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無謀な正義感
しおりを挟む朝方は晴れていたというのに、一転して雲は灰色に広がり、どんよりと湿っぽい空気を作り出していた。
門を開けて現れたヒルダに、巨漢は待ってましたと言わんばかりに駆け寄る。ヒルダの両肩を掴んで前後に揺さぶった。
「あ、あああああんた!た、たたた助け助けてくれ!」
うまく発音が出来ていない。かなりパニック状態だ。右目には青痣、左目の具合はさらに悪く、殴られた皮膚が腫れ上がり、目玉を押し潰していた。鼻骨も折れているはずだ。ぱんぱんに鼻が膨れている。
「落ち着きなさい!」
ピシャリと制止する。
手を離せと命じるより、まずは話を促すのが先だ。
「何があったのですか!」
「たたたた助けてくれ!俺ぁ、まだ死にたくねえよ!」
「だから、何があったの!この怪我は、誰にやられたの!」
「酒場で声、掛けられただけだ!一番若ぇ娘を攫えって!」
「だから、誰に!」
「まさか、失敗して、命狙われるとは、思わなかったんだ!」
「落ち着きなさい!話を聞いて!」
「大金に目ぇ眩んだばっかりに!こんなことになっちまった!」
熊のような大男は取り乱し、一方通行に捲し立てている。
要約するに、酒場で雇われた荒くれ者というわけか。
「えれえことになっちまった!」
男はさらにヒルダを揺する。
鼻息荒く、目は血走り、額には幾つも青筋を立てて、脂汗と唾を飛ばし……最早、恐怖と名の感情にがんじからめにされている。
「まさか、グランドマザーに狙われるとは!」
一体、何者から逃れようとしているのか。興奮状態の輩は、呆気なく白状した。
「グランドマザー?何者ですか、それは?」
覚えのない名に首を捻る。
突如、男の両手がヒルダから離れた。
ヒルダの真後ろには、凍てつくほどの空気が渦巻いている。
「離れろ」
ヒルダより頭一つ半上から、ぞくっと背筋に震えを走らせる声音。
男の鼻すれすれに剣先が向く。
「汚い手で触るな」
ルパートは目を眇める。
男の鼻先が傷つき、一筋の血が流れた。
「し、死にたくねえよ!死にたくねえ!」
目の前にいるのを、魂を狩りに来た死神と認識したのだろうか。ぶるぶると全身を痙攣させ、男は譫言を繰り返した。
かと思えば、身を翻し、走り去る。
図体のでかさに反比例し、かなりの健脚の持ち主だ。
あっと見やると、もう豆粒ほど遠くへ。
「待ちなさい!」
勿論、男は止まらない。
「さっきの名前は何!まだ何も聞いてない!」
今、男を見失えば、永久に謎が取り残されたままになる。
ヒルダは直感する。
本能が追えと脳に警告した。
彼女の体は、警告に素直に従う。
シュプール夫人の絶命の顔が、ヒルダに父譲りの正義感を呼び起こした。夫人の顔は無念に歪んでいた。せめて、その無念を晴らしてやりたい。全くの赤の他人なのに、そんな感情を植え付けられるほど、衝撃的な死に顔だった。
後先考えず、走り出していた。
背後からルパートが行かせまいと手を伸ばしたが、本能に支配されたヒルダの身のこなしの方が勝り、虚しく空を切る。
「ヒルダ、待て!……くそっ!」
ルパートは、忌々しく何事か吐き捨てた。
眠りの森は、昏く、不気味に人々を迎え入れる。
一目散に森の方向へ走って行く男の背中を追いかけるうち、ルパートの忠告を失念してしまっていた。
鬱蒼とした木々が、生温かい風でゆさゆさ枝を揺する。
クエエエエエ、と名前もわからない、嘴の長い大きな鳥が鳴いた。
ハッとヒルダは足を止める。
不気味な雲は急速に森に近づき、ただでさえ薄暗い視界を、ますます黒へと染めていく。
男の姿はとうに見失ってしまっていた。
そして、己の帰る道も。
舗装もされていない道は、雑草が胸丈ほどまで繁り、何の目印さえない。方角を完全に見失ってしまった。
屋敷から走りっぱなしだった。立ち止まった途端、毛穴から粒が吹き出し、汗の滲みでぐっしょりとドレスに重みを加える。黒髪は濡れて色濃くなり、後れ毛が頬にべたりと張り付く。
ハアハアと肩を上下させ、息を整える。
頭上では、湿気をたっぷり含んだ雲が、重々しく今にも垂れ落ちそうになっている。
突如、轟音が耳をつんざく。
真っ黒になった雲がひび割れた。
数秒後に、雷鳴がまたもや轟く。
つい今しがたよりも、稲妻と雷鳴の間隔が狭まっていた。
雷がどんどん近づいている。
引き返すに越したことはない。
どっちに?
迷ううち、天から一粒の雫。ヒルダの頬に沿って湾曲し、垂れ落ちる。
たちまち、激しい雨に体を叩きつけられらヒルダの周囲を水煙が張った。髪もドレスも、ぐっしょりと重力に負けて、ずぶ濡れだ。
視界が一瞬、真っ白になる。遅れて、今まで以上に激しい地響き。雷はすぐそこまで来ている。
落雷。死。その単語が頭を駆け巡り、ヒルダは恐怖で戦慄いた。今すぐ逃げなければいけないのに、靴底が縫い付けられてしまったかのように、その場から動けない。
人間相手なら、幾らでも反撃のチャンスはある。動作は体に染み付いている。
だが、自然が相手では敵わない。
逃げ場所などない。
「ルパート様」
不意にその名が溢れた。
「ルパート様。最期にルパート様に会って」
もう一度、優しくキスしてほしい。
最期に見たのが、憎々しげに舌打ちする顔なんて。
あんまりだ。
神様は、人生最期の望みを叶えてくれたのだろうか。
真っ白の世界に、黒いシルエットが浮かび上がった。
青みがかった髪はぐっしょり濡れて、黒に近い色へと変化している。
いつもの怜悧な双眸はカッと見開き、怒りや苛立ち、哀しみといった昏い部分が全面に出ており、とりわけ怒りの比重が大きい。薄い唇は真一文字に引き結ばれたまま、開こうともしない。
ああ、幻でも、冷たい。
最期の幻は、せめて笑顔が良かった。
ヒルダは目に涙を溜め、雨粒ごと鼻を啜る。
再度の雷鳴で、ルパートの幻は動きを見せた。
「馬鹿野郎!何をしているんだ!」
ルパートは勢い任せでヒルダの腕を掴む。
「ルパート様?」
幻にしては、生々しい指の食い込み。
引き寄せられた弾みで、精悍な胸板に顔面がぶつかる。心地よい硬さ。
幻ではない?
「悠長にするな!」
ザアアっと叩きつける雨にかき消されぬよう、怒鳴りつけられた。
「この場は危険だ!走るぞ!」
ルパートは有無を言わせずヒルダを引っ張ると、雑草の繁る地面を蹴った。
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