教養が足りない、ですって

たくわん

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ハルトマン侯爵家の馬車が屋敷の門をくぐったのは、夜も更けた頃だった。エリーゼは無言のまま馬車を降り、出迎えた使用人たちにも目を合わせることなく、まっすぐ自室へと向かった。

その後ろ姿を、父であるフリードリヒ・フォン・ハルトマン侯爵が静かに見送る。

「お嬢様、大丈夫でしょうか」

老執事のヴィルヘルムが心配そうに呟いた。

「そっとしておいてやれ。今は誰の慰めも要らないだろう」

侯爵は娘の強さを知っていた。エリーゼは幼い頃から、決して人前で弱音を吐かない子供だった。だからこそ、今この瞬間、彼女がどれほどの痛みに耐えているかが分かる。

翌朝。

エリーゼは早くから起き出し、屋敷の奥にある図書室へと向かった。ハルトマン侯爵家は代々学問を重んじる家系で、この図書室には数千冊もの書物が収められている。

重厚な扉を開けると、古い羊皮紙とインクの匂いが鼻をくすぐった。高い天井まで届く本棚が壁一面を覆い、朝日が窓から差し込んでいる。

エリーゼは書棚の前に立ち、背表紙を眺めた。歴史書、哲学書、詩集、自然科学の書物。そして父が最近取り寄せたという、経済学と政治学の専門書。

彼女は迷わず、それらの本を手に取った。

「教養が足りない」

アレクシスの言葉が蘇る。

「なら、誰よりも教養を身につけてみせる」

机に本を積み上げ、椅子に座る。ページを開く。難解な専門用語が並んでいたが、エリーゼは怯まなかった。

一ページ、また一ページ。

分からない言葉があれば辞書を引き、理解できない概念があれば関連する書物を探す。時間を忘れて読み耽った。

昼食の時間になっても、エリーゼは図書室から出てこなかった。

「お嬢様、お食事をお持ちしました」

侍女のマルタが心配そうに扉をノックする。

「そこに置いておいて。後で食べるわ」

エリーゼの声は落ち着いていたが、どこか遠くにあるようだった。マルタは盆をテーブルに置き、そっと部屋を出た。

それから数日、エリーゼは図書室に籠もり続けた。朝から晩まで、ただ本を読む。食事も最低限、睡眠も削って。

使用人たちは心配したが、侯爵は彼らを制した。

「娘は今、立ち直ろうとしているのだ。邪魔をしてはいけない」

五日目の夜、侯爵はようやく図書室を訪れた。扉を開けると、娘が山のような本に囲まれて、ランプの灯りの下でノートに何かを書き込んでいた。

「エリーゼ」

娘は顔を上げた。頬は痩せ、目の下には隈ができている。だが、その瞳には以前にはなかった鋭い光が宿っていた。

「お父様」
「体を壊すぞ」
「大丈夫です。むしろ、今まで生きてきた中で、一番頭が冴えています」

エリーゼは微笑んだ。それは悲しい笑顔ではなく、何かを決意した者の強い笑顔だった。

「お父様、私は今まで、社交界で求められる表面的な教養しか身につけてきませんでした。詩の暗唱、音楽、刺繍、そういったもの」
「それも立派な教養だ」
「でも、それだけでは足りなかった。いいえ、足りないと思われてしまった」

エリーゼは立ち上がり、本棚を見上げる。

「この図書室には、本当の知識が詰まっています。世界がどう動いているのか、国がどう運営されているのか、人々がどう生きているのか。それを学びたいんです」

侯爵は娘の横顔を見つめた。幼い頃から、エリーゼは好奇心旺盛な子供だった。だが、社交界に出る年頃になり、彼女は自分を抑えるようになった。令嬢らしく、おしとやかに、目立たないように。

それが今、解放されようとしている。

「好きにしなさい」

侯爵は娘の肩に手を置いた。

「この図書室の本は全て、お前が読むために揃えたものだ。好きなだけ学びなさい。そして、お前が本当になりたいものになりなさい」

エリーゼの目に涙が光った。

「ありがとうございます、お父様」

侯爵が部屋を出た後、エリーゼは再び机に向かった。今読んでいるのは、王国の財政制度について書かれた専門書だ。

難しい。とても難しい。だが、理解できないわけではない。一度読んで分からなければ、二度読む。三度読む。そうして少しずつ、霧が晴れていくように理解が深まっていく。

ノートには、彼女なりの解釈と疑問点が書き込まれていく。

「王国の税制には矛盾がある。農民への負担が重すぎる一方で、大貴族への課税は軽い。これでは財政が安定するはずがない」

エリーゼはペンを走らせる。

「もし私が財政を改革するなら」

その問いかけに、彼女自身が答えを書き始める。まだ稚拙で、実現不可能な案も多い。だが、確かにそこには、問題への洞察と解決への意志があった。

窓の外では、夜明けが近づいていた。エリーゼは気づかない。ただ、学ぶことに夢中だった。

かつて社交界の笑い者だった侯爵令嬢は、今、誰も知らない場所で、静かに変わり始めていた。
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