路地裏ポストの三匹便 —ミスケ・あんこ・源さん—

あき

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3匹の不思議な猫

第4話:月夜のベランダと未投函のはがき

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路地裏ポストの内側は、今夜だけ月光の色をしていた。
 
薄い銀色の通路を、紙の匂いがそよぐ。

海の塩、日向で乾かした紙、そして洗い立ての綿。

「高いところの匂いだ」ミスケがひげを震わせる。

「ベランダ、かな」あんこが目を細めた。

「行こう。月が案内してる」源さんが尾を立て、通路の先の切れ目へ跳んだ。

三匹が抜け出したのは、商店街から少し離れた団地の屋上近く。

八階の外廊下はひんやりして、洗濯物が風に鳴っていた。

ベランダに面した部屋の一つで、灯りがぽつりとついている。

「ここだ」ミスケが、物干し竿に挟まれたカードを見上げる。

—灯台の写真のはがき―

切手は貼ってあるのに、宛先だけが空白のまま。

端に小さく鉛筆書きで『出せない手紙』。

「“最後の一歩”で止まってる匂いがする」あんこが喉を鳴らした。

窓の向こうに、高校生くらいの男の子が見えた。

机に両肘をつき、うつむいている。

部屋には海の音の代わりに、冷蔵庫の低い唸り。

壁にはサッカーのポスターと、小さな貝殻の風鈴。

源さんがベランダの桟(さん)を渡り、はがきをそっと床へ落とす。
 
気づいた少年が顔を上げた。

「……どうして、ここに」

もちろん言葉は通じない。

けれど、ミスケは鼻先で『宛先』の欄をちょこんと突き、あんこは切手の角を指で整えた。

少年はためらい、棚から古い住所録を取り出す。
ページをめくる手が止まる。

「父さん」

かすれた声が、窓ガラスに当たって少し跳ね返った。

少年の名は海斗(かいと)。港町で育ち、去年この町へ越してきた。

船を手伝え、と言った父と、大学へ行くと言い張った自分。
最後に交わした言葉は、どちらにも刺さったままだ。

何度も書いたはがきは、宛先を書くところで止まる。港の住所は知っている。でも、書いてしまえば、戻れなくなる気がして。

あの日、駅で父が握らせてくれた魚のにおいのする作業手袋の温度まで思い出せるのに、宛先だけが書けなかった。

ミスケははがきをくわえ、ベランダの手すりから夜風へ掲げた。

月の光が灯台の写真を透かし、白い筋が海面みたいに揺れる。

「“行き先は、ここから先だよ”って、月が言ってる」あんこが小さく笑う。

「でも、書くのは彼だ」源さんが床に置かれたボールペンを前足で転がした。

海斗は深呼吸をし、ゆっくりとペン先を宛先欄へ運んだ。


 『父さんへ』
 まず、二文字。そして住所。震えながらも、全部書けた。
 書き終えると、胸の中で固くなっていた塩が、少し水に溶ける音がした。

「……出しに行こう」

彼はベランダのサンダルをつっかけ、玄関へ駆けた。三匹は影のように後を追う。

団地の足元、夜風が生垣を鳴らす。

ポストは敷地の角にあった。赤い箱が、月に照らされて少しだけ路地裏ポストに似て見える。

海斗は投函口の前で立ち止まり、はがきを握りしめたまま目を閉じた。

ミスケが彼の足首に頬を寄せる。あんこがかすかに喉を鳴らし、源さんが投函口の下にぴたりと座る。

「最後の一歩だよ」

声にはならないけれど、三匹は知っている。

いちばん軽い荷物が、いちばん重い時があることを。


 カコン。


はがきが落ちる、乾いた小さな音。

海斗はしばらく投函口を見つめ、それから顔を上げた。空は近かった。月は遠くて、でも明るかった。

スマートフォンが震えた。知らない番号。

「はい」

受話口の向こうで、潮騒みたいな間があった。

『……海斗か』

父の声。

『おまえのはがき、今、見てる。市場の前のポストから集荷の車で回ってきたって、顔なじみがわざわざ電話をくれた。おまえの字は、昔から変わらんな』

海斗は言葉を探すように、喉を鳴らした。

「父さん……」

『明け方、こっちに納品に行く。もし起きてたら、駅前でコーヒーでも飲むか。起きられなかったら、また今度でいい』

軽いようで、逃げ道でもあるようで、でもたしかに“会いに行ける”言い方だった。

「起きる。行く」

自分の声が、驚くほどまっすぐに出た。
 
通話を切ると、三匹が足元で丸くなった。


「配達、成功だね」源さんが尻尾を揺らす。

「わたしたち、何を配達したんだろう」あんこが月を見上げる。

「宛先の一行」ミスケが答えた。「書けなかった一行が、いちばん遠かった」
 
夜明け前、駅前のベンチで、湯気の立つ紙コップが二つ並んだ。

海斗と父は、漁の話をして、大学の話をして、沈黙もして、笑った。

風が冷えて、空の色が変わっていく。

灯台の写真みたいに、境目が少しずつ明るくなる。

遠くで、誰かの自転車のベルが鳴った。朝の音だった。

団地に戻る頃には、商店街のシャッターが半分ほど上がっていた。


路地裏ポストの前を通ると、投函口の奥から、薄い金魚の匂いがした。

「水、紙、糸の匂い……」あんこが鼻先をひく。

「祭りの気配もする。綿菓子、焼きとうもろこし、浴衣の糊」
源さんの瞳がきらりとした。

「“約束の糸”がからまってる」ミスケが耳を立てる。

「次は——夏祭りだ」


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