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1.始まりの春
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最初のデートから十日が経った。
今日は平日。それもまだ始まったばかりに等しい火曜日だ。
「……よし」
パソコンの角に表示される時計が、16:00になると小さく呟く。表示されている、翻訳しかけていた文書ファイルを保存するとそのパソコンの電源を落とした。
「恵舞。もう帰るの? 珍しいね」
隣席で椅子ごと体を向け、自分を見上げているのは、同期で同じ年、同じ社内通訳をしている貴束羽瑠ちゃんだ。
CMに出られそうなほど艶のある、背中まで届く黒髪に、人気実力派女優と比べても遜色ない整ったクールな顔。間違いなく、本社内で三本の指に入る美女だ。
その上仕事は完璧。彼女も自分と同じで、大学からの帰国子女だが、英語だけでなくフランス語、中国語も操るスーパー通訳。才色兼備とは、まさに彼女のためにある言葉だと納得しかできない。
そんな羽瑠ちゃんは、周りから"氷の王女様"だとか、"プリンセス・フローズン"などと呼ばれているらしい。それは羽瑠ちゃんがいつも、愛想笑いすらしない無表情だから、らしい。
けれど私は知っている。笑わないのは、見た目だけで言い寄る人や、妬んでくる人に塩対応を続けた結果なのだ。心を許した人の前ではちゃんと笑う。それに歴史小説、特に戦国時代が好きな歴女で、この話をしだすとそれなりに熱く語りだすのだ。
そんなことを知るのは、きっと本社中探し回っても片手に収まるはずだ。それくらい自分は、彼女に気を許してもらえていると自負している。
「うん。今日はちょっと野暮用。羽瑠ちゃんは、夜に会議入ったんだっけ?」
「そう。終電に間に合えばいいんだけどね。明日は、遅めの出勤予定にしてるあるから」
彼女が出勤したのは、つい今しがた。自分と入れ替わるようにパソコンの電源を入れたばかりだった。
宮藤ホールディングスでは、労働時間にスーパーフレックス制度を取り入れている。会社の設定した6時~23時の間で、自分の裁量で始業終業時間を決められる制度だ。
もちろん1ヶ月間で決められた時間勤務しなければならないが、時差の関係で早朝や夜間に仕事をする必要のある社員には、ありがたい勤務体系になっている。
「お疲れ様、羽瑠ちゃん。することあったら回しといてね。明日片付けるから」
「ありがとう恵舞。じゃ、遠慮なく」
素っ気ないように見えて、口角は上がっている。彼女が職場で見せる、最大級の笑顔だ。
「お先に!」
自分を入れて五人だけの部署で、創設した約十年前から未だに秘書課の一部を間借りしている。そのこぢんまりしたデスクに声を掛けると、向かいにいる年上の後輩からの「お疲れ!」と返ってきた。それに手を振りながら、私は踵を返した。
(えーと、なんだっけ。駐車場の……)
まだ閑散としているエレベーターの中で、スマホの画面を確認する。待ち合わせ場所が記されたメッセージは簡潔明瞭だった。
『16時15分、地下駐車場Aエリア17番』
今日は、彼のリクエストに応じて夜桜見物をすることにした。ただ桜を眺めるだけなら、場所などいくらでもあるが、やはり桜にプラスして日本らしさも味わって欲しいと選んだ場所。
まだ宮藤に着任しているわけではない彼と、その場所の最寄り駅で待ち合わせしようとしたのだが、即座に却下された。そして来たのがこのメッセージ。
ああでもない、こうでもないとやりとりするのが面倒になったのだろう。最後は有無を言わさず、本社ビルの駐車場を指定されて終わった。それを顰めっ面で確認すると画面を消した。
足を踏み入れることのない、地下駐車場の役職者専用エリア。高級車の並ぶその場所で、キョロキョロしなが書かれている数字を辿った。
「15……16……17! あった!」
一人ブツブツと番号を読みあげながら、指定の場所を見つけ顔を上げる。
そこに置かれている車が変わっていることをほんの少し期待したが、残念ながら相変わらず派手な赤色のスポーツカーだ。周りを白や黒の高級車で固められたその車は、その中でかなり異彩を放っていた。
運転席を見ると、彼はそこに座っている。今日もかなりカジュアルな服装のようだ。無造作に下されている前髪で察した。彼とフロントガラス越しに目が合うと、"乗って"と指でゼスチャーを送られた。
辺りに役員と秘書が歩いていないか見渡しながら、そそくさとその車の助手席に乗り込む。
「お疲れ……様、です」
「別に……。疲れていないが?」
「ですよね」
十日が経ち、ずいぶんあの感触も薄れていたが、顔を直視できない。ハンドルに添えられた大きな手を見つめながら、日本人しか使わない挨拶を口にする。だからこそ、彼は疑問系で返してきたのだ。
「行きましょうか。本格的に混み出す前に」
彼の顔を一つも見られないまま、シートベルトをすると前を向く。けれど彼はエンジンをかける前に、膝に乗せた自分の左手を引いた。
「なっ……!」
急に触れるなんてマナー違反。抗議しようと彼に顔を向ける。
「……恵舞。十日も会えなくて、寂しかった」
彼はルークが見せたことの切なげな表情で、ルークに言われたかった台詞を吐く。
「わ、私は……。そんなこと考える暇なかったです」
自分の腕を取り返すと、プイッと外を向く。赤くなっただろう顔は見せられない。
「そうか、残念。じゃあ今日は、忘れられないようなキスをしなきゃな」
それと同時にブォンとエンジンがかかり、体に振動が伝わってきた。
今日は平日。それもまだ始まったばかりに等しい火曜日だ。
「……よし」
パソコンの角に表示される時計が、16:00になると小さく呟く。表示されている、翻訳しかけていた文書ファイルを保存するとそのパソコンの電源を落とした。
「恵舞。もう帰るの? 珍しいね」
隣席で椅子ごと体を向け、自分を見上げているのは、同期で同じ年、同じ社内通訳をしている貴束羽瑠ちゃんだ。
CMに出られそうなほど艶のある、背中まで届く黒髪に、人気実力派女優と比べても遜色ない整ったクールな顔。間違いなく、本社内で三本の指に入る美女だ。
その上仕事は完璧。彼女も自分と同じで、大学からの帰国子女だが、英語だけでなくフランス語、中国語も操るスーパー通訳。才色兼備とは、まさに彼女のためにある言葉だと納得しかできない。
そんな羽瑠ちゃんは、周りから"氷の王女様"だとか、"プリンセス・フローズン"などと呼ばれているらしい。それは羽瑠ちゃんがいつも、愛想笑いすらしない無表情だから、らしい。
けれど私は知っている。笑わないのは、見た目だけで言い寄る人や、妬んでくる人に塩対応を続けた結果なのだ。心を許した人の前ではちゃんと笑う。それに歴史小説、特に戦国時代が好きな歴女で、この話をしだすとそれなりに熱く語りだすのだ。
そんなことを知るのは、きっと本社中探し回っても片手に収まるはずだ。それくらい自分は、彼女に気を許してもらえていると自負している。
「うん。今日はちょっと野暮用。羽瑠ちゃんは、夜に会議入ったんだっけ?」
「そう。終電に間に合えばいいんだけどね。明日は、遅めの出勤予定にしてるあるから」
彼女が出勤したのは、つい今しがた。自分と入れ替わるようにパソコンの電源を入れたばかりだった。
宮藤ホールディングスでは、労働時間にスーパーフレックス制度を取り入れている。会社の設定した6時~23時の間で、自分の裁量で始業終業時間を決められる制度だ。
もちろん1ヶ月間で決められた時間勤務しなければならないが、時差の関係で早朝や夜間に仕事をする必要のある社員には、ありがたい勤務体系になっている。
「お疲れ様、羽瑠ちゃん。することあったら回しといてね。明日片付けるから」
「ありがとう恵舞。じゃ、遠慮なく」
素っ気ないように見えて、口角は上がっている。彼女が職場で見せる、最大級の笑顔だ。
「お先に!」
自分を入れて五人だけの部署で、創設した約十年前から未だに秘書課の一部を間借りしている。そのこぢんまりしたデスクに声を掛けると、向かいにいる年上の後輩からの「お疲れ!」と返ってきた。それに手を振りながら、私は踵を返した。
(えーと、なんだっけ。駐車場の……)
まだ閑散としているエレベーターの中で、スマホの画面を確認する。待ち合わせ場所が記されたメッセージは簡潔明瞭だった。
『16時15分、地下駐車場Aエリア17番』
今日は、彼のリクエストに応じて夜桜見物をすることにした。ただ桜を眺めるだけなら、場所などいくらでもあるが、やはり桜にプラスして日本らしさも味わって欲しいと選んだ場所。
まだ宮藤に着任しているわけではない彼と、その場所の最寄り駅で待ち合わせしようとしたのだが、即座に却下された。そして来たのがこのメッセージ。
ああでもない、こうでもないとやりとりするのが面倒になったのだろう。最後は有無を言わさず、本社ビルの駐車場を指定されて終わった。それを顰めっ面で確認すると画面を消した。
足を踏み入れることのない、地下駐車場の役職者専用エリア。高級車の並ぶその場所で、キョロキョロしなが書かれている数字を辿った。
「15……16……17! あった!」
一人ブツブツと番号を読みあげながら、指定の場所を見つけ顔を上げる。
そこに置かれている車が変わっていることをほんの少し期待したが、残念ながら相変わらず派手な赤色のスポーツカーだ。周りを白や黒の高級車で固められたその車は、その中でかなり異彩を放っていた。
運転席を見ると、彼はそこに座っている。今日もかなりカジュアルな服装のようだ。無造作に下されている前髪で察した。彼とフロントガラス越しに目が合うと、"乗って"と指でゼスチャーを送られた。
辺りに役員と秘書が歩いていないか見渡しながら、そそくさとその車の助手席に乗り込む。
「お疲れ……様、です」
「別に……。疲れていないが?」
「ですよね」
十日が経ち、ずいぶんあの感触も薄れていたが、顔を直視できない。ハンドルに添えられた大きな手を見つめながら、日本人しか使わない挨拶を口にする。だからこそ、彼は疑問系で返してきたのだ。
「行きましょうか。本格的に混み出す前に」
彼の顔を一つも見られないまま、シートベルトをすると前を向く。けれど彼はエンジンをかける前に、膝に乗せた自分の左手を引いた。
「なっ……!」
急に触れるなんてマナー違反。抗議しようと彼に顔を向ける。
「……恵舞。十日も会えなくて、寂しかった」
彼はルークが見せたことの切なげな表情で、ルークに言われたかった台詞を吐く。
「わ、私は……。そんなこと考える暇なかったです」
自分の腕を取り返すと、プイッと外を向く。赤くなっただろう顔は見せられない。
「そうか、残念。じゃあ今日は、忘れられないようなキスをしなきゃな」
それと同時にブォンとエンジンがかかり、体に振動が伝わってきた。
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