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4 大きな壁のペイントをじっくり見てみました。
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仕事はなんとか、仕上げたものを提出し、次の宿題をもらい、席に戻る。
今のところシンプルな説明で何とかなって、余計な話もせず、原市先輩に助けを求めることもなく。
提出した書類にも何も言われず、突き返されることもなく。
二日目、三個のお題が終了した時点でさすがに聞いてみた。
視線はうっすらとしか合わせないようにして。
「あの、今までの物は大丈夫でしょうか?何も言われないのですが、手直しが必要でしたら、教えてください。」
「ああ、大丈夫です。きちんと仕上げてもらってます。ありがとう。」
帰ってきた言葉は想像をはるかに超えるくらい違った。
優しく言われたみたいで。
どら声とも違って。
目の前には幅の広い黒い壁が見える。
今喋ったのはあなたですか?
そりゃそうでしょうよ。
自分に突っ込みを入れた。
取りあえず良かったと思う。
「安心しました。それではこれも頑張ります。」
そう言って書類に視線を向けて言った。
ああ、隣の原市先輩を見るのを忘れてた。
いました?
さすがに短期間に数往復すると随分慣れるらしい。
魔窟へと続くずぶずぶの道だったのに、あっさり行って帰って来れてる。
さっきの声も震えずに普通に言えた。
心臓もきちんと機能していて速度も正常範囲内上限くらいだったと思う。
それは成長と言っていいのだろうか?
まさか『ありがとう。』などと言われるとは思ってもいなかった。
そんな単語使うんだ・・・・・。
もしかしたら小さいジャイ子にはたくさん言ってるのかもしれない。
そんな想像しても相変わらず顔は無し。
書類を置いて眺める。
「そろそろ慣れたみたいね。行き帰りの足取りもしっかりしてて、堂々としてた。」
そう美沙子に言われた。
堂々と・・・その表現は正しいのだろうか?
普通だったよ。
ジャイ子じゃなくても、美沙子には言うかも。
ありがとうとかもっと別な言葉を・・・・・。
今度の書類は数字の羅列。
さすがに集中したい。データの数字だから。
これで何かのお金とかプランが動いたりはしない参考データ。
でも間違えないように。
テンキーを使って打ち込んでいく。
一列打ち込んで確認、また一列打ち込む。
それを繰り返し、終わった。
途中美沙子にランチに誘われたけど、断った。
とにかくこの数字は入れ終わりたい。
美沙子の気持ちも分かった。
たまには外に一人でふらりと行ってもいい。
そう思って、実際終わったのは皆から遅れること一時間。
隣には美沙子が帰って来ていた。
「疲れた。目が疲れた。」
「ランチに行って来たら?」
「うん、そうする。一時間留守にするね。」
そう言ってバッグと上着を持って外に出た。
どこに行こうか。
時間がズレるとちょっとだけお店も空いてるだろう。
でも一人でお店に入れるタイプじゃなくて、結局よくある駅前のカフェに行った。
ああ、空いてると思ったのにやっぱりいっぱいみたい。
キョロキョロしたら原市先輩が手を振ってくれていたのを発見した!
思わず笑顔になったけど、隣にはやっぱり苦手な人がついていた。
それでも原市先輩が席を指さしてくれた。
『ここ、ここ。ここにおいで。』と。
素晴らしくもありがたい申し出。謹んでお受けいたします。
そんな気持ちでうなずいた。
原市先輩だけを見て近寄った。
コーヒーとサンドイッチを買っていた私。
何とか三人座れる?
ちょっと狭い・・・・、無理そう・・・・。
そう思ったら原市先輩が立ち上がった。
「ここどうぞ。僕はもう終わり。立ってても平気。」
そんな・・・・・・。
「あの、席が空くのを待ちます。座ってください。」
「ああ、大丈夫。あと少しで休憩終わりなんだ。阿里ちゃんに用事があったからちょうどいいかと思って。」
勧められるままに空いた席に座る。
当然正面には黒い壁。
「おじゃまします。」
一応壁に向かっても断った。
「どうぞ。」
壁が、郷里さんがそう言ってくれた。
その壁にはペイントがあった。・・・・・ネクタイ。
初めて目にしたはずはないのに、ちょっと気になった。
犬?明るいブルーに、よく見たら犬?
ちょっと首をかしげるようにして、近寄ってみた。
犬だ。
「ええっ、犬だったの?」
もちろん市原先輩の声だ。
「ずっとドット模様だと思ってた。犬?」
「はい、犬です。一見普通の丸に見えるけど、犬です。」
私が答えた。
「すごいね、阿里ちゃんくらい近寄らないと分からないね。どうしても気になったの?」
そう言われて顔をあげたら、獰猛そうな顎の一部が見えて・・・明らかに壁に寄り過ぎたことに気がついた。
テーブルの上の私の領地は明らかに超えていた。越境というやつだ。
急いで体を戻した。
「失礼いたしました。」
恥ずかしい。何してるの?
犬が好きかと聞かれても普通としか答えられない。
ただちょっとあれっ?て思っただけなのに。
「ああ、時間がないから話をしていいかな?阿里ちゃん、さっき美沙ちゃんとも話をしてて、今週末に決定ね。」
原市先輩を見る。
何が?美沙子?
「あ、聞いてなかった?ヘルプが終わった二人にお礼をしたいし、食事をしようと計画してたんだけど。」
えっえ~、あれが実現するの?
「都合悪い?」
原市先輩にそう聞かれて首を振る。まさかです。
全力で他の事を排除しても優先したいくらい・・・・かも。
「そう良かった。じゃあ、あとは文土と決めてね。」
そう言うと自分のトレーを持って手を振っていなくなった。
そんな・・・・・・、誘ってくれた以上責任持ってください。
今、丁度空いた隣の席にうつりたいような気がしてますが。
「犬好きなの?」
「ああ・・・・普通です。さっきはちょっと本当にあれって思って、つい。本当に失礼しました。」
「別にいいよ。」
やっぱり聞かれた。
そして会話が始まった以上隣には行けないと思う。
「とりあえず食べたら?」
「はい。」
「遅くなって悪かったね。あれをやってたんだよね。」
モグモグの間に応える。
「はい。」
飲み込んで、正面を見てもやっぱりネクタイが目に入る。
本当によく見ないと分からない。
まさか本人が気がついてないパターンはないよね。
「犬、好きなんですか?」
少し顔をあげて聞いてみた。
ああ、そう、こんな顔だった。
「家で飼ってるんだ。『桃太郎』って言うオスの柴犬、七歳なんだ。」
ビックリするほど嬉しそうに話をする。
ネクタイにわざわざ選ぶかどうか疑問だけど、『桃太郎』のことは可愛がってるらしいと分かった。
『桃太郎』・・・・退治される側じゃないの?敵じゃないの?・・・なんて言わない。
それに、つけるかな、『桃太郎』って。
「誰が名前を決めたんですか?」
「ああ、妹。普段は『太郎』って呼んでる。桃太郎って呼んでも本人も覚えてないみたいで振り向かないんだ。もしくは気に入ってないのかも。」
どうしてそんなに犬のことは優しい声で話せるんだろう。
ジャイ子以外にオスの柴犬の桃太郎がいると分かった。
「もしかして実家なんですか?」
「ああ・・・・そう。」
いや、別に、いいです。そんなに分かりやすいほど恥ずかしそうにしなくても。
なんてわかりやすいの。
そんな人だった?
美沙子が面白いって言ったのはこんなところ?
ギャップにやられた?
仕事の時は真面目な怖い厳つい鬼のような・・・・顔をしてるから・・・と思うけどよくは知らない。
でも、こんな感じは知らない人も多いかも。
あれ?よく考えたら、普通に仕事してる。上司とも、後輩とも。
もしかして、私と美沙子が特別に怖がってただけ?
そうだったら申し訳なかったかも。
大きな壁に犬のペイント、そう思ったらそんな壁も可愛く見えるから不思議現象だ。
動物の癒し効果は万能だと言うことだろう。
サンドイッチを食べる。
視線はさすがにまたネクタイに戻る。
「妹さんは小さいって聞きました。」
「ああ、そうだね。妹は母親に似てるから、小さい方。自分は父親の方に似て大きいけど。妹も今のところ、不便は感じてないみたい。」
年の話をしたのに、身長のことで返された。
ジャイ子の年齢は分からず。
太郎の七歳を考えると、10歳は超えてるだろう。
名前をつけれるくらいの年に飼い始めたことになる。
桃太郎の話を気に入っていたとしたら、5歳前くらいだろうか?
今、12歳くらい?すごい開きがある。
いっそ若いパパに見えたりして。
想像できない。
サンドイッチは最後の一切れで。
なんだか普通に食事が出来てる自分。
あんまり顔を見てないからかも。
食べ終わった時にゆっくりと顔をあげた。
郷里さんがちょうどコーヒーを飲み終わるところだった。
「慣れないことで疲れる?数字は余計に目が疲れるでしょう?」
なんと全く知らない優しい表情がそこにあった。
すぐに思った。
今まで何を見てたんだろう。
怖いなんて思っててすごく失礼だったのかもしれない。
犬柄のネクタイするような人で、年の離れた妹を可愛がるような人だから、そんな怖いはずはないのに。
本当に失礼だったと思う。
「どうかした?」
「いいえ、大丈夫です。」
「そうか。」
時計を見てコーヒーを見る。
「じゃあ、そろそろ行くけど、ゆっくりしてもいいと思う。ヘルプは予定より早く進めてもらってるから。」
「ありがとうございます。もう少しゆっくりします。」
軽くお辞儀をして、去って行くその壁のような大きな姿を見送った。
何かスポーツをやっていたのだろうか。
壁というのは間違いない。
ただ、苦痛だと思ったこの時間、そんなこんな、意外な一面を見てすっかり怯えてた思いも随分・・・・ほとんど、消えた。
相変わらず大きくて、仕事中の表情は一見怖い。
知らなきゃ、やっぱり怖い、ほんとに怖いと思われても仕方ないくらいだと思う。
だいたい隣の原市先輩が真逆で、明るく笑顔過ぎて楽しそうで、そんな原市先輩をよく睨んでる、そんなとこも、怖がられるポイントだと思う。
でも一度イメージが変わると、あんなにどら声だと思ってたのに、普通の声だと気がついたり、時々、ほんの少しだけど普通に笑う顔を見たり、照れるような顔まで見れて。
そんなレア現象を見たら何かいい事ありそうで、ラッキーアイテムをゲットしたのように気分が楽になっていた、かも?
週末までにヘルプも終わった。
資料は突き返されることなく、『合格』だったと思いたい。
最後に笑顔で『ありがとう』と『助かった』と言われた。
ラッキーアイテムを二個ゲットした気分だった。
ただ、あと半日もない。ゲットしたラッキーアイテム登場の場面はある?
とりあえず気分よく席に戻っていつもの業務に戻った。
ああ、また原市先輩を見るのを忘れてた!もったいない。
それでも、今日は約束の飲み会、原市先輩と飲む日。
嬉しい!
あ、あと美沙子と郷里さん。
もしかしてラッキーアイテムは二人にプレゼントかなぁ。
どうなるんだろう、ちょっとドキドキしてきた。
優しい顔で美沙子の隣にいる郷里さん、随分簡単に顔が浮かぶようになったし、何とその顔は笑顔だった。思わずうれしくて笑顔になったのは・・・・・想像の中にいたのは美沙子じゃなくて自分だった、違う違う、間違えた。
そう、美沙子は私よりはずっと背が高い。
私が本当に低いから。
美沙子はちょうどいい具合のサイズ、折れそうに細くもないし、重そうにバランスが悪い胸やお尻でもないし、本当に平均的。
どんな服も綺麗に着れる。悩まなくていい標準サイズだ。
だから並んでも私程違和感はないと思う。
だから私の今日の分のラッキーアイテムはあげる。
原市先輩に対して使うこともないから、いらないと思う。
一緒に飲めるだけでもいい。
そう今なら楽しかったって思える。ヘルプも楽しかったと。
半日でそう思った美沙子はすごい。
それはもっと大きな何かのきっかけがあったんだろう。
さっそく来週聞いてみたい気もする。
仕事も終わり時間、ふらりと原市先輩が来てくれた。
「美沙ちゃん、阿里ちゃん終わりそう?」
「大丈夫です。」
楽しみです。全力の笑顔で答える。
「私も大丈夫です?郷里さんは?」
「まだなんだよ。もう、ノロノロ仕事してねえ、大切な日なのに。鞭打って頑張らせるからあと少し待っててね。あと30分くらいね。」
そう言って帰って行った。
本当に郷里さんの耳元に寄って何かを言っている。
視線がこっちに向いた、目が合った。
おおっと。
視線をそらして書類を保存して終わりにする。
あとはいらないメールをちょちょっと削除したりして、終わった。
コーヒーカップを捨てて、トイレと化粧直しを済ませる。
金曜日のこの時間、トイレより鏡の前が混む時間。
大人しくトイレに入り、少し空いた鏡の前に立つ。
鏡に映るのは小さな自分。
家の両親は二人とも小さい方ではない。
なのに私は小さい。
生まれた時からそうだったらしい。
母乳を飲む反射が弱くて困ったと言われたことがある。
そのころの私は今よりもっともっと不器用だったんだろう。
好き嫌いはなくご飯は普通に食べていた記憶がある。
だけど、そこはかなり努力をして工夫して食べさせたらしい。
目の前にある大人の物まで手を出してバクバクと食べる他の子が羨ましかったらしい。
私は目の前に出されてもじっと見てるだけで、お気に入りのフォークに刺してあげて、ようやくちょっとづつ食べ始める子だったと。
とにかく手がかかったらしい。
転ぶ、ぶつかる、いなくなる。何度も繰り返したらしい。
それでもあんまり病弱でもなくて気がついたら大きくなっていたと。
お母さんもお父さんも私で懲りたのか、弟も妹もいない、一人っ子だ。
親戚一同集まっても大人が多く、子供が少ない。
兄弟姉妹という感覚があんまり分からないかもしれない。
でも妹でも弟でも、いたら可愛がると思う、私だって生意気じゃなきゃ可愛がると思う。
お兄ちゃんがいたら甘えると思う。ちょっとくらいゴツくても、甘えると思う。
うん?一体何を考えてるのかわからなくなってきた。
そう、私は小さくて鏡の上半分は空いてる。そう思ったんだった。
化粧直しを簡単にして、服をきちんと整えて、廊下に出た。
席に戻ると美沙子が終わったらしく、入れ替わりでトイレに行ってくると言っていなくなった。
手には私よりコンパクトなポーチがあったけど、すごく機能的でフルメイクできるくらい入っているのだからすごい。
なんでも器用な美沙子。
仕事ではそんなに差がないと思いたいけど、どうなんだろう。
「阿里ちゃん、お疲れ様。」
美沙子の背中を見ていたら、いきなり原市先輩が美沙子の席に座ってビックリした。
「お疲れさまです。」
「今日は楽しめるといいよね。」
いつもの優しい笑顔で言われた。
「はい、楽しみです。お店は決まってるんですか?」
「うん、予約してるよ。美味しいし、雰囲気いい所だから、そっちも楽しみにしてて。」
「はい。」
「ねえ、どうだった?」
顔を寄せられて小声で聞いてくる。
「何がでしょうか?」
ちょっとドキドキして声が上ずる。
「この間のお昼、少しは文土と話が出来た?」
「はい、・・・・少しは。」
何だろう。私としては普通でした。
「ね、最初は怖がってたけど、いい奴でしょう?思ったより優しかったでしょう?」
そういえば最初に言われた。怖がってたとはっきり言われた。
「すみません。ちょっとだけ大きな人は苦手で、本当にそんな印象だけで失礼な態度でした。」
「大丈夫だよ。分かってくれたよね。あんな犬柄ネクタイの奴だし、桃太郎の話は聞いた?」
「少しだけ。柴犬を可愛がってると言うことは。」
「妹に週末にオス犬とだけのデートで可哀想って言われてるみたいなんだ。」
ずいぶん大人びた妹さんだ。思ったより大きいのかもしれない。
「阿里ちゃん、暇だったら付き合ってあげて。阿里ちゃんがおねだりすれば何でも買ってくれるし、奢ってくれると思うよ。」
「何でですか?」
ビックリして声が出た。
キョロキョロしたら郷里さんも驚いてこっちを見てた。
恥ずかしい。
それは私じゃないです。美沙子です。私がおねだりできるわけないです。
そんな・・・・したことないです。
もしかして美沙子の事、気がついてない?
本当にただ単に飲みに誘っただけ?
私が協力できるのなんてちょっとなのに、そこは原市先輩の協力も必要です、すごくお願いしたいのに。
こっちを嬉しそうに見る顔には何だか期待できそうにない。
そこ、鈍感ですか?
だとしても、このあと一緒にいればわかるよね。
今のところシンプルな説明で何とかなって、余計な話もせず、原市先輩に助けを求めることもなく。
提出した書類にも何も言われず、突き返されることもなく。
二日目、三個のお題が終了した時点でさすがに聞いてみた。
視線はうっすらとしか合わせないようにして。
「あの、今までの物は大丈夫でしょうか?何も言われないのですが、手直しが必要でしたら、教えてください。」
「ああ、大丈夫です。きちんと仕上げてもらってます。ありがとう。」
帰ってきた言葉は想像をはるかに超えるくらい違った。
優しく言われたみたいで。
どら声とも違って。
目の前には幅の広い黒い壁が見える。
今喋ったのはあなたですか?
そりゃそうでしょうよ。
自分に突っ込みを入れた。
取りあえず良かったと思う。
「安心しました。それではこれも頑張ります。」
そう言って書類に視線を向けて言った。
ああ、隣の原市先輩を見るのを忘れてた。
いました?
さすがに短期間に数往復すると随分慣れるらしい。
魔窟へと続くずぶずぶの道だったのに、あっさり行って帰って来れてる。
さっきの声も震えずに普通に言えた。
心臓もきちんと機能していて速度も正常範囲内上限くらいだったと思う。
それは成長と言っていいのだろうか?
まさか『ありがとう。』などと言われるとは思ってもいなかった。
そんな単語使うんだ・・・・・。
もしかしたら小さいジャイ子にはたくさん言ってるのかもしれない。
そんな想像しても相変わらず顔は無し。
書類を置いて眺める。
「そろそろ慣れたみたいね。行き帰りの足取りもしっかりしてて、堂々としてた。」
そう美沙子に言われた。
堂々と・・・その表現は正しいのだろうか?
普通だったよ。
ジャイ子じゃなくても、美沙子には言うかも。
ありがとうとかもっと別な言葉を・・・・・。
今度の書類は数字の羅列。
さすがに集中したい。データの数字だから。
これで何かのお金とかプランが動いたりはしない参考データ。
でも間違えないように。
テンキーを使って打ち込んでいく。
一列打ち込んで確認、また一列打ち込む。
それを繰り返し、終わった。
途中美沙子にランチに誘われたけど、断った。
とにかくこの数字は入れ終わりたい。
美沙子の気持ちも分かった。
たまには外に一人でふらりと行ってもいい。
そう思って、実際終わったのは皆から遅れること一時間。
隣には美沙子が帰って来ていた。
「疲れた。目が疲れた。」
「ランチに行って来たら?」
「うん、そうする。一時間留守にするね。」
そう言ってバッグと上着を持って外に出た。
どこに行こうか。
時間がズレるとちょっとだけお店も空いてるだろう。
でも一人でお店に入れるタイプじゃなくて、結局よくある駅前のカフェに行った。
ああ、空いてると思ったのにやっぱりいっぱいみたい。
キョロキョロしたら原市先輩が手を振ってくれていたのを発見した!
思わず笑顔になったけど、隣にはやっぱり苦手な人がついていた。
それでも原市先輩が席を指さしてくれた。
『ここ、ここ。ここにおいで。』と。
素晴らしくもありがたい申し出。謹んでお受けいたします。
そんな気持ちでうなずいた。
原市先輩だけを見て近寄った。
コーヒーとサンドイッチを買っていた私。
何とか三人座れる?
ちょっと狭い・・・・、無理そう・・・・。
そう思ったら原市先輩が立ち上がった。
「ここどうぞ。僕はもう終わり。立ってても平気。」
そんな・・・・・・。
「あの、席が空くのを待ちます。座ってください。」
「ああ、大丈夫。あと少しで休憩終わりなんだ。阿里ちゃんに用事があったからちょうどいいかと思って。」
勧められるままに空いた席に座る。
当然正面には黒い壁。
「おじゃまします。」
一応壁に向かっても断った。
「どうぞ。」
壁が、郷里さんがそう言ってくれた。
その壁にはペイントがあった。・・・・・ネクタイ。
初めて目にしたはずはないのに、ちょっと気になった。
犬?明るいブルーに、よく見たら犬?
ちょっと首をかしげるようにして、近寄ってみた。
犬だ。
「ええっ、犬だったの?」
もちろん市原先輩の声だ。
「ずっとドット模様だと思ってた。犬?」
「はい、犬です。一見普通の丸に見えるけど、犬です。」
私が答えた。
「すごいね、阿里ちゃんくらい近寄らないと分からないね。どうしても気になったの?」
そう言われて顔をあげたら、獰猛そうな顎の一部が見えて・・・明らかに壁に寄り過ぎたことに気がついた。
テーブルの上の私の領地は明らかに超えていた。越境というやつだ。
急いで体を戻した。
「失礼いたしました。」
恥ずかしい。何してるの?
犬が好きかと聞かれても普通としか答えられない。
ただちょっとあれっ?て思っただけなのに。
「ああ、時間がないから話をしていいかな?阿里ちゃん、さっき美沙ちゃんとも話をしてて、今週末に決定ね。」
原市先輩を見る。
何が?美沙子?
「あ、聞いてなかった?ヘルプが終わった二人にお礼をしたいし、食事をしようと計画してたんだけど。」
えっえ~、あれが実現するの?
「都合悪い?」
原市先輩にそう聞かれて首を振る。まさかです。
全力で他の事を排除しても優先したいくらい・・・・かも。
「そう良かった。じゃあ、あとは文土と決めてね。」
そう言うと自分のトレーを持って手を振っていなくなった。
そんな・・・・・・、誘ってくれた以上責任持ってください。
今、丁度空いた隣の席にうつりたいような気がしてますが。
「犬好きなの?」
「ああ・・・・普通です。さっきはちょっと本当にあれって思って、つい。本当に失礼しました。」
「別にいいよ。」
やっぱり聞かれた。
そして会話が始まった以上隣には行けないと思う。
「とりあえず食べたら?」
「はい。」
「遅くなって悪かったね。あれをやってたんだよね。」
モグモグの間に応える。
「はい。」
飲み込んで、正面を見てもやっぱりネクタイが目に入る。
本当によく見ないと分からない。
まさか本人が気がついてないパターンはないよね。
「犬、好きなんですか?」
少し顔をあげて聞いてみた。
ああ、そう、こんな顔だった。
「家で飼ってるんだ。『桃太郎』って言うオスの柴犬、七歳なんだ。」
ビックリするほど嬉しそうに話をする。
ネクタイにわざわざ選ぶかどうか疑問だけど、『桃太郎』のことは可愛がってるらしいと分かった。
『桃太郎』・・・・退治される側じゃないの?敵じゃないの?・・・なんて言わない。
それに、つけるかな、『桃太郎』って。
「誰が名前を決めたんですか?」
「ああ、妹。普段は『太郎』って呼んでる。桃太郎って呼んでも本人も覚えてないみたいで振り向かないんだ。もしくは気に入ってないのかも。」
どうしてそんなに犬のことは優しい声で話せるんだろう。
ジャイ子以外にオスの柴犬の桃太郎がいると分かった。
「もしかして実家なんですか?」
「ああ・・・・そう。」
いや、別に、いいです。そんなに分かりやすいほど恥ずかしそうにしなくても。
なんてわかりやすいの。
そんな人だった?
美沙子が面白いって言ったのはこんなところ?
ギャップにやられた?
仕事の時は真面目な怖い厳つい鬼のような・・・・顔をしてるから・・・と思うけどよくは知らない。
でも、こんな感じは知らない人も多いかも。
あれ?よく考えたら、普通に仕事してる。上司とも、後輩とも。
もしかして、私と美沙子が特別に怖がってただけ?
そうだったら申し訳なかったかも。
大きな壁に犬のペイント、そう思ったらそんな壁も可愛く見えるから不思議現象だ。
動物の癒し効果は万能だと言うことだろう。
サンドイッチを食べる。
視線はさすがにまたネクタイに戻る。
「妹さんは小さいって聞きました。」
「ああ、そうだね。妹は母親に似てるから、小さい方。自分は父親の方に似て大きいけど。妹も今のところ、不便は感じてないみたい。」
年の話をしたのに、身長のことで返された。
ジャイ子の年齢は分からず。
太郎の七歳を考えると、10歳は超えてるだろう。
名前をつけれるくらいの年に飼い始めたことになる。
桃太郎の話を気に入っていたとしたら、5歳前くらいだろうか?
今、12歳くらい?すごい開きがある。
いっそ若いパパに見えたりして。
想像できない。
サンドイッチは最後の一切れで。
なんだか普通に食事が出来てる自分。
あんまり顔を見てないからかも。
食べ終わった時にゆっくりと顔をあげた。
郷里さんがちょうどコーヒーを飲み終わるところだった。
「慣れないことで疲れる?数字は余計に目が疲れるでしょう?」
なんと全く知らない優しい表情がそこにあった。
すぐに思った。
今まで何を見てたんだろう。
怖いなんて思っててすごく失礼だったのかもしれない。
犬柄のネクタイするような人で、年の離れた妹を可愛がるような人だから、そんな怖いはずはないのに。
本当に失礼だったと思う。
「どうかした?」
「いいえ、大丈夫です。」
「そうか。」
時計を見てコーヒーを見る。
「じゃあ、そろそろ行くけど、ゆっくりしてもいいと思う。ヘルプは予定より早く進めてもらってるから。」
「ありがとうございます。もう少しゆっくりします。」
軽くお辞儀をして、去って行くその壁のような大きな姿を見送った。
何かスポーツをやっていたのだろうか。
壁というのは間違いない。
ただ、苦痛だと思ったこの時間、そんなこんな、意外な一面を見てすっかり怯えてた思いも随分・・・・ほとんど、消えた。
相変わらず大きくて、仕事中の表情は一見怖い。
知らなきゃ、やっぱり怖い、ほんとに怖いと思われても仕方ないくらいだと思う。
だいたい隣の原市先輩が真逆で、明るく笑顔過ぎて楽しそうで、そんな原市先輩をよく睨んでる、そんなとこも、怖がられるポイントだと思う。
でも一度イメージが変わると、あんなにどら声だと思ってたのに、普通の声だと気がついたり、時々、ほんの少しだけど普通に笑う顔を見たり、照れるような顔まで見れて。
そんなレア現象を見たら何かいい事ありそうで、ラッキーアイテムをゲットしたのように気分が楽になっていた、かも?
週末までにヘルプも終わった。
資料は突き返されることなく、『合格』だったと思いたい。
最後に笑顔で『ありがとう』と『助かった』と言われた。
ラッキーアイテムを二個ゲットした気分だった。
ただ、あと半日もない。ゲットしたラッキーアイテム登場の場面はある?
とりあえず気分よく席に戻っていつもの業務に戻った。
ああ、また原市先輩を見るのを忘れてた!もったいない。
それでも、今日は約束の飲み会、原市先輩と飲む日。
嬉しい!
あ、あと美沙子と郷里さん。
もしかしてラッキーアイテムは二人にプレゼントかなぁ。
どうなるんだろう、ちょっとドキドキしてきた。
優しい顔で美沙子の隣にいる郷里さん、随分簡単に顔が浮かぶようになったし、何とその顔は笑顔だった。思わずうれしくて笑顔になったのは・・・・・想像の中にいたのは美沙子じゃなくて自分だった、違う違う、間違えた。
そう、美沙子は私よりはずっと背が高い。
私が本当に低いから。
美沙子はちょうどいい具合のサイズ、折れそうに細くもないし、重そうにバランスが悪い胸やお尻でもないし、本当に平均的。
どんな服も綺麗に着れる。悩まなくていい標準サイズだ。
だから並んでも私程違和感はないと思う。
だから私の今日の分のラッキーアイテムはあげる。
原市先輩に対して使うこともないから、いらないと思う。
一緒に飲めるだけでもいい。
そう今なら楽しかったって思える。ヘルプも楽しかったと。
半日でそう思った美沙子はすごい。
それはもっと大きな何かのきっかけがあったんだろう。
さっそく来週聞いてみたい気もする。
仕事も終わり時間、ふらりと原市先輩が来てくれた。
「美沙ちゃん、阿里ちゃん終わりそう?」
「大丈夫です。」
楽しみです。全力の笑顔で答える。
「私も大丈夫です?郷里さんは?」
「まだなんだよ。もう、ノロノロ仕事してねえ、大切な日なのに。鞭打って頑張らせるからあと少し待っててね。あと30分くらいね。」
そう言って帰って行った。
本当に郷里さんの耳元に寄って何かを言っている。
視線がこっちに向いた、目が合った。
おおっと。
視線をそらして書類を保存して終わりにする。
あとはいらないメールをちょちょっと削除したりして、終わった。
コーヒーカップを捨てて、トイレと化粧直しを済ませる。
金曜日のこの時間、トイレより鏡の前が混む時間。
大人しくトイレに入り、少し空いた鏡の前に立つ。
鏡に映るのは小さな自分。
家の両親は二人とも小さい方ではない。
なのに私は小さい。
生まれた時からそうだったらしい。
母乳を飲む反射が弱くて困ったと言われたことがある。
そのころの私は今よりもっともっと不器用だったんだろう。
好き嫌いはなくご飯は普通に食べていた記憶がある。
だけど、そこはかなり努力をして工夫して食べさせたらしい。
目の前にある大人の物まで手を出してバクバクと食べる他の子が羨ましかったらしい。
私は目の前に出されてもじっと見てるだけで、お気に入りのフォークに刺してあげて、ようやくちょっとづつ食べ始める子だったと。
とにかく手がかかったらしい。
転ぶ、ぶつかる、いなくなる。何度も繰り返したらしい。
それでもあんまり病弱でもなくて気がついたら大きくなっていたと。
お母さんもお父さんも私で懲りたのか、弟も妹もいない、一人っ子だ。
親戚一同集まっても大人が多く、子供が少ない。
兄弟姉妹という感覚があんまり分からないかもしれない。
でも妹でも弟でも、いたら可愛がると思う、私だって生意気じゃなきゃ可愛がると思う。
お兄ちゃんがいたら甘えると思う。ちょっとくらいゴツくても、甘えると思う。
うん?一体何を考えてるのかわからなくなってきた。
そう、私は小さくて鏡の上半分は空いてる。そう思ったんだった。
化粧直しを簡単にして、服をきちんと整えて、廊下に出た。
席に戻ると美沙子が終わったらしく、入れ替わりでトイレに行ってくると言っていなくなった。
手には私よりコンパクトなポーチがあったけど、すごく機能的でフルメイクできるくらい入っているのだからすごい。
なんでも器用な美沙子。
仕事ではそんなに差がないと思いたいけど、どうなんだろう。
「阿里ちゃん、お疲れ様。」
美沙子の背中を見ていたら、いきなり原市先輩が美沙子の席に座ってビックリした。
「お疲れさまです。」
「今日は楽しめるといいよね。」
いつもの優しい笑顔で言われた。
「はい、楽しみです。お店は決まってるんですか?」
「うん、予約してるよ。美味しいし、雰囲気いい所だから、そっちも楽しみにしてて。」
「はい。」
「ねえ、どうだった?」
顔を寄せられて小声で聞いてくる。
「何がでしょうか?」
ちょっとドキドキして声が上ずる。
「この間のお昼、少しは文土と話が出来た?」
「はい、・・・・少しは。」
何だろう。私としては普通でした。
「ね、最初は怖がってたけど、いい奴でしょう?思ったより優しかったでしょう?」
そういえば最初に言われた。怖がってたとはっきり言われた。
「すみません。ちょっとだけ大きな人は苦手で、本当にそんな印象だけで失礼な態度でした。」
「大丈夫だよ。分かってくれたよね。あんな犬柄ネクタイの奴だし、桃太郎の話は聞いた?」
「少しだけ。柴犬を可愛がってると言うことは。」
「妹に週末にオス犬とだけのデートで可哀想って言われてるみたいなんだ。」
ずいぶん大人びた妹さんだ。思ったより大きいのかもしれない。
「阿里ちゃん、暇だったら付き合ってあげて。阿里ちゃんがおねだりすれば何でも買ってくれるし、奢ってくれると思うよ。」
「何でですか?」
ビックリして声が出た。
キョロキョロしたら郷里さんも驚いてこっちを見てた。
恥ずかしい。
それは私じゃないです。美沙子です。私がおねだりできるわけないです。
そんな・・・・したことないです。
もしかして美沙子の事、気がついてない?
本当にただ単に飲みに誘っただけ?
私が協力できるのなんてちょっとなのに、そこは原市先輩の協力も必要です、すごくお願いしたいのに。
こっちを嬉しそうに見る顔には何だか期待できそうにない。
そこ、鈍感ですか?
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