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10 お互いにちゃんと伝えた真実、その意味。
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『杏ちゃん、ちょっと話があるんだ。明日会える?』
『はい。いつでも合わせられます。』
すぐに返事が来た。
でも少し緊張はしてきた。
言う必要があるだろうか?
どこまで言うべきだろうか?
どういう反応をするだろうか?
そして話をするのは外だと、とても気を遣う。
ちゃんと話せないかもしれない。
自分でもどう話していいのか分かってないくらいだから。
『杏ちゃん、申し訳ないんだけど、話はこっちの部屋でお願いしたいんだ。遅くならないようにするし、ちゃんと送るから、こっちまで来れるかな?』
了解をもらい時間もお昼ぐらいと決めた。
昼を食べてと思ったけど、無理だろう。
自分が無言になってしまうだろう。
とりあえずここで話をして、それからだ。
もうその後の事は自分でも想像がつかない。
初めてここに来てもらうのに、もしかしたら最後になるのかもしれない。
仕事の時のおじさんを見てるから、余計にそう思う。
実家でのおじさんからは想像もつかない、そんな雰囲気で仕事をしてるなんて。
そこは杏ちゃんは知らないけど、話だけで余計に想像することもあると思う。
誰かに相談したくなる話かもしれない。
それが桜木さんじゃない事を祈りたい。
全然知らない誰かに、両親でもない誰かに、そう思うのはダメなんだろうか?
懐かしい夢を見た気がする。
実際にはない記憶の夢で、自分が小さい本当に子どもの頃、おじさんと母さんの三人がいる画、そして少し離れてお祖母さんもいる。
本当に記憶にはないのに、前に見せてもらったたくさんの写真から勝手に想像した画だった。
笑顔で甘える自分を大人の意識の自分が見てる。
それがおじさんの視線になったり、母さんの視線になったり。
どうして覚えてないんだろう。
しょうがないのに、それが悔しい。
「杏ちゃん、ごめんね、ここまで来てもらって。」
「大丈夫です。」
少し心配そうな視線を向けられた。
明らかにこれからの話がいい方向じゃないと想像できるだろう。
できるだけ普段の笑顔を心がけて二人で自分の部屋に向かう。
先の予定の話は全くしなかった。
今、杏ちゃんが取り組んでる卒論の話と、友達の話だ。
うっかり鮫島の話をしていて、あのランチの時の風景も思い出してしまった。
『やばいよ。』そう言った鮫島の声も思い出してしまった。
それが普通の人の感覚で、感じる印象だろう。
部屋に初めて連れてきた女の子。
数ヶ月付き合って、初めて一緒に来た。
「どうぞ。」
「お邪魔します。」
「杏ちゃん、ソファの奥に座ってて、コーヒー淹れるね。」
粉を入れてセットする。
コポコポと音がしてゆっくりコーヒーの香りが部屋に広がる中、この後の事をぼんやりと考えていた。
コーヒーが二人分落ち切り、カップに入れて、改めて自分の部屋にいる杏ちゃんを意識した。
姿勢よく座ってこっちを見ていた目と視線が合った。
「お待たせしました。」
そう言って自分はいつもの場所に落ち着いた。
なかなか口を開かず、立ち上るコーヒーの湯気をじっと見つめていた。
「風斗さん、話はすごくしずらい話ですか?」
カップに視線を落としてたら聞かれた。
「どこからどう言ったらいいのか自分でも分からないんだけど。先に一つだけ謝りたいことがあるんだ。杏ちゃんに聞かれて嘘をついたことがあるんだ。」
「何ですか?」
「最初の日にお父さんはどんなイメージの人かって聞かれたけど、僕は母さんと2人暮らしなんだ、生まれてからずっと。だからあの時、自分にはお父さんと呼べる人はいなかったんだ。」
顔をあげた。
杏ちゃんがどんな顔をしていいのか分からない顔をしてる。
まあ、そんな事を今さら言われても・・・だよね。
「でも、その数日後にはっきりしたんだ。今までこの人だろうと思ってた人がやっぱりお父さんだった。あれからも何度も会ってるし、昨日も会ってたんだ。おじさんと呼んでるけどお父さんだと言われたんだ。それは杏ちゃんとのデートに勝手についてきたあの人の行動のせいもあっていろいろと話をしたからなんだけど。」
「仕事を始めて一人暮らしをして、一人前だって認めてもらえたから、元々その頃に教えてもらうことになってたらしいんだ。」
「それは良かった事ですよね。いい人で、はっきり教えられて。」
「うん、それは本当に良かったと思う。いろいろと事情があったんだ。」
「はい。」
ホッとしてる顔をしてる。
それが今日したい話だったのかと。
でも違うから・・・・・。
「それでその事情が、今日の話なんだ。僕も昨日聞き出してはっきりしたことなんだ。」
コーヒーを一口飲んだ。
話すべきだと自分で決めた。
だから話をする。
勝手に聞かされる杏ちゃんは迷惑だろう。それでも隠してるわけにはいかない。
それから話はまとまりがなかったけど、昨日聞いた話をそのまま伝えた。
途中息を止めた杏ちゃんにも気が付いた。
僕と母さんが二人暮らしだった訳。
僕がお父さんだと思えるほど近くにはいたのに、ずっとおじさんだった訳。
「あと少しかもしれない。やっと母さんも好きな人と一緒に暮らせるかもしれない。僕の名前はやっぱり黒羽のままかもしれないけど、相変わらず『おじさん』と呼んでしまうかもしれないけど。でも一つの区切りをつけてくれるみたい。」
ゆっくり杏ちゃんを見た。
びっくりした感じでも、悲しそうな顔をしてる。
「ごめんね、勝手にこんな話を聞かせて。でも隠すのも嫌なんだ。もっと早くおじさんが引退して普通の家庭と同じ形が続いてたら、言わなかったと思うけど。やっぱり知らない人が見ると普通じゃないんだよ。」
鮫島がそう言った感想は皆が思うことだ。
世の中きれいごとばかりじゃない。
ギリギリのラインで仕事をしてる人もいる。
誰かのためにした仕事が世界を平和にする仕事だったなんてことはない。
誰かの利益になる事は、誰かの損につながるから。
お互いに奪い合い譲り合い分け合い。
『どう思った?』なんて聞けない。
だからあとは杏ちゃんの気持ちに任せる。
「杏ちゃんが考えて、それで教えてほしい。どうしたいか。」
何とかそのセリフを言いきった。
暗く重たい空気を充満させたこの部屋でそう言った。
「今すぐじゃなくても、いい。急がなくても。」
「分かりました。話は大体わかったと思います。」
「でも何を考えろと言われてるのか分からないです。私がどうすると思ってるんですか?」
「それは僕にはわからない。」
「お父さんだからその人の事を信頼して、他の方の事も信頼して、じゃあ、私の事は信じてもらえないんですか?」
怒ってるらしい。顔がそう言ってる。
滅多に見ない表情だけど、最初の頃の印象よりはしっかりしてると思ってる。
やっぱり女の人は強い。
「杏ちゃん・・・・よく考えてほしいんだ。いろいろと。」
杏ちゃんが近くに来た。
腕を掴まれてじっと顔を見られる、近い・・・・。
ゆっくり後ろに顔を引いた。
そして力が抜けた杏ちゃんの手から腕を取り戻すように、そしてついでがあるように立ち上がってキッチンに行った。
逃げるように、ついでのようにコーヒーのお代わりの準備をする。
そんなタイミングじゃないと分かってる。
それはお互いに。
今までずらすように動いたタイミングの中でも最悪だとも分かってる。
「風斗さん、どうしてですか?さっきの話より、今のその風斗さんの態度の方が私にはつらいんです。」
立ち上がった杏ちゃんがこっちを見て言ったのを背中で聞いた。
涙ぐんでるだろうか?
辛いと言った気持ちもわかる。
でも、それは僕だって・・・・どうしようもないのに。
ゆっくり気配を感じながら振り返るより先に、杏ちゃんが動いた。
荷物を持って玄関に向かった。
結構な急ぎ足で。
その姿がリビングから消えるより先に自分も動いて、玄関先で捕まえた。
「杏ちゃん、待って・・・・。」
掴んだ腕に立ち止まった杏ちゃん。
それでも顔は玄関の扉を見てる。
「今までだって、何度もありました。その理由がさっきの話なら納得いきます。でもその話は昨日聞いた話ですよね。じゃあ・・・・・・。」
「もうずいぶん経ちますよ、ちゃんと出会ってからも、ちゃんと気持ちを伝えてからも。何度もデートしてるのに、全く分からないです。途中までは自信があるのに、その先は絶対ないなんて。」
「風斗さんにとって、私はなんですか?」
目を真っ赤にして聞かれた。
怒ってはいない、悲しいんだと分かった。
「杏ちゃんはすごく大切な存在だよ。僕にとって一番大切にしたい、そんな人だよ。」
「お父さんもお母さんも大切で私も大切で、それで同じように近くにいればいいんですか?お父さんみたいに時々会って話をして食事をして仲良く笑って写真も一緒に写って、それだけで満足なんですか?」
「何でそういう風に言うの?みんな大切だよ、でも大人の二人とは違うじゃない。何で比べたり並べたりするの?」
何が気に食わないんだろう?
さっきの態度がそうなるのはしょうがないのに。
そこを一番分かってるのは杏ちゃんのはずなのに。
どうしてその後母さんたちの話が出るんだよ。
「掌にしか書けないんですか?ちゃんと言ってください。」
玄関を背にしてこっちを向いてくれた。
そのまま詰め寄るようにそう言われた。
それは言ってないけど、伝わってないって思ったこともなかったのに。
許された掌に書いた文字は、つないだ手にはちゃんと込めてた想いなのに。
「杏ちゃん、好きだよ、大好きで、大切で、可愛くて。言ってなくても伝わってると思ってた。」
荷物を下ろした音がして、一歩近寄ってきた杏ちゃん。
逃げようにも腕を掴まれてる。
体もくっつくように近くて、顔も背伸びをしてまで近寄ってきたから、本当に息がかかるくらい近い。
「どうしてキスもしてくれないんですか?一度もないです。近くに行ったら離れるのは、わざとなんですよね、どうして・・・ですか?」
本当にそこにある唇で、囁くように言われた。
ゆっくり手を動かして頬に手を当てたら目を閉じてくれたから、キスをした。
軽く触れるくらいのキスを一度だけ。
顔を離して、手を離したら、目をあけられた。
じっと目が合ってる。
さっきよりは距離が出来た。
その表情も見える、全く満足も納得もしてないとわかる。
杏ちゃんの肩に手を置いて、そのままおでこを預けた。
「待ってと言ったのは杏ちゃんじゃない。だから待つって言ったのに。秋が過ぎて冬が過ぎて、春になったら許されるんだと思ってるのに。これでも約束を守るのにかなりの努力をしてるんだよ。」
「なんのことですか?・・・・それに・・・・約束って・・・・・なんですか?」
そのまま杏ちゃんの首の方へ視線をやる。
すぐそこにさっきくっついた唇もあるし、今は喋る声も振動として伝わってくる、杏ちゃんの女の子らしい匂いを感じられる。まだそこからは動けない。
「最初に言ったじゃない、一年待ってほしいって、大人の女性になるまで一年待ってほしいからって。忘れてないよ、ちゃんと守ってるんだから。」
「まったく覚えてません。なんのことだか分からないです。」
約束を守ってる守ってると、言い訳のように言って、恨めしさも隠せないほどなのに。
まさかのそんな返事。
おでこをあげて、正面から見つめる。
「大学を卒業して就職して立派な大人の女性になるまで待って欲しいって言ったよ。だから学生の間はダメなんだろうと思って、実家にいるしその辺も一人娘でしっかり躾けられてるんだろうって。」
首を振る杏ちゃん。
揺れる髪は随分伸びた。頬で揺れていた髪がすっかり肩の下まで伸びている。
あの頃よりは大人っぽくなり、しっかりしてきて、一つだけど年上の僕の事もこうやって怒るようになった杏ちゃん。
大人って・・・・どこからを言うんだろう?
しばらく考えてたらしい杏ちゃんが思い出したみたいだった。
「そんな・・・あれは・・・会社の他の女の人に誘われないでくださいって、そんな話でした。別に・・・。」
泣きそうな顔をしてる。
ごめんなさいと。
「ねえ・・・・・じゃあ、ずっと必要ない我慢をしてたってこと?何度も触れたいって思ったよ。本当に良かったの?」
目を見て聞いた。
さっきもそうだし、今までも、もう何度も試されてるようだった。
どうしてそんなに無防備なんだろうって思った。
ほんとに今までだって何度も。
かすかに頷かれた。髪が少しだけ揺れるくらい、目が合ったまま、少しだけ縦に揺れた。
腰に手をまわして引き寄せた。
ほとんど距離はマイナスになるくらいにくっついて、勢いそのまま壁に押し付けるようにしてキスをした。
さっきの軽く触れるキスじゃない。
大きく口を開けて舐めるようなキスをしてしまった。
さっきは無音だったのに、キスの音がして、二人とも苦しいくらいで呻くようになるくらい。
苦しくなって離れた。
でも杏ちゃんが目を開ける前にまたくっついた。
さっきよりは勢いはなくなったけど、音を立てながら角度を変えて何度も何度も繰り返した。その唇が赤くなるくらい。
耳元に唇を寄せて囁いた。
「どっちが悪かったの?」
そのまま耳にキスをしてピアスをよけながら耳の後ろにキスをする。
答えはない。
「ねえ、どうしたらいい?杏ちゃん・・・・。」
腰を押し付けるように体はくっついたまま。
なかなか力は緩まないまま。
「風斗さん・・・・。」
お願いします、そう聞こえたから体から離れた。
「杏ちゃん・・・・。」
誤解だと分かったとたんに許された距離は縮めた。
でもどこまで許されるのかは分からない。
ちゃんと聞きたい。
狭い廊下でずっと向き合ってる。
とりあえずリビングに戻りたい。
『はい。いつでも合わせられます。』
すぐに返事が来た。
でも少し緊張はしてきた。
言う必要があるだろうか?
どこまで言うべきだろうか?
どういう反応をするだろうか?
そして話をするのは外だと、とても気を遣う。
ちゃんと話せないかもしれない。
自分でもどう話していいのか分かってないくらいだから。
『杏ちゃん、申し訳ないんだけど、話はこっちの部屋でお願いしたいんだ。遅くならないようにするし、ちゃんと送るから、こっちまで来れるかな?』
了解をもらい時間もお昼ぐらいと決めた。
昼を食べてと思ったけど、無理だろう。
自分が無言になってしまうだろう。
とりあえずここで話をして、それからだ。
もうその後の事は自分でも想像がつかない。
初めてここに来てもらうのに、もしかしたら最後になるのかもしれない。
仕事の時のおじさんを見てるから、余計にそう思う。
実家でのおじさんからは想像もつかない、そんな雰囲気で仕事をしてるなんて。
そこは杏ちゃんは知らないけど、話だけで余計に想像することもあると思う。
誰かに相談したくなる話かもしれない。
それが桜木さんじゃない事を祈りたい。
全然知らない誰かに、両親でもない誰かに、そう思うのはダメなんだろうか?
懐かしい夢を見た気がする。
実際にはない記憶の夢で、自分が小さい本当に子どもの頃、おじさんと母さんの三人がいる画、そして少し離れてお祖母さんもいる。
本当に記憶にはないのに、前に見せてもらったたくさんの写真から勝手に想像した画だった。
笑顔で甘える自分を大人の意識の自分が見てる。
それがおじさんの視線になったり、母さんの視線になったり。
どうして覚えてないんだろう。
しょうがないのに、それが悔しい。
「杏ちゃん、ごめんね、ここまで来てもらって。」
「大丈夫です。」
少し心配そうな視線を向けられた。
明らかにこれからの話がいい方向じゃないと想像できるだろう。
できるだけ普段の笑顔を心がけて二人で自分の部屋に向かう。
先の予定の話は全くしなかった。
今、杏ちゃんが取り組んでる卒論の話と、友達の話だ。
うっかり鮫島の話をしていて、あのランチの時の風景も思い出してしまった。
『やばいよ。』そう言った鮫島の声も思い出してしまった。
それが普通の人の感覚で、感じる印象だろう。
部屋に初めて連れてきた女の子。
数ヶ月付き合って、初めて一緒に来た。
「どうぞ。」
「お邪魔します。」
「杏ちゃん、ソファの奥に座ってて、コーヒー淹れるね。」
粉を入れてセットする。
コポコポと音がしてゆっくりコーヒーの香りが部屋に広がる中、この後の事をぼんやりと考えていた。
コーヒーが二人分落ち切り、カップに入れて、改めて自分の部屋にいる杏ちゃんを意識した。
姿勢よく座ってこっちを見ていた目と視線が合った。
「お待たせしました。」
そう言って自分はいつもの場所に落ち着いた。
なかなか口を開かず、立ち上るコーヒーの湯気をじっと見つめていた。
「風斗さん、話はすごくしずらい話ですか?」
カップに視線を落としてたら聞かれた。
「どこからどう言ったらいいのか自分でも分からないんだけど。先に一つだけ謝りたいことがあるんだ。杏ちゃんに聞かれて嘘をついたことがあるんだ。」
「何ですか?」
「最初の日にお父さんはどんなイメージの人かって聞かれたけど、僕は母さんと2人暮らしなんだ、生まれてからずっと。だからあの時、自分にはお父さんと呼べる人はいなかったんだ。」
顔をあげた。
杏ちゃんがどんな顔をしていいのか分からない顔をしてる。
まあ、そんな事を今さら言われても・・・だよね。
「でも、その数日後にはっきりしたんだ。今までこの人だろうと思ってた人がやっぱりお父さんだった。あれからも何度も会ってるし、昨日も会ってたんだ。おじさんと呼んでるけどお父さんだと言われたんだ。それは杏ちゃんとのデートに勝手についてきたあの人の行動のせいもあっていろいろと話をしたからなんだけど。」
「仕事を始めて一人暮らしをして、一人前だって認めてもらえたから、元々その頃に教えてもらうことになってたらしいんだ。」
「それは良かった事ですよね。いい人で、はっきり教えられて。」
「うん、それは本当に良かったと思う。いろいろと事情があったんだ。」
「はい。」
ホッとしてる顔をしてる。
それが今日したい話だったのかと。
でも違うから・・・・・。
「それでその事情が、今日の話なんだ。僕も昨日聞き出してはっきりしたことなんだ。」
コーヒーを一口飲んだ。
話すべきだと自分で決めた。
だから話をする。
勝手に聞かされる杏ちゃんは迷惑だろう。それでも隠してるわけにはいかない。
それから話はまとまりがなかったけど、昨日聞いた話をそのまま伝えた。
途中息を止めた杏ちゃんにも気が付いた。
僕と母さんが二人暮らしだった訳。
僕がお父さんだと思えるほど近くにはいたのに、ずっとおじさんだった訳。
「あと少しかもしれない。やっと母さんも好きな人と一緒に暮らせるかもしれない。僕の名前はやっぱり黒羽のままかもしれないけど、相変わらず『おじさん』と呼んでしまうかもしれないけど。でも一つの区切りをつけてくれるみたい。」
ゆっくり杏ちゃんを見た。
びっくりした感じでも、悲しそうな顔をしてる。
「ごめんね、勝手にこんな話を聞かせて。でも隠すのも嫌なんだ。もっと早くおじさんが引退して普通の家庭と同じ形が続いてたら、言わなかったと思うけど。やっぱり知らない人が見ると普通じゃないんだよ。」
鮫島がそう言った感想は皆が思うことだ。
世の中きれいごとばかりじゃない。
ギリギリのラインで仕事をしてる人もいる。
誰かのためにした仕事が世界を平和にする仕事だったなんてことはない。
誰かの利益になる事は、誰かの損につながるから。
お互いに奪い合い譲り合い分け合い。
『どう思った?』なんて聞けない。
だからあとは杏ちゃんの気持ちに任せる。
「杏ちゃんが考えて、それで教えてほしい。どうしたいか。」
何とかそのセリフを言いきった。
暗く重たい空気を充満させたこの部屋でそう言った。
「今すぐじゃなくても、いい。急がなくても。」
「分かりました。話は大体わかったと思います。」
「でも何を考えろと言われてるのか分からないです。私がどうすると思ってるんですか?」
「それは僕にはわからない。」
「お父さんだからその人の事を信頼して、他の方の事も信頼して、じゃあ、私の事は信じてもらえないんですか?」
怒ってるらしい。顔がそう言ってる。
滅多に見ない表情だけど、最初の頃の印象よりはしっかりしてると思ってる。
やっぱり女の人は強い。
「杏ちゃん・・・・よく考えてほしいんだ。いろいろと。」
杏ちゃんが近くに来た。
腕を掴まれてじっと顔を見られる、近い・・・・。
ゆっくり後ろに顔を引いた。
そして力が抜けた杏ちゃんの手から腕を取り戻すように、そしてついでがあるように立ち上がってキッチンに行った。
逃げるように、ついでのようにコーヒーのお代わりの準備をする。
そんなタイミングじゃないと分かってる。
それはお互いに。
今までずらすように動いたタイミングの中でも最悪だとも分かってる。
「風斗さん、どうしてですか?さっきの話より、今のその風斗さんの態度の方が私にはつらいんです。」
立ち上がった杏ちゃんがこっちを見て言ったのを背中で聞いた。
涙ぐんでるだろうか?
辛いと言った気持ちもわかる。
でも、それは僕だって・・・・どうしようもないのに。
ゆっくり気配を感じながら振り返るより先に、杏ちゃんが動いた。
荷物を持って玄関に向かった。
結構な急ぎ足で。
その姿がリビングから消えるより先に自分も動いて、玄関先で捕まえた。
「杏ちゃん、待って・・・・。」
掴んだ腕に立ち止まった杏ちゃん。
それでも顔は玄関の扉を見てる。
「今までだって、何度もありました。その理由がさっきの話なら納得いきます。でもその話は昨日聞いた話ですよね。じゃあ・・・・・・。」
「もうずいぶん経ちますよ、ちゃんと出会ってからも、ちゃんと気持ちを伝えてからも。何度もデートしてるのに、全く分からないです。途中までは自信があるのに、その先は絶対ないなんて。」
「風斗さんにとって、私はなんですか?」
目を真っ赤にして聞かれた。
怒ってはいない、悲しいんだと分かった。
「杏ちゃんはすごく大切な存在だよ。僕にとって一番大切にしたい、そんな人だよ。」
「お父さんもお母さんも大切で私も大切で、それで同じように近くにいればいいんですか?お父さんみたいに時々会って話をして食事をして仲良く笑って写真も一緒に写って、それだけで満足なんですか?」
「何でそういう風に言うの?みんな大切だよ、でも大人の二人とは違うじゃない。何で比べたり並べたりするの?」
何が気に食わないんだろう?
さっきの態度がそうなるのはしょうがないのに。
そこを一番分かってるのは杏ちゃんのはずなのに。
どうしてその後母さんたちの話が出るんだよ。
「掌にしか書けないんですか?ちゃんと言ってください。」
玄関を背にしてこっちを向いてくれた。
そのまま詰め寄るようにそう言われた。
それは言ってないけど、伝わってないって思ったこともなかったのに。
許された掌に書いた文字は、つないだ手にはちゃんと込めてた想いなのに。
「杏ちゃん、好きだよ、大好きで、大切で、可愛くて。言ってなくても伝わってると思ってた。」
荷物を下ろした音がして、一歩近寄ってきた杏ちゃん。
逃げようにも腕を掴まれてる。
体もくっつくように近くて、顔も背伸びをしてまで近寄ってきたから、本当に息がかかるくらい近い。
「どうしてキスもしてくれないんですか?一度もないです。近くに行ったら離れるのは、わざとなんですよね、どうして・・・ですか?」
本当にそこにある唇で、囁くように言われた。
ゆっくり手を動かして頬に手を当てたら目を閉じてくれたから、キスをした。
軽く触れるくらいのキスを一度だけ。
顔を離して、手を離したら、目をあけられた。
じっと目が合ってる。
さっきよりは距離が出来た。
その表情も見える、全く満足も納得もしてないとわかる。
杏ちゃんの肩に手を置いて、そのままおでこを預けた。
「待ってと言ったのは杏ちゃんじゃない。だから待つって言ったのに。秋が過ぎて冬が過ぎて、春になったら許されるんだと思ってるのに。これでも約束を守るのにかなりの努力をしてるんだよ。」
「なんのことですか?・・・・それに・・・・約束って・・・・・なんですか?」
そのまま杏ちゃんの首の方へ視線をやる。
すぐそこにさっきくっついた唇もあるし、今は喋る声も振動として伝わってくる、杏ちゃんの女の子らしい匂いを感じられる。まだそこからは動けない。
「最初に言ったじゃない、一年待ってほしいって、大人の女性になるまで一年待ってほしいからって。忘れてないよ、ちゃんと守ってるんだから。」
「まったく覚えてません。なんのことだか分からないです。」
約束を守ってる守ってると、言い訳のように言って、恨めしさも隠せないほどなのに。
まさかのそんな返事。
おでこをあげて、正面から見つめる。
「大学を卒業して就職して立派な大人の女性になるまで待って欲しいって言ったよ。だから学生の間はダメなんだろうと思って、実家にいるしその辺も一人娘でしっかり躾けられてるんだろうって。」
首を振る杏ちゃん。
揺れる髪は随分伸びた。頬で揺れていた髪がすっかり肩の下まで伸びている。
あの頃よりは大人っぽくなり、しっかりしてきて、一つだけど年上の僕の事もこうやって怒るようになった杏ちゃん。
大人って・・・・どこからを言うんだろう?
しばらく考えてたらしい杏ちゃんが思い出したみたいだった。
「そんな・・・あれは・・・会社の他の女の人に誘われないでくださいって、そんな話でした。別に・・・。」
泣きそうな顔をしてる。
ごめんなさいと。
「ねえ・・・・・じゃあ、ずっと必要ない我慢をしてたってこと?何度も触れたいって思ったよ。本当に良かったの?」
目を見て聞いた。
さっきもそうだし、今までも、もう何度も試されてるようだった。
どうしてそんなに無防備なんだろうって思った。
ほんとに今までだって何度も。
かすかに頷かれた。髪が少しだけ揺れるくらい、目が合ったまま、少しだけ縦に揺れた。
腰に手をまわして引き寄せた。
ほとんど距離はマイナスになるくらいにくっついて、勢いそのまま壁に押し付けるようにしてキスをした。
さっきの軽く触れるキスじゃない。
大きく口を開けて舐めるようなキスをしてしまった。
さっきは無音だったのに、キスの音がして、二人とも苦しいくらいで呻くようになるくらい。
苦しくなって離れた。
でも杏ちゃんが目を開ける前にまたくっついた。
さっきよりは勢いはなくなったけど、音を立てながら角度を変えて何度も何度も繰り返した。その唇が赤くなるくらい。
耳元に唇を寄せて囁いた。
「どっちが悪かったの?」
そのまま耳にキスをしてピアスをよけながら耳の後ろにキスをする。
答えはない。
「ねえ、どうしたらいい?杏ちゃん・・・・。」
腰を押し付けるように体はくっついたまま。
なかなか力は緩まないまま。
「風斗さん・・・・。」
お願いします、そう聞こえたから体から離れた。
「杏ちゃん・・・・。」
誤解だと分かったとたんに許された距離は縮めた。
でもどこまで許されるのかは分からない。
ちゃんと聞きたい。
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とりあえずリビングに戻りたい。
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