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第一章 告白

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 天使。かつてより神の使いとされ、人を守り、正しき道を示す存在。キリスト教やイスラム教では、そのように示されている。雄吾はこの前受けたばかりの、宗教学の講義の内容を、ぼんやりと思い出した。
 ただ、現代の漫画やアニメ、ゲーム等では度々登場する存在である。イメージは白い翼を携え、神々しい光を放つ。したがってそれは、神聖なものとして登場することが多い。

 目の前の男が、天使だって?
 黒い翼に黒スーツ、黒髪七三分けの眼鏡男が?

 脳内でイメージする天使とはかけ離れた容姿。天使なんて、存在するわけがない。この世はノンフィクション、その存在はあくまで、人の創造による産物。無神教徒の雄吾からすれば、それが常識だった。
「天使は存在しない。そう、言い切れるのか?」
 心を読まれたかのよう。天使の台詞に、雄吾は思わず口をきゅっと結ぶ。
「仮に、あんたが天使なら、俺に何の用だよ」
 そう訊きながらも、雄吾は自分がひどく緊張しているのを感じていた。
 神の使い。神、天国。まさか、俺は…
 天使はやれやれといった表情をする。「別に、死の宣告をしにきた訳じゃない。俺はお前の望みを叶えるために来たんだよ」
「へ?」素っ頓狂な声を上げる。天使は意に介すこともない。「望みだって?」
「ああ。宝くじで当選したい、病気を治したい、美味しい食い物を食べたい、お前ら人間は、際限のない望みがあるだろう」天使は右手で眼鏡を押し上げる。「まあ、内容次第で叶えられないものもあるが」
 天使は笑みを浮かべる。男の雄吾でさえも感じる色気。全身が渇いたかのような感覚。それでも雄吾の脳は、粘ついた血液をフル稼働させ、細胞を働かせる。
 望みが叶う?
 それが事実なら、どんなに良いことかとは思う。しかし、雄吾の中で、猜疑心は当然に生まれる。何故、自分なのかということ。雄吾は、これまでの人生で神も、天使も信じたことは無い。そんな人間に、文字どおり神のご加護があるなんて、到底思えなかった。
「仕事なんだよ」
 雄吾の言い分を聞いた天使は、ゆっくりとそう述べた。
「そもそもだけどな。お前ら人間の持つ望みはどれも、私達が叶えてやってるってわけ」
 聞けば、天使達は自らを天界人てんかいじんと呼び、己のいる世界のことは天界というらしい。先程雄吾が口にした悪魔も同様に天界人であり、呼び名が異なるのは、人間でいう職業の違いのようなものだと、天使は述べた。
 中でも、彼ら天使の務めの一つに、人間の望みの成就というものがあった。
「今の地上は人間の世界だが。その地上の秩序を保つためには、定期的にお前らの望みを叶える必要があるんだ」
 望みが無い世界というのは、自然と秩序が乱れるものなのだという。呆然とする雄吾。そして、困惑した。
 今の話では、全人類が持つ望み全てに、彼ら天使が関わっているということになる。その一人である雄吾だって、一度くらいは望みが叶ったことはある。だが、天使の姿を目にしたことは無い。
 そのことを話すと、天使は「だろうな」と肯いた。
「普段は、地上に降りることも早々無いからな」
「ならどうして…」
「調査のためさ」
「調査?」
「ああ。人間の望みは、私達天使事務局と、上部組織の神様事務局、両者の裁量で成就させている。些細なものは私達、他人の人生に大きな影響を与えるような、スケールのでかい望みは神様事務局とまあ、望みの程度によって、管轄を分けているのが現状だ。
 ただ、昔からそのやり方に異議を唱える奴らがいるんだよ。貧富、能力、人望、人間達の間に極端な差が出てきている原因と、私達のやり方を紐付けて、そうだと信じ込んでいるらしい。まあ、いつも同じような人間になっていることは、完全に否定できないのが、痛いところではあるんだが。
 普段は適当に突っぱねて終了のところ、今回は神議会議員がそいつらの意見を真に受けてしまってな。しつこく事務局側に介入してきてるんだよ」
「神議会議員って…」
「ああ、お前の世界で言えば、国会議員みたいな連中のことだよ」
 国会議員。雄吾は夕方のニュースでテレビに出てきていた、環境大臣に任命されたという禿げた政治家の顔をなんとなく思い浮かべる。天使は肩をすくめた。
「今は公の場で発言できる神議会の場で、私達に『望みの程度に関わらず、無作為で望みを叶えるやり方に変えるべき』と主張してきている。事務局の恣意性しいせいの排除が目的らしいが、良い迷惑さ。単なる一天界人の意見じゃなくなった以上、当然にあしらうことができないからな。つまり、そうした場合の影響の程度を測る必要が出てきたんだよ」
「つまりそれを知るための調査ってこと?」
「そういうこと」天使はにやりと笑う。「お前はそのサンプルってわけだな」
「サンプル?」
「調査対象ってことだよ」
「ああ。なるほど」
 納得しつつも、まるで日本の行政の構造のような仕組みである。故に、非現実と現実が入り混じったような話。雄吾は自分の意識は本当にはっきりしているのか、それすら疑いそうになった。
 ちなみに今回の調査は、神議会議員の要望に合わせて、無作為に人間を抽出して、望みを叶えているのだという。その後、サンプルとなった人間の情報全てを集計し、結果を示すのだと、天使は説明した。
「何か質問はあるか」
 天使はふうと天を仰ぎ見る。天ではなく、天井だが。
 雄吾は直立不動のまま、首を横に振った。そんな彼の様子に、天使は「へえ」と腕を組んだ。
「他の奴は、もっと気になっていたけどなぁ。それも調査のこと以外のことも。天界はどこにあるのか、天使は何人いるのか、だなんて」
「他の奴…俺以外にも、サンプルがいるのか」
「一人なわけがない。調査だからな。人間界全域で行われているよ。担当区画ごとにサンプル数は異なるんだがな」
「サンプル数ってどれくらいなんだ」
「質問は無いんじゃなかったのか?」
 雄吾は思わず口をつぐむ。そんな様子にくくくと笑う天使は、そっと口元に人差し指を当てた。「それは、人間には言えない決まりなんだ。ただ、この区画は広くはない分、多くはない。それだけは言っておくよ」
 この区画。担当区画という言葉があっただけに、エリア分けがされているのだろう。細かく聞けなかったのは残念だったが、今は調査の概要や詳細よりも、本当に考えるべきことがあった。
「改めて聞こうか。何が望みだ」
 大事なことは、彼が。天使が。
 自分の望みを叶えてくれる、ということである。
 本当にそうであれば…雄吾はごくりと唾をのんだ。

 頭によぎるのは、彼の告白のこと。
 そして、彼女の顔。雄吾は拳を握りしめる。

「俺は…」
 若干どもりつつも、雄吾は己の望みを話す。望みを聞いて、天使は表情を少しだけ曇らせた。
「他人になりたいだと?」
 我ながらおかしな望みである。雄吾の要望に、うーんと天使は眉間に皺を寄せ、首を横に振った。「難しいな。さっき言っただろう。内容次第で、叶えられないこともあると」
「それって、例えば?」
「望みを叶えることが直接、他人の人生に大きく影響するようなものは駄目だ。例えば、あの人間を殺してほしい、あの人間から好かれたい…とかな。他人になるってことは、その人間としてお前が生きる、つまりは他人の人生を支配することになる。となると、それに当たりそうだ」
 天使の険しい顔に、雄吾は慌ててかぶりを振った。「いや。何も、他人として生きていきたいってわけじゃない。少しの間だけ、成り代われれば良いんだ」
「少しの間?」
「ああ」
「それに何の意味が?」
「まあ、その」少しばかり、声が詰まる。「日頃からどんな感じで、他人から自分が見られているのか、気になってたから。それを知って、身の振り方を考えようって」
 本当のことは言えなかった。言ってしまえばそれこそ、天使の言った「叶えられない望み」に該当しそうな気がしたからだ。
「俺はそれ以外、望みは無いよ」
 天使の返答を待つことなく、雄吾は口調を強くする。
 天使は少しの間唸っていたが、直後「上司に確認をとる」と、雄吾の目の前から姿を消した。一人取り残される雄吾。まるで試験結果の開示を待つ受験生のようで、そわそわと気持ちは落ち着かない。

 あなたが○○君になることはできません。

 ふと、昔学校の先生に言われた言葉が、頭に浮かぶ。今、もしかするとそれができるかもしれない。そう考えると、次第に動悸が速くなってきた。
 体感では永らく待たされた気がしたが、実際は三十秒も経っていないだろう。漆黒の天使は再び、彼の目と鼻の先、姿を現した。音もしなかった。
 現れて早々、天使はやれやれと息をつくと「オーケーだと」と一言。良かった。雄吾は内心ほっとしたが、「ただし」と続ける天使の言葉に、またも緊張感を募らせた。
「いくつかの条件を飲めば、の話だが」
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