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奈落の底
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マチルダは走った。
ドレスの裾を引っ掴み、ヒールの高い靴のせいでつんのめりながらも、とにかく早くこの場所から出ることを選択した。
道に迷って途方に暮れる者がいないか、屋敷のテラスから従僕が望遠鏡で監視をしている。発見次第、救出に向かう。
マチルダはその場にじっとして、助けが来るのを待つべきだった。
しかし、そんなことをしていたら、精神が崩壊しかねない。
幼い頃に迷路に取り残された恐怖は、確実に彼女を蝕んでいた。
巨大な緑の塀が取り囲む中で平常心を保つことは不可能だ。
「駄目だわ」
マチルダは足を止めた。
目の前を塞ぐ緑の壁。
反転し、再び地面を蹴った。
左側が行き止まりなら、右へ。
「こっちも駄目」
しかし、またもや行き止まり。
靴先が芝生にめり込んで、薄汚れた。
「なんて複雑なの」
さすが貴族の娯楽だけあって、凝った造りになっている。
引き返して右へ。
「違う」
三叉路の中央へ。
「違うわ」
最早、どの道から来たのかわからない。
しかも、きゃいきゃいと楽しそうなどこかの令嬢の声はそこかしこで聞こえるものの、誰にも会わない。
「出口はどこ? どこなの? 」
他の人と、全く別方向に進んでいるとしか考えられず、声の赴く方を目指せば良いのだが、今のマチルダにはその判断が出来ない。
彼女はパニックを起こしていた。
幼い頃の、緑の巨大な壁が迫ってくる錯覚。
早くこの場所を離れないと、体がぺしゃんこに潰されてしまう。
マチルダの瞳に涙が溜まった。
「マチルダ! 」
誰かが名前を呼んだ。
「マチルダ! 」
聞き覚えのある、低いトーン。
呼ばれたかと思えば、鼓膜へやけに速いリズムが入り込んできた。
頬に当たる柔らかな布地の感触。
鼻先をくすぐるのは、爽やかな柑橘系の香水の匂い。
ロイに抱きしめられていた。
「やっと捕まえた」
彼はマチルダを引き寄せるなり、彼女の後頭部を己の胸元に押し付けた。マチルダのつむじに軽くキスを落とす。
いつものマチルダなら飛び退くところだが、あらゆる神経が恐怖で満たされている今は、恥じらいはどこかへ追いやられてしまっている。
マチルダが反発しないことで調子に乗ったロイは、さらに彼女の耳朶に音を立てて口付けを落とした。
それでもマチルダの反応はゼロ。
「で、出口がないの。わ、私、ここに永遠に取り残されるんだわ」
マチルダは半泣きで訴えた。
すっかり己の世界に閉じこもってしまっている。
現在、異性から受けている状況すら把握出来ないくらいに。
とにかく、この場所を離れなければ。
もう、頭の中にはその考えしかない。
早く逃げなければ、生垣のお化けに取り込まれてしまう。
元々の色素の薄い顔は、今や血の気を完全に失って、青く変色していた。ほっそりした指の先まで青い。風は穏やかな初夏の暖かさを保っているというのに、まるで真冬の雪原に放り出されてしまったように、ぶるぶると震えが止まらない。
さすがのロイも、そんなマチルダの態度に不審に目を眇めた。
抱きしめていたマチルダを一旦遠ざけると、一定の距離から彼女の状態をじっくりと観察する。
マチルダの目の焦点が合っていない。
すっかり恐怖のどん底へと落とされてしまっている。
「落ち着け。マチルダ」
「ひ、一人になって。わ、私、どうしたら」
「マチルダ」
マチルダの精神は奈落の底へと陥ってしまっていた。
ドレスの裾を引っ掴み、ヒールの高い靴のせいでつんのめりながらも、とにかく早くこの場所から出ることを選択した。
道に迷って途方に暮れる者がいないか、屋敷のテラスから従僕が望遠鏡で監視をしている。発見次第、救出に向かう。
マチルダはその場にじっとして、助けが来るのを待つべきだった。
しかし、そんなことをしていたら、精神が崩壊しかねない。
幼い頃に迷路に取り残された恐怖は、確実に彼女を蝕んでいた。
巨大な緑の塀が取り囲む中で平常心を保つことは不可能だ。
「駄目だわ」
マチルダは足を止めた。
目の前を塞ぐ緑の壁。
反転し、再び地面を蹴った。
左側が行き止まりなら、右へ。
「こっちも駄目」
しかし、またもや行き止まり。
靴先が芝生にめり込んで、薄汚れた。
「なんて複雑なの」
さすが貴族の娯楽だけあって、凝った造りになっている。
引き返して右へ。
「違う」
三叉路の中央へ。
「違うわ」
最早、どの道から来たのかわからない。
しかも、きゃいきゃいと楽しそうなどこかの令嬢の声はそこかしこで聞こえるものの、誰にも会わない。
「出口はどこ? どこなの? 」
他の人と、全く別方向に進んでいるとしか考えられず、声の赴く方を目指せば良いのだが、今のマチルダにはその判断が出来ない。
彼女はパニックを起こしていた。
幼い頃の、緑の巨大な壁が迫ってくる錯覚。
早くこの場所を離れないと、体がぺしゃんこに潰されてしまう。
マチルダの瞳に涙が溜まった。
「マチルダ! 」
誰かが名前を呼んだ。
「マチルダ! 」
聞き覚えのある、低いトーン。
呼ばれたかと思えば、鼓膜へやけに速いリズムが入り込んできた。
頬に当たる柔らかな布地の感触。
鼻先をくすぐるのは、爽やかな柑橘系の香水の匂い。
ロイに抱きしめられていた。
「やっと捕まえた」
彼はマチルダを引き寄せるなり、彼女の後頭部を己の胸元に押し付けた。マチルダのつむじに軽くキスを落とす。
いつものマチルダなら飛び退くところだが、あらゆる神経が恐怖で満たされている今は、恥じらいはどこかへ追いやられてしまっている。
マチルダが反発しないことで調子に乗ったロイは、さらに彼女の耳朶に音を立てて口付けを落とした。
それでもマチルダの反応はゼロ。
「で、出口がないの。わ、私、ここに永遠に取り残されるんだわ」
マチルダは半泣きで訴えた。
すっかり己の世界に閉じこもってしまっている。
現在、異性から受けている状況すら把握出来ないくらいに。
とにかく、この場所を離れなければ。
もう、頭の中にはその考えしかない。
早く逃げなければ、生垣のお化けに取り込まれてしまう。
元々の色素の薄い顔は、今や血の気を完全に失って、青く変色していた。ほっそりした指の先まで青い。風は穏やかな初夏の暖かさを保っているというのに、まるで真冬の雪原に放り出されてしまったように、ぶるぶると震えが止まらない。
さすがのロイも、そんなマチルダの態度に不審に目を眇めた。
抱きしめていたマチルダを一旦遠ざけると、一定の距離から彼女の状態をじっくりと観察する。
マチルダの目の焦点が合っていない。
すっかり恐怖のどん底へと落とされてしまっている。
「落ち着け。マチルダ」
「ひ、一人になって。わ、私、どうしたら」
「マチルダ」
マチルダの精神は奈落の底へと陥ってしまっていた。
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