16 / 206
1.始まりの春
15
しおりを挟む
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
家の玄関先で、彼は何もなかったように、いかにも親に受けそうなソフトな微笑みを浮かべていた。そしてそのまま、携えていた紙袋から箱を取り出した。
「気持ちだけですが、夕食で訪れた店の焼き菓子です。お口に合えばよろしいのですが……」
すでに寝巻き姿になっている母は、差し出された箱を受け取り、ニコニコと笑みを浮かべていた。きっと彼への好感度は爆上げ中だろう。早くも懐柔されている様子だ。
(この変わりよう……。なんなのよ)
家の玄関扉が開くと同時に、彼は見えない紳士の仮面を着けたようだ。私に見せていた態度との雲泥の差に、唖然としていた。
「まあ! お気遣いありがとうございます。……いいんですよ。もういい大人なんですから、時間なんて気にしなくても」
この場に父がいないのをいいことに、母はサラッととんでもないことを口にする。
確かに今は夜十時に届かない時間で、平日なら仕事をしていることだってある。けれど母は暗に、朝帰りでも構わないのに、と言いたいようだ。普段結婚をせっついてくることのない母だが、さすがに三十目前の娘が行き遅れることを心配しているのかも知れない。
「お母さん! もう竹篠さんも遅くなるから、そのへんにしておいて」
まだ話しを続けそうな母を止めると、彼に体を向ける。けれど顔など見られるはずもなく、その場で頭を下げたまま声を発した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい一日でした。では僕はこれで失礼します。おやすみなさい」
母の前では取り繕いたいのか、よそゆきの声色が頭上から聞こえてくる。下を向いたままでいると、母がそれに答えていた。
「今度はゆっくり、いらしてくださいね」
「ええ。ぜひ」
見送りに出る母の声もまた、いつもよりワントーン上だった。
彼を見送ることもせず、それどころか玄関扉が閉まるより早く、自分の部屋に飛び込む。ドアを閉めると、明かりも付けずズルズルとその場に座り込んだ。
「……なんで……」
胸に溜まった空気を、全部出しきるくらい大きく息を吐き出す。
本来なら負けた私が、家まで送られることはないはずだった。
なのに彼は『せめて駅まで送らせて』と言い出し、駅に着けば着いたで『駅まで送ったから、このあとは俺のしたいようにする』と、いったん停車した車をまた走らせ始めたのだった。本当は、その場で走って逃げたいくらいだったのに。
ここまで必死で平静を装っていたが、もう限界だった。
「ルークのこと、思い出さなかったなんて……」
この十年、そう多くはないけれど交際相手はいた。そして今まで、その人たちとキスを交わすたびに、無意識にルークと比べていることに気づき、自己嫌悪に陥っていた。
なのに……今日は違った。
まだ余韻を確かめるように、唇を指でなぞる。それだけであのキスを思い出し、体は熱を帯びた。
食べられるんじゃないかと思うほど激しいキス。ルークのことを思い出す暇も与えられず求められ、そして……応じていた。
(どうしよう……。私……)
また溜め息が溢れる。
好きになったわけじゃない。今日一日、楽しかった。でも、自分の心の中には、忘れられない人が今もまだ住み続けている。
なのに……キスされて、嫌じゃなかった。そんなことを思う自分が、嫌になった。
時間にして、おそらく数十分ほどそうしていただろうか。
ようやくゆるゆると立ち上がると部屋の明かりを付ける。それから着替えをして、バッグからスマホを取り出した。案の定そこには、メッセージの受信を告げる通知が届いていた。
「今日はありがとう。次は桜を見に行きたい。また案内して欲しい。都合の良い日を教えてくれ……か」
今度は日本語で書かれている。以前英語だったのは、スマホが日本語に対応できていなかっただけかも知れない。
「桜……。そりゃ、富士山見てあんなに喜ぶんだから、日本の桜だって見たいよね」
スマホに話しかけるように呟く。
祖母から日本のことを聞いて育ったのだろうか。その祖母に結婚相手を見せたいなんて、家族思いだとは思う。
けれどやはり、自分じゃなくても、と思ってしまう。
(英語が問題なく話せる日本人がいい、とか?)
祖母に、彼女と同じ日本人と結婚して喜ばせたい。それならなんとなく納得がいく。
どこでどう繋がったのかはわからないが、祖父に私のことを聞き、結婚相手にちょうどいいと思ったのかも知れない。
もう吐き出す息も、無くなるんじゃないかと思うくらい溜め息が続く。
とにかくゲームを了承してしまったのだから、最後までやり通さなければ彼も納得してくれないだろう。
今は彼が1ポイントで自分は0。10ポイントまで、まだまだ先は長そうだ。その上、会わなければポイントを増やすこともできない。
「とりあえず……。桜、見に行こうか……」
ニュースで、数日後には開花が予想されると耳にした。見るならやはり満開のほうがいいだろう。開花から一週間後くらいが見頃だ。
そして、自分のスケジュールを頭に浮かべながら、駆け引きなどお構いなしにメッセージの返事打ち始めた。
家の玄関先で、彼は何もなかったように、いかにも親に受けそうなソフトな微笑みを浮かべていた。そしてそのまま、携えていた紙袋から箱を取り出した。
「気持ちだけですが、夕食で訪れた店の焼き菓子です。お口に合えばよろしいのですが……」
すでに寝巻き姿になっている母は、差し出された箱を受け取り、ニコニコと笑みを浮かべていた。きっと彼への好感度は爆上げ中だろう。早くも懐柔されている様子だ。
(この変わりよう……。なんなのよ)
家の玄関扉が開くと同時に、彼は見えない紳士の仮面を着けたようだ。私に見せていた態度との雲泥の差に、唖然としていた。
「まあ! お気遣いありがとうございます。……いいんですよ。もういい大人なんですから、時間なんて気にしなくても」
この場に父がいないのをいいことに、母はサラッととんでもないことを口にする。
確かに今は夜十時に届かない時間で、平日なら仕事をしていることだってある。けれど母は暗に、朝帰りでも構わないのに、と言いたいようだ。普段結婚をせっついてくることのない母だが、さすがに三十目前の娘が行き遅れることを心配しているのかも知れない。
「お母さん! もう竹篠さんも遅くなるから、そのへんにしておいて」
まだ話しを続けそうな母を止めると、彼に体を向ける。けれど顔など見られるはずもなく、その場で頭を下げたまま声を発した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい一日でした。では僕はこれで失礼します。おやすみなさい」
母の前では取り繕いたいのか、よそゆきの声色が頭上から聞こえてくる。下を向いたままでいると、母がそれに答えていた。
「今度はゆっくり、いらしてくださいね」
「ええ。ぜひ」
見送りに出る母の声もまた、いつもよりワントーン上だった。
彼を見送ることもせず、それどころか玄関扉が閉まるより早く、自分の部屋に飛び込む。ドアを閉めると、明かりも付けずズルズルとその場に座り込んだ。
「……なんで……」
胸に溜まった空気を、全部出しきるくらい大きく息を吐き出す。
本来なら負けた私が、家まで送られることはないはずだった。
なのに彼は『せめて駅まで送らせて』と言い出し、駅に着けば着いたで『駅まで送ったから、このあとは俺のしたいようにする』と、いったん停車した車をまた走らせ始めたのだった。本当は、その場で走って逃げたいくらいだったのに。
ここまで必死で平静を装っていたが、もう限界だった。
「ルークのこと、思い出さなかったなんて……」
この十年、そう多くはないけれど交際相手はいた。そして今まで、その人たちとキスを交わすたびに、無意識にルークと比べていることに気づき、自己嫌悪に陥っていた。
なのに……今日は違った。
まだ余韻を確かめるように、唇を指でなぞる。それだけであのキスを思い出し、体は熱を帯びた。
食べられるんじゃないかと思うほど激しいキス。ルークのことを思い出す暇も与えられず求められ、そして……応じていた。
(どうしよう……。私……)
また溜め息が溢れる。
好きになったわけじゃない。今日一日、楽しかった。でも、自分の心の中には、忘れられない人が今もまだ住み続けている。
なのに……キスされて、嫌じゃなかった。そんなことを思う自分が、嫌になった。
時間にして、おそらく数十分ほどそうしていただろうか。
ようやくゆるゆると立ち上がると部屋の明かりを付ける。それから着替えをして、バッグからスマホを取り出した。案の定そこには、メッセージの受信を告げる通知が届いていた。
「今日はありがとう。次は桜を見に行きたい。また案内して欲しい。都合の良い日を教えてくれ……か」
今度は日本語で書かれている。以前英語だったのは、スマホが日本語に対応できていなかっただけかも知れない。
「桜……。そりゃ、富士山見てあんなに喜ぶんだから、日本の桜だって見たいよね」
スマホに話しかけるように呟く。
祖母から日本のことを聞いて育ったのだろうか。その祖母に結婚相手を見せたいなんて、家族思いだとは思う。
けれどやはり、自分じゃなくても、と思ってしまう。
(英語が問題なく話せる日本人がいい、とか?)
祖母に、彼女と同じ日本人と結婚して喜ばせたい。それならなんとなく納得がいく。
どこでどう繋がったのかはわからないが、祖父に私のことを聞き、結婚相手にちょうどいいと思ったのかも知れない。
もう吐き出す息も、無くなるんじゃないかと思うくらい溜め息が続く。
とにかくゲームを了承してしまったのだから、最後までやり通さなければ彼も納得してくれないだろう。
今は彼が1ポイントで自分は0。10ポイントまで、まだまだ先は長そうだ。その上、会わなければポイントを増やすこともできない。
「とりあえず……。桜、見に行こうか……」
ニュースで、数日後には開花が予想されると耳にした。見るならやはり満開のほうがいいだろう。開花から一週間後くらいが見頃だ。
そして、自分のスケジュールを頭に浮かべながら、駆け引きなどお構いなしにメッセージの返事打ち始めた。
23
あなたにおすすめの小説
包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「お前、頬を叩いた詫びに婚約者になれ」
上司で社長の彪夏と秘書の清子はお似合いのふたりだと社内でも評判。
御曹司でイケメンの彪夏は女子の憧れの的。
清子はどこぞのご令嬢と噂され、男女問わず視線を集めていた。
……しかし。
清子には誰もが知らない、秘密があったのです――。
それは。
大家族のド貧乏!
上は高校生、下は生まれたばかりの五人弟妹。
おっとりして頼りにならない義母。
そして父は常に行方不明。
そんな家族を支えるべく、奮闘している清子ですが。
とうとう、彪夏に貧乏がバレたまではよかったけれど。
子持ちと間違われてついひっぱたいてしまい、償いに婚約者のフリをする羽目に。
しかも貧乏バラすと言われたら断れない。
どうなる、清子!?
河守清子
かわもりさやこ 25歳
LCCチェリーエアライン 社長付秘書
清楚なお嬢様風な見た目
会社でもそんな感じで振る舞っている
努力家で頑張り屋
自分がしっかりしないといけないと常に気を張っている
甘えベタ
×
御子神彪夏
みこがみひゅうが 33歳
LCCチェリーエアライン 社長
日本二大航空会社桜花航空社長の息子
軽くパーマをかけた掻き上げビジネスショート
黒メタルツーポイント眼鏡
細身のイケメン
物腰が柔らかく好青年
実際は俺様
気に入った人間はとにかくかまい倒す
清子はいつまで、貧乏を隠し通せるのか!?
※河守家※
父 祥平 放浪の画家。ほぼ家にいない
母 真由 のんびり屋
長男 健太(高一・16歳)服作りが趣味
次男 巧(高一・15歳)弁護士になるのが目標
三男 真(小五・10歳)サッカー少年
四男 望(保育園年中・5歳)飛行機大好き
次女 美妃(保育園児・五ヶ月)未知数
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる