寡黙な消防士でも恋はする

晴 菜葉

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「おーい。こんなところでかくれんぼかぁ?」
 不意に肩を叩かれ、俺のでかい図体が三十センチばかり跳ね上がった。
「な、何だ何だあ。そんなに驚くことかぁ?」
 慌てて振り向いた俺の形相に、声の主はぎょっとなって後ろに退いた。
 日浦だ。日浦がいる。
 どうして、ここに。
 跳ね上がった心拍数は、なかなか元には戻らない。動悸、息切れ。俺は年寄りじゃねえ。
「もしかして、上の『プラチナ』に?」
 『プラチナ』?店名をなけなしの記憶中枢から引っ張り出す。このホテルの最上階にあるバーだ。見晴らしの良さを売りにして、外国帰りの女のバーテンを起用したと、表の看板に宣伝されていた。
「何、何?もしかして、いつも一人であんなとこで飲んでんの?」
 そんなわけあるか。俺はいつも一人で家飲みだ。
「丁度良かった。ちょっと、付き合えよ」
 強引に片腕を俺の脇の下に差し込むや、ぐいっと引き寄せる。こいつは、防火服を片手でひょいっと掴み上げる馬鹿力だ。五キロの米俵にも匹敵する重さの防火服をだぞ。下手に抵抗すれば、関節が外れることは目に見えていた。
「悩みあるんだろ。聞いてやるよ」
 眉毛に掛かった前髪を掻き上げ、薄く唇を弧の字に描く。爽やかな白いシャツに銀のチェーンネックレス、薄手のややグレーががかった黒のジャケット、ストレッチデニムのパンツ、磨き込まれた革靴。シンプルなものをさらっと着こなしているのが、何とも嫌味だ。
「ちゃんと顔に書いてあるぞ。悩みがあるときは、とにかくガンガン飲みまくって、旨い飯食って、寝るに限る。ほら、行こう行こう。ほらほら」
 だから、引っ張んな。腕が千切れるだろうがよ。ずんずんと歩くスピードに追い付かず、足が縺れ、弾みで爪先が浮く。脚の長さを考えろ。抗議したいが、やつとは身長も体重もほぼ同じ、つまりは俺がかわいそうになるだけなので、ぐっと奥歯を噛む。
 抵抗虚しく乗り込まざるを得なくなったエレベーターは、どんどん上昇する。なかなか止まらない。いい加減にいらいらしていたら、停止した先は最上階。
 エレベーターを降りて右手、黒く塗られたコンクリート壁に『platina』と銅板の英字が並んでいた。
 日浦は惑うことなく中へと進む。
 ワインレッドの絨毯が広がり、奥には一枚板のカウンターが設えられている。流れてくる落ち着いたジャズ音楽。薄暗い空間を天井に埋め込まれたダウンライトが淡く照らす。シェイカーを振る音が心地良い。
 客層は三十代後半から六十、七十くらいまで。皆、何かしら上品な雰囲気を持つ輩ばかりで、ますます俺は疎外感を強め、肩身が狭い。
 カウンターの背面には、弁天町の夜景が見事に広がっている。日浦はバーテンが真正面にくる席の椅子を引いた。遅れて俺も、左隣に着く。
 ホテルの看板に載っていた通りの美人が、グラスを差し出してきた。
「飲み過ぎちゃ駄目よ」
 ややきつい双眸の細面の美人。四十代に入ったところだろうか。ほっそりとした体つきに、黒のベストと蝶ネクタイが似合っている。
「わかってるよ。うるさいな」
 日浦は不機嫌にグラスを煽る。美しい女性に対して、いつもなら気の利いた言い回しで返すはずだが、珍しいこともあるもんだ。
「ここさ、おれの姉ちゃんがやってる店」
 不思議そうに首を傾げた俺に、日浦はあっさりと暴露する。成程。身内に媚を売る必要もないわけだ。
「アプリコットフィズ。これ、うちの愚弟からあなたへ」
 嫣然と微笑んで、赤系のカクテルを俺の前に出す。
「ね、姉ちゃん」
 途端、日浦が焦ったように腰を浮かせた。ケチケチするなよ。俺は姉にやり込められる日浦が楽しくて堪らず、早速空けた。
「これも、弟の奢り」
 今度はオレンジ色。アイ・オープナー、と彼女は説明する。今夜はとにかく飲みたい気分だ。遠慮なく頂戴する。
「シェリー。これも弟から」
 三杯目を一息に煽ったところで、視界がぐらりと揺れた。ありゃりゃ、ちょっとピッチが早過ぎたか。布地の下の皮膚がむうっと蒸して、うっすらと項に汗の粒が吹き出した。
「あっちゃん、もしかして酔ってる?」
 恐る恐るといった具合に日浦が問いかけてきた。認めたつもりはないが、俺は一応管内で鉄仮面としての通り名がある。だから、幾ら悪酔いしようが、表情にはちっとも出ない。
「酔ってねえ」
「……酔ってるな」
 上司に対してあくまで慇懃な俺が、タメ口をきくこと自体が紛れもない証拠だ。言葉とは裏腹な事実に、日浦は昔の外国映画のようにひょいっと肩を竦め、下手糞な役者を気取る。だから、そのわざとらしさがいちいちむかつくんだよ。
「姉ちゃん、ちょっとは考えてくれよ」
「あら。誰かさんがモタモタしてるから、背中を押してあげたのよ」
 困ったように声のトーンを下げた日浦に、彼女は鈴の如く喉を震わせた。
「私はアメリカでの生活が長かったから、今更偏見なんてないわよ」
「姉ちゃんのその懐の大きさには、涙が出るよ」
 忌々しそうに大きく舌打ちした日浦は、おもむろに席を立つ。
「部屋で休もうか」
 またもや強引に腕を掴まれ、否応なく立ち上がる羽目になった。いきなり動いたから、意識が追いついていかない。よろけて、不覚にも日浦の肩に頭をもたげてしまう。当然のように日浦が背中を擦ってきた。
「無理矢理は駄目よ。あんたの魂胆はお見通しなんですからね」
 背中越しに、お姉さんの笑いを噛み殺した声。
「うるさいな。俺だってそこんところは弁えてるよ」
「どうかしらね。あんた、お行儀良い方じゃないでしょ」
「うるさいな。こいつの前で余計なこと言うなよ」
 ちょっとした姉弟間の諍いを傍聴する俺は、人の目を憚ることなくやりたいようにやらせている時点で、自分が思った以上に酔ってしまっているのだろう。コントのような展開が繰り広げられていくのを、ただただ放置していた。
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