FIGHT AGAINST FATE !

薄荷雨

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Find a Way

17・彼の匂い

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 月曜の朝、榊は息苦しさに耐えかねて目を覚ました。
 良太が抱き枕よろしく榊を抱えながら、幸せそうに眠っている。 

 重い。
 今、何時だ。

 榊は緩慢にもがいて良太の腕から脱し、深呼吸した。
 時刻を確認するとまだ朝の五時だ。普段の目覚めより一時間も早い。良太を向こうに転がしてもう一度まどろみたいところだが、体格のいいこの男をあちらに押しやるのは至難だ。
 いっそのこともう起きるか、と諦めをつけてベッドを抜け出ようとしたところで、良太の腕が獲物を探るように動く。逃がさない、とでもいうように榊の胴を抱き込んで密着させた。
「く、る……」
 苦しい、と絞られるようにして呻いた榊の声が良太の意識を覚醒させる。
「あ……」
「起きたか、苦しいよ」
「ごめんなさい」
 力のこもった腕を緩めると、榊は安堵したように息を吐いた。
 良太は、おはようございます、と挨拶して榊の胸元に顔を埋め肌の匂いを吸い込む。べつに汗臭くもないのだが、榊はそれを嫌がった。
「やめろよ」
「榊さんいい匂い、俺好き」
「βにいい匂いもフェロモンも無い」
「ありますよ、いい匂い」
 甘えながら拗ねるようにして、紺色のパジャマの前たてを左右に掻き分ける。良太は榊の胸に頬擦りした。
「ヒゲじょりじょりすんな」
「いい匂いだもん」
 普段は整髪料でオールバックにしている良太の前髪が、今はやわらかく降りて榊の鎖骨の辺りをくすぐっている。
 くすぐったいよ、と言う声には優しい微笑の色が滲んでいる。それに気をよくした良太は、寝起きの元気なものを押し付ける。
「押し付けんなそれ」
「えー、しましょうよ。まだ五時ですよ、時間ありますって」
「寝る前にやったろ」
 昨晩もまた戯れあい以上性交未満の行為をしてから眠りについたのだ。
「朝から疲れたくない。さっさと顔洗ってトイレ行ってこい」
 と榊はつれない。良太はすごすごとトイレに立った。
 普段よりだいぶ余裕をもって身支度を整えることができるが、かといって今からYシャツとスラックスというのも落ち着かない。榊はとりあえず寝室とリビングのカーテンを開けて朝日を取り込む。パジャマのままソファに腰を下ろし、タブレットでざっとニュースと天気予報に目を通す。
 髭をあたってさっぱりとした良太が隣に腰を下ろし、
「ヒゲ、生えてませんね」
 と榊の頬に指先で触れた。
「生えるよ。剃ってる」
「こんな産毛みたいなの剃る必要あります?」
「毎日じゃない。一日おきくらい」
 わりと髭の濃い良太は、朝になっても無精髭にならない榊が珍しいのだ。すげえ、つるつる、とか言いながらフェイスラインを撫まわす。そうして顔を近づけて唇を押し当てた。
「こら、まだ顔洗ってないぞ」
「大丈夫でーす」
 わざとリップ音を立てて吸い付く良太の脇腹を、タブレットの角でつついて止めさせる。榊は、顔洗ってくる、と言い残して洗面所へ向かった。

 それから二人揃って少し早めの朝食をとり、洗い物が済んだ後は仕事着に着替える。良太は作業着、榊はスーツだ。
 良太がいつも着ている青い作業着は、度重なる洗濯でだいぶ色落ちしている。朝から榊に見られるなら新品を持ってくればよかったな、と良太は恥じた。土曜に仕事が終わった後、この部屋に来る前に入浴もしたし着替えてもきたけれど、作業着はそのまま持ってきてしまったのだ。しかも丸めてバッグに詰め込んできたので皺になっている。
 一方、榊はくっきりとした折り目のYシャツに濃いグレーのスーツパンツ。彼が今、ちょうど手に取ったのは良太のプレゼントしたネクタイだ。クローゼットの扉内にある鏡を見ながら器用にネクタイを締めている。
 自分が買い与えたネクタイを彼自らが締める──良太にはこの動作が、榊が首枷を望んで嵌めているような仕草にも見えていた。それは無意識にもαの執着心と支配欲を満たし、安心をもたらした。
 次にプレゼントするなら香水がいい、と良太は決めている。というか、昨日決めた。
 榊は二種類のトワレを使い分けているそうだ。休日の外出用と自宅用だ。その内のひとつ、外出用は元カノから貰ったものを使い続けているという。ただ単に、まだ残ってるから、というのが理由らしいが良太としてはあまり面白くない。要するに嫉妬だ。
 しかし榊の性格からして新しいものを送ったとしても、今あるものをきちんと使いきってからでなければ手を付けてはもらえないだろう。これについて良太は、前の恋人の匂いが消えるまで何年でも待ってやる、などと挑むような気持ちでいる。

 七時を少し過ぎた頃、そろそろ出るか、と言って榊は立ち上がる。良太も釣られるようにして立った。
「学校って何時からなんですか?」
 良太が訊ねる。
「教員は基本的に八時から始業だな」
「早いっすね。うちは八時半からです」
 二人して玄関まで移動する。成人男性二人が横並びになるといかにも狭いその場所で、榊は黒い革靴を、良太はスニーカーを履く。
「良太くん、これ」
 今度こそ忘れないようにと、榊は用意していたクッキーとラスクの詰め合わせを差し出した。以前、良太の母から北海道の土産物を分けてもらった、そのお返しだ。
「あ、こないだの、忘れてました」
「消費期限はまだ大丈夫だ」
 ありがとうございます、と言って良太はそれを右腕の肘に掛ける。榊は施錠をしなくてはならないため良太に先に出ろと促したのだが、なかなか動こうとしない。
「いってきますのチューしましょうよ」
「チューてお前」
「キス」
「いいけどさ」
 榊は眼鏡を外して胸ポケットにしまった。良太の後頭部に右手を添えて引き寄せ、躊躇いもなく軽いキスをする。良太もまた榊を引き寄せ、唇を合わせた。
 最初こそ浅く交わし合っていたそれは、次第に熱をはらんで深く濃厚なものになっていった。
 どちらからともなく背中と腰に腕をまわし、耳に、首筋に唇で触れる。背中に手を這わせ、離れ難い執心で強く腰を抱く。
 良太はひっそりと舌先を伸ばして榊の、朱に染まった耳の外周を辿った。彼は少し身じろぎしたが、力を抜いて大人しく目を閉じている。ワイシャツの白い襟に触れないよう注意深く、顎の外周から首筋へキスと舌先での愛撫を施す。わずかなシャンプーの香りは、より微かな榊本人の匂いを遮るものではなく、否応無しに昨晩の記憶を呼び覚ます。
 いっそこのまま彼を抱きかかえてベッドへ行ってしまおうか、と良太が現実を放棄しそうになったところで、
「もうそろそろ……」
 と息を弾ませた榊が良太の胸を押して顔をそらす。上気した肌と濡れた唇が艶かしい。
 現実を見失わず情動をコントロールできる彼を理性と常識の上では尊敬する。しかし良太の本能の部分は、榊の禁欲的なところが惜しくて悔しくて仕方がない。
 こんなにも好きなのは自分だけか、と思うとひどく寂しくなる。良太はほんの数秒だけきつく抱きしめたあと、榊を解放した。

 この日、榊は意図せずαのフェロモンを纏わり付けて出勤してしまった。
 βの榊はαやΩのフェロモンを感知することができない。あくまでも知識の上では、αとΩの臭腺や唾液腺などから分泌される化学物質がフェロモンと定義され、αやΩに特定の反応を引き起こすものだと知ってはいる。だがどの程度の接触でマーキングとされ、どういったフェロモンの性質でどのようにα同士、またはΩに影響を与えるものなのかが分からない。
 一晩しっかりとくっ付いて眠り、胸に洗顔前の顔で頬擦りされ、玄関でキスして舐められてきつく抱き締められた。それだけで特定のαと親密な関係にある、と自ら吹聴しているようなものなのだが、榊にはそれが分からないのだ。
 同僚から指摘を受けた榊がこのことに気付くのは、かなり後になってからだ。


 花園高校の養護教諭である竹之内は、一年生の副担任である榊龍時という新米教師のことを好いていた。
 ひとくちに「好き」といっても恋愛感情とは別物、と自分ではそう思っている。
 その青年を目の当たりにすると、例えるなら空気の澄み渡った高原で透明な雨に恵まれたような清々しい気分になる。その爽快感が好ましいのだ。
 まるであの、脳髄を腐らせる甘い毒素を取り去ってくれるようで気分が良くなる。
 毒素とはすなわち、Ωのフェロモンのことだ。
 竹之内は男性型αだ。そして〔つがい〕がいる。ゆえにΩのフェロモン、特に発情期に放出される性フェロモンの威力を嫌というほど知っている。
 そんなわけで、竹之内にとって榊は少し特別な同僚なのだ。
 この日も朝礼が始まる前に彼と一対一で挨拶を交わそうか、と職員室に来てみたのだが彼の姿がない。 
 見てみて居ないならまだ出勤していないのだろうが、鼻がいいαならではの習性なのか、竹之内は少し上を向いて探るように鼻腔に空気を吸い込む。犬や猫が風のにおいで辺りの環境を確かめるような仕草だ。

 教頭、加齢臭混じりの整髪料。
 数学の先生、奥さんが目一杯使う柔軟剤。
 国語の先生、ヘビースモーカーのヤニ臭さ。
 社会の先生、タンスの防虫剤。
 榊先生の微かなシャンプーと洗濯用洗剤の匂いは──
 無いな。

 腰高窓の向こうに視線を投じる。教員用の駐車場が見える。いつもなら自分のブラウンの軽自動車の隣に、彼の白い乗用車があるのだが。すると今しも、そこに榊の運転する白い車が停車した。遅刻ではないが、なかなかギリギリだった。
 急ぎ足で職員室に入ってきた榊は、デスクの傍らに佇んでいた竹之内に挨拶する。時間以外はいつも通りだったが、今朝の榊は少し違っていた。竹之内の鋭敏な嗅覚は自分以外のαの存在を捉えたのだ。

 なんでβの榊先生からαのフェロモ──
 あああああああ分かったそういうこと!?
 マーキング!

 榊にはαの「彼」がいる、それも遅刻しそうになるくらい時間を割いてまで濃密な接触をするほどの。
 この衝撃は竹之内の脳内に混乱をもたらした。密かに愛でていた「推し」がいきなり引退すると公式発表したような、そんな類のショックだった。あなたαにマーキングされてますよ、などと指摘する気力もない。
 その後、朝礼で教頭がどんな話をしたか覚えていない。


 同日の夜、竹之内は月輪地区と雪城地区の狭間にある夜宵町やよいちょうへと車を走らせた。
 町の裏路地には、小さく〔とぎ〕と看板を出す酒場があり、無口で無表情なαの男が主を務めている。
 およそ接客業には不向きであろう根暗な店主ではあるが、竹之内としては酒だけ出して放置してくれるところがむしろ丁度いい。愛想笑いでかしずかれる接客には慣れていない。酒はなかなかいいものが揃っているそうだが、残念ながら貧乏舌の竹之内に酒の良し悪しは分からない。
 店の裏手には駐車場がある。そこに停まっているのはポルシェだのランボルギーニだのといった外車だ。国産の車だって数千万するやつがいつも定位置に停められている。いつもある、ということは店主のものではないか、と竹之内は勝手にそう思っている。
 その車は黒色のセダンタイプ。窓全部にスモークフィルムが貼ってあり、足周りはゴールドのメッシュホイールで飾られている。ナンバーは雪城だ。
 だがよく見ると全体的に薄汚れていて艶がない。なんとなくだが、車に愛着を持っていないのだということが分かる。単純に「アシ」として使っているということか。贅沢なものだ。
 高級外車と黒いセダンの間に、どうも場違いですみませんね、と言いたげに竹之内の軽自動車が割り込む。隣の高級車にドアを当てないよう、大きな身体を極力縮めて慎重に降車した。
 コンクリートの塀に挟まれた細い路地を通り、ちょうど中程まで来ると右手に金属ドアがある。
 まるで秘密の武器庫へ誘うようなそのドアを開けると、薄暗い廊下が伸びている。数台の監視カメラで見張られたその先には片開きのスライドドアが設置されていた。扉の横の壁には指紋の読み取り画面と暗証番号入力用のプレートがあり、そこに手をかざし、会員ナンバーを入力すれば自動でドアが開く。次にエレベーターのような空間で顔かたちや体型を照合され、問題なければ正面のドアのロックが解除される。ここでようやく店内だ。
 ただの小さな酒場にしてはやけにセキュリティが厳重なのだが、ここはΩの侵入を一切拒んでいるためこのような造りになっているらしい。
 店の中は天井の高さが際立っていて、一階から二階まで吹き抜けになっていた。四方の壁面は赤茶けた煉瓦に覆われ、空調はあっても窓らしきものはない。木製のカウンターを過ぎて右手の奥には手洗いがある。左手の突き当たりには螺旋階段があり、二階部分へと繋がっていた。上にも席があるようだが、階段の一段目には「関係者以外立入禁止」の札と鎖が掛けてある。天井を渡る太い鉄骨からまっすぐに垂れ下がる古風なシャンデリアが内部を照らしていた。
 カウンター席の端っこには二十代くらいの、色の浅黒い男性が独り。そしてボックス席には二人の女性の姿。彼女たちは駐車場にあった外車の持ち主だ。酒を飲んでいるが、帰りはいつも雇いの使用人を呼ぶので飲酒運転の心配はない。ちなみに竹之内は庶民らしく代行を頼む。
「あっ、竹ちゃん」
「竹ちゃん、久しぶり。こっちおいで」
 竹之内は花園高校の生徒たちのみならず、ここでも「竹ちゃん」と呼ばれていた。
 彼女たちはαだ。いずれも目鼻立ちのはっきりした華やかな美人である。知的で利発な印象の黒髪ショートボブの女性と、長く巻いた赤毛がゴージャスな女性だ。異世界の令嬢のような二人に手招きされ、山から降りてきた熊みたいな風情でと竹之内が席に着く。
 まず乾杯しよっか、と黒髪の彼女が自分のボトルから水割りを作ってくれた。竹之内はそれを下賜されたごとく両手で丁重にいただく。彼女たちと同席するときはいつものことだった。
「例の子は?」
 赤毛のほうの女性が訊く。
「はい、そのことなんですけど、ちょっと無理になったといいますか……」
 例の子、誰のことかというと榊龍時のことなのだ。
 Ωやαのフェロモンとは異なるあの清々しい気配が何なのか不思議でならなかった竹之内は、彼女たちに訊いてみたことがある。様々なβと積極的に関わってきた彼女たちならば、何か分かるのではないかと思ったからだ。「推し」のことが知りたかったのだ。
 だが彼女たちですら、榊のようなβに出会った経験はないという。次はその子と一緒に来てねと言われたけれど、奥手な竹之内はなかなかそれができずにいた。そうこうしているうちに、今日である。
「その人、αの恋人が居るみたいでして」
 αの執着心の強さは、いちおう竹之内もαだ、よくよく存じている。会員のαがこの〔伽〕に連れてくるβというのは執着対象である恋人、伴侶、あるいは狙いをつけた獲物、と相場が決まっている。もしもこのことがβの相手であるαにバレたら間違いなく戦争だ。竹之内は争ったり奪い合ったりするのは苦手なのだ。
「どんな相手だった?」
 興味津々で黒髪の彼女が目を輝かせる。
「いやあ、実際に見てはいないんですけどもね。でもおそらく、二十代前半の男で、健康体、番の経験は無いみたいでしたね。タバコも吸わないかな。階級は、自分と同じ一般的なαかと。あとは……そうだ、おそらくオフィスワークをする人じゃない気がしますね。何かの整備工場で働いてるかな」
「そこまで分かる?」
「うーん、何となく、匂いのイメージっていいますか」
 本当かなあ、と彼女が首を傾げると華奢なロングピアスが揺れた。
「それ多分、合ってると思うわ」
 と赤毛の彼女がぐっと身を乗り出す。
「職場の環境や仕事内容によって、体臭は違いがあるの。工事現場で働いている男と、机に座ってパソコンいじってる男じゃあ全然違う。βでも違いがあるんだもの、αだったら尚更だよ」
「そういうもなの?私は女の子の方が好きだからなあ、工事現場で働いてる人とは会ったことないかも。竹ちゃんもそういうの分かるの?」
「体臭というより衣類に染み付いた生活臭なら、大体は分かるかもしれません」
 竹之内の生活圏には、彼女たちのような労働する必要のない人間には縁遠い、雑多な庶民のにおいがある。意図的に他人を嗅いでいるわけでもないが、「におい」による情報は近所のスーパーに、コンビニに、給油所、パチンコ屋、安い飲み屋、職場である花園高校に満ち溢れていた。
 今朝、榊から漂ってきたフェロモンから知ったことは、まずは番経験のない若い男性型αだということは確定。においから推察したのは、ボイラーか、いや、エンジンのような機械をいじる作業を生業にしている……ガソリンスタンドか自動車の整備工場の作業員の男性、といったところか。
 それから彼女たちは竹之内そっちのけで自らのβ観やら体験談やら、話に花を咲かせ始める。彼女たちの話の中身がなかなか際どくなってきたので、退散するようにしてカウンターへと移動する。
 店主にワインとクラッカーを注文した。
「あなたの言う子に……」
「えっ?」
 無口な店長が珍しく口を開いた。竹之内は一瞬、聞き間違いかもしくは誰か他の客人に話しかけたのか、とやや困惑した。咄嗟に左右を見る。が、やはり話しかけられているのは自分しか居なかった。
「会ったことがある」
「あら、そうですかあ。やっぱりいるんですなあ、彼のような雰囲気の人って」
「ええ、実在します」
 なんだか独特な言い回しだなあ、と思ったものの、竹之内はそこに突っ込まず赤ワインを口に含んだ。

 最初に彼女たちに榊のことを話した日は、あちらのボックス席ではなくカウンターに座っていたのだ。だから近場にいた店長にも聞こえたということだろう。
 連休に入る前、あの日もちょうどこの席に座っていた。左右を彼女たちに陣取られながら、彼の存在を語った時のことを回想する。

『新卒で来た先生がいるんですけどもね』

 竹ちゃんのいる高校って生徒は不良ばっかりで、先生はお爺さんしかいないんでしょ?とその時に確か、黒髪の彼女に言われたはずだ。それを受けて自分は、彼の容姿を語った。

『そうなんですよ、もう喧嘩は日常茶飯事。でね、新しい先生がこれがまた綺麗な人なんですよ、背のすらっとした、色白で顔立ちの端正な……はい、男性のβなんですけど。最初パッと見た時は年配の方かと……いえいえ顔は若い、でも銀髪なんですよ、生まれつきだそうで』

 その子に会ってみたいわ、と赤毛の彼女が興味を示した。

『……その人のそばにいると何故か気分がスッとするといいますか……違います違います、なんかそういう違法な、危ない薬とかじゃあないですって』

 その日の竹之内はすでに酔いが回っていて、いつになくよく喋った。

『体臭ですか?ごく普通の……フレグランス?市販のシャンプーと洗濯用洗剤の匂いくらいですかねえ、普通ですよ。でも、もしあれが香水の類いだったらこれ、すごいことですよ。ご存じありませんか、そういう気配のβの方って……ああ無い。いや、恋愛とかじゃなくて……俺が?そうなのかなあ……』

 好きだからそう感じるのよ、などと左右のどちらかに言われたような気がする。

『そりゃあ好きか嫌いかでいえば、好きですよ』

 榊という若者のことを好きだと明確に意識したのは、おそらくこの時だ。言葉が先か感情が先か、どちらなのか本人もよく分かっていない。

 竹之内は塩味のきいたクラッカーを齧りながらとワインを口にする。
 後方からは彼女たちの、また振られたとか、会わせたい子がいるとかそんな声が聞こえる。ここからでも意識すれば結構、会話の内容が分かるものだ。ならば店長も先程の話を耳にしていたことだろう。
「マスターも体臭でその人がどんな人間かなんて分かります?」
 初めて話しかけてみた。無愛想な男とはいえ客商売なのだから、まさか無視されるなんてことはないだろう。
「ええ、分かります。αとΩなら」
「βはどうですか」
「あまり、会ったことがありません」
 この男も彼女らと同じく、一般大衆の生活には無縁ということか。駐車場のあの黒い車の所有者はやはり、この店長なのかもしれない。 
「αでも我々のような、いや失礼、俺のような庶民的な生活をしている人は結構おりましてね。建築関係の人とか、なんでか不思議とわかっちゃいますよ。あれって仕事で使ってる木材や職場自体のにおいなんですかね。それと血気盛んというか、喧嘩っ早い人などもねえ、ヤンキーっていうんですか」
「その人物の経験と……」
「経験というと、やはり普段から身の回りにある道具や消耗品の類ですかねえ」
のにおいで、それと知れるものでしょう」
「思い?」
「人間はいろいろますから、それで」
「そ、れは……好きとか嫌いとかそういう感情、思いが、匂うってことですか」
「ええ」
 店長は、当然のことだ、とでも言うように浅く頷く。
「た、確かに疲れた時などは体臭が変化します。疲労時は身体から嫌な臭いがするといいますが、しかしそれは、疲労により体内で分解しきれなかったアンモニアが皮膚から放出されるからであって……疲れたっていう感情自体が香りの成分を分泌しているわけでは……」
 やや興奮気味なていで否定する竹之内に対して、目の前の男は少しばかり首を傾げた。分厚い前髪がほんの少し揺らいで、緑を秘めた琥珀色の瞳が覗く。年齢にそぐわぬ、純粋な幼児のような仕草に不安を掻き立てられる。
 この男は嘘や冗談で言ったのではない。本気で「そういうもの」だと信じ、その世界に意識を置いて生きている人間だと竹之内は直感した。
「あー、まあねえ……そういうことも、あるかもしれませんなあ」
 こういう奴らに対して一般常識だの科学だのを持ち出して対話をしても、こちらが消耗するだけだ。否定も肯定もせず曖昧にぼかして距離をとることにした。
「あなたも」
「はい?」
 適当に躱したつもりだったが、まだ何かあるのだろうか。
「あの子が、好きでしょう?」

 あの子──榊先生。

「みんな好きみたいで……」
 困るんですよ、と言ったその男の表情は複雑で怪奇に歪んでいた。こんなふうに顔を歪める人間を、竹之内はこれまで目にしたことがない。数十年間溜め込んだ喜怒哀楽を全部ごちゃ混ぜにしたような顔は、人外じみていて恐ろしかった。
 見ちゃいけないものを見てしまった気分だ。
 ボックス席の彼女たちが帰り支度を始めた。雇いの運転手が来たのだろう。
 竹之内もその波に乗って帰ることにした。急いでグラスに残ったワインとクラッカーをかっ込む。これくらい一口だ。
 彼女たちのブラックカードの後に、竹之内は丸っこい熊のイラストが描かれたデビットカードで支払いを済ませた。
「あ、そうだ、新しいボトルキープお願いね」
 どちらかの女性が店主に頼んでいる。
「じゃあまた来るわね、サナギさん」
 その呼びかけに軽く一礼した店主に見送られて、三人は店を後にした。
 

 へえ、あの店長サナギってんだ。
 この辺じゃ聞いたことがないな。
 珍しい苗字か、それとも名前か──いや、あだ名かも。
 なんたって自分は、竹ちゃんだものな。
 どこへ行っても。


 竹之内は細い裏路地を、彼女たちと同じ駐車場方面へは行かなかった。
 反対側の飲み屋の立ち並ぶ通りへ出る。
 赤提灯の掛かったおでん屋の、煤けた暖簾をくぐる。
「いらっしゃい、あれまぁ、竹ちゃん」
 割烹着の年老いた女将が親しげに名を呼ぶ。
 店自体に染みついた酒と煮物と、昭和から続く古びた時代の香り。
 心休まる、あたたかい庶民の雰囲気。
 慣れ親しんだ世俗の匂いは〔伽〕での時間を早急に遠ざけ、安らぎを与えてくれる。

 それにしても、ああ、怖かったなあ。
 人のものならぬ、人の顔。

 記憶を清めるように日本酒をあおる竹之内だった。
 


 




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