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第一章ロット
第1話溺れる騎士、青い髪
凍てつく世界だった。
どこまでも続く白銀の大地。
空には巨大なオーロラが揺らめき、まるで世界そのものを覆い隠す天蓋のように輝いている。
その光景の中を一人の青年が歩いていた。
足元で砕ける氷のように冷たいガラス片。
極寒の風が頬を切り裂き、身体の感覚を少しずつ奪っていく。
それでも青年は歩みを止めない。
壁に手をつきながら、ただ一つの言葉だけを繰り返していた。
――ヴィアを探す
それだけが彼を動かしていた。
◇
「――――っ、■■■!!」
「――きてっ、■■■!!」
「ほらっ!起きて!ロット!!」
「んぁ……?まだねむいよぉ」
僕はウサギのように丸まりながら、布団の中に潜り込む。
窓の外は、相変わらず雪がしんしんと降り積もっているようだ。
いつものように母さんが起こしにきた。
ここは丘の上にある小さな古いレンガの家。
外の寒さとは裏腹に、2階の寝室にまでスープの優しい香りが立ち込めた。
少年の名はロット。今年で10歳になる。
白い髪、青い瞳のまだ幼さの残るあどけない顔立ち。
「ロット、スープ冷めるわよ」
「あと5分!」
「昨日もそう言ったでしょう?」
「……待ってよ!今いくから!」
まったく!母さんはせっかちなんだから!
僕たちの住む村はいつも雪に囲まれていて、どこにも行けない。だから母さんと2人、ずっとここで暮らしてる。
「いただきまーす!」
台所に立っているのが、僕の母さん。名前はヴィア。
きれいな青い髪に氷を模した髪飾りを身に着けている。
普段はとっても優しいけど、怒るとすごく怖い!
ドサッ!
「食べ終わったら、洗濯物!干しといてね!」
母さんがいつも通り、暖炉の前に運んできたようだ。
「分かってるよ!」
「あら?今日はご機嫌ね。」
「だって、肉の日だもん!」
そう。月に一度だけ、ごちそうのお肉が食べられる特別な日なのだ。
「フフ、そうね。終わったらお布団もお願い!」
「げっ、子供使いが荒いなぁ……」
僕はこの家から外に出たことがない。
――だから、この小さな家が世界のすべてだった。
それでも母さんと2人きりでスープを飲んで、家事を手伝って、絵本を読んで。それだけで、毎日すごく幸せだ。
「――僕も外に出てみたい」
「ダメよ!危ないもの。」
「ちぇっ、つまんないの!」
いつの間にか日の傾きが変わって、部屋中が暖かい匂いに包まれた。
「ねぇ!母さんっ!村には何があるの?」
「そうね……家がたくさん建っていて、たくさんの人がいて、私たちみたいに仲良く暮らしてるわ。」
「僕たち以外にも人がいるんだ」
「えぇ、いつも白い雪が積もっていて、とっても冷たいの。」
「それは、知ってるよ!!!」
いいなぁ、いつか村に行ってみたいけど、母さんが一緒にいてくれるなら、それだけでいいや。
「僕、大きくなったら父さんの代わりになるんだ。母さんを守りたい――」
絵本に出てくる騎士になりたい!母さんがいつも読んでくれる『アーサー王伝説』と書かれた僕の宝ものだ!
「フフ、ロットなら、きっとなれるわ。」
「ねぇ……母さんのこと――ヴィアって呼んでいい?」
「もう!ロットったら、おませさんね!」
ぷにぃとほっぺを引っ張られてしまった!
母さんの手は、いつも氷のように冷たい。けれど僕が笑うと、少しだけ温かくなる気がした。
「今日はもう寝なさい!お・や・す・み!」
「うん、おやすみ……ヴィア。」
ちゅっ。
「もうっ!」
くすくす笑うヴィアのきれいな青い髪が僕の鼻先をくすぐる。
……いい匂いがする。
布団の中で丸まりながら、今日の楽しかった思い出を振り返る。――洗濯物、お肉、絵本、騎士、ほっぺた。
どれも全部、夢みたいに幸せな時だった。
(早く大きくなって、ヴィアを守れる騎士になりたい)
母さんはまだ下で起きてるみたいだ。
「ふぁっ……もう限界。むにゃ……」
まぶたが落ちる直前、ドアの向こうの気配が猛吹雪の音に掻き消されるように、静かに融けて消えていった。
◇
寒さが残る早朝。十字に交差する窓枠から鋭い光が差し込み、僕の寝起きを邪魔する。
うーんと体を伸ばしキョロキョロと辺りを見回す。
「……おかしい。」
いつもならもう、母さんが起こしに来てくれているはずなのに。
空間を引き裂くような冷気が廊下にまで満ちている。1階へ下りると暖炉の前に灰が散っていた。
いつもなら、母さんが部屋を暖めてくれているはずなのに。
テーブルの上に、朝ごはんは置いてない。
「母さん?」
僕の声だけが無機質なレンガの壁に虚しく反射する。返事はない。
寝室にも、台所にも、どこにもいない。昨日のスープの残り香だけが冷えた部屋に漂っていた。
「………………」
昼になっても、母さんは帰ってこなかった。
どうしよう。もしかして外で何かあったのかな?
ぐぅーとお腹が鳴る。
とりあえず!お昼もスープを飲んで、2階の掃除をして、帰ってきた母さんをびっくりさせよう!
外では雪が強く息を吹きつけるように窓をガタガタと揺らす。
「げっ!もうこんな時間になっちゃった!」
言いつけなんて破っちゃえ。母さんを探しに行ったんだって言えば、きっと許してくれる。
「わぁっ……!」
重い扉を開けた先には、息をのむほど透き通った銀世界が、辺り一面に広がっていた。
指の隙間から、おっかなびっくり天を仰いだ。外の世界はこんなにもきれいなんだ。
空にある、あれが太陽?絵本で見たやつだ!すべてがどこまでも真っ白に繋がっている。
これが木、なんか見たこともない物がいっぱいある!あっ、ウサギだ!待てーっ!
世界が、みーんなキラキラしてる!
真っ白に埋もれた未知の場所を夢中になって、げしげしと踏みしめる。斜面に出ると、眼下に広がる雪の村が宝石のように煌めいていた。
「すげーっ!!家がいっぱい建ってる!!」
興奮して駆け下りると、村の広場にたくさんの人が集まっているのが見えた。
なんだろう? 気になって仕方がなかった。僕の足取りは、まるで羽が生えたように軽かった。
「ぜぇ、ぜぇ……」
思ったより遠かったけど、やっと村に着いたぞ!村の真ん中っと……。
一歩足を踏み入れた村の中は、僕の想像を遥かに超えていた。
あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。どこかの家からは焼き立てのパンの香りが漂い、通りを行き交う人たちは皆、穏やかな笑顔を浮かべていた。
思わず足を止める。
すごい。
母さんの言っていた通りだ。ここには本当にたくさんの人がいて、みんな仲良く暮らしている。
まるで絵本の中に迷い込んでしまったみたいだった。胸の奥がスープを飲んだ時みたいに、じんわりと温かくなる。
「いっけね、母さんを探さないと!」
僕も大きくなったら、母さんと一緒にこの村で暮らしたい。
そんな未来を思い描きながら歩いていると、文字の書かれた看板が目に入った。
たしか酒場って読むんだっけ……?その向こうには大勢の人が集まっている。
何をしているんだろう。
ダン……ダン……。
広場の方から重く鈍い音が響いてきた。あっ、分かった。母さんが暖炉の前でよくやっていた薪割りの音だ。
なんだか急に安心して、僕は思わず笑顔になる。そして人だかりの方へ駆け出した。
「おい、どっから来た?ガキ」
突然、低く濁った声に呼び止められた。
「ガキって……?僕の事?」
怪訝そうに答える僕の視線は、見知らぬおじさんの後ろへと向かい――そこで人が、母さんが
雪の上に、赤く咲いていた。
「うわぁあああっああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
悲鳴ともつかない絶叫を上げ、その場に腰を抜かした。
なんで?なんでヴィアが倒れてるの?何をしてるんだこいつら!?ヴィアを助けないと!!!
「おい、待て小僧」
這い寄ろうとした身体が、すぐに別の男に組み伏せられた。
「放してよ!ヴィア!!」
「フンッ」
ゴスッ、と鈍い衝撃がお腹の奥に叩き込まれる。生まれて初めて味わう痛みに、息が止まる。
「……ぐっ」
「こりゃあ、袋詰めだな」
べちゃっと口から温かい液体が雪の上に零れる。
「おいガキ。俺たちも鬼じゃねえ。お前がここで謝れば許してやるよ」
「……僕は、どうなってもいい。だから、どうか母さんをヴィアを助けて下さい……」
「邪魔なガキだ、おい!さっさと縛って川に捨ててこい」
「なにすんだ……放せ」
「あばよ」
頭を強く殴られ、視界がぐにゃりと反転する。僕の意識は、底知れない混濁の中へと沈んでいった。
どれくらい気を失っていたんだろう……?身体が鉛のように重い。
森の中に村の明かりはもう届かない。既に辺りは闇一色に染まっている。男たちに身体を引きずられながら、ゴオ……ゴオ……と唸る音に近づいていく。
-20度を下回る極寒の中でも、決して凍ることのない急流。一瞬で獲物を飲み込む巨大な川。
ドボン――
がっあア?あぅあっアガぁアあィあぐごボヴぉボボ――
口いっぱいに、酷く不快な石の味が広がった。お腹に石が詰められていた。
激流に流され、何度も川底の岩に身体がぶつかる。
いたいっ……苦しい……苦しいよ……。
「タス……ケテッ……」
「ヴィ……ァ……」
「ほらっ!家まで競争よ!」
「晴れたからお花、摘んできたのよ。」
「毎日お肉を食べて、私より大きくなって。」
「また、読むのー?お・や・す・み!」
「一緒に歩いていきましょう。」
そんな温かい思い出と都合の良い夢が冷たい泥水の中で混ざっては消える。
「っうぁ……………………」
もはや声にもならない。ダメだ、ここであきらめるな!もう一度戻るんだッ!ヴィアの元へ……!
「……ッ!!」
身体に何か巻き付いてるッ!?それを振りほどこうと必死に藻掻き続ける。
ぐっがァ!!取れないっ!?
「なっ」
肺の中のわずかに残った空気が一瞬で空っぽになった。生まれて初めて降りた村で見た。地獄が終わらない。
水面からかすかな月明かりが差し込んだ。その光の中で気付いてしまった。
ロープじゃない。身体中に巻きついた……
きれいな青い髪だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ」
絶叫さえも容易に押しつぶされる。豪水の中では全てが無意味だった。
いつからだ!あの時、一緒に川へ捨てられたのか……!?
母さん。ヴィア。ヴィア。ヴィア。ごめんなさい。僕をかばって。
ごめんなさい。守れなかった。騎士になるって、守るって、約束したのに。
――不意に影に覆われた。
ヴィア……!?まさか生きてるのかッ!?
ズル……ズル……と影がさらに迫って来る。
いきなり口を塞がれた。
ヴィア、無茶だッ!もう身体中、ボロボロじゃないかッ!!
既に何度も岩にぶつかり、腕も足もあらぬ方向へ折れていた。それでもヴィアは、ずっと僕を包み込み、岩の衝撃から身を挺して守り続けていた。
叫びにならない呪詛が、冷たい水の中に融け馴染んでいった。
1年後――。
そこは光の届かない、深い泥のような世界だった。耳の奥で時折、不規則な水泡が弾けては砕ける。
その平坦な揺れが肉体を通じ、自分が生きていることを辛うじて証明していた。
自分の輪郭さえも定かではない。闇が肌をぬめりと舐めるように存在していた。
(ここは……なんて暗いんだ。)
ゴポッ……
(意識が戻ってから、指一本動かせない。ただ微かに人の恐怖の震えだけを感じていた)
「――っ、■■■!!」
くぐもった誰かの叫びが、鼓膜を震わせることなく通り過ぎていく。
目も見えず、耳も機能していない。それなのに、冷たい液体で満たされた肺は、奇妙なほどに滑らかに収縮を繰り返していた。
(息ができる……ここはどこだ。俺は誰なんだ。誰でもいい、教えてくれ……)
名前のない暗闇で、俺はただ届かない声の残響を数え続けていた。
さらに3年後――。
冷たい水槽の水が皮膚の一部になったかのように肉体に馴染んでいた。
徐々に目が。そして耳がこの環境に慣れてきていた。
――だが敢えて、見えないフリ、聞こえないフリをしている。
その理由が……どうやら俺は、研究所に捕らえられているらしい。
「ついに完成した。不安定だが十分だ。人体に使える」
白衣の男――研究所の責任者を名乗るプロフェッサーは、歓喜に打ち震えていた。
すぐに後ろに控えている部下に顎をしゃくった。
「確認しました。適合率はクリア、精神安定剤の注入に入ります。」
――また知らない声だ。この数年で何人目だろう。
「貴様には最高の名前をプレゼントしよう。人は名を与えられて初めて生き物になるッ!」
男はガラス越しに、まるで仕上がった極上の標本でも眺めるような薄寒い目をこちらに向けた。そして残酷なほど晴れやかに言い放つ。
「死体《モルグ》だ」
「どうせ聞こえないだろうがな。実験動物に相応しい名だ。」
水槽の縁を叩き狂ったように笑いながら、男は背中を向け、ゆっくりと暗闇の中へ消えた。
笑い声が水槽のガラスを通して届いた。古い硬貨を口に含んだ時のような味がした。
こいつらは虫唾が走るクズばかりだ。
「――っ、■■■!!」
「――っ、■■■!!」
さらに5年後――。
水槽の向こうに、青白い雪のような光が見える。
世界の悪意だけを拾い集めた「終わりかけた水槽」の中にこれ以上留まる理由は、もうどこにもなかった。
動く。
――少しずつだが、水中で動けるようになっていた。
回復に十分な時間をかけ、光を、そして闇を体内で煮え滾らせ、肉体へと仕上がった。万事は整った。
ぬっと闇の向こうから、濁った真空管を通したような声が響く。
「ようやくだ、薬を安定化させるまで数十年を要した完全態リカバリーを使う時が、ついに訪れたのだッ……!」
リカバリーってのは、こいつらが作った劇薬だ。だがそれも終わりだ。俺はここを脱出する。
「ケケケ……また、死体《モルグ》にかい……?」
楽しむように、意地悪く老婆の研究員は尋ねる。
「違う、私にだ!!」
男は心底愉快そうに言い放った。
「こいつは役に立ったが、もう用済みだ。生命維持装置を直ちに停止させろ、すべてだ。」
俺を都合のいい実験用のキャンバスとして扱い、劇薬の落書きを繰り返してきたクズ共が。
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
永遠に続くかのような規則正しい電子音と共に、モニターに一本の退屈な直線が走り抜けた。
ゴボボッ……
『バイタル停止』
「最後に教えてやる。お前は母の死体で出来ている。」
コツ……コツ……と、無情な足音が闇に紛れていく。
心臓が止まった刹那、脳内にうるさく響いていたノイズが掻き消された。
停止した世界で最も純度の高い確信が魂に宿る。
それは遠い記憶。
聞き慣れていた懐かしい揺れを感じた。
「――っ、■■■!!」
「―きてっ、■■■!!」
「おきてっ、ロット!!」
いつもの朝を迎えるように。
「ほらっ!起きてっ!ロット!!」
雪深い村の、レンガの家の、ベッドの心地よい揺れ。
ずっと聞こえていた声に導かれるように、深い眠りの底から浮かび上がっていった。
「ヴィアァァァァァァァァァッ!!!!!!」
生まれてからずっと傍にいた。
肉体を融かし、すべてを失って尚、俺に息をすることを。身体を動かすことを。
――耳元で途切れることなく、囁き続けていた存在。
驚きはなかった。むしろ、「ああ、そうか」という感覚だった。
引き出しの奥にしまい込んでいた記憶が開けられたように、強烈に魂が色を帯びていく。
懐かしくも切ない揺れが凍りついていた血潮を激しく沸騰させ、肉体を突き動かす。
死は終わりではなく、ただ新しいゲームの始まりに過ぎない。
「ん……?なんだッ!今確かに……」
男は慌てて振り返るがもう遅い。
『バイタル安定』
ドクン……ドクン……と心臓が再び鼓動を刻み始める。俺は静かに呼吸に身を委ねる。
「おい、動いたぞ!?死体《モルグ》がッ!!」
研究員たちが青ざめ、恐れ慄く。
室内の空気がビリビリと張り詰めていく。
ぼんやりと男の怯えた瞳を見つめ返しながら、深い眠りから目覚める。
時は満ちた。
ガタガタと悲鳴を上げて振動し始めた水槽の中で、俺は両手を開く。目の前の水を掴むように拳を強く握り締めた。
いつものように、息をするように。肉体は完璧に、俺の望んだ通りに駆動する。
構え――そして、弾く!!
バリンッ!!!
肉厚であるはずの強化ガラスが、濡れたパンのようにボロボロと容赦なく崩れ去る。俺と世界を隔てていた障害は、今無くなった。
「今まで世話になったな。お前らは、俺をオモチャにした――」
「そんな、バ……!!」
言い終わる間など、与えるはずがなかった――ゴキッ、と鈍い音が湿った空間に響いた。
「ひっ……」
研究員たちはリーダー格の男が崩れ落ちるのを見るや叫び逃げ惑う。
ここでの9年間。積み上げ、凝縮させてきた怒りと哀しみは、すでに私怨を越え、揺るぎない大義へと昇華していた。
「主犯はこいつだ。あとはどうでもいい。」
ずっと一緒にいた。
ずっと、俺に声を掛け続けていた。
ああ、そうか。ここに――ヴィアがいたんだ。
しばらくの間、震える掌を胸に当てた。まだそこには、ヴィアの温もりが残っている気がした。
窓の外には、真っ白な世界が広がっていた。しかし、研究所はすでに黒く染まっている。
世界には、まだ辿り着いていない真実が眠っているはずだ。
かつて両手で掴んだ青い髪の感触を決して忘れない。そうだ。俺の名前はロット。母さんの手掛かりを。
――ヴィアを探す
どこまでも続く白銀の大地。
空には巨大なオーロラが揺らめき、まるで世界そのものを覆い隠す天蓋のように輝いている。
その光景の中を一人の青年が歩いていた。
足元で砕ける氷のように冷たいガラス片。
極寒の風が頬を切り裂き、身体の感覚を少しずつ奪っていく。
それでも青年は歩みを止めない。
壁に手をつきながら、ただ一つの言葉だけを繰り返していた。
――ヴィアを探す
それだけが彼を動かしていた。
◇
「――――っ、■■■!!」
「――きてっ、■■■!!」
「ほらっ!起きて!ロット!!」
「んぁ……?まだねむいよぉ」
僕はウサギのように丸まりながら、布団の中に潜り込む。
窓の外は、相変わらず雪がしんしんと降り積もっているようだ。
いつものように母さんが起こしにきた。
ここは丘の上にある小さな古いレンガの家。
外の寒さとは裏腹に、2階の寝室にまでスープの優しい香りが立ち込めた。
少年の名はロット。今年で10歳になる。
白い髪、青い瞳のまだ幼さの残るあどけない顔立ち。
「ロット、スープ冷めるわよ」
「あと5分!」
「昨日もそう言ったでしょう?」
「……待ってよ!今いくから!」
まったく!母さんはせっかちなんだから!
僕たちの住む村はいつも雪に囲まれていて、どこにも行けない。だから母さんと2人、ずっとここで暮らしてる。
「いただきまーす!」
台所に立っているのが、僕の母さん。名前はヴィア。
きれいな青い髪に氷を模した髪飾りを身に着けている。
普段はとっても優しいけど、怒るとすごく怖い!
ドサッ!
「食べ終わったら、洗濯物!干しといてね!」
母さんがいつも通り、暖炉の前に運んできたようだ。
「分かってるよ!」
「あら?今日はご機嫌ね。」
「だって、肉の日だもん!」
そう。月に一度だけ、ごちそうのお肉が食べられる特別な日なのだ。
「フフ、そうね。終わったらお布団もお願い!」
「げっ、子供使いが荒いなぁ……」
僕はこの家から外に出たことがない。
――だから、この小さな家が世界のすべてだった。
それでも母さんと2人きりでスープを飲んで、家事を手伝って、絵本を読んで。それだけで、毎日すごく幸せだ。
「――僕も外に出てみたい」
「ダメよ!危ないもの。」
「ちぇっ、つまんないの!」
いつの間にか日の傾きが変わって、部屋中が暖かい匂いに包まれた。
「ねぇ!母さんっ!村には何があるの?」
「そうね……家がたくさん建っていて、たくさんの人がいて、私たちみたいに仲良く暮らしてるわ。」
「僕たち以外にも人がいるんだ」
「えぇ、いつも白い雪が積もっていて、とっても冷たいの。」
「それは、知ってるよ!!!」
いいなぁ、いつか村に行ってみたいけど、母さんが一緒にいてくれるなら、それだけでいいや。
「僕、大きくなったら父さんの代わりになるんだ。母さんを守りたい――」
絵本に出てくる騎士になりたい!母さんがいつも読んでくれる『アーサー王伝説』と書かれた僕の宝ものだ!
「フフ、ロットなら、きっとなれるわ。」
「ねぇ……母さんのこと――ヴィアって呼んでいい?」
「もう!ロットったら、おませさんね!」
ぷにぃとほっぺを引っ張られてしまった!
母さんの手は、いつも氷のように冷たい。けれど僕が笑うと、少しだけ温かくなる気がした。
「今日はもう寝なさい!お・や・す・み!」
「うん、おやすみ……ヴィア。」
ちゅっ。
「もうっ!」
くすくす笑うヴィアのきれいな青い髪が僕の鼻先をくすぐる。
……いい匂いがする。
布団の中で丸まりながら、今日の楽しかった思い出を振り返る。――洗濯物、お肉、絵本、騎士、ほっぺた。
どれも全部、夢みたいに幸せな時だった。
(早く大きくなって、ヴィアを守れる騎士になりたい)
母さんはまだ下で起きてるみたいだ。
「ふぁっ……もう限界。むにゃ……」
まぶたが落ちる直前、ドアの向こうの気配が猛吹雪の音に掻き消されるように、静かに融けて消えていった。
◇
寒さが残る早朝。十字に交差する窓枠から鋭い光が差し込み、僕の寝起きを邪魔する。
うーんと体を伸ばしキョロキョロと辺りを見回す。
「……おかしい。」
いつもならもう、母さんが起こしに来てくれているはずなのに。
空間を引き裂くような冷気が廊下にまで満ちている。1階へ下りると暖炉の前に灰が散っていた。
いつもなら、母さんが部屋を暖めてくれているはずなのに。
テーブルの上に、朝ごはんは置いてない。
「母さん?」
僕の声だけが無機質なレンガの壁に虚しく反射する。返事はない。
寝室にも、台所にも、どこにもいない。昨日のスープの残り香だけが冷えた部屋に漂っていた。
「………………」
昼になっても、母さんは帰ってこなかった。
どうしよう。もしかして外で何かあったのかな?
ぐぅーとお腹が鳴る。
とりあえず!お昼もスープを飲んで、2階の掃除をして、帰ってきた母さんをびっくりさせよう!
外では雪が強く息を吹きつけるように窓をガタガタと揺らす。
「げっ!もうこんな時間になっちゃった!」
言いつけなんて破っちゃえ。母さんを探しに行ったんだって言えば、きっと許してくれる。
「わぁっ……!」
重い扉を開けた先には、息をのむほど透き通った銀世界が、辺り一面に広がっていた。
指の隙間から、おっかなびっくり天を仰いだ。外の世界はこんなにもきれいなんだ。
空にある、あれが太陽?絵本で見たやつだ!すべてがどこまでも真っ白に繋がっている。
これが木、なんか見たこともない物がいっぱいある!あっ、ウサギだ!待てーっ!
世界が、みーんなキラキラしてる!
真っ白に埋もれた未知の場所を夢中になって、げしげしと踏みしめる。斜面に出ると、眼下に広がる雪の村が宝石のように煌めいていた。
「すげーっ!!家がいっぱい建ってる!!」
興奮して駆け下りると、村の広場にたくさんの人が集まっているのが見えた。
なんだろう? 気になって仕方がなかった。僕の足取りは、まるで羽が生えたように軽かった。
「ぜぇ、ぜぇ……」
思ったより遠かったけど、やっと村に着いたぞ!村の真ん中っと……。
一歩足を踏み入れた村の中は、僕の想像を遥かに超えていた。
あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。どこかの家からは焼き立てのパンの香りが漂い、通りを行き交う人たちは皆、穏やかな笑顔を浮かべていた。
思わず足を止める。
すごい。
母さんの言っていた通りだ。ここには本当にたくさんの人がいて、みんな仲良く暮らしている。
まるで絵本の中に迷い込んでしまったみたいだった。胸の奥がスープを飲んだ時みたいに、じんわりと温かくなる。
「いっけね、母さんを探さないと!」
僕も大きくなったら、母さんと一緒にこの村で暮らしたい。
そんな未来を思い描きながら歩いていると、文字の書かれた看板が目に入った。
たしか酒場って読むんだっけ……?その向こうには大勢の人が集まっている。
何をしているんだろう。
ダン……ダン……。
広場の方から重く鈍い音が響いてきた。あっ、分かった。母さんが暖炉の前でよくやっていた薪割りの音だ。
なんだか急に安心して、僕は思わず笑顔になる。そして人だかりの方へ駆け出した。
「おい、どっから来た?ガキ」
突然、低く濁った声に呼び止められた。
「ガキって……?僕の事?」
怪訝そうに答える僕の視線は、見知らぬおじさんの後ろへと向かい――そこで人が、母さんが
雪の上に、赤く咲いていた。
「うわぁあああっああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
悲鳴ともつかない絶叫を上げ、その場に腰を抜かした。
なんで?なんでヴィアが倒れてるの?何をしてるんだこいつら!?ヴィアを助けないと!!!
「おい、待て小僧」
這い寄ろうとした身体が、すぐに別の男に組み伏せられた。
「放してよ!ヴィア!!」
「フンッ」
ゴスッ、と鈍い衝撃がお腹の奥に叩き込まれる。生まれて初めて味わう痛みに、息が止まる。
「……ぐっ」
「こりゃあ、袋詰めだな」
べちゃっと口から温かい液体が雪の上に零れる。
「おいガキ。俺たちも鬼じゃねえ。お前がここで謝れば許してやるよ」
「……僕は、どうなってもいい。だから、どうか母さんをヴィアを助けて下さい……」
「邪魔なガキだ、おい!さっさと縛って川に捨ててこい」
「なにすんだ……放せ」
「あばよ」
頭を強く殴られ、視界がぐにゃりと反転する。僕の意識は、底知れない混濁の中へと沈んでいった。
どれくらい気を失っていたんだろう……?身体が鉛のように重い。
森の中に村の明かりはもう届かない。既に辺りは闇一色に染まっている。男たちに身体を引きずられながら、ゴオ……ゴオ……と唸る音に近づいていく。
-20度を下回る極寒の中でも、決して凍ることのない急流。一瞬で獲物を飲み込む巨大な川。
ドボン――
がっあア?あぅあっアガぁアあィあぐごボヴぉボボ――
口いっぱいに、酷く不快な石の味が広がった。お腹に石が詰められていた。
激流に流され、何度も川底の岩に身体がぶつかる。
いたいっ……苦しい……苦しいよ……。
「タス……ケテッ……」
「ヴィ……ァ……」
「ほらっ!家まで競争よ!」
「晴れたからお花、摘んできたのよ。」
「毎日お肉を食べて、私より大きくなって。」
「また、読むのー?お・や・す・み!」
「一緒に歩いていきましょう。」
そんな温かい思い出と都合の良い夢が冷たい泥水の中で混ざっては消える。
「っうぁ……………………」
もはや声にもならない。ダメだ、ここであきらめるな!もう一度戻るんだッ!ヴィアの元へ……!
「……ッ!!」
身体に何か巻き付いてるッ!?それを振りほどこうと必死に藻掻き続ける。
ぐっがァ!!取れないっ!?
「なっ」
肺の中のわずかに残った空気が一瞬で空っぽになった。生まれて初めて降りた村で見た。地獄が終わらない。
水面からかすかな月明かりが差し込んだ。その光の中で気付いてしまった。
ロープじゃない。身体中に巻きついた……
きれいな青い髪だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ」
絶叫さえも容易に押しつぶされる。豪水の中では全てが無意味だった。
いつからだ!あの時、一緒に川へ捨てられたのか……!?
母さん。ヴィア。ヴィア。ヴィア。ごめんなさい。僕をかばって。
ごめんなさい。守れなかった。騎士になるって、守るって、約束したのに。
――不意に影に覆われた。
ヴィア……!?まさか生きてるのかッ!?
ズル……ズル……と影がさらに迫って来る。
いきなり口を塞がれた。
ヴィア、無茶だッ!もう身体中、ボロボロじゃないかッ!!
既に何度も岩にぶつかり、腕も足もあらぬ方向へ折れていた。それでもヴィアは、ずっと僕を包み込み、岩の衝撃から身を挺して守り続けていた。
叫びにならない呪詛が、冷たい水の中に融け馴染んでいった。
1年後――。
そこは光の届かない、深い泥のような世界だった。耳の奥で時折、不規則な水泡が弾けては砕ける。
その平坦な揺れが肉体を通じ、自分が生きていることを辛うじて証明していた。
自分の輪郭さえも定かではない。闇が肌をぬめりと舐めるように存在していた。
(ここは……なんて暗いんだ。)
ゴポッ……
(意識が戻ってから、指一本動かせない。ただ微かに人の恐怖の震えだけを感じていた)
「――っ、■■■!!」
くぐもった誰かの叫びが、鼓膜を震わせることなく通り過ぎていく。
目も見えず、耳も機能していない。それなのに、冷たい液体で満たされた肺は、奇妙なほどに滑らかに収縮を繰り返していた。
(息ができる……ここはどこだ。俺は誰なんだ。誰でもいい、教えてくれ……)
名前のない暗闇で、俺はただ届かない声の残響を数え続けていた。
さらに3年後――。
冷たい水槽の水が皮膚の一部になったかのように肉体に馴染んでいた。
徐々に目が。そして耳がこの環境に慣れてきていた。
――だが敢えて、見えないフリ、聞こえないフリをしている。
その理由が……どうやら俺は、研究所に捕らえられているらしい。
「ついに完成した。不安定だが十分だ。人体に使える」
白衣の男――研究所の責任者を名乗るプロフェッサーは、歓喜に打ち震えていた。
すぐに後ろに控えている部下に顎をしゃくった。
「確認しました。適合率はクリア、精神安定剤の注入に入ります。」
――また知らない声だ。この数年で何人目だろう。
「貴様には最高の名前をプレゼントしよう。人は名を与えられて初めて生き物になるッ!」
男はガラス越しに、まるで仕上がった極上の標本でも眺めるような薄寒い目をこちらに向けた。そして残酷なほど晴れやかに言い放つ。
「死体《モルグ》だ」
「どうせ聞こえないだろうがな。実験動物に相応しい名だ。」
水槽の縁を叩き狂ったように笑いながら、男は背中を向け、ゆっくりと暗闇の中へ消えた。
笑い声が水槽のガラスを通して届いた。古い硬貨を口に含んだ時のような味がした。
こいつらは虫唾が走るクズばかりだ。
「――っ、■■■!!」
「――っ、■■■!!」
さらに5年後――。
水槽の向こうに、青白い雪のような光が見える。
世界の悪意だけを拾い集めた「終わりかけた水槽」の中にこれ以上留まる理由は、もうどこにもなかった。
動く。
――少しずつだが、水中で動けるようになっていた。
回復に十分な時間をかけ、光を、そして闇を体内で煮え滾らせ、肉体へと仕上がった。万事は整った。
ぬっと闇の向こうから、濁った真空管を通したような声が響く。
「ようやくだ、薬を安定化させるまで数十年を要した完全態リカバリーを使う時が、ついに訪れたのだッ……!」
リカバリーってのは、こいつらが作った劇薬だ。だがそれも終わりだ。俺はここを脱出する。
「ケケケ……また、死体《モルグ》にかい……?」
楽しむように、意地悪く老婆の研究員は尋ねる。
「違う、私にだ!!」
男は心底愉快そうに言い放った。
「こいつは役に立ったが、もう用済みだ。生命維持装置を直ちに停止させろ、すべてだ。」
俺を都合のいい実験用のキャンバスとして扱い、劇薬の落書きを繰り返してきたクズ共が。
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
永遠に続くかのような規則正しい電子音と共に、モニターに一本の退屈な直線が走り抜けた。
ゴボボッ……
『バイタル停止』
「最後に教えてやる。お前は母の死体で出来ている。」
コツ……コツ……と、無情な足音が闇に紛れていく。
心臓が止まった刹那、脳内にうるさく響いていたノイズが掻き消された。
停止した世界で最も純度の高い確信が魂に宿る。
それは遠い記憶。
聞き慣れていた懐かしい揺れを感じた。
「――っ、■■■!!」
「―きてっ、■■■!!」
「おきてっ、ロット!!」
いつもの朝を迎えるように。
「ほらっ!起きてっ!ロット!!」
雪深い村の、レンガの家の、ベッドの心地よい揺れ。
ずっと聞こえていた声に導かれるように、深い眠りの底から浮かび上がっていった。
「ヴィアァァァァァァァァァッ!!!!!!」
生まれてからずっと傍にいた。
肉体を融かし、すべてを失って尚、俺に息をすることを。身体を動かすことを。
――耳元で途切れることなく、囁き続けていた存在。
驚きはなかった。むしろ、「ああ、そうか」という感覚だった。
引き出しの奥にしまい込んでいた記憶が開けられたように、強烈に魂が色を帯びていく。
懐かしくも切ない揺れが凍りついていた血潮を激しく沸騰させ、肉体を突き動かす。
死は終わりではなく、ただ新しいゲームの始まりに過ぎない。
「ん……?なんだッ!今確かに……」
男は慌てて振り返るがもう遅い。
『バイタル安定』
ドクン……ドクン……と心臓が再び鼓動を刻み始める。俺は静かに呼吸に身を委ねる。
「おい、動いたぞ!?死体《モルグ》がッ!!」
研究員たちが青ざめ、恐れ慄く。
室内の空気がビリビリと張り詰めていく。
ぼんやりと男の怯えた瞳を見つめ返しながら、深い眠りから目覚める。
時は満ちた。
ガタガタと悲鳴を上げて振動し始めた水槽の中で、俺は両手を開く。目の前の水を掴むように拳を強く握り締めた。
いつものように、息をするように。肉体は完璧に、俺の望んだ通りに駆動する。
構え――そして、弾く!!
バリンッ!!!
肉厚であるはずの強化ガラスが、濡れたパンのようにボロボロと容赦なく崩れ去る。俺と世界を隔てていた障害は、今無くなった。
「今まで世話になったな。お前らは、俺をオモチャにした――」
「そんな、バ……!!」
言い終わる間など、与えるはずがなかった――ゴキッ、と鈍い音が湿った空間に響いた。
「ひっ……」
研究員たちはリーダー格の男が崩れ落ちるのを見るや叫び逃げ惑う。
ここでの9年間。積み上げ、凝縮させてきた怒りと哀しみは、すでに私怨を越え、揺るぎない大義へと昇華していた。
「主犯はこいつだ。あとはどうでもいい。」
ずっと一緒にいた。
ずっと、俺に声を掛け続けていた。
ああ、そうか。ここに――ヴィアがいたんだ。
しばらくの間、震える掌を胸に当てた。まだそこには、ヴィアの温もりが残っている気がした。
窓の外には、真っ白な世界が広がっていた。しかし、研究所はすでに黒く染まっている。
世界には、まだ辿り着いていない真実が眠っているはずだ。
かつて両手で掴んだ青い髪の感触を決して忘れない。そうだ。俺の名前はロット。母さんの手掛かりを。
――ヴィアを探す
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