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1.始まりの春
8.
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「では、恵舞さんをお借りします。遅くならないうちに送り届けます」
彼の爽やかな挨拶を合図に家を出る。ドアが閉まるのと同時に、彼はスンと無表情になった。
愛想があるのかないのか、どれが本当のこの人の顔なのか、掴みどころが無さすぎる。そんな横顔を盗み見ながら彼に続いて歩いた。
近くに車を止めていると彼に案内され、マンションのそばにあるパーキングに向かう。きっと高級外車に乗っているんだろうな、と予想しながらだったが、そこに停められていた車を見た途端、自分の口から「ひっ‼︎」と情け無い悲鳴が漏れた。
「何か問題あるか?」
彼は明らかに機嫌悪そうに眉をひそめて、髪を掻き上げながらこちらを見ている。
「い、いえ。問題ありません」
慌てて首を振り答えたが、目の前の車が視界に入ると顔が引き攣ってしまう。
(こ、これに、本当に乗るの……?)
そこに鎮座している車は、周りのどの車より派手な深いレッドの車体で、車高低めの高級スポーツカーだった。しかもこの車、間違いなくアメリカ製。ハンドルは日本車とは違い、左側に付いている。
あまりにも彼の澄ましたイメージとかけ離れている。いったいどんな顔してこれに乗っているのだろうか。
「乗って、恵舞」
顔をしかめたまま彼は言うと、エスコートするように助手席側、つまり右側のドアを開ける。
「あ、りがとう……ございます」
身内以外の男性にエスコートされるなど久しぶりだ。彼にとってはなんてことないのだろうが、戸惑いと、名前を呼ばれたことによるトキメキが入り混じる。
恐る恐る座ると、彼はドアを静かに閉める。シートはもちろん革張りで少し硬めだが、そう悪くない。内装もブラックを基調としていて、クールでスタイリッシュ。そこは彼と重なるところだ。
彼は運転席に乗り込むと、シートベルトをしながら自分に顔を向けた。
「ディナーは予約してあるが、他はノープラン。どこか行きたいところあるか?」
てっきり完全無欠で隙のないデートプランでも考えていたんだろうと思っていたから意外だ。
「えぇっと……。特に行きたいところは無いです。竹篠さんに合わせますよ」
「依澄だ。依澄と呼べ」
間髪容れず、ぶっきらぼうに彼は言う。
もちろんアメリカじゃ、上下関係など気にすることなく、名前で呼び合うのは普通のことだ。こうやって呼び方を指定されたなら尚更。
十年前の自分なら、簡単に受け入れただろうその言葉も、悲しいかなこの十年で日本に染まってしまった自分には、いきなり呼び捨てするなど結構高いハードルだ。
「じゃあ、依澄……さん。良かったら私、どこか案内しますよ。ご興味のある場所はないですか?」
彼を見上げて尋ねると、少しだけ考えたあと、ほんのりと照れたような表情で顔を逸らしていた。
「へっ、変なところはダメですよ⁈」
いったいどこを思い浮かべているのか。慌てて付け加えると、彼は不服そうにこちらをチラリと見る。
「変なところじゃない。けど、着いてから文句言うなよ?」
すっかり取り繕うことも辞めたのか、彼は砕けた口調で言うと車のエンジンを掛けた。
見た目通りの重々しいエンジン音がシートを突き抜けお腹に響く。この音にどこか懐かしさを感じた。
(そういえば、近所のガレージからこんな音が聞こえてたな)
親が中古車販売店をしていた男の子は、よくガレージで車をいじっていた。ルークとも仲が良くて、いつも車の話をしていた。自分は車に興味がなかったから、話に入ることはなかったけれど。
ルークの家は近所ではなく、いつもボランティアのためだけに毎週教会にやって来ていた。車で来ていたのか、誰かに送ってもらっていたのか、そういえば全く知らない。あんなに好きだった人なのに、知っていることのほうが少ないことに、今更気づいた。
「……何考えてる?」
窓の外をぼんやり眺めていると、途中の信号待ちで突然呼びかけられ振り返る。
「えっ? あ……すみません。ちょっと……昔を思い出してて……」
こちらを覗き込むように見つめるその顔に、余計にルークのことを思いだす。彼は日本人だろうけど、どこか日本人離れした顔。ルークはアメリカ人だけど、おそらくアジア系の血が混ざっていた。どこかそんな雰囲気のある顔だった。
「俺がいるのに別の男のこと考えてる? 相手にジェラシーを感じるな」
「ジェラシー⁉︎ それに、俺って! もしかして、猫被ってたんですか?」
あまりの変わりように声を上げると、彼は知ったり顔で口角を上げた。
「日本語だと、自分のことを指す言葉がたくさんあるだろ? "俺"って言うのが俺らしいと、日本語を教えてくれた人間が言っていた。それと……猫を被ったことはない」
得意げに笑いながら言ったかと思うと、最後は真面目に答える。そのギャップが可笑しくなり笑ってしまう。
「wear a maskです。gentlemanの。違います?」
英単語を交え、噛み砕きながら説明すると、彼は納得したようだ。
「Exactly」
意味深に笑みを浮かべた彼は、短くそう答えると、流れ始めた車に従いアクセルを踏んでいた。
彼の爽やかな挨拶を合図に家を出る。ドアが閉まるのと同時に、彼はスンと無表情になった。
愛想があるのかないのか、どれが本当のこの人の顔なのか、掴みどころが無さすぎる。そんな横顔を盗み見ながら彼に続いて歩いた。
近くに車を止めていると彼に案内され、マンションのそばにあるパーキングに向かう。きっと高級外車に乗っているんだろうな、と予想しながらだったが、そこに停められていた車を見た途端、自分の口から「ひっ‼︎」と情け無い悲鳴が漏れた。
「何か問題あるか?」
彼は明らかに機嫌悪そうに眉をひそめて、髪を掻き上げながらこちらを見ている。
「い、いえ。問題ありません」
慌てて首を振り答えたが、目の前の車が視界に入ると顔が引き攣ってしまう。
(こ、これに、本当に乗るの……?)
そこに鎮座している車は、周りのどの車より派手な深いレッドの車体で、車高低めの高級スポーツカーだった。しかもこの車、間違いなくアメリカ製。ハンドルは日本車とは違い、左側に付いている。
あまりにも彼の澄ましたイメージとかけ離れている。いったいどんな顔してこれに乗っているのだろうか。
「乗って、恵舞」
顔をしかめたまま彼は言うと、エスコートするように助手席側、つまり右側のドアを開ける。
「あ、りがとう……ございます」
身内以外の男性にエスコートされるなど久しぶりだ。彼にとってはなんてことないのだろうが、戸惑いと、名前を呼ばれたことによるトキメキが入り混じる。
恐る恐る座ると、彼はドアを静かに閉める。シートはもちろん革張りで少し硬めだが、そう悪くない。内装もブラックを基調としていて、クールでスタイリッシュ。そこは彼と重なるところだ。
彼は運転席に乗り込むと、シートベルトをしながら自分に顔を向けた。
「ディナーは予約してあるが、他はノープラン。どこか行きたいところあるか?」
てっきり完全無欠で隙のないデートプランでも考えていたんだろうと思っていたから意外だ。
「えぇっと……。特に行きたいところは無いです。竹篠さんに合わせますよ」
「依澄だ。依澄と呼べ」
間髪容れず、ぶっきらぼうに彼は言う。
もちろんアメリカじゃ、上下関係など気にすることなく、名前で呼び合うのは普通のことだ。こうやって呼び方を指定されたなら尚更。
十年前の自分なら、簡単に受け入れただろうその言葉も、悲しいかなこの十年で日本に染まってしまった自分には、いきなり呼び捨てするなど結構高いハードルだ。
「じゃあ、依澄……さん。良かったら私、どこか案内しますよ。ご興味のある場所はないですか?」
彼を見上げて尋ねると、少しだけ考えたあと、ほんのりと照れたような表情で顔を逸らしていた。
「へっ、変なところはダメですよ⁈」
いったいどこを思い浮かべているのか。慌てて付け加えると、彼は不服そうにこちらをチラリと見る。
「変なところじゃない。けど、着いてから文句言うなよ?」
すっかり取り繕うことも辞めたのか、彼は砕けた口調で言うと車のエンジンを掛けた。
見た目通りの重々しいエンジン音がシートを突き抜けお腹に響く。この音にどこか懐かしさを感じた。
(そういえば、近所のガレージからこんな音が聞こえてたな)
親が中古車販売店をしていた男の子は、よくガレージで車をいじっていた。ルークとも仲が良くて、いつも車の話をしていた。自分は車に興味がなかったから、話に入ることはなかったけれど。
ルークの家は近所ではなく、いつもボランティアのためだけに毎週教会にやって来ていた。車で来ていたのか、誰かに送ってもらっていたのか、そういえば全く知らない。あんなに好きだった人なのに、知っていることのほうが少ないことに、今更気づいた。
「……何考えてる?」
窓の外をぼんやり眺めていると、途中の信号待ちで突然呼びかけられ振り返る。
「えっ? あ……すみません。ちょっと……昔を思い出してて……」
こちらを覗き込むように見つめるその顔に、余計にルークのことを思いだす。彼は日本人だろうけど、どこか日本人離れした顔。ルークはアメリカ人だけど、おそらくアジア系の血が混ざっていた。どこかそんな雰囲気のある顔だった。
「俺がいるのに別の男のこと考えてる? 相手にジェラシーを感じるな」
「ジェラシー⁉︎ それに、俺って! もしかして、猫被ってたんですか?」
あまりの変わりように声を上げると、彼は知ったり顔で口角を上げた。
「日本語だと、自分のことを指す言葉がたくさんあるだろ? "俺"って言うのが俺らしいと、日本語を教えてくれた人間が言っていた。それと……猫を被ったことはない」
得意げに笑いながら言ったかと思うと、最後は真面目に答える。そのギャップが可笑しくなり笑ってしまう。
「wear a maskです。gentlemanの。違います?」
英単語を交え、噛み砕きながら説明すると、彼は納得したようだ。
「Exactly」
意味深に笑みを浮かべた彼は、短くそう答えると、流れ始めた車に従いアクセルを踏んでいた。
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