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最終章 サンプル

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 パッチン。

 指を鳴らす音が、わずかに響いた。
 雄吾はベンチに座ったまま、瞼を開ける。そうして、青空に向けて掲げた手を、じいっと見つめた。
 もう一度、今度は反対の手でそれを試す。それから瞼を閉じる。適当な…よし、今度は観月さんにしよう。彼の顔を思い浮かべ、親指の側面を沿って、中指を親指の付け根へと叩きつける。
 パッチン。またも、軽快な音。確かに音は鳴った。しかし結果は同じだった。何も変わらない。目の前には、陽の光で照ったパステルカラーの観覧車、メリーゴーランド。賑やかな音楽に歓声。リスやら何やら、テーマパークのオリジナルキャラクターの着ぐるみが、笑顔の客と写真を撮っている。つまりは、立花雄吾の見る風景が広がっていた。

「今になって惜しくなったか?」

 雄吾は声がした右方へ、ゆっくりと顔を向けた。
 天使は猛暑でも黒スーツ、汗ひとつかいていなかった。黒々とした両翼を携え、静かに歩いてきた天使は、今日は休日なんだと、息を吐いてから雄吾の隣に座った。
「あのさ、それ…」
 雄吾が天使の翼を指差すと、天使は安心しろと息をつく。
「そもそも今、お前以外に私は見えていない」
 それはそれで、自分は独り言を話す危ない奴と思われないかとも考えたが、それは些細で、どうでも良いことだった。
「惜しいとか、そんなんじゃないよ」
 雄吾は先程の天使の問いに答える。それから、またテーマパークの各所へと視線を戻した。
「本当に無くなったんだなって。思っただけ」
「それを惜しくなったというんだよ」
「そうなのかな」
「ああ。でも、そりゃそうさ。自分の望んだ力が、しかも普通はできない、非現実な力だ。それが無くなったって思えば、誰しも惜しくなるだろう」
 非現実的な存在に言われると、なんだか妙な気持ちになった。雄吾は頭を掻く。
「そういえば、ありがとう」
「は?」
「最後のお願い、聞いてくれてさ。お礼、言えてなかった」
 雄吾の言葉に、天使は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして雄吾を見るも、ふっ、と小さく笑みを浮かべた。

 セイムズ春馬との、部室棟でのやりとりの後のこと。
 雄吾は天使を呼び出し、「『成り代わり』中に正体をバラしても、そのままの姿でいられないか」。そう、彼にお願いした。

 それはできない。それをしたら、『成り代わり』の力は消させてもらう。
 ルールは分かってる。でも、成り代わって、少しの間だけで良いんだ。それが終われば、『成り代わり』をできなくして良いから。

 絵美に成り代わり、詩音に罪を認めさせる。もちろん目的はそれにあった。しかし上手くいけば、彼女とはもう会えなくなる。今みたく、気軽に話すこともできなくなるのだ。

 彼女に、自分の好意を伝えたかった。

 それが成就する、しないに関わらず。直樹という恋人が、いようがいまいが。それをしなければ、自分は一生後悔する。そう、考えた。
 故に、自分が雄吾であることを、彼女に伝える必要があった。
「安心したよ。取り越し苦労だったようだ」
「え?」
「お前は何とかなるってことだよ」
「なんだよ、心配でもしに来てくれたのか」
「心配。心配か。まあ、あながち間違いでも無い」
「えっ」
 と、雄吾は声を上げる。少しは優しいところもあるものだ。これまでの態度、言動から、いやいや仕事をしているようにも思えたのだが。そう、天使に対する考えを雄吾は変えようとしたところで、「いや」と天使はかぶりを振った。
「心配とは少し違うな。警告といった方がしっくりくる」
「警告?」
「ああ」天使は肯く。「最近、天使事務局に勤める天使が異動になってな」
「異動?」
 異動。天使なんてものが、人間みたいな働き方をしていることに、今や驚きもしない。雄吾は、自分に意外と順応性があることを知った。
「サンプル調査の担当から外されたんだよ」
「それは一体どうして」
 天使はゆっくりと羽を広げて、ふうと息を吐いた。
「そいつは、私の後輩だったんだが。望みを叶える上で、ミスを一つ犯した」
「ミス?」
「他人の人生に、大きな影響を与えるような望みを叶えてはならない。それが、私達天使の中では守らなくてはならないルールの一つ」

 例えば、あの人間を殺してほしい、あの人間から好かれたい…とかな。

「『成り代わり』の条件、四つ目もそう。"『成り代わり』中、命を絶つことはできない。"『成り代わり』をして、人の命を良いようにできてしまえば、二時間といった制約があろうが、お前は気に食わない相手を好きな時に殺すことができてしまうだろう」
 人の寿命は既に決まっている。そう、天使は言っていただろうか。天使が天使の都合で人外の力を与えたがために、定まった寿命を縮めることは、種の繁栄を妨げる原因になるため、許し難いものなのだという。
 無論、そういう望みが問答無用で却下というわけではない。神様事務局が引き取り、ルールに反しているものか否か、協議して決定するという流れらしい。
 ちなみに協議内容はブラックボックス、天使事務局には公開されていない。そのため、何故その望みがルールに反しているのか?といった、微妙なラインのものも、これまでにあったという。

「つまりは」雄吾は唾を呑んだ。「あんたの後輩が望みを叶えたサンプルの人間の中に、
「なんか、おかしかったんだよ」天使は溜息をついた。「本来死ぬべき時でもないのに、死んだ人間が出た。それでしっかりと調べてみたら、案の定ってやつだ。…だから、念のため警告しに来た。気をつけろってな」
 わざわざ、自分ら人間には関係の無い、天使事務局の動向を話し始めた理由はそれか。雄吾は納得するも、その納得は、ある一つの可能性を、そのまま口に出す結果になった。
「その人間が、俺の近くにいるんだろ」
 天使は雄吾を見る。眼鏡の奥、濁りの無い、黒の瞳。
「どうしてそう思う?」
「あんたが、わざわざこんな人間界に来ている。そして何より」
「何より?」
「休日なんだろ。定時に厳しいあんたが、そんな休みに、仕事に時間を割く訳がない」
 天使はプッと吹き出した。それからにっこりと笑顔を携えて、雄吾の肩を叩いた。
「鋭いな。まあ、そのとおりだよ」
 反面、雄吾の心は落ち着かなかった。
「俺の知り合い、とか?」
 残念だが、と。天使はその先について口を閉ざした。
「個人を特定できる情報は、流石に言えない」
「じゃあ、質問を変えるけど。そいつはどんな望みを叶えてもらったんだよ」
「それも同じ…」
「望みだけなら、個人を特定なんて、できやしないだろ」
 実のところ、望みの内容次第では、すぐに分かる可能性もあるが、あえてすっとぼけて雄吾は訊ねる。
「それに警告で来てくれたんだろ。それくらい教えてくれても、あんた達のいうルール違反にはならないんじゃないのか」
 畳み掛けるように、雄吾は天使に向かって言う。天使は少しの間、唸っていたが、「それもそうか」と腕を組んだ。
「言っとくが、私も細かくは知らないからな」
「それでいいよ」
「『薬』を飲ませた相手を思い通りにできる、というものらしい」
「薬?」
「特定の何かってわけじゃない。飲んだ者が『薬』と認識できるものなら良い」
 つまりは医者から処方される抗生剤でも、薬局で売られている頭痛薬や胃薬などでも良いし、果てはそういった薬以外でも条件は満たせるということになる。
 雄吾は顔を青ざめた。そんなもの、この世にはいくらでも存在するではないか。
「誰かに何か、『薬』のようなものを飲まされそうになった時は、気をつけると良い」
「それだけ危険って分かってるなら、あんたらでその、与えた力を取り上げればいいんじゃないのか。サンプルなんだし、どの人間かってこともわかってるんだろうし」
「前に言っただろう。望みや力を剥奪する業務は、私達天使事務局の所管じゃない。悪魔事務局の管轄だ」
「自分達が決めたルールで、剥奪はできるのに?」
 雄吾は、自分の『成り代わり』の力を消されたことを思い浮かべた。
「ルールは決めるが、それを剥奪するかどうかは結局、そこの管轄なんだよ」
 大まかな流れとしては、サンプルが決められたルールに違反した旨を、天使は悪魔事務局に報告し、望みの剥奪を依頼する。その後、悪魔事務局で上長に承認されることで、執行されるのだという。
「じゃあ、悪魔さん達にそれを言えば…」
 天使はまたも、首を振った。
「どうして?」
「それをすれば、私達天使事務局としての責任を問われることになる」
「そんなこと言ってる場合じゃ…」
「やらかした俺の後輩はな、天使事務局長の子息なんだよ。単なる異動で済んだのは、親の加護があったからってわけ。これを公にしてみろ。私達天使の信頼、だだ下がりじゃないか」天使は両腕で体を抱き締めるようにして、身を縮こませる。「だから、穏便に済ませるってわけだよ」
 まるで社会派ドラマでよく聞く、腐敗政治の話を聞かされているような感覚に、雄吾はとらわれた。
 天使は人差し指を雄吾に向けた。
「ま、精々気をつけろ。そのサンプルの、マリオネットになりたくなければな」
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