗り出すように遠くに見える海を覗き込んでいた。
「……あのさ」
「はい?」
「どうして、尚理くんは幽霊になってもいい、って思ったの? 普通じゃないよ」
「十方院さんにも言われましたね、普通じゃないって」
あの人が言ったのは別の意味だけど。
「ずっと一緒にいて、でも今まで聞けなかったけど。私のために、全部捨てようなんて覚悟は普通、できないよ」
「それだけ、先輩が大切ですから」
「誤魔化さないで」
先輩の刺すようなハッキリとした物言いに、思考がストップする。
身体も動かなくなっていた。
「大切だって言って貰えるのは嬉しいけど、それだけじゃないでしょ」
「……」やっぱり。僕は納得してその質問を受け入れた。
——やっぱり、全部見透かされてる。前から鋭い人だとは分かっていたけど、これじゃ先輩に隠し事なんて出来ないな。だから、僕も意を決して話すことにした。
まだ彼女に話していなかったことを。
「僕、両親いないんですよ」
「え?」
先輩が振り向いて立ち尽くす。なにも言わないのを「続けて」という意味にとって、僕は語る。
三年前の事故で、両親を失ったこと。その時から僕は左腕に爆弾を抱えたこと。いままでは叔父の家に世話になっていたこと。そしてその叔父は、僕を厄介者だと思っていること。
全部ぜんぶ、あますことなく彼女に教える。
僕が生きることに執着しない想いを。
幽霊になることに躊躇がない理由を。
「——これが、僕が話さなかった全てです」
むーこ先輩は、僕が語り終えるまで、ずっと黙って聞いていた。彼女の目元に涙が見えた気がしたけど、泣いているワケは問わなかった。
「そう、だったんだ」
「納得できましたか」
彼女は頷きもしないし、否定もしない。
ただ駆け寄ってきて、僕の胸に飛び込んだ。
「……つらいこと、聞いちゃったね」
「いいんです。いずれ話そうとは思ってました」
「でも、ごめん」
「謝らなくていいんですよ。こんな僕でも、一緒にいてくれる人が出来ましたから」
だから、と僕は彼女の華奢な身体を壊してしまわないように、恐る恐る抱きしめた。
「——だから、約束します。僕はなにがあっても、先輩を裏切りません。ずっと一緒にいます。もう、先輩を一人にしません」
改めて、決意表明する。僕が幽霊になることに微塵も不安を抱えていないと。再び彼女を
孤独にしないのだと、誓った。
「あり、がと……ありがとう……」
彼女の小さな肩が、胸の中で震えている。その震えを止めたくて、自然と腕の力が強くなった。むーこ先輩も、僕を抱き返してくれる。
「ねぇ」
先輩の呟きに、僕は胸元にある彼女の顔を見下ろした。
目を瞑って、口をつぐんで、背伸びをして。
唇を、近づけてくる。
「だ、ダメですって!」
だから、僕は慌てて彼女の肩を掴んで引き離した。
「そんなことしたら、先輩がいなくなっちゃうかもしれないんですよ! 本当だったら、手を繋ぐのもギリギリなのに……」
先輩の願いは、僕と想いを通じさせる——恋人になることだ。
幽霊は自分の願いを叶えたら、成仏してしまう。それは先輩も例外じゃないはずだ。
恋人と友達の境界線がどこにあるかは分からないけど、これは完全に許容範囲を超えている。そんなことしたら、願いが叶ってしまう。
むーこ先輩が、消えてしまう。そしたら僕も、幽霊になれなくなる。
だから、先輩を一人にしないためには、僕と先輩は本物の恋人になってはいけない。僕の先輩への想いは決して口にしてはいけない。
結局のところ、僕らの関係は手を繋ぐ程度が限界なのだ。
「……うん、そうだったね」
彼女は顔を赤くして、目を伏せながら言う。その声からはモヤモヤとした感情が伝わってきた。
「——でも、絶対に一緒にいますから」
触れ合うのが限界でもいい。それ以上にいかなくていい。
僕らはそれでいいんだ。いままでの孤独を思えば、十分すぎるほどに充実している。
「約束、しますから」
僕はいつか幽霊になる。もしそうなっても、彼女との関係はこれ以上の発展を望めないだろう。だけど、それでも一緒にいたいと思える相手がいることが、こんなに幸せだと思わなかった。
「……好きだよ、尚理くん」
僕もです、とはもちろん口にしなかった。
出来るはずが、なかった。
○
空が夜色に染まってから、僕とむーこ先輩は電車に乗った。
目的地は央泉寺。いまは法要が終わって、お祭が始まっている頃だ。
電車を降りてホームに立つと、祭り囃子が遠くに聞こえる。一緒に降りた他の客の中にも、浴衣を着た人がたくさんいた。こういう人達を見ると「ああ、お祭なんだな」なんて否応なしに気分が高揚する。人の流れに身を任せて、僕らは十方院さんのお寺を目指した。
央泉寺の門をくぐると、太鼓の音が一層大きくなった。櫓や出店が提灯で煌びやかに装飾されていた。
「みんな笑ってる」
周囲の音に掻き消されそうな先輩の声に、僕は頷いた。親子連れ、カップル、子供同士のグループ、色んな人がいる。そして、先輩の言う通り誰もが笑っていた。
先輩に会うまでの僕だったら、こんな催しには絶対来なかっただろう。一人でいることに耐えられなくて、逃げ出したはずだった。
「楽しいね」
でもいまは違う。僕にはむーこ先輩がいる。
逃げ出したくなるような気持ちなんて微塵も湧いてこなかった。
「一緒に踊りますか?」
櫓の周りで浴衣を着た人達が、スピーカーから流れる音頭と太鼓のリズムに合わせて踊っているのを見て、自分も混ざりたくなった。生憎と僕らは二人とも浴衣なんて着ていないけど、どうせ周囲には見えていない。気にする必要もないだろう。
「あはは、うん。でも私、盆踊りなんてやったことないけど、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。僕も踊ったことありませんから」
先輩の手を引いて、人と人の隙間をすり抜ける。そんな時だった。
『——迷子のお知らせです』
音楽が小さくなって、アナウンスが流れる。十方院さんの声だ、とすぐにわかった。
確かにこのお寺は広いけど、お祭の規模としては小さな方だろう。それでもやっぱり迷子は出てくるんだな、と微笑ましくアナウンスに耳を傾ける。
『空見尚理くん。お友達が探しています』
いろんな話を彼女とした。
先輩が苦手な物。犬と、わさび。
先輩が好きな物。猫と、お刺身。
他にも、方邊毅さんが先輩の担任だったこと。
数学が得意で、お見舞いに来る毅さんがよく褒めてくれたこと。
先輩が亡くなったときに、両親が学校の制服を着せてくれたこと。
彼女の九年間の孤独を埋めるように、僕と先輩は飽きもせずに話し続けた。
それが本当に楽しくて。先輩と話せば話すほど、僕は彼女に惹かれていった。
時々、先輩は「本当に帰らなくて良いの?」なんて聞いてきたけど、あんな家に帰るつもりなんて最初からなかった。
家を出るにあたって、同居人の叔父には置き手紙で挨拶を済ませた。面と向かって話す勇気はなかったから。大体、直接話したところで「僕はこれから幽霊になります」なんて信じて貰えそうにないし、自殺を疑われそうで嫌だった。
実際、僕のやろうとしていることは、ゆるやかな自死と指摘されれば否定しようがない。
僕は、幽霊になると決めた。
むーこ先輩と一緒にいると決めた。
生きたままシームレスに幽霊になるなんて経験、他の人にはできないだろうな。そう考えると、なんとなく優越感に浸れもする。
そうして彼女と共に過ごし始めてから暫く経った頃、僕は半分幽霊から、ほとんど幽霊にクラスチェンジした。
その異変に気が付いたのは三日前の朝。ご飯を調達しようとコンビニに入ろうとしたら、自動ドアが反応しなかったのだ。他の人がドアを開けたタイミングで一緒に入ったけれど、商品カゴを持ち上げたところで店内の客が全員逃げ出した。
店員も店員で、僕の顔ではなくカゴばかり見ていて、レジに向かっても引きつった顔で立ち尽くすばかりだ。
その後、試しに学校に行ってみて分かった。夏休み中とはいえ運動部は活動中で、僕は野球部に顔を出した。だけど、誰も僕を見ようとしない。いや、見えていない。刹樹や方邊くんの前で手を振っても、彼らは気にも留めなかった。
八月十二日。僕の姿は、誰にも認識されなくなった。
○
「ねぇ、大丈夫?」
それから三日後。むーこ先輩は定期的に心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「全然。むしろ気が楽ですよ」
「……そっか、それならいいんだけど」
人に認識されないというのは、案外心地のいい感覚だった。最初はもっと恐怖するかと思ったけれど、そもそも日陰者の僕は普段から他人との関わりが希薄だ。
一日経てばすぐに慣れた。お腹も空かないし、トイレにも行きたくならないし。本当に気が楽だ。
「とにかく、人目を気にせず歩けるようになったんですから、それを喜びましょうよ」
「うん、そうだね……」
彼女の顔が綻ぶ。柔らかそうな笑顔に、僕も嬉しくなる。
「そうだ、今日は十方院さんのお寺でお盆法要があるらしいですよ」
「そうなの?」
「十五日ですからね。昨日調べたんですけど、法要の後には盆踊りがあって、花火も上がるんですって。出店とかもあって毎年賑やかみたいですよ。夜になったら行ってみませんか」
「——うん、楽しそう!」
そうと決まれば今夜は央泉寺だ。いままで十方院さんに見つかるのが後ろめたくて避けてきたけど、今の僕は昨日の僕とは違う。もう彼女に見つからないと思えば気が楽だ。タイミングが良い。
「誰かと一緒に花火なんて見たことなかったから、嬉しいな」
「奇遇ですね、僕もですよ」
それどころか、女の子と二人で出かけること自体、先輩が初めてだ。彼女もそうだったらいいなと思う。でも、それは怖くて聞けなかった。知らない誰かに嫉妬してしまいそうな自分が嫌になる。
「さぁ、ならそれまでどこに行きましょうか」
だから、僕はその仄暗い感情を抑えこむように彼女の左手を取って、握る。すると、むーこ先輩が顔を紅潮させてニヤついた。
「なにがおかしいんですか」
「いっ、いやいや! おかしくなんかないよ!」
「じゃあどうして」
「……ただ、なんか何度やっても恥ずかしいね、これ……なんて」
「これって、手を繋ぐのが?」
彼女の左手を繋いだまま持ち上げる。先輩の頬が膨らんだ。
「いちいち聞かないの! デリカシーないんだから、もう」
「あはは、すみません。なんか」
「なんか?」
「……いえ、なんでもないです」
「えー! ずるい、私はちゃんと答えたのに!」
「ずるくて結構」
先輩が可愛いから意地悪したくなりました、なんて。
「むー、気になるなぁ……」
絶対に言えるはずないでしょ、そんなこと。
「それで、どこか行きたいところは」
先輩がどうしても追求しようとするから、誤魔化すために話題を軌道修正する。
彼女のペースに巻き込まれたら、うっかり口走ってしまいそうだった。
「んー、とね」
それで先輩もあきらめがついたのか、話題に乗ってくれる。よしよし。
彼女は暫く考えて、遠慮がちにぽつりと吐露した。
「——海に行きたいな、って。ベタかな……」
迷わずに僕は彼女の提案を受け入れる。
「行きましょう」
話題はまだまだ尽きない。今日はなにを話そうかなんて考えながら、僕と先輩は手を繋いだまま歩き出した。
○
地元に砂浜がある遊泳可能な海なんて上等な場所はないけれど、幸いにしてここらは港町だ。少し歩けば、停泊する大きな客船が望める公園がある。噴水もあったりして、いかにもな雰囲気で有名なデートスポットだった。
昼下がりでまだ陽も高いのに、公園には何組もカップルがいた。
「緊張、するね」
「大丈夫です、誰も僕らを見てないですよ。見えないんだから」
「……そっか、それもそうだね。あ、見て見て! おっきいよ!」
海に来たい、と言ったのは先輩だったけれど、彼女の興味は早速別方向に移った。
海でも船でもなく、公園の後ろに建っているタワーを指さして、むーこ先輩は笑っていた。「ね、尚理くん! 私あそこ行きたい!」
白を基調としたタワーの上には、ボールを潰したような楕円形の展望台がある。登ったことはないが、随分と昔からあるのは知っていた。
「行こ! ねっ?」
これもなにかの縁だ。人に見られないなら入場料もかからないし、海も良く見渡せるだろう。悪くない提案だと思った。
「ねーってばー!」
「慌てなくても、展望台は逃げないですって」
急かすように足踏みするむーこ先輩を落ち着かせながら、ゆっくり歩いてタワーに向かうことにした。
○
「すごい! おっきい! 広い!」
大はしゃぎだった。世の中にはもっと大きな展望台もあるのだが、彼女はこういう施設に入るのが初めてだったのだろう。僕は小学生の頃、遠足でランドマークタワーに登ったことがある——なんと地上二七二メートルの高さがある——から、この展望台が思ったよりも小さいことに驚いていた。
まぁあっちは海じゃなくて空を楽しむ物だし、そもそも言ったところで雰囲気台無しだから黙っておくけれど。いずれ先輩を連れて行こうと思った。きっといまよりももっとテンションがあがるに違いない。
「……でも、誰もいないね」
「確かに」
もちろん受付に人はいた。だけど、展望台に僕ら以外の客はいなかった。小さなタワーだし、観光地としての賞味期限は切れているのかも知れない。
「もったいないね」
「けど貸し切りですよ」
「おおー……貸し切りかぁ……」
「っていうか、来たことなかったんですか」
九年もあったのに、とは言わなかった。
「人が多いところ、苦手だったから」
「僕も苦手だ」
「尚理くんがいるならどこにでも行けるけどね」
「……よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく言えますね」
「本当は男の子が言うんだよ、こういうこと」
「どうしてそう思うんですか」
「なんとなく!」
やたらと自信満々に断言されると、こちらとしては頷くしかない。確かに男の方が言うイメージあるし。反論のしようがなかった。
「情けない男ですみませんね」
「拗ねないの」
「はい」
「素直だなぁ……」
苦笑いを浮かべて先輩が窓辺まで歩く。後ろで手を組んで、乗り出すように遠くに見える海を覗き込んでいた。
「……あのさ」
「はい?」
「どうして、尚理くんは幽霊になってもいい、って思ったの? 普通じゃないよ」
「十方院さんにも言われましたね、普通じゃないって」
あの人が言ったのは別の意味だけど。
「ずっと一緒にいて、でも今まで聞けなかったけど。私のために、全部捨てようなんて覚悟は普通、できないよ」
「それだけ、先輩が大切ですから」
「誤魔化さないで」
先輩の刺すようなハッキリとした物言いに、思考がストップする。
身体も動かなくなっていた。
「大切だって言って貰えるのは嬉しいけど、それだけじゃないでしょ」
「……」やっぱり。僕は納得してその質問を受け入れた。
——やっぱり、全部見透かされてる。前から鋭い人だとは分かっていたけど、これじゃ先輩に隠し事なんて出来ないな。だから、僕も意を決して話すことにした。
まだ彼女に話していなかったことを。
「僕、両親いないんですよ」
「え?」
先輩が振り向いて立ち尽くす。なにも言わないのを「続けて」という意味にとって、僕は語る。
三年前の事故で、両親を失ったこと。その時から僕は左腕に爆弾を抱えたこと。いままでは叔父の家に世話になっていたこと。そしてその叔父は、僕を厄介者だと思っていること。
全部ぜんぶ、あますことなく彼女に教える。
僕が生きることに執着しない想いを。
幽霊になることに躊躇がない理由を。
「——これが、僕が話さなかった全てです」
むーこ先輩は、僕が語り終えるまで、ずっと黙って聞いていた。彼女の目元に涙が見えた気がしたけど、泣いているワケは問わなかった。
「そう、だったんだ」
「納得できましたか」
彼女は頷きもしないし、否定もしない。
ただ駆け寄ってきて、僕の胸に飛び込んだ。
「……つらいこと、聞いちゃったね」
「いいんです。いずれ話そうとは思ってました」
「でも、ごめん」
「謝らなくていいんですよ。こんな僕でも、一緒にいてくれる人が出来ましたから」
だから、と僕は彼女の華奢な身体を壊してしまわないように、恐る恐る抱きしめた。
「——だから、約束します。僕はなにがあっても、先輩を裏切りません。ずっと一緒にいます。もう、先輩を一人にしません」
改めて、決意表明する。僕が幽霊になることに微塵も不安を抱えていないと。再び彼女を
孤独にしないのだと、誓った。
「あり、がと……ありがとう……」
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「ねぇ」
先輩の呟きに、僕は胸元にある彼女の顔を見下ろした。
目を瞑って、口をつぐんで、背伸びをして。
唇を、近づけてくる。
「だ、ダメですって!」
だから、僕は慌てて彼女の肩を掴んで引き離した。
「そんなことしたら、先輩がいなくなっちゃうかもしれないんですよ! 本当だったら、手を繋ぐのもギリギリなのに……」
先輩の願いは、僕と想いを通じさせる——恋人になることだ。
幽霊は自分の願いを叶えたら、成仏してしまう。それは先輩も例外じゃないはずだ。
恋人と友達の境界線がどこにあるかは分からないけど、これは完全に許容範囲を超えている。そんなことしたら、願いが叶ってしまう。
むーこ先輩が、消えてしまう。そしたら僕も、幽霊になれなくなる。
だから、先輩を一人にしないためには、僕と先輩は本物の恋人になってはいけない。僕の先輩への想いは決して口にしてはいけない。
結局のところ、僕らの関係は手を繋ぐ程度が限界なのだ。
「……うん、そうだったね」
彼女は顔を赤くして、目を伏せながら言う。その声からはモヤモヤとした感情が伝わってきた。
「——でも、絶対に一緒にいますから」
触れ合うのが限界でもいい。それ以上にいかなくていい。
僕らはそれでいいんだ。いままでの孤独を思えば、十分すぎるほどに充実している。
「約束、しますから」
僕はいつか幽霊になる。もしそうなっても、彼女との関係はこれ以上の発展を望めないだろう。だけど、それでも一緒にいたいと思える相手がいることが、こんなに幸せだと思わなかった。
「……好きだよ、尚理くん」
僕もです、とはもちろん口にしなかった。
出来るはずが、なかった。
○
空が夜色に染まってから、僕とむーこ先輩は電車に乗った。
目的地は央泉寺。いまは法要が終わって、お祭が始まっている頃だ。
電車を降りてホームに立つと、祭り囃子が遠くに聞こえる。一緒に降りた他の客の中にも、浴衣を着た人がたくさんいた。こういう人達を見ると「ああ、お祭なんだな」なんて否応なしに気分が高揚する。人の流れに身を任せて、僕らは十方院さんのお寺を目指した。
央泉寺の門をくぐると、太鼓の音が一層大きくなった。櫓や出店が提灯で煌びやかに装飾されていた。
「みんな笑ってる」
周囲の音に掻き消されそうな先輩の声に、僕は頷いた。親子連れ、カップル、子供同士のグループ、色んな人がいる。そして、先輩の言う通り誰もが笑っていた。
先輩に会うまでの僕だったら、こんな催しには絶対来なかっただろう。一人でいることに耐えられなくて、逃げ出したはずだった。
「楽しいね」
でもいまは違う。僕にはむーこ先輩がいる。
逃げ出したくなるような気持ちなんて微塵も湧いてこなかった。
「一緒に踊りますか?」
櫓の周りで浴衣を着た人達が、スピーカーから流れる音頭と太鼓のリズムに合わせて踊っているのを見て、自分も混ざりたくなった。生憎と僕らは二人とも浴衣なんて着ていないけど、どうせ周囲には見えていない。気にする必要もないだろう。
「あはは、うん。でも私、盆踊りなんてやったことないけど、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。僕も踊ったことありませんから」
先輩の手を引いて、人と人の隙間をすり抜ける。そんな時だった。
『——迷子のお知らせです』
音楽が小さくなって、アナウンスが流れる。十方院さんの声だ、とすぐにわかった。
確かにこのお寺は広いけど、お祭の規模としては小さな方だろう。それでもやっぱり迷子は出てくるんだな、と微笑ましくアナウンスに耳を傾ける。
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唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
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